土へ居城をすすめてゆく。よいかの、織田どのを疑うので 家康はここ数日、居間にこもって、こっこっこれに可か はないそ。若し万が一、援軍の来ぬ場合 : : いや、その織 書記していたのである。 田勢がもし敵に回った場合 : : : その時にも崩れぬ用意がわ 「鉄砲の数が、織田勢三千七百、わが方八百。双方合してれ等にあるか : 四千五百。この武器で倒し得た武田勢は凡そ一万二千。一 家康はそこでまたちょっと眼尻に笑皺をきざんでみんな を見やった。 挺の鉄砲は約三人ずつの敵を倒している」 家康はそういうと、またおだやかにみんなを見回して、 四 「これがわずか八百のわが方だけの鉄砲であったらどうな ったか。仮りに三人ずつを倒し得たとして二千四百」 家康の観察によれば、古来から現在まで、戦に負けた方 みんなシーンとした表情で、家康のあげる数字に耳をか が滅んでゆくのは当然ながら、勝った方もまた、遠からず たむけている。 必ず破滅をみとっているのであった。 「しかし、あの一万五千の敵勢と混戦を演じていったら、 勝利と有頂天とは避けがたい人間の習癖らしい 味方も恐らくそれ以上討たれていたに違いなく、それでは その眼で見ると、家康には、信長もまた勝ちすぎたよう 総勢八千の味方に全然勝利は予想出来ない破目になる。よ な気がしてならなかった。 いか、これがわれ等の実力であった」 勝っとおごる。おごるとは横暴の別語、武田勝頼の今度 そう一言うと、こんどは家康よりも先に忠次がウームと大の敗因は高天神の戦に勝った時に芽生えていた。その同じ きくため息した。 芽がもし家康の内部にあってはと、家康は勝利の日から残 「わしは決してみなの働きが足りなかったというのではな酷なほど冷静に自分の実力の計算にかかっていたのだ。 い。が、織田勢の援けがなければ、勝敗は逆になったと申 信長はその反対だった。 しているのだ」 勝ちに乗じて、一挙に天下布武の志を遂げようとしだし 「たしかに」と、小平太が考え深い表情でうなずいた。 ている。 「その織田どのが、いよいよ大下を握る時節は到来と、安 いや、こんどの勝利さえすでに計算に入っていたと言わ
朝になって、こうしてそっと眺めてゆくと、それは得も 或る時には、勝頼が哀れだと言って涙ぐんだり、 「ーーーやがてはおれも戦場に生命をおとそう。あやめ、お言われぬ、静かでかなしい寝顔であった。 死んでいるのではあるまいかと、鼻の尖に手をかざし れのこの首を誰が取ると思うか ? 」 て、ホッとすることがよくあった。 そんなことを口走って詰め寄って来たりした。 いや、その位のうちはまだよかったが、最後にはいつも今朝もそれなのである。昨夜あのような凄まじさで、自 話は若御台とその父信長のことになっていった。 分の躰を責めつくした人とは思えない淋しさ。 信長はまるで自分一人のカで勝ったように考えている。 ( 私はやつばり殿を愛おしんでいるのであろうか ) それが口惜しいと言うのだった。 あやめは近ごろになって、この城での自分の立場をよ なあそうであろう。われ等徳川勢は八千で五千二百 く、思い返すようになっていた。 の敵の首をあげている。織田勢は三万などと吹きくさっ はじめは間謀だった。 て、あげた首は四千あまりじゃ。われ等の力がのうて何で いや間諜の減敬を自由にこの城へ出入させるための囮で あった。 あのような勝利が得られるものか」 そんなことをわめき出すと、あやめもプルプル震えて来 それがやがて築山御前の、若御台徳姫をいやがらせたり るのをどうすることも出来なかった。 けん制したりするための道具に使われ、その間に二度妊娠 眼が血走り、まっ白な歯が、何か思い出してはキリキリ していながら一度も子供は産めなかった。 ッと鳴るのである。 和子を産みなされ。若御台より先に和子を産んたら そしてそのあとでは、まるで狂風のような愛撫の爆発だ世継ぎの生母で、こなたの勝ちじゃ」 築山御前によくそれを言われたが、もし産んでいたらど うなっていたであろうか。とにかく自分は武田家からの廻 はじめはそれを殺されるのかと怖れた。戦場で何かの悪 霊に憑かれて来て、気が狂ってしまったのではあるまいか し者なのだ。 と、も田 5 った。 「ウ、ウ、ウ : ーし , 刀、し・ 隣りで信康が大きく仲びをはじめた。あやめはキグリと つ ) 0 5 9
