し」 言いかけて信康は何か思い出したらしくニャリと笑い、 「ああ、あのおふくの一件か」 「安土へ移らせられた右府さまから、若殿を切腹させよ 「おふくの一件とは、何でござりまする」 と、浜松の大殿のもとへお指図があったと申されまする」 「そちは知るまい。北の方のもとにいた、おふくがこと 信康ははじめて馬から手を離して、 よ。あれを忠次が欲しいと言う。北の方は、おれに断りな しゅうと一一 「おれに切腹 : : : 安土の舅御から何のためじゃ。とばけた く、忠次に遣ろうと約東し、吉田の城へ連れ去らせた。北 の方はな、あとに菊乃が居る。おふくは三十になったゆことを申すな親吉」 信康はてんで信じる色はなく、 え、このままでは哀れと思うて計ろうたのじゃ。が、おれ はなぜおれの許しを受けぬかと忠次と北の方を叱りつけ 「それと忠次と何のかかわりがある。あの爺め、こなたを た。それにはわけのあることじゃ。菊乃は母の御前が、おかついだとでも申すのか」 れに押しつけようとて連れて来た女子、それをそのまま召 明るすぎる表情でそう訊き返されると、親吉は思わず顔 使おうとて、おふくにまで暇を出したと、あとで北の方がをそむけて息をのんだ。 彼のもとへ、こんどの事を内々で知らせて来たのは本多 母の御前に言われてはうるさかろうと、改めておれが叱っ 作左衛門からだった。 て許したことに致したのじゃ。それは忠次も存じて居る。 しかし、そのようなことをこなたいずれから耳にした」 親吉は小首をかしげた。 ざれごとではござりませぬ。これから親吉はすぐ 「では怨みなどという筋合いではござりませぬなあ」 殿もお心なさりま 、大殿をたずねて参りまする。が、 「知れたことじゃ。忠次は父の重臣、おれが争うようなこ とをする筈はない。が、それがいったいどうしたというのせ」 親吉の声は時々もつれそうになった。 信康はまだ信じられぬ表情で半ば笑ったままでいる。 「殿 ! お愕きなされまするな」 「大形に申すな。それほどおれは肝は小さく生れていぬわ「昨日、左衛門尉忠次どの、申開きのためこの岡崎を通っ 140
貌をもった逍遙軒信廉は府中立石で殺された。 つけたままですわって、一益のささげて来た首桶を見ると フフンと笑った。 跡部大炊助勝資、諏訪越中守頼豊、今福筑前守昌弘の三 名は諏訪で生命をおとし、勝頼を笹子峠から追い払ったト 首は可成り大切に扱われたと見え、自害の日から二十日 山田兵衛信茂は、小山田八左衛門昌時、信茂の婿の武田左経っていたが、まださほど崩れてはいなかった。 衛門太大信光、葛山十郎信貞、小菅五郎兵衛元成等ととも 一益はそれをうやうやしく信長の方へ向けて、自分は遙 に甲府の善光寺で斬られた。 かにうしろへ退った。 一条左衛門大夫信龍は家康の手で市川の上野で攻め殺さ 「勝頼 : : : 」しばらくじっと眼を細めて見つめていったあ れ、山県源四郎昌清、朝比奈駿河守信置とその子信良、今とで、信長はつぶやくように首に向って話しかけた。 「おぬしは運が悪かったのだ : 福丹波、同善十郎、田峰の菅沼刑部少輔定直、同伊豆守満 傍に控えていた森蘭丸が眼を赤くしてそっとわきを向い 直などは家康の手によってそれそれ攻め滅ばされ、ついに 広大な武田領は、ことごとく織田徳川両氏の掌中に納めら た。信長は必ずしも、人生の無常を言っているのではなか 5 れた。 ったが、若い当丸にはそうひびいたらしい 信長が勝頼父子の首実検をしたのは、ことごとく一族の 「日本にかくれない弓取りだったが、ついに首をおれに渡 討伐を終って、三月十三日、岩村より根羽にすすみ、十四した。