「三郎はただいま二股城に移してござる。と、申すは岡崎 入った 0 で、酒井忠次の所業にあらぬ怨みを抱き、騒ぎ出そうとす 浜松の西北に建てさせた築山御前の仮りの住居が出米上 る者があるゆえ、万一を想うて移したもの。また築山殿ったのは二十四日。ここへ御前を幽閉して、 は、浜松へ呼び寄せ、わが身みずから窮命の所存でござる」 「ーー、築山どのは逆上、狂乱致してしもうた」 家康は、そう答えながら、築山どのなど斬るものかと、 そう言って、天寿だけは全うさせようというのが家康の わざと眉をしかめていた。 考えだった。 「すると築山御前は、まだ岡崎にそのままおわすのでござ 家康は二十六日に至って岡崎へ使者を送った。 りまするか」 「築山どのを、浜松に護送すること。大切な罪人ゆえ、道 「そのままではない。竹矢来を結え、居間を牢舎に致して中過ちのなきよう、特に岡崎より、野中五郎重政、岡本 ござる。浜松へ引取るべき牢舎が出来上るまでの処置とし平左衛門時仲、石川太郎左衛門義房をして警護せしめるよ てのう」 その時もお使者は小栗大六だった。 信長の使番は、それでひとまず安土へ帰っていったが、 もはや処断は遷延を許されない所へぎりぎりと追いつめら大六を岡崎へ出発させると家康は急に悪寒とめまいをお ばえた。 れてくるのであった。 「信康は相変らずか」 めつきり秋気が冴えて来て、朝夕の大気の冷えが身にこ 家康はその後も度々人を派して、信康の動静を報告させたえ、風をひいたのであろうと思ったが、 臥床に入ると全 身の節々がぬけそうにだるかった。 ( どうやら、これは疲労であったと見える : : : ) 二股城はすでに敵勢力との境界線にあたっている。 かって病気を知らないほどの家康も、こんどの事件だけ そこから一歩山岳地帯にふみ出せば徳川方の手は及ばな いといってよい はよほど骨身にこたえたらしい いまでは西郷の局と呼ばれているお愛が、枕辺をはなれ ( 信康め、自分でもまた、何故助かろうとしないのか ) 眠ると家康は、時に大声でうわ じりじりと奇蹟を待っているうちに、ついに八月も下句ずに看護しているのだが、 ) 0 175
だが、それが原因で、信康がむごいことをしたのだと、 ませぬ」 築山御前は眼の前で怒っている。 「若殿の躰には織田とは仇敵のわらわの血が流れている。 ( 怒られたら詫びねばならぬ ) そのわらわの血は必す徳川の家の中に残していって、いっ 「お許しなされて下さりませ」 かこの怨みを晴らしてみせる ! 」 あやめは両手をついてそう言うと、為態の知れない悲し いちどうるんだ眼が、またキラキラと蛇性を思わす凄ま さがぐっと胸にこみあげた。 じい光になった。 「おお、わかっているのじゃな、こなたは」 もうあやめはその蛇の前ですくんだ小蛙そのものだっ すさ 「こなた達が、すっかり若殿のご気性を荒ませたのだと分 家康が、そのように信康を憎んでいるとも思えなかった っているのじゃな」 し、信康が家康を怨んでいるとも思えなかった。 し」 しかし、築山御前の怨みと怒りとは、誰も触れぬところ 「そのためにのう、若殿は、浜松の大殿から、きついお叱 りを蒙ったのじゃ。大殿はこなた達が、寄ってたかって若で、絶えず音をたてて燃えているのだ。 もしそれは違うなどと言ったら、どうなるかわからなか 殿を荒ませておいやるとはご存知ない。かりにも三宝のう ちの僧侶、再びそのような無法を働くと、わが子とて容赦った。 「よいよい」と御 ( 劇は一一一口った。 はせぬぞというお叱りじゃ」 「こなたが、わが身の罪を悟っているとすればこの上はと そう言うと、またポロポロと御前は泣いた。 がめきい こなたはの、わらわの庇護がなければこの城に 「よいかあやめ、それでのうても大殿は、この築山が憎う は居られぬ身なのじゃ。こなたを連れて来た減敬はいずく て憎うてならぬのじゃ。その築山の産んだ子と、過ちあら かへ姿をくらまし、武田家は手ひどく負けて引きあげた。 ば三郎どのを斬ってもやりたい大殿のお心なのじゃ。わら 、、つナこよ叛けませぬそ」 わにはよう分っている。今度織田殿のカで戦に勝てたゆよいか。こなたはわらわのしし冫ー え、そのお心は一層つのった。が、わらわはそれには負け つ」 0
