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検索対象: 徳川家康 5
226件見つかりました。

1. 徳川家康 5

質のおふうに相違ない」 かも知れない : おふうの亡霊は「フフ : : : 」と笑って、小田原御前の亡 その中で、たった一人、小田原御前だけが際立って美し きがらを指さした。 かったというのは何を意味するのであろうか。 殺したものは殺される : : : とすれば、御前だけは殺さな死んで鬼になろうと十字架の上で言いつづけたおふう。 いのに死んでいった故であろうか。 いっか必す、勝頼のいちばん愛おしい者に祟ってやろう と一一一口ったおふ、フ : すでに冷えきって硬直しだして来た妻の体を勝頼ははじ 「、フぬツー・」 めてそっと草の上へ手離した。 太刀を抜いて、ばっと横に払って、瞳をこらすと、そこ そして、もう一度うつろにあたりを見廻して、思わずギにはもはや人魂はなかった。 クリと胸をおさえた。 「お館さま ! 」 あたりいつばいに散乱している女たちの屍体の中から、 と、うしろで声がした。満身に手きずを受け、刀を杖に ゆらり、ゆらりと虚空へ人魂が立ちだしたのに気づいたのしてよろばい戻った土屋昌次だった。 いや、それは人魂ではなくて、すっかり暮れおちた高原 に、おばろ月が出て来て白い下着に反映してゆくのかも知「おお、昌次か : : : 秋山紀伊は何としたぞ」 れなかったが、 しかし勝頼にはそれがたしかに人魂に見え勝頼は、そこに刀を杖にして立っている相手が幽霊では ていった。 ないと見きわめるまでにしばらくかかった それほどおばろ月は、傷ついた土屋昌次の姿をまっ蒼な その人魂の一つがしずかに勝頼の前に立った。 かすかなものに見せていた。 「ーーーおばえていやるか。この私を」 「 ~ めつ、、つ 「昌次、どうしたのじゃ、気をたしかに持て、秋山紀伊は ・・ : : うぬよ、おふうたな」 勝頼は思わず太刀に手をかけて、 何としたぞ : : : 」 「うぬはおふうだ。鳳来寺の陣中で磔にかけた奥平が人「討死 : : : 」 、、 6 ) 0 2 」りつ 2 ロ 251

2. 徳川家康 5

ふと気がつくと、こんどは息ぬき窓からたしかに小鼓と 息ぬキ窓から、かすかにそれらしい気配が感じられた。 と、いうのは、朝になると、何となく香ぐわしい空気がそ思える音が聞えて来た。 「これはおかしい : こからわずかに流れ込んで来るからだった。 源三郎はいきなり起きあがって、全身を耳にした。 大河内源三郎は足が立ったら背のびしてむさばり吸った まだ寄手の者が城へ入ったと思われる物音は耳にしてい レ違いない。が、今は足だけではなく、手も思うように動 なかった。それなのにたしかに小鼓に相違ない。 かす、視力もいちじるしく弱まっていた。 こよれば、それは幸若の鼓らしく思わ 彼のわずかな知識 その癖耳と嗅覚たけは、この異常な暮しに馴れてふしぎ れる。 な冴え方をして来ている。 「はてな、あれは鶯の声じゃぞ : : : 」 「殿は浜松へ移られてから、正月よく舞を見られたが、或 昨日から急にシーンと静まり返ってしまった城内。鶯が いはすでに入城しているのではあるまいか」 鳴きだしたという事ははげしい戦闘の終熄を意味するので ( 入城しているのだとすると : : : ) あろうか : 不意に源三郎の胸へはげしい動揺が起っていった。 「たしかに鶯が鳴いている。作蔵はやって来ないし、城兵 入城しても、この城のこうした場所に、こんな牢のある ことなど、すぐには分らないに違いない。 はみな逃亡したのかも知れぬなあ : : : ? 」 そう思うと、源三郎は自分の全身から生きる力が小さな ( せつかく殿を迎えながら、殿には会えずに死ぬのであろ 、つ , 刀・ 気泡になって、一つ一つ消えて行くようなたよりなさを覚 えた。 そう思うと、今まで澄みきっていたものが急に大きく掻 き濁され、そこから生々しく生への執着が顔を出した。 ( これでよい : と、彼の異常な闘魂が満足しきってしまったせいかも知源三郎は格子にすがって立上った。すでに立とうと思わ れない。 なかった足尖から、しびれるような痛みが全身を走ってゆ さして空腹は感ぜず、気たるい睡気がおそって来たのは 「ウォ】ッ 正午ごろでもあろうか。 224