そうしたものだ人生は」 日更に平谷を越えて波合に陣したときであった。 それからゆっくりと太郎信勝の首に向い、 一度信忠のもとへ届けられた首を更に滝川一益が信長の 「こなたも到頭母のもとへ赴いたか」 陣へ持参したのである。 と、これは感慨ふかげであった。 すでにあたりはゆさゆさとした若葉に代り、鎧の下には 信勝の母は美濃の苗木城主遠山久兵衛友忠の娘で信長の じっくりと汗の浮き出る温気であった。 姪であった。それを信長は自分の養女として信玄生存中に 「なに、一益が勝頼父子の首を持参したとか、よし、見よ勝頼に嫁がしめ、その養女は信勝を産むと間もなく歿して しまっていたのである。 う。香を燻け」 「信長を怨むなと母に言え。こなたの父も祖父も、この信 信長は幕のうちに虎の毛皮を敷かせ、その上に具足を
一階は南北二十間、東西十七間、柱の数は二百四本。本 柱の長さは八間、太さは尺五寸と、六寸と、尺三寸が使用 されていた。 いずれも柱にはことごとく布をまき、その上から黒漆が かけられてあった。 きんぶすま かのうえいとく 西十二畳の座敷の金襖には、狩野永徳に墨絵で梅を描か せ、書院には遠寺晩鐘の景色、次の間の棚には鵡、中の十 二畳には鷲、次の八畳と奥四畳には雉、南十二畳には唐の 儒者の絵をかかせてあった。 「これ、ハゲ」 と信長は光秀をふり返った。 時々一緒に歩いている者の名前が出て来ないと、昔なが らに秀吉は猿と呼び、額のはげあがった光秀をハゲと呼ぶ 信長だった。 「はい。何かお気に召しませぬことが」 光秀が用心ぶかく小腰をかがめて頭を下げると、 「そこに奉行どもの名を記した紙を持っていよう、びくび くせずとそれを」 し」 光秀の差出す紙を取るとちらりと見やってすぐに又突き 一﨤した。 石奉行西尾小左衛門、小沢六郎三郎、吉田平内 大工棟梁岡部又右衛門 小細工棟梁宮西遊左衛門 漆師頭首刑部 瓦焼師唐人一観 金具師後藤平四郎 それらをちらりと見ただけで突き返されたので、光秀に は信長が何を考えているのかさつばり分らなかった。 「何かお気に : : 」と、また光秀が言った。 「案するな、この金燈籠が気に入ったゆえ名前を見たのだ」 「十、 0 ーしこれは後藤平四郎が入神の細工にござりまする」 「言わずとももう分ったわ。じゃがハゲ」 「これを一つ三河の親類に見せたいものだな」 「さそおどろかれることでござりましよ、フ」 さ、次へのばろう。まだあと六重残ってい る」 言いかけて歩き出して、 「したが甲斐の武田め、また家康に戦を仕掛けて来たよう だの」 この右大臣は、いたすららしく首をすくめてクスッと笑 つ ) O 115
「徳川の家の : : : あらむ限りは : : : 怨んで、怨んで、怨み屏をしめてから、またそのあたりの血を拭きながら、重 ぬこうそ」 政は、自分がいま、三十年近くも仕えて来た主君の正室を 「御前、お気を静められませ」 刺したのだという気はしなかった。 重政は擱まれた脇差を引く気になれず、草にしぶいた血 あまりにあたりが明るすぎるので、神経が戸惑った働き のりに視線をおとしていた。 方をしているのかも知れない。 「重政、事を急げ」 「とにかくご遺骸は、いちど大殿のもとへ運び、お指図を と、太郎左がうながした。 、ミ処理するがよかろうのう」 仰した後に 岡本平左衛門にそう言われて、はじめて重政はハッとな 「このような所を足軽どもに見せたくないわ」 - 一んばく 「死ぬものか、死にはせぬ。