と、笑う代りにため息した。 いかにも、その白旗にござりまする」 滅ぶる者と興る者。 と、事もなげに答えた。 眼に見えない何ものかがそれをきびしく裁いてゆく。 九八郎は首をかしげた。 あまりにかな勝利が、九八郎には却って薄気味わるか つつ ) 0 「その白旗をどうして、そちの組下がかついでいるのじゃ」 ( いったいこの勝利から何を学べと言っているのであろう 「この彌之助が拾ったのでござりまする」 「なに、重代の旗をそちが拾ったと」 「全く勝頼という大将、どの面さげて甲州へ戻ってゆく気 「はい。それがしの拾った時、側に居りました梶金平が、 ゃあやあ勝頼、命おし か。一万五千、ほとんど全部失ったげにござりまする」 敵の旗奉行にこう言いました。 さに遁出す途中とは言いながら、先祖伝来の旗を敵に渡す「案するな。信州へ入って行けば海津の高坂弾正だけでも とは何、ことじゃ」 八千の兵は持っているわい」 「ふーむそのようにドてていたかのう」 九八郎は彌之助を渡し口まで送っていって、しばらくそ こに立尽した。 「慌てる段ではござりませぬ。それでもさすがに旗奉行は 羞しかったと見え , ーー愚か者よ。その旗は古物ゆえ捨てた昨日までずらりと対岸に陣取っていた敵のかがり火がな くなって、滝川の面にはチカチカと星が映っている。 のじやわい。べつに新しい旗がこの通り、ここにあるぞと 申しました。ところが金平も負けては居らすーーなるほど九八郎は何故か胸がつまって、呼吸が苦しくなって来 武田家では古物はみな捨てるのじゃな。馬場、山県、内藤 「鳥居強右衛門、戦は勝ったぞ。もはやどこにも敵は見え などの老臣も、みな古物ゆえ捨ててしまったのか : ぬぞ」 すると、こんどは聞えぬふりをして逃げて行きました」 九八郎は小声で呟くと、不意にはげしく、肩を揺って男 そう言って彌之助はおもしろそうに笑っこ、、、 泣きに泣きだした。 「そ、つか。そのよ、つにの、つ」 丿ルわ
ぎまれば勝ったも同然、御身は遊山のつもりでよいまあ 笑をみせて床几にかけた。 「では、味方の勝利、もはや疑いござりませぬなあ」 見てござれ、こんどこそ、この信長が武田の士卒どもを練 ひばり いかにも , ・」 り雲雀のようにあしらってお目にかける」 信長は上機嫌にうなずいて、 家康の顔へチラリと不快ないろがうごいた。ご加勢と言 「ところで徳川どのに念のため申しておきたいことがあいながらやはり信長は、この戦をわがカの勝利として天下 に確認させたい肚なのだ。 「ご加勢を : ・・ : 」 「念のため : ・・ : 司いおきましよう」 やがて家康は微笑をとりもどして、 「他でもないが、勝頼は御身にとっての宿敵、定めてここ で息の根をとめたいところでござろうが、この一戦で彼を 「ご加勢を願ったわれ等が遊山のつもりでいては相済みま 討取ろうなどという短慮は必ず起されな。さような心かせぬゆえ、われ等もまっ先かけて働きまするが、お言葉は ら、御身にしても、三郎どのにしても、万一敵の中に深入肝にきざんで」 りして、討死でもするようなことがあっては、たとえ合戦 そういってから、中央にひろげられている絵図面の上へ : と、おばされよ。よいかの、もし、そ眼を移した。 に勝っても負け : のような事があっては、この信長にしても、わざわざ岐阜岡崎で打合せて来た陣の配置たったが、そのあちこちに 朱が加えられている。 からご加勢にやって来たかいがないというものだ」 家康は黙々としてうなずいたが、この一語は、鳥居元忠連子川の岸に沿って南北に長く柵を構え、そこまで敵を をひどく驚かした様子であった。 おびき出して、島さしか雲雀を取るようにあしらってやろ うと言うのであろ、つ。 信長も又どうやら家康の肚の不安を読みとっているらし 。それで「ご加勢にやって来た : : : 」と微妙な言葉で自暫くそれをじっと見ていて、 分の立場を明らかにしているのである。 「これだけでは、いもとない」 「何はともあれ、今度の合戦ではお身は仏像にでもなった 家康は静かな声でつぶやいた。 気で、万事はこの信長に任されたい。相手が決戦を挑むと ゆさん 2