3. 徳川家康 5

石垣の高さ十二間あまり、その上に十七間半の七層天守そう一一一口えば信長が、岐阜城からここへ運ばせたものは、 閣たった。したがって頂上から下までは三十間、約百八十茶器のほかには何一つなかった。 尺あった。それを一気に、駆けおりると、信長はそのまま営々と貯えた武具も黄金も米穀も馬匹も一切あげて、わ 天守閣を出て、北の曲輪に向った。 が子信忠に譲って来た。 「あの、徳姫の手紙とは : ここに彼は仮屋を立ててあった。この築城を言い出して から三カ月目の、天正四年の二月二十三日には、さっさと 「それ、さまざまに築山御前や信康がことを愚痴って参っ たあとの手紙じゃ」 岐阜を引きはらってここへ来ていたのだが、その仮屋の門 「あ、あれならば手文庫の底へ : まで来ると、 「、ゲ、も、フよい」と、光一秀にあ、こをしやくって、さっさ と言いかけると、 と中へ入っていった。 「出せ ! 」と信長は片手をひらいて御前の前へ突出した。 おのう 「阿濃 , ー・ー」いぜんとして昔ながらの呼び方で、ずかずか 四 奥へ通ってゆくと、小走りについて来る小姓たちを振返っ て、 信長に手を出されても濃御前はすぐに立とうとしなかっ 「来るに及ばぬ」と、手を振った。 信長以上に明敏な切れ味の頭脳をもって、信長の意味を 光秀には従妹にあたる濃姫は、子供のないせいで、いぜ んまだ若々しい。もう夜の伽は若い側女に譲って出ようと閃くようにつかんで動く御前に、こんなことは珍らしかっ しなかったが、信長は、用があれば平気で泊った。 「出せ ! 早く・ : ・ : 」 「いらせられませ。何か急なお思いっきでも」 信長はもう一度御前の鼻尖で手を振った。 奥方が侍女を従えて出迎えるのに、 「あのようものを、今更何になされまする」 「阿濃、あのハゲがな」信長は坐ると一緒に 「これはおかしなことを。何にするか分らぬほど、お方は 「おれに一つ、よいことを思出させた。それ、あの岡崎の徳 たわけではない筈じゃ」 姫からの手紙、あれをおぬしは岐阜から持って来なんたか」 こ 0 」 0 118