魂魄はこの世にとどまって」 じゅそ 「これはどこまでも自分たちの一存でやったこと : また叫びだした御前の兄詛に 重政は眼をつむったまま、 そうしなければ、家康も哀れ、信康も哀れ、死んだ御前 脇差を手許へひいた。 「ぎやっ も哀れと、冷静に計算して来たつもりの重政だったのだ。 「ご両所へ申入れる。よいかの、この富塚の前谷までやっ と、鋭い怪鳥に似た悲鳴につづいて、 て来ると、御前は乗物をとどめられてご自害なされた」 「御免 ! 」 と、重政の声がひびき、そのまま御前の躰は重政の両腕「なるほど : の中へ倒れこんだ。 「それゆえ、やむなく介錯は野中五郎重政、検視は岡本平 「よくやった。ここで討たねば、きっと大殿に斬りつけか左衛門時仲と、石川太郎左衛門義房が相っとめた」 「ほほう、それを忘れてはならなんだの」 ねないお方なのだ」 「されば、残暑まだきびしくご遺骸をこのままには出来ぬ 太郎左がまた励ますように言ったが、重政は答えなかっ ゆえ、野中重政一存にて、これをこの里の西来禅院に葬っ 両腕についた血をしずかに手拭で拭いてゆくと、合掌して参る。ご両所とも、よくそのことを胸にきざまれた上に て足軽どもをお呼び下され、ご遺骸は禅院へ : : : 」 て御前の躰を乗物のうちに移してをしめた。 つつ ) 0 185
に信康を裁こうとは田 5 っていなかったのオ 「わが子を、父が処分するはよくよくのこと、一切ロ出し 「憎つくい若御台さまじゃ。二人ものお子のある仲で、殿は相成らぬ」 のざんげんを実家になさるとは」 そして、城内の処置が終ると、直ちに、岡崎を取りまく 「いや、おれは左衛門尉さまが憎い。御台さまが安土へ参四方の小城の固めの手配にかかっていった。 れる筈はなし、告げロの役を仕果したはあのお方に違いな それはさながら信康が、父のもとへ逆襲を試みようとし し」 ているかのような厳しさ。三の丸にあった家康の生母、於 「とにかくみなで血判して、大殿に嘆願せねば事は済まぬ大の方までが、眉をひそめ、小首をかしげるほどの用心深 さであった。 ぞ。このままではきっと後のご沙汰、切腹となるは知れた ただ本多作左衛門には、そうした家康の心が悲しいまで 」とじゃ」 によく分っていた。 「もし大殿がそれをお聞き入れなかったら何とするぞ」 家康はこれ以上に、一点の非も信長に打たれまいとして そうしたあちこちの話の間を作左は無表情に縫っていっ 必死なのだ。 て、石川太郎左衛門に家康のお召しを伝えた。 信長が婿舅の私情をはなれ、日本へ新しい秩序をもたら 広間は暗く夜になりかけていた。 すために泣いて信康の自決を迫って来たという態度を持っ ている以上、家康にも又、それに劣らぬ大所、高所からの 処置が必要であった。 岡崎城内はその夜更まで、人の動きであわただしかった。 三郎信康が大浜へ送り出されると、すぐに築山御殿の周 信長が天子の選んだ右大臣ならば、家康もまた天子の左 囲へは出入口のない竹矢来が組まれて番卒が配置され、つ近衛権少将。決して信長の私臣ではないと言う立場をはっ づいて若御台徳姫の身辺へは二十人ほどの警護がついた。 きりさせるためには、万一の手配りにみじんの過ちも許せ なかった。もしこの上の騒動を招くことがあっては恥辱そ その間に、松平玄蕃家清と、鵜殿八郎康定とが家康をた ずねて信康の生命乞いをしていったが、家康は二人に二言のものとのきびしい自省からであった。 とは言わせなかった。 城内の配備が済むと家康は再び広間へ現われて、大浜、 よ ) 0 161
