貞昌 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 4
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1. 徳川家康 4

あまり夢も見ないおふうの性質は、その時、それが寝所てくれたら : : : それが薄幸なおふうの希いのすべてであっ を忍び出て来た貞昌だと知って、本能的に狼狽した。 十四歳のおふうは、まだそうしたことを予期したこと 七 も、警戒したこともなかったのだ。 おふうはその翌日、鳳来寺へ向けて進発する甲州軍のう 「 , ・・・ーー声を立てるな」 と、貞昌は耳許でつぶやいた。おふうはその通りにし しろから馬に乗せられて引き立てられた。 た。主君の息子ゆえその通りにしたのか、或いは好きだっ 馬は裸ではなく、おふうは縛られてもいなかった。それ どころか身なりまで改めさせられて、かつぎの紫が秋の陽 たので黙っていたのかわからなかった。 にかっきりとかがやいて見えた。 ただ男と女の間に交りのあることだけは知っていたの で、これがそうであろうと田 5 った。 再び奥平貞昌の妻としての取扱いに戻った感じであっ 今考えると、その時おふうの体は風邪のための熱のよう おふうはそれが悲しかった。 に、ひどく燃えたっていたような気がする。しつかりと貞 若し万一助けられて戻されると、おふうはいぜんとして 昌にすがったのも覚えている。 すが 貞昌に口一つきけぬ侍女になり下るのだ。いや、或いは、 ( 何のために縋ったのか : 「ー・ー・ご苦労だった」 苦痛をこらえるためなのか、好きだったのか、それは今 一言そう言われるだけで、貞昌の傍からお暇になるかも カそうした、ただ一度の交りに、 もって分らない。、、、、 今の おふうの考え方を決めさせる根本のものがあるようだっ知れなかった。 ( 神さま、おふうは、生きて戻りとうはござりませぬ ) 秋の七草が、しずかに山肌をうずめて信濃から三河への おふうは、自分の死を貞昌に記憶させておきたいだけな 山路をたどりながら、おふうは時々眼をとざして秘かに祈 のだ : ・ つつ ) 0 長く記應されるためには残忍な極刑ほどよかった。 と、いって、詮中で舌をかみ切って死ぬ気にはなれなか そして、若し貞昌が、自分のために一謫の綟でもおとし 学」 0 2

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四 「貞能でも、貞昌でもないと言うのか」 勝頼はおふうの動作の、普通以上に緩慢なのを見ると、 無性に気がいら立った。 貞昌の奥方で人質になっていた当時とまるで人が違うよ 一一つに田んた。 よくこんな百姓娘みたいな小娘に、うまうまと欺された ものだと、今更のように自分の人の好さが悔いられた。 げて見たりした。 おふうはゆるやかに首をふったあと、 勝頼はそれを眼を放たず眺めている。 「大殿も、殿も、はじめは却ってとめました」 「おふ、つ」 「なぜ停めたのだ」 し」 「このふうが可哀そうだとおっしやって」 「そちは十五歳だったな」 「それをすすめたのは誰なのた」 「私の実父でございます」 「いったいそちは誰の娘だ」 「そちの実父の名は」 言いながら勝頼はふたたび脇息のそばにもどって頬杖っ 「忘れました」 「そちが貞昌の妻でないのなら斬っても無駄であった。助勝頼の美しい眉が、またビクビクとけいれんした。 けて親のもとへ送りとどけてやる。いったいこの計略は誰「忘れたとは言わぬ気だな。よし、それは問うまい。で、 5 その方の実父は何といってすすめたのだ」 が立てた ? 貞能かそれとも貞昌か」 おふうはばんやりと勝頼を見上げて、またゆるく首を振「武田家は信玄公で持っていたのだと言いました」 勝頼は、傍にいる家臣の手前、そこで質問を打切ること は出来なくなった。 ( ここにも伏兵があった ) と、思いながら、この伏兵に鮮かに勝ってみせねばなら ぬ気がした。 : 」と、勝頼は笑った。 「こなたは正直に物言う娘だ。父信玄はこの城内で病を養 って居られるが、よいよいそのあとは ? 」 つ、」 0