4. 徳川家康 5

は、このようにつらく難儀なことであろうか。 虚空で火花を散らすばかりであった。 家康はたまりかねて、 ( 信康 ! この父も口惜しいのだ : : : ) 「その : : : その、たった一つの申条、それが未練と気がっ 家康はそういってやりたかった。 かぬか。謹慎しろと命じられて、うぬはその我慢もできぬ 信長が、天下のためにと、真正面から挑んで来たこんど やくたいなしかっ」 のこと、こっちも後へ引けなくなったのだと : 信康はぐっと片ひざ立てて、しばらく何もいわなかった。 信長に討てと命ぜられるほどならば、わが手で先に処分 「これほどまでに申上げても」 して、ふびんなやっと心で泣いてやりたいのだ : が、その思いを一一一一口葉にしては、この父の一分が立たぬ 「くどい。戻れつ」 と、そちには察しがっかぬのか : 風雨はまた横なぐりに信康をあおった。 びんの毛がいちどに右のほおから左のほおにはりつ 「お父上 ! お願いでござりまする。お父上だけはこの信 : たった一言 ! それだけて、絶望にきらめく眼が恨みをこめて燃えつづけた。 康、二心はないと信じている : 「武将というはな、命じられたまま、泰山が崩るるとも動 1 仰せ聞け下さりませ」 かぬものじゃ。よいか。帰っても軽挙はならぬそ。謹慎と 「お父上 ! なぜ黙っていられまする。お父上もまた、ま申渡されたら、あとの命が届くまで、ただきびしく謹慎す ことこの信康が、勝頼に内応していたと思召されまするか」るがまことの武将じゃ」 信康はしかし、それを聞いている様子はなかった。 「その疑いを受けたままで、祖父や曾祖父のもとへゆけと彼はすーっと立上ると、そばにあった笠をじりりと裸足 でふみにじった。 は : : : あまりにむごいとおばされませぬか」 : と、田 5 、つと、工た 哀願がついに憤怒に変ったらしい : 「たわけめつ ! 」 家康は眼をつむるかわりに、カ ] ッと大きく信康をにらがつくりと首を垂れてすすり泣いた。 家康は依然として立ったままじっとわが子を見つめてい んでいった。 が二人の視線はどちらも相手に通ずる力はなく、空しくる。

5. 徳川家康 5

家康がその男の顔だけなぜそのようによく、覚えている 家康は駿河守の口上をききながら、 かといえば、同じ男が、今朝難波津を発っ時、見送りの中 ( たしかに大坂からつけられているが : に確かに立っていたからだった。 と、まだその事を考えていた。 風姿はいかにも上品だったが、その眼はいつでも電光に これほど歓待してくれる信長が、かげで家康の命を狙う変る鋭さをかくしている。 筈もなく、本願寺でも、この通り向うから親交を求めて来 ( 腕も胆も並の者ではない : ている。 その同じ顔が、船が着くと、又さり気なく家康を迎えて それなのに、たしかに刺客と思える者が、五人か七人か いたのだからギグリとする筈であった。 の集団で家康をつけている。その集団も或いは一つでなく 本願寺の使者が帰ると、この街へ滞在中の家康と穴山梅 て二つ以上かも知れなかった。 雪の日程帳を持って、あるじの友閑がニコニコと入って来 それでわざわざ陸路を来るように触れさせておいて船路こ。 に変え、一度は妙国寺に泊ると言っておいて、松井友閑の 「今宵はここで一献さしあげ、会合衆もご同席申上げてい 邸に変えさせたのであった。さっき大和川の船着場で、ころいろの堺のお話をお耳に入れまするが、いやはや、あち の街の娘たちが花東を持って現われた時、家康のギグリと らからも、こちらからも、お招きのロがかかりましてな」 したのは、見覚えのあるそれらの顔が、点々と迎えの列に あす一日は、市中の見物。そして六月一日には、早朝に 混っているのに気づいたからであった。 今井宗久方で茶の湯。昼は津田宗及方にて同じく。夜はま その中の一人は、たしかに会合衆と同じ身なりをしてい たこの邸で茶の湯の後、幸若舞を見せ、そのあとで酒宴に た。一度見たら忘れることのない、ふしぎな端麗さを持っ なる予定だから寸暇もないと話したあとで、 たその顔は、じっと切れ長の視線をすえて家康を見つめて「時に、会合衆の一人、納屋蕉庵どのが、火急にお目にか かってお耳に入れたいことがあると申して居られまする 年齢は時によってまだ三十七、八にも見え、或いは家康が」 より年長にも見えた。 と、家康に告げた。 342