が、きりりとしたがけで、味噌を焼いているのを見ると よ、つやくホッとして、 ( 勝ったのだ : ・ ( 勝った戦にしてこの淋しさは何事であろうか : と、自分にむかって微笑した。 と、九八郎は自分を叱った。死んでいった家臣のための 悲嘆ならば、一万数千を失った勝頼の悲嘆の深さは計り知「どこを歩いてでござりました。さ、召上りませ」 亀姫は九八郎の姿を見つけると姉のような母のような態 れまい よ肖えう度で、くり盆にのせた握飯と焼味噌を良人の前へ運んで来 戦っている間に感じたあの猛々しい憎悪と闘魂を冫 せて、今では悄然と山路に駒を急がせているであろう勝頼 の姿が、強右衛門の次に妙に佗びしく想い出されるのはな九八郎はゆ 0 くりと上り端に腰をおろして、 「お方も食べるがよい」 ぜであろうか。 一つつまんで、恭しくそれに頭をさげた。眼の前にいる チラチラと瞬いているあちこちの星は、山路を落ちてゆ く勝頼の位置からも、信長、家康の野陣からも、同じ星と亀姫も、かまどの火の色も、握飯も、味咐の匂いも、すべ して望めるのだという事が今夜の九八郎にはふしぎに想えてが、はじめてこの世に出会ったもののように新鮮に眼に ・映った。 てならなかった。 「戦とはおかしなものよのう」 まもなく城のあちこちに赤々とかがり火が焚かれたし いっかかたわらにうずくまって、眼の合うたびに微笑し 最初の炊出しが配られたと見え、そこここではじけるよながら握飯を食べだした亀姫にそういうと、 「いいえ、おかしなものではござりません」 うな笑い声が湧きあがった。中には、手をとり合って踊る と、亀姫ははっきりと割切っていた。 者や唄う者が出て来ている。 九八郎はひとわたり炊出しの行き渡ったと思う頃に本丸「戦いとは強い者が勝ちます。辛抱の強いものが」 九八郎はその夜、万一残敵の逆襲はないかどうかを警戒 の大台所の土間に入っていった。 そして、こうした手ひどい経験にはじめて会った亀姫して夜明けまでに三度城内を見回った。 2 8
か」と、家康のもとへ言い送った旨の返事があった。 そして、わざわざ氏政と甲州勢が黄瀬川をはさんで対陣 して見せたのは、信康が自刃して間もない去年の十月二十 . 田原の当主北条氏政の末の妹だった。 勝頼の正室は、、 先代氏康が年とってから生まれたので、その愛情を一身に五日のこと。 あつめて育ち、長い間手を握りあって来た武田氏に嫁がせ どうやらそれで、家康も氏政と勝頼の不和を信じた様 子。したがってひそかにその策略がきっかけとなり、家康 て来たのである。 と氏政とはほんとうに手を握り合ってしまったと言うので その意味では戦国時代にめずらしく政略の匂いの少ない 結婚で、今年十九になった小田原御前は、諏訪氏の美貌をある。 もしそれが事実だったら、勝頼は毛を吹いて傷を求め、 うけついで三十を過ぎても端麗すぎるほど端麗な勝頼を、 われとわが手で孤立の石を打込んでしまったことになる。 ひたすらに愛している。 こんどは謀者がかわって言葉をつづけた。 勝頼もまた、若い正室の心にこたえて近ごろでは、側女 「徳川どのは、相成るべくは織田家の援助を求めたくなか は殆んど遠ざけていた。 それだけに両家の間の親和がくずれるなどとは想像出来ったのでござりましよう。そこで北条どのと連合し、ご当 ず、実は勝頼の依頼でこんど家康に氏政を接近させていっ家に当ろうと腐心して、ついに北条どのを説き落したので たのである。 ござりまする」 : いや、どうしてそちはそれを知っ 「・ーーー織田家と徳月家の間には、こんどの信康の事件で必「そのようなことが : すひびが入ってゆく。ひびが入れば織田家から援軍は来またのじゃ。なぜ双方が真実に結びあったと分るのじゃ」 「はい。両家とも、ご当家には何の知らせもなく共に、出 いゆえ、策を構えて、家康を駿河におびき出してはくれま 陣の用意をはじめて居るが何よりの証拠かと : し力」 「して、徳川方のめざすは ? 」 氏政にそう言い送ると、氏政は心得て、 「申すまでもなく高天神城の奪回にござりまする」 「ーーー家康が駿河へ出兵すれば、氏政も兵を出して勝頼に それを聞くと勝頼はいきなり身をひるがえしてわが居間 当るゆえ、駿河を徳川、北条の両家で分けようではない 204