さえ、また戦いとなったら召上げられる。それゆえ先手をよりなかった者の、勝手のちがった戸惑いが哀しく四人の . 打って : : : 」 顔に浮んだ。 「蓆旗を立て、領主の米蔵を開いたのじゃな。まさか、同「その方たちがこんどの頭か。名は何というぞ」 じ苦しみを舐めさせられている、他村の百姓どもを襲いは家康は、黄金を十両すっ四つ地面にならべてゆきなが ら、 すまいな」 「なに、他村の : : : 」 「何れ、天下が治まり次第名乗って出よ。必ず力になって これが二度目の楔になって、彼等がちらりと自責の視線やろう。今日はこの金と墨附きをつかわしておくゆえ、一 を交えたとき、家康はすかさず又言葉をつづけた。 揆の群の中から三十人ほどを選んでの、道案内に立たすが 「仲間は守れよ。よいか、織田どのは討たれたが、このまよい。長谷川どの、書きものの用意を」 ま乱世には相成らぬ。わしの軍勢十万のほか、中国へ赴い 言われて長谷川秀一があわてて矢立を取出すと、 ている羽柴筑前が十数万も直ちに近畿へ引返そう。それま 「行先は、宇治の田原の山口藤左衛門光広がもとであった での間のみだれじゃ。武将に代ってな、よく仲間を守っての。さて、その方の名から順に」 やれよ。さ、褒美を取らそう。忠次、黄金をこれへ持て : 家康は、例の返り血を浴びた男を自信にみちてうながし 榊原小平太は、この時ほど、妙な気持になったことはな っ一 ) 0 忠次が、言われるままに金袋をはこんで来ると、四人の この掛け合い、千に一つもまとまるものかと、鯉口を切 表情はおかしいほどに変っていった。 って控えていたのに、家康にうながされると、 いずれも善良な稼ぎ人に違いない。 「へえ : : : わしは、大石村のま : : ま : : : 孫四郎で」 一人があわててまっ先の一人の袖をひき、あとの二人 打って変った従順さで答えたのをきっかけに、 は、それをかばう形で、ヒソヒソと何か私語してゆく。強「わしら、桜谷の関兵衛で」 ししとび 圧されて忍従するか、反撥して狂いまわるか、二つに一つ 「わしは、鹿飛村の彌六、またこれは田上の六左衛門でご 370
らば : したいここへいかだの橋がかかるまでに、何程の流矢 九八郎は歩きながらきびしい眼をして次左衛門を睨み返を計算しているのか : そう思っていると、こんどは上流から四はいで組んだい 「その方、五百と一万五千の算盤が出来ぬと見えるの。無かだが見えた。 駄に一兵を損ずるは、三十人を失うことじゃ。二十人の兵 ( はてな、あれは何をささげているのであろう ) を失うは六百にあたるとは気がっかぬか、軽々しい出撃は 靄のきれ目に眸をこらして、九八郎は思わずポンと膝を 断じて許さぬ。華々しい討死よりも、苦痛の底でねばりぬたたいた くのがこんどの戦の勇士と知れ」 ( なるほど、これは考えたわ ! ) 次左衛門は黙ってしまった。 それは太い麻繩で作られた巨大な網であった。その太繩 「のう、その方ばかりではない。みなにもよくそれを申しの網を川面いつばいに張り渡し、それでいかだの流失を喰 いとめようというのであった。 ておけよ。三十人に一人の戦ゆえ、早まった斬死は不都合 至極じゃと」 見ているうちに、その網は、次々に下って来るいかだを 九八郎はそのまま次左衛門を見返りもせずに野牛門の外鈴なりにとめていった。 へ出ていった。 九八郎はその作業をまたたきもせずに見つめている。絶 この日も、二十間目の下の奔流の面は薄く靄がかかって対に渡河は不可能と思われていた、その不可能を、はじめ から可能にしてみせようというのが甲州勢の作戦らしい 「殿 ! 