3. 徳川家康 4

うめ 今年十三になった末子の千丸は、美作にとって文字どお それは一瞬、呻くような声になったが、すぐそのあとで り掌中の珠であった。 は頑なな笑いに変った。 読み書きは人にすぐれてよく出来、武芸では弓が衆にぬ 「、ツ、ツ、ツ、そうかいや、武田方にも用心ぶかいお きんでていた。容色は兄弟中でいちだんだったし、末子の 方がおるわい。といっていっこうにおどろくには当らぬ つねで、老父に廿える駈引きがこの上なく愛らしかった。 のう貞昌、貞昌の卦にちゃんとそう出ていた」 「父上 ! 」 「えっ卦にそれが 「なんだ」 「そうだ。よし、千丸をこれへ呼べ。奥はいま病臥中ゆえ 治り次第に差出そう。千丸に黒屋甚九郎を附添わせて、わ「千丸を殺しにおやりなされまするか」 「たわけめ、なる堪忍は誰もするわい」 しより一足先に発たしてやろう」 そこへ千丸と黒屋甚九郎が、六兵衛に案内されて入って 「父上」 たまりかねて貞昌が言ったが、美作はきかなかった。 いまここで差出す人質は、すでに貞昌の妻として出して老臣の黒屋甚九郎はすでに六兵衛に何か聞かされている ちんき と見えて、その眼に沈毅な光りをやどし、ぐっと結んだロ あるおふうと共に殺しにやるのと同じであった。と言っ て、ここで逡巡しては家康への意地が立たぬ。すでに家康辺に覚悟のいろが見てとれたが、千丸はまだ何も知らない は長篠城へ総攻撃をかけているに違いないのだ。 「父上、兄上、お早ようございます」 ( 三千貫が末子の生命に変ったのか ) ぐっと熱いものをのみ込んで、 そういって父と視線が合うと、ニコリと頬へえくばを刻 「呼んで来い、黒屋甚九郎と千丸を」 んで甘えてみせた。 十 奥平六兵衛はしようぜんとして立上った。言い出したら 後へひく美作ではない。それにしても何というむごい戦国「千丸 : : : 」 の風であろうか。 さすがに美作の声は震えていたが、眼は反対にハッとす ふう 161

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長篠がおちれば目的は達されよう。そうなると、この作手ようなことは無いものじゃ。何がどうしたのだ」 冫しい小言をあびて、六兵衛はいよいよ大きく首を振 の城が心配で、いよいよ長篠へ援軍は行けぬ道理じゃ。そ うそう、ここへ六兵衛を呼んでくれぬか」 「黒瀬の、武田信豊さま陣中におもむかれた、甘利左衛門 「六兵衛を供にお連れなさりまするか」 さまから急使にござりまする」 「ほかの者では心もとない。六兵衛ならばのう」 父と子はうなずきあって、どちらからともなくほほ笑ん「それならば待っていたのだ。わしが徳川方に内通したと いう疑いであろうが」 「仰せのとおり、即刻、黒瀬の陣屋へお出下さるように 「よいか。鉄砲武具はよく見ておけよ」 「心得ました」 「わかっている ! それゆえ、供はそちにしようと、 「父が斬られたと聞いたらそれが合図。もし無事に戻った 貞昌と相談していたところだ。そのそちが、そのあわて方 らそれも合図じゃ」 では : 「用意はきびしくしておきます」 「と、殿は落着いて仰せられまするが、ただ来いとだけで 「女子供みなつれて、りつばに引きあげられるようにの。 時期を失するとお館に笑われよう。そちはお館の婿、こんはござりませぬ。諸将評議の末に一決したゆえ、人質を同 伴せよと」 どの処置は生涯につながるそ」 貞昌がもう一度笑いながらうなずいた時に、呼びにやっ た奥平六兵衛が血相変えて入って来た。 人質と聞くと美作はチラリと息子の貞昌を見やって、 「六 ! どうしたのじゃ。あわてくさって」 「。それも驚くには当らぬ」 美作は眉をしかめて叱りつけた。 と、ため息した。 「いったい誰を出せというのだ ? 」 「末子千丸さまに奥方をつけてとの口上にござりまする」 「なに : : : 千丸に奥をつけて」 よ ) 0 「世の中にはな、不惑をすぎた男が、血相変 ) スねばならぬ っこ 0 760