6. 徳川家康 5

「ウーム」 信長は、片足を縁からおろしてもう一度猛々しい唸り声 信長は妻の声が聞えているのかいないのか、いぜんとし を発していった。 それは茶壺いじりをしたり、蹴まりに見入ったりしていて中庭の出口をきびしく睨んで立っている。 る右大将の声ではなくて、血を見て奮い立った猛獣のうな濃御前は、もう一度声をかけようとして考え直したよう りであった。いつの間にか山田彌太郎と大塚彌三郎の両人に首を振った。 この闘いなれた猛獣は、誰に注意されなくとも、躍りか が、いずれも前髪をみだし小鬢から血を流しながら、駆け かる時は躍りかかり、退く時は退いて決して誤ることはあ て来て、これも又遮二無二敵に向って行った。 るまい 敵はドッと庭の外へひきだした。 たちばら もし奥へ退く間がなかったら、ここでこのまま立腹切っ 信長はいぜんとして敵を睨み返す面魂で立っている。 縁の端につられた蘭燈の灯が、そうした信長と、玉襷にてゆくかも知れない。 2 その猛々しい性根で訓練された若獅子たち、これはまた 3 鉢巻して大薙刀をかかえた自分の姿とをおばろに照し出し ている : : : そう思った時、濃御前は、ふっと胸が熱くなり、何という生一本な強さなのか。それぞれがすでに草に伏し たぎ 忘れかけていた良人への愛情が沸るようにのどもとへこみて這いまわるほどの手傷を受けていながら、何十倍かの敵 をまた中庭から押し出してしまったのだ。 あげた。 ( 夫婦だった : 人影のなくなった中庭へ、ひょろりとした足どりで一つ いちど闘争の場にのぞむと、文字どおり生死を超えて闘 うことしか念頭にないこの偉大な猛獣を、ついに誰の手にの影がもどって来た。 「蘭丸どのの仰せ : ・・ : 少しも早う : ・・ : 」 も渡さなかったのだ : それは、いちばん手傷の重い高橋虎松の声であった。 「殿 ! そろそろご用意なされませ」 御前ははじめて自分の声が、ある感情にふるえているの またよろよろと一歩すすんだ。手にして大刀が曲ってい に気がついた。

7. 徳川家康 5

が、家康よりも光秀に柔かくあたる筈もなかった。 所に生まれてゆく。 同じ強さの風を受けたら、家康には忍べることも光秀に その意味で、彼は、信長と光秀の衝突は充分にあり得る は忍べないのではなかろうか ? ことだと危胚していた。 ということは、決して忍耐心の有無ではなくて、志の内 信長は三つの欠点を持ちながら、一つの美点で群をぬい 容により、理解の度が大きくひらいて来るからであった。 て立っている。その美点の卓抜さを認めていなかったら、 ( あり得ることだ : 家康もまた、わが子信康の切腹を命じて来たとき、真正面 家康は、日程にしたがって、その夜は友閑の邸での酒宴 から信長と衝突していたに違いない。 にのそみ、翌日は本願寺、常楽寺、妙国寺等から戎島など あの時、家康が、じっと自分を押え得たのは、信長の唯 一の美点が「戦国の終熄」という、万民の祈念の上に凝集を見物した。七堂ケ浜にならんだおびただしい倉庫や、沖 に碇泊している南蛮船などを見ながら、心の中ではしきり されていることを見抜いていたからであった。 しま、一人の信長の野心ではなくて、見に信長の無事を祈った。 天下の統一よ、、 いま信長を失うことは、朝日をそのまま落すにひとし えない万民の声なのである。 い。たちまち群雄は竸い立って、蜂の巣を突き破ったよう 信康は愛おしかった。 な騒乱が国中にひろがってゆくことであろう。 感情の上ではたまらなく口惜しかった。 一日はこれも予定の通り、今井宗久の邸で朝の茶を済ま が、打ち続く戦乱は、そうした信康や家康の悲しみを限 し、昼は津田宗及の邸、夜はまた松井友閑のもとに帰って りなく国中で繰返させているのである。 光秀の心歓待をうけた。 そう思えばこそじっと私情を押え得たのだが、 に果して家康ほど強く、戦国終熄への希いがあったかどう納屋蕉庵はそれらのどの席にも顔を見せたが、別に家康 冫 = 】ⅱしカけよ、つとはしなかった。 そして蕉庵のほかには、誰もまだ光秀の画策など気づい 光秀はもともと出世を夢みて遍歴をつづけ、朝倉家から 織田家へ移って来た者であった。したがって信長の志を凝ている者はないと見え、信孝の船がかりを断ったのに、よ 視している点で、家康にまさ 0 ていようとは思えず、信長く信長が怒らなか 0 たなどと、そんな話が出ただけだ 0 た。 348