渡りだしましたぞ。何としまする」 川幅は凡そ四十間。 その上手から何かわめきながら続々いかだがはせ下って九八郎のうしろで誰かがはげしい声で言った。 来るのが見えた。 十五 「どうやら甲州勢はいかだで , 面をうずめておいて渡って こよ、つとい、つ作 ( 耿らしい」 敵のこの大袈裟な作業をみつめているのは決して九八郎 一人ではなかった。 「なるほど、あるに任せた大げさな攻めぶりよな」
家康の方から、わが子三郎信康に不都合のかどがあるゆの」 え処分するが、とめてくれるなという手紙を携えて : 若い奥平九八郎は、じっと家康を睨んでいたが、 酒井忠 そしてそのあとで家康は、はじめて奥平九八郎と、続い次は、面を伏せて、悄然とうなだれていた。 て帰りついた酒井忠次に対面した。 自分たちの失言を全身で恥じている。といって、その底 忠次は家康の顔を見ると、 にやはり、嘘を言ったのではないという一種の誇りの見て やかた 「殿 ! この忠次、年甲斐もなく織田の館にいつばい喰わとれるのが、家康にはたまらなかった。 されました」 「よし、九八郎は長篠へ、忠次は吉田の城へ戻って、油断 まっ蒼な表情でそう言ったが、家康はすでにうなずくば なく甲州勢に備えるよう」 かりであった。 九八郎はついに一言も家康に物を言わずに浜松城を去っ 「すぐ後から織田の館の使者が参りまする。その者の持参ていった。 こうして家康が信長の詰問状の到着を待たずに浜松を出 する不審状の中に、この忠次はじめ、重臣どもが、若殿へ 発して岡崎へ向ったのは八月一日であった。 の不信を訴えたとござりまする」 その日は秋の匂いの濃い小雨が大地をしめしていて遠州 その時も家康は、 「挈、、フか」 灘の潮騒がひどく真近に、おどろに聞えていた。 と答えただけであった。 家康は本多作左衛門と、作左の用意してあった二百人の 外交になれない素朴な忠次や忠世が、信長にそのような手勢をひきつれて馬で城を出ると、作左衛門をかえりみて 下心があるとも知らず、三郎信康への不満をもらし、その半ばあざけるようにつぶやいた。 「作左、ここから岡崎へ兵を引連れて攻入ろうとは思わな あとで愕然としているさまが見えるような気がした。 んだの」 「実はの、わしもあれこれ考えて : : : 」 作左衛門は顔をそむけて、 と、家康は言った。 「三郎めは岡崎から追うことにした。何よりも父のわしを「攻入るなどと、妙なことは、おっしやりまするな」 ないがしろにする。このままでは家の将来が案じられるで「いいや攻入るのじゃ」 153
頼のもとにもたらされ、いよいよ武田勢は長篠へ進路を変 てこれも予備隊として控えさせよう」 えてすすみはじめた。 冫かたじけのう存じまする。ではっ 「早速のおききとどナ、 一方、長篠城では、このころ、まだ城塞の修理を終って ぎに寄手の配備を」 よ、つこ 0 勝頼は、ここで諸将の心を失ってはと、うわべは素直に うなずいた。 父の貞能を岡崎城に送り込み、自分一人この城に入って そして結局、長篠城をまず踏みつぶし、そこへ援軍こ区 レ男来ていた奥平九八郎貞昌は家人を指揮して、今、北方大通 とり「、 けつける徳川勢を、長篠と吉田の間でほふって、それから寺山に面した砦の構築に大わらわであった。 織田勢に当るということに軍議は一決していった。 いったい、これで甲州勢がやって来たら、どうする気で 城の北方、大通寺山には武田左馬之助信豊、馬場美濃守あろうか」 信房、小山田備中守昌行の二千。 