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「あたりまえじゃ。なければ巧すぎる。どうじゃ、信玄の 片頬ゆがめて瀋けるように眼をほそめた。 死を占った時のようにズ・ハリといかぬか」 言いながら内ふところから家康の誓書を出して筮竹の上 美作は五郎左衛門が退ってゆくと、一瞬きっと姿勢を正においた。 へつに感 貞昌はそれを無愛想な表情でひらいてみたが、。 して天地を拝した。 世間では、奥平美作父子は徳川家に随身したというであ想はもらさなかった。 「九八郎」 ( 言ってもよい ! ) と、美作は思った。ただ二人しかない家康の子の一の姫「もうそろそろ迎えが来る筈じゃ。これが別れになるやも を、貰うと考えても、人質にとると考えても、彼の一徹な知れぬ」 心はみちたりてゆくのである。 「充分にお気をつけられませ。黒瀬にある武田信豊の陣中 「さて、これからが大切なところだて」 では薬が少々ききすぎているげにござりまする」 槍をとって縁をあがると、自分でそれを長押にかけ、そ「言わいでものこと。じゃ。、 以ん′イレー ). 、恵Ⅱ方に内通した張本人 のまままた縁をまわって、やがて徳川家の婿になるであろが、内通したという噂を立てているとは気がつくまい。 れでおれも仲々の軍師じゃて。フッフッフ」 う息子の居間に入っていった。 息子の九八郎貞昌は南面してすすけた書院窓の障子に向美作が声をおとして笑うと、 「父上、殊によるとほかにまだ人質を出せというかも知れ いしきりに易の卦を立てていた。 ませぬ」 「九八郎、。 とうじゃの、今日の卦は ? 」 貞昌はそれが心配なのだと言いたげだった。 九八郎は机上の卦から眼をそらさずに、 「卦の表にそう出ているか」 「まず成功 : : : とは存じますが」 「途中に何か難儀があるか」 「はい、無事には納まらぬと : : : 」 「まず、そう思われまする」 「わかっている。案するな。かりにおれが斬られたとて、 なげし せいちく 159

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「お笑いあるな、これゆえ、まだまた若い者に劣らぬ掛引主従は黒瀬を出はずれると、びしびし馬に鞭をあてた。 なれた山路だったが、助かって戻るとなるともどかしい。 きが戦場でも出来るのだ」 と笑って言った。 ( 貞昌め、無事だったわしを見たらどんな顔をするであろ みんなもそれにつられてドッと笑った。 ついに美作は最後までおのが心を相手にのぞかせず、五作手の城へ着いた時は、もう山国の日は暮れかけて、山 人の眼に安堵のいろの浮くのをたしかめて陣屋を出た。 脈の上に赤いタ映えが尾をひいていた。 六兵衛の手から馬を受取り、ひらりとそれにまたがる 本丸に入っている甘利晴吉はまだ黒瀬から戻っていな 時、またしても末子千丸の笑顔が眼さきにうかんで来た。 こうしたあとで徳川方への加担を知ったら、千丸もおふ 「これは父上、ようこそご無事で」 うもただの磔では済むまい。甲斐には釜ゆでと火焙りがあ きびしい武装で近づく九八郎貞昌に、 るそうな。 「首尾は上々、用意はよいか」 ( 千丸、許してくれよ ) 「万事」 そういうと両わきから薪をそえられ、青い空に燃えあが 「ようし、おれの鎧を、太刀を、槍を : : : 鉄砲の用意もよ ってゆく火柱が見えるようだった。 しの、フ」 ( フフン ! ) と、美作は自分をあざ笑った。 言いざま居間にかけ込んで、きびきびと武装していっ 1 一うそう ( これが戦国の業相ではないか ) 「殿 ! 」 貞昌が鉄砲隊をつれて裏庭へやって来た。 「なんだ六兵衛」 わずか二十挺の鉄砲隊だったが、それが今日の美作の欝 「無事な姿を見かけましたら、急に体の力がぬけました」屈した怒りをたたきつけるには、なくてならない貴重な武 だっこ。 「阿呆 ! 」美作は半分笑いながら大声でどなりつけた。 「女子供の用意はよいか」 「これからだわい、われ等の働きは。急ごうそ」 「十 6 、ツ 「手落ちござりませぬ」 ) 0 169