8. 徳川家康 5

「それがしはこれより岐阜のお館のもとに参りまする。何めた。 しに行くかは改めて申上げませぬ。それがしの申すこと、 「この戦、徳川家の浮沈にかかわるだけではござりませ もしお館がお聞届けなくば、その場を去らす、腹かっさばぬ。もし、三河で堰を切ると、この怒濤はそのまま、美 いて、二度とは三河の土は踏みませぬ」 濃、尾張へ押しよせまするが」 姫はそっと頷いた。 姫はまた凍ったような表情でこくりとした。 「それで、ご挨拶にあがりました。ご両親へお言伝けを仰美作の言葉にうなずいたのではなく、もう一度だけ妻と せ聞け下さりませ」 して、信康にまごころを注いでゆかなければと思い決めた 美作はそ、つ言うと、またパタバタと扇をうごかしながらのだ 微笑していた。 「では、伝一言よりも、手紙を認めましよ、フほどに、待って たもれ」 充分にお心を籠められて」 恵姫は湧き立っ感情をおさえて、しばらくじっと黙って姫は立って窓辺の机の前に坐った。 美作の視線を背に感じると、又想いはみだれそうであっ たが、心をはげまして筆を走らせた。 ( 7 も、つ〕信じ士い : ・・ : ) そう思い決めていた信康が、陣頭に立っておめき叫んで 自分はその後平安な日々を迎えていること。信康は勇み いる姿が妙に悲しく眼先にちらついた。 ( 死ぬかも知れぬ ) 立って出陣し、 日、載田両家のためと、陣頭に立って奮 と思い、死んでもよいのかと、反問して来る、もう一つの戦していること。そしてみなが父の援軍を待っていると書 く代りに、いずれ岡崎へお越しの節は、あれこれお物語申 想いもあった。 岐阜に使いするという奥平美作の用は信長に援軍を求め上げたくと書いていった。 るためと、分りすぎるほどに分っている 信長の来援は既定の事として、文意をさとらせるつもり 「御台所さま、ご両親へのお言伝仰せ聞け下さりませ」 であったが、書き終ってそれを美作に見せると、美作は膝 姫が思い迷っていると見てとって、美作は又煽ぐ手をとをたたいて頬を崩した。 せを 3