ご覧なされた上で、とこうの批評をなされませと言い返 に解していった。 し、翌日、あざやかに勝頼を追払ってお目にかけました」 ( 右大臣になられて、信長公はいよいよわが婿を可愛い 「なるほど、すると武勇では父にまさっても、まだまだ苦 ものに思召されている : : : ) 労では遠く父に及ばぬのじゃな。さ、盃を重ねながら気楽 そう解釈してゆくと、酒井忠次などは、信康の仕合せさ 冫 = 一ⅱせ」 が却って腹立たしいほどであった。 「はい。武将はただ強いばかりでは叶わぬものでござりま 彼は三杯目の盃を半ばほすと、眼のふちをほんのり染め て、 する。勝と負けとはつねになえまぜてやって来る。勝ちだ 「武勇は大殿にまさりまするゆえ、この上は家中の人望をけが続いてあるものと思うと、長篠での勝頼のような目に あつめる事でござりまする」 あうと、老臣どもはロを飾らず諫言致しまするが、若いの 信康を信長側の人間として話しはじめた。 で、中々そうかとは聞き人れませぬ」 「その点ではまだご苦労なされた事がござりませぬゆえ、 「癇癖もかなり強いようじゃの。、 しつか鷹狩の戻りに僧侶 2 咋年十一月、久しぶりに勝頼が大井川を渡って参りました に出会うて、馬の鞍に結いつけ、曳き殺したというではな 1 節など、陣中大殿の前で、この忠次と衝突致しました」 セカ」 「ほはう、叱られたとはその時のことか」 「はい、実はその時は : : : 」 と、忠世もひどく寛いだ心になって、 信長はきき上手に話をうながして、 「この忠世が、大殿の命を受けて岡崎へ訓戒のお言葉を告 「して、信康は何と申したのだ。その方に」 げに参一り・した」 「この忠次の出足がおそいと言って、戦を知らぬ、勇気が 足らぬと申されました」 「なるほど、その時信康は何と言ったの」 「恐れながら、内府さまの御名をあげられ、信長公とて、 「なるほど、これは信康少々口がすぎたのう」 「はい。それゆえ拙者も、まだまだ若殿がそのようなこと 比叡山、長島などでは、何百、何千の僧侶を討たれた。予 を仰せられるとは片腹痛い、はばかり乍らこの忠次、勝頼 が殺したはたった一人、悔いているゆえもう責めるなと、 いやはや、出向いたそれがしが、散々に叱られました」 の戦術戦法、みな心得た上での駆け引き、明日の戦をよく
すでに戦意を失くしている武田家の諸将。それを冷静に まだ連山の頂きは、きびしく雪をかぶっていたし、朝夕 甲州から信州へ入ると間見てとって、信長と家康の怒濤のような攻撃が開始されて の冷えはそのまま冬であったが、 しまったのだ。 もなく聞かされたのは、 そうなると甲府のつつじが崎の城は、これを迎え撃てる 信長自身の大挙出撃。 構えの城ではなかった。城というよりそれは敵などここに つづいて、穴山梅雪の家康への降服。 寄って来れるものではないという、父祖の自信の上に設計 更に、飛騨から金森長近の侵入であった。 された居館にすぎない。 勝頼ははじめて愕然と色を失った。 その城へ、出ていったと思うと、またあわただしく戻っ 彼はここでようやく、自分がすでに「戦いすぎた男」で て来た勝頼を迎えて、小田原御前は眼をまるくした。 あった事に気がついたのだ。 「まあこんなに早く、戦が済もうとは : : さ、上さまがお 「穴山まで、予を見限ったか、やむない、軍を返せ。返し 越しになろうゆえ、おぐしをあげて下され。それからお香 て早く城に籠ろう」 そろそろ梅の咲き出した飯田の近くまで来て、そこからを部屋に焚きこめて」 御前はまだ、良人のおかれている位置がどのように危く 急いで馬を返していった。 なっているかを知らなかった。 正午前から降り出した春雨の柔い音をたのしみながら鏡 当然駿河にあ 0 て、徳川勢をきびしく押えていてくれるを立てさせ、自分でそ 0 と紅皿の紅を唇につけた。 「戦など、このまま無ければよいのになあ」 ものと思った穴山梅雪が、敵に寝返ったということはもは おぐしあげの侍女に笑いかけると、侍女の伊川は鏡の中 や、武田家の礎石が足もとから崩れたしたということだっ でこくりとした。 いや、木曾義昌が信長に通じたのも、北条氏政が徳川氏甲府城の女たちは、ひとり御前だけではなく、攻められ たことを知らすに育った者が多かった。 と結んだのもみなその現われたったのだが、勝頼はいまま 戦はどこか外であるもの。そして戦えば必ず勝って還る でそれに気付かなかったのだ : つ」 0 3 2