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って寝ていった・ そらした。 「次に、奥平貞昌が内室、おふう ! 」 どうやら彼等はおふうも共に処刑されると、田 5 っている おふうはそう呼ばれた瞬間に、がくっと縁へ膝を突いて、 「私は貞昌さまの妻ではない ! 何が妻であるものかツー おふうは答える代りに、かすかに頭を垂れていった。 千丸たちを引立てに、十七、八人の武士がやって来たの貞昌さまの御内室は、徳川亀姫さまなのだ : それが畜生に生れなかった不幸を嘆くおふうの最後の叫 は、陽がのばってすっかり霧が霽れてからだった。 びであった。く / ラバラッと足軽たちがおふうに飛びつい おふうはそれを見てハッとなった。 彼等は三寸角ほどある十字架を三本小者に担がせて来たた。 のである。 彼等はそれを矢来の外に立てると、 おふうは半ば以上眼を白くし、唇をかんで相手のなすが 3 「奥平千丸、出ませい」 とどなった。千丸はおふうと虎之助に蒼白な頬をむけてままになっていた。 心の中には恐らく不満と不信がハチ切れそうに詰ってい 笑ってから、 るのに違いない。荒繩の下で呼吸のたびに乳房が大きく浮 「ご苦労」といって陽のあたっている外へ出た。 , 犹した。 その顔は、笑顔であって泣き顔以上に切なかった。 わめ 「こやっ詰らぬことを喚くかも知れぬ。ロの中へ何か押し 足軽たちが寄って来て、千丸を倒した十字架の上に寝か せ、両手、首、胴、足と、荒繩でくくりつけた。その間千込んでおけ」 指揮者らしい二十七八の武士が言うと、おふうはあわて 丸は、細く眼をひらいて、じっと青空を見ていた。 て首をふった。 「次は奥平虎之助」 「何も言いません。言うものか : ・・ : 言ったとて何うにもな 「おう勝手に致せ」 虎之助はぐっと相手を睨みつけながら、肩を張り、胸をらぬと、もう分った : そらして十字架に近づくと、自分からその上にふんそり返「どうしましよう ? 」

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しだら 「軍議によれば、黒瀬にある武田信豊と土屋昌次、設楽原 ( 苦しい時ほど落着かねばならぬ ) に討って出で、まず御大将の通路を断ち切り、その上で挾奥平美作のいる作手亀山城の本丸には、すでに甲斐勢が 入っている。 撃せんと決定したる由」 はじかの 大将は甘利左衛門尉昌忠、軍監は初鹿野伝右衛門。 「なに、予を挾撃すると ? 」 したがって本丸を明け渡した美作は二の丸に移ってじっ 家康は思わずカッと眼を見ひらいて上半身をのり出し と家康の勝利を信じているわけだった。 「よし、それについては、そちの主人に策があろう。それ ここで浜松との道を断たれ、挾撃されたのでは十に一つ を申せ」 の勝味もなかった。 「恐れながら : ・・ : 」 夏目五郎左はまた爛々と光る眼を家康の面にすえて、 家康にとって、浜松との通路をふさがれ、腹背から攻め「その前に、伺いおきたい儀がござりまする」 「その前に : : : それはそちの意見か美作の意見か」 られるほど手痛いことはなかった。 「はい。家中一統の心にござりまする」 それで秘かに奥平美作をして敵のうごきを探らせていた きゅ、つ のだが、い ま、密使はそれが杞憂でなくなった事を告げて「そうか。聞こう、何ごとじゃ」 「勝利のあかっきには本領安堵を」 来たのである。 「心得て居る。案じるな。領民もみな美作になついて居る 「そうか、やはりその手でやって参ったか」 「はい。おそらく浜松、吉田、岡崎と、それそれ孤立させことゆえのう」 て撃破を計るもの : : : と、わが主君は見てござりまする」 「第二には、われ等が若殿、貞昌さまに一の姫をくだされ 「そうであろうな」 たきこと」 家康はうなずき返してまた平素の表清にもどった。こう「亀をのう貞昌に」 した時、あらわに狼獵のいろを見せては、奥平美作が去就家康はそこでふたたび眼を閉じた。 に迷うからであった。 そのことはすでに家康から築山御前にも亀姫にも通じて つ、つ . ギ - 、い 152