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「この作蔵はのう、はじめはずるい男じゃったっ万一、城 と、源三郎はこんしんの力をこめて一声吼えた。と、い ままで聞えていた小鼓の音は消えて、あたりは前よりも一が落ちたら、お前さまに助けて貰おうと思うての、それで : がいまではそうではない。わしは心か こ戻ってゆき、ふしぎな悲親切を装うた : 層シーンと沁みいるような静寂冫 らお前さまに感心したのじゃ。これこそ、ほんとうの : しさが胸いつばいにこみあげた。 : こんなお方を殺しては、神仏に済 源三郎はよろよろッと格子の下に崩折れた。もう立っ気お侍の中のお侍さま : まぬと思うてな : : : 囚人さまや、見つけられたら、首を打 力も、吼える力もないようだった。 たれる覚悟で、大将の陣屋にしのびこんで奪って来た握飯 と、暫くして、格子の向うの坑道にあたりをはばかるよ : この作蔵の心が届か じゃ。それを食べずに死なれては : うにがんどうの灯が小さく丸く浮いて来た。 ぬ。これッしつかりして下されや囚人どの」 源三郎はそれに気がっかない。 そういうと、青竹の筒を腰からとって、わすかに面をあ 「もし : ・・ : もし : ・・ : 囚人さま。ど、つなされました。もし : 、 4 ) 0 げた源三郎のロにそれを注ぎ込んオ : この作蔵が生命がけで手に入れた握飯。さ、一つあがっ 水は半ば以上口からこばれて瘠せさらばえたあばらの上 て下され。もし、囚人さまや : ・・ : 」 に流れこんだが、源三郎はそれではじめて作蔵に抱き起さ 九 れているのが分った。 「おお作蔵か : ・・ : 」 源三郎は牢番の声を夢うつつに聞いていた。 「囚人どの、気がっかれたか。もはや、この城には一粒の ひどく混とんとして、かってない睡魔に全身を抱きとら : いや、わずかにあったも今日で終り れている。恐らく、それは生命のカの枯渇を知らせる睡さ米もなくなっての : ようぶ じゃ。それゆえわしは、大将の栗田刑部さま陣屋へ忍びこ であったに違いない。 んで、それ、これをたった一つ盗んで来たのじゃ」 「もし、しつかりして下されや。これ囚人どの」 「なに盗んで来たと : : : その握飯を」 源三郎がかすかに薄眼をあけて、遠のく意識をわずかに 呼びもどした時には、作蔵は格子の中へ入って源三郎の躰「いや、盗んでも、わしは盗人ではない。いやいや盗人だ と言われて斬られてもよい。囚人どのは三河の意地、三河 をゆすぶりながらおろおろと泣いていた。 2 2

10. 徳川家康 5

かえした。 うに動かなかった。 「名前は但ていても性根は月とすつばんじゃ。うぬは、ど 「あえて言葉は飾るまい。そこでそれがしは、おぬしとい うしてこの城をのがれて助かろうかと考え、おれは、何十う名物男が、この城にあったことを思い出したのじゃ。と 年ここにいても弱音ひとっ吐くものではない。その腰ぬけ いって、これは徳川方では知らぬこと。とうにおぬしなど 武士が、わざわざやって来た用も大方は知っている。無駄死んだものと思うているであろうからの : : : が、折角今日 ロきかずとさっさと帰れ」 まで武人の意地を立てつらぬいたおぬし、ここで一つ家康 あまりに手きびしい罵倒にあって、名倉源太郎は、 どのの本陣まで使いに立っては呉れまいかと これが相 「ほほう」と、もう一度格子に額をつけて、改めて源三郎談じゃ。おぬしはもはや歩行も困難と聞いているゆえ、乗 をのそき込んだ。 物は用意させよう。それで本陣へ赴いて、城は開くゆえ、 「今のその言葉、敵ながらあつばれ、家康どのに聞かせて 北の谷一方の通路だけあけて置かれたい。さすれば敵味方 やりたいのう」 とも、生命の助かる者凡そ千人はくだるまいと、これがそ れがしの思案なのじゃ」 「もう一度だけ断わろう。おれはおぬしに返事はせぬ」 カ耳だけはふさがず「 : 「よい。気に食わずば何も言うな。、、、、 におけ。実はの、この城、おぬしの予言どおり徳川方で奪「どうじゃ。討死と決心した味方に荒れ狂われては徳川方 い返しにやって来て、すでに外との通路を断たれてから一一一の損害も思いやられる。おぬしの手柄にもなることゆえ、 月になる。そう言ったら、もはやおぬしにはよく分ろう。 この儀とくと考えてみて呉れぬか 援軍の到着は一応度外視して、城をまくらに討死するか、 そこまで言った名倉源太郎は、中の源三郎が軽いいびき 城を開いて他日の決戦に備えるかの二つに一つ。そこで意をかいて眠っているのに気がついた。 見は分れたものと思うがよい。そして、開城に反対する者 五 は鹹を開いても必ずどこかの谷でみな殺しにあうゆえ無駄 であろうと申すのじゃ」 「ふーむ。聞く耳持たぬというのか。なるほど、これは頑 格子の中の大河内源三郎は、薄く眼を閉じて、凍ったよ固な男だ」 279