が、ここでは信長は立ちどまらなかった。 ここに信長は常住の居間を決めてあった。 一段高く四畳 「いかにも、昨夜までは鳴りをひそめて、戦備の改革に当の上段をしつらえ、その下が十二畳になっていて、部屋い はいが、けんらんたる花鳥図でうずめられていた。 って居りました勝頼も、いよいよまたあなどれぬ力を持っ その南八畳敷は「賢人の間」と名づけられ、絵は瓢簟か て来ましたようで」 光秀、持前の慎重さで、一語もゆるがせにしない口調でら駒の飛び出した図が描かれている。賢人と瓢簟と駒と は、何の関係があるのか、ここらに信長の信長らしいとこ 答えると、信長は却ってそれに反援していった。 ろがあった。 この層の柱はすべてで百四十本。四層へのばって来る と、又信長は光秀に呼びかけた。 「去年の暮にいちど大井川を渡って家康と対陣した勝頼、 「日向守ーー」 こんども江尻へ出て来ているが、家康の独力でこれを追払 こんどはハゲが日向守になっている。 、んると思、つか、と、つだ」 い。いずれ、こ 「されば、武田、徳川両家とも、ここ数年は互いに力を養「家康は、まだ独力では武田家が滅ばせま しきもく い合い、式目を正し、武に励んで参って居りますゆえ : : : 」れもわれ等の手で刺刀はささずばなるまいの」 「と、仰せられますると、徳川家の力だけで滅亡させては 言いかけると階段をのばりながら信長は性急に舌打し 後が案じられる、とい、フ〉思・味で、こギ、りましよ、フか」 「その通りじゃ。やはりこれはおれの手でしておきたい。 「くどい男だ。どっちが勝っと一語で言えぬか」 おれが若し中国討伐に気をとられて居る間に、独力で家康 「恐れながら、いずれが勝っとも決めかねまする」 がやってしまっては、あとに何かと不都合が残ろうでの」 : それでよいのじゃ。それでおれは安心し 「では、やはり折を見て、甲州を先に攻められましては如 て中国討伐に兵がける。これは、中国へ兵を割く前にし ちど是非とも家康を招かねばなるまいて」 何で、こギ、り - 寺しよ、つ」 「たわけめッ ! 」 三層へのばって来ると、視界はぐっとひらけていった 、 ) 0 116
「露払い仕りまする」 り、手には数珠と経巻が持たれていた。 二枚の短冊には、 いきなり昌次のうしろで若い女の声がした。 帰る雁たのむぞかくの言の葉を 御前の侍女のお藤であった。 もちて相模のこ府におとせよ お藤は懐剣を胸に突き立ててから、全身のカで、これも 歌を口にした。 ねにたててさそ惜しまなむ散る花の 色をつらぬる枝の鶯 「 : : : 咲く時は : ・・ : 数にも入らぬ花なれど・ : ・ : 散るにはも れぬ春の暮かな」 と、書いてあった。 「お藤 : : : 」 勝頼に言われるまでもなく御前の心は時々故郷へとんで いたのだ。しかし、そこへ帰りたいとは田 5 っていなかっ 一度経巻をおいて懐剣を解きだしていた御前は、ふたた び経を取ってお藤の方へさらりと開いた。 この世で知った一途な良人への思慕を、誰にも、どのよ 「こなたまで : ・・ : 伴してくりやるか」 みだ うな出来事にも紊されたくはなかった。いや紊されずに済「奥方さま : : : 」 「お礼を言います。あの世で楽しく、のう」 む世界へどうして良人を連れ去ろうかというのが、新府を 出る時からの御前の希いのすべてであった。 そ、 2 言ってから昌次に、 戦も、政略も、陰謀も、義理もない世界。そこへ思いの 「では」と言うと懐剣の鞘をはらった。 ままに飛び立ってゆく自分の心を、いくぶん誇らかに兄た 勝頼は立ったまま、落付きはらった御前の姿を裂けるよ うな眼をしてじっとみつめている : ちに告げてやりたい郷愁だった。 侍女のお藤が、ばさりと草の上にのめった。 ( どんなに兄たちが自分を惜しむか : : : ) しかしそれは悲しみだけではなくて、ほのばとした勝利 感さえ伴っている。 「では、仰せによってそれがしが : : : 」 土屋昌次が刀をとって御前のうしろにまわると、 っこ 0 四 小田原御前の眸はお藤の屍体から、ゆっくりと良人に移 248