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る。貴公は決して無用の兵を動かして領民、家臣を傷つくて、 「その奥方の代りに一の姫が頂きたいと申したのではござ ることのないよ、つにと。 りませぬ。お味方と決した以上、動かぬ縁の固めがほしい 見ようによればそれは、はじめから家康が貞能を味方と 信じているかにとれた。したがってこの密使は、武田勢のと、家中一統の願いにござりまする」 「と、申すが、予に味方したとなれば武田家ではその奥方 侵入に内心では快からぬ貞能の心をまず捕えた。 といって家中の者がすべて家康を味方と信じるはずはなを斬るであろう」 く、夏目五郎左などもひそかに疑いを抱く一人らしいと睨「斬られる覚暦で、はじめから、こちらも策を構えまし んでいた。 亀姫を貞昌の奥方にと乞うて来た心の奥には、家康の肚「策と申すと ? 」 「もともと若殿に奥方はござりませなんだ。そこで一族奥 を読もうとする苦肉の策が感じられる。 家康は五郎左が泣き出したのを見ると、眼顔で大久保忠平六兵衛さまの養い娘と婚礼した形をとり、おふうを遣わ してござりまする」 世を招き、かがり火に薪を加えさせた。 「すると、まことの奥方ではなかったのか」 「五郎左と申したの」 「十 ( 、ツ 「はい。お味方と決った以上はハッキリと申上げまする。 「こなたは美作が重臣ゆえ存じて居ろう。奥平家から武田実はおふうはわれらが娘、われ等の娘ではならぬゆえ、一 族六兵衛さまが娘として : : : 」 家へ差出した人質は」 そういうと、五郎左はぐっと一文字に唇をむすんでまた 訊かれると五郎左は、自分の感傷を恥じるように笑って 入った。 答えた。 「よく存じて居りまする。若殿、貞昌が奥方、おふうと申 されまする」 「そうか、何歳に相成られる」 「十五歳に ) : ・ : 」と答えてから、五郎左は、声をつよめ はら 五 家康はやわらかく頷いた。 五郎左に打明けられてなぜ彼が涙ぐんだかそれもわかっ うなず 154

10. 徳川家康 4

「少し風が寒すぎるように存しまするが」 奥平貞能の一族、六宍衛の娘であり、頁能の嫡子、貞昌 勝頼はそれが耳に人ったのか人らぬのか、 の奥方であった。 「庄司助左がもとに赴いて、奥平父子が人質、引立てて参 したがって貞能父子が作手の城を出て、甲州軍に一撃を れと言え」 加えるまでは、その待遇も粗略なものではなかった。 小姓の勝丸に言いつけた。 「坐れツ」 「四郎さま、ここで人質を斬られまするので」 牢奉行は鋭い声でおふうを叱ってから、 勝頼はそれにも答えない。四郎さま などと、わざわ「お召しの者、引きつれましてござりまする」 ざ親しく名を呼ばせているのも、父の死をかくすためであ と、勝頼に挨拶した。 ったが、今では却ってそれに腹が立った。 勝頼はつかっかと縁に立って来て、 三年間死を秘せと言ったのは父の遺言だったが、その遺「おふう、こなたは、何故こなたが縛られたか知っている 力」 言までがひどく士気に影響したように思われる。 父信玄の考えは死を秘している三年間に、家臣の去就を 浴びせかけるような声で問いかレた 確め、天下の動きを見よというので、その意味は勝頼には おふうはこくりとした。十五歳なのに眉をおとし、歯を つきりと分っているのに、家中の諸将はそう受取ってはいそめているおふうは、年若くして黒髪をそりこばたれた尼 ないようであった。 僧とおなじような哀れさをたたえていた。 信玄の死去を知ると、信長、家康の二人が謙信と同盟し て侵入するゆえ、うかつに発表してはならぬ : : : という風 に、ひどく消極的に受取っているらしかった。 「こなたも奥平貞昌が妻、体で答えるな、ロで答えよ」 牢奉行の庄司助左衛門が、二人の小者に、うしろ手で縛と勝頼は叱った。 そうした勝頼の怒りを全然感じないもののように、おふ られた一人の女を引立てさせて庭先からやって来た。 まだ十五歳の夏目五郎左衛門の娘のおふうであった。 うは小者に繩尻をとられたままそっと地べたへ膝をつ いや、ここではおふうは五郎左の娘ではない。 た。そして、それからゆっくりと顔をあげると、 263