「何でも二万とか、三万とかの大軍だということだが」 城の西北方、大手門からは、一条右衛門大夫信龍、土屋「この城にはせいぜい武士は二百五十人ほどしかいまい。 これでは心細い限りではないか」 右衛門尉昌次の二千五百。 お ないとうしゆりのすけ 土運びの人足どもが心細そうに時おりささやき交すの 城の西方、有海村からの攻撃軍は、内藤修理亮昌豊、 を、九八郎は鞭打つようにはげました。 轆上総介信貞の二千。 のぶかね 「この天嶮はの、兵の三千五千にまさったものじゃ。必ず 城の南方、野牛門の寄手には、武田信廉入道逍遙軒、穴 はやとまさたね げんばのかみ 山玄蕃頭梅雪、原隼人昌胤、菅沼新三郎定直の二千。勝ってみせるゆえ案ずるな」 城の東南方、鳶の巣山方面には、武田兵庫助信実を総指九八郎はこの戦を、至極単純にわが若さで割切ってい のふわざ 、えぐ、かー 揮官として、和田兵部信業、三枝勘解由左衛門守友が 「ーー長篠の落つる時は徳川方の滅びる時じゃ」 一千人。 そう言った家康の言葉をそのまま鵜呑みにしていた。こ それに本陣三千、遊軍一千、後軍二千と水ももらさぬも の城に、家康にとってはただ一人の姫、亀姫が嫁いで来て のがあった。 その軍議が決して二日目に、大賀彌四郎処刑の確報も勝いる。したがって家康が、自家を見殺しにする筈はな、 じよ・つさ、 6
むろん彼等の感嘆は、榊原小平太と同じ内容のものでは ざりまする」 よ、つこ 0 / ・刀ュ / 憑きものの落ちたような表情で名乗ってゆくのである。 これは、腹の底の底から仁慈の人 ! 」 長谷川秀一は、それを神妙な顔で書きつけ、家康は眼を 四郎次郎はそう思ったのだし、長谷川秀一は、 閉じるようにして次の文言を口述した。 「ーーー・右の者、宇治田原の山中にて、道案内を勤むる段殊「ーーー故右府さまに劣らぬ機略」 勝なり。よって後日のために一札渡しおくもの : : : 」 と、敬服したのである。 そして、それを受取ると、自分で「家康」と署名して返とにかくこうして虎口を脱した一行はその日の八ッ ( 二 り血の男に渡していった。 時 ) すぎ、倒れこむようにして宇治田原の山口藤左衛門の 渡す時に、小平太は家康の頭上に七色の後光が射しかけ 館へたどりついた : たのを確かに見たような錯覚にとらわれた。 九 ( これは常人になし得ることではない ! ) 家康自身は神仏の化身であって、はじめから暴徒など間 山口藤左衛門光広は、近江の国伊賀郡、多羅尾の城主、 多羅尾四郎右衛門光俊の五男であり、長谷川秀一とは親交 題にしていなかったかのような気がして来た。 があった。 事実、彼等はこの墨附と黄金を手にすると、矢を射るよ それだけに一行が到着すると、来合せていた父の光俊と うに引返していって、一揆の群に道をひらかせ、家康の言 うとおり三十人、屈強な若者を選び出して来て道案内に立光広とは、家康主従を庭つづきの茶園に請じ入れ、大きな ったのだ。 たらいで焚出しを運んで来た。 この事は、家康の家臣よりも、長谷川秀一や、茶屋四郎 京や堺で食べつづけて来た白米ではなく、玄米に小豆を 次郎を更に驚嘆させていった。 まぜて蒸しあげた赤飯だったが、焚きあげた飯の香りがプ 田原にある山口藤左衛門光広のもとへ着きさえすれば、 ーンと鼻腟へ入って来ると、家康はやにわにこれを手づか それから先は秀一にも四郎次郎にも充分自信はあったのみで食べだした。 「みなもこれでやれ。戦場ゆえ遠慮はいらぬ。食べたらす よ ) 0 371