そう言えば築山御前は人が違ったように、老けていた。 以前にはまだ皮膚に媚めいた艶があったのに、躰全体がし 「なぜ黙っているのじゃ」 まりなく、ぶよぶよと肥った感じで、ひどく品をそいでい 築山御前は容赦ない斬込み方で、 「何も知らぬとお言いやるのか」 「これはこれはお出迎えも致しませぬで」 「はい。何も存じませぬが : 「その気遣いはいらぬこと。わらわなどは、この城にあっ あやめは最初から怖えてしまって声がふるえていた。 て甲斐なき厄介者じゃ」 「まあ、そのようなお戯れを : ・・ : 」 「むごい事とは、どのよ、つなことを殿が : 「戯れはとにかく、今日はこなたに折入って話があってや「その日はのう、若殿のご機嫌がひどうわるかった。無理 って来ました。これ、そこの娘をこれへと申せ」 もないとわらわは思う。いっ戦場で討死するか分らぬ武将 し」 が、妻をめとるは早く世継ぎが欲しいからじゃ。世継ぎの 次の間までついて来ていた琴女が、御前の声に答えてま ないまま討死したでは、名を惜しむ趣意も立つまい」 だ十三、四の娘を一人連れて来た。 盆のように丸い顔をしたその小娘は、無邪気な表情であ「ところが、こなたも産まず、徳姫もまた姫ばかり、それ では若殿の次の戦にひびくとは思わぬか」 たりを見廻しながら、御前のうしろに小さく坐った。 「さあ : : : 」 「琴女はさがっていやれ。さて、あやめどの」 : と思、つのと、 「まだ、わがあとを継ぐべき和子もない : 「こなたは、この間、若殿が鷹狩りのご帰途、むごい事をあとは立っゆえ立派に功名手柄して : : : と安堵していで立 いや、このことが若殿の心にあるゆ つのとでは雪と墨 : してのけられたをご存知か」 え、また姫かと思うた時にカッとなされた。それにあれこ あやめは何がなしゾ ] ッと躰がすくんでいった。 れ、みながさかろうたゆえ、怒ったまま狩りに出られた」 御前の眼が蛇のように光っている : 築山御前 は何を考えているのかそこでポロポロ涙をおと つ」 0 9
「わらわは、いまこの城で、いちばん怖ろしいのは姑の御妻子までがみな道づれになったというのに、肝心な築山御 : が、よく考えてみると、わらわも又、いっかその姑前は、いぜんとして姫の前に立ちはだかっている。 の御前と、おなじ女になりそうでおそろしい」 ( 容易に憎しみを納める人ではない : わかみだい そう分っているだけに、姫は不満でもあり恐ろしくもあ 「いいえ、そのようなこと : : : 若御台さまはおやさしいお つ】 0 生れつきでござりまする」 「いいえ、そうではない。女子はのう、たよる殿御と心の 「岐阜へもどって出家したい。小侍従が、呼んでいるよう うちの通わぬときは、誰も彼もが鬼になる。わらわは、姑な気がするのじゃ」 と、その時、次の間で人の気配がしたので、二人はハッ の御前になるよりも、彌四郎の妻女になりたいのじゃ」 と口をつぐんだ。と、 「まあ : : : そのようなお戯れを」 「申上げます」 「戯れではない。こんど殿がお戻りなされても、以前のま まであられたら、わらわは岐阜へ戻ろうと思うている。っ野太い男の声があたりの空気を破る強さでひびいて来 れのう扱われて、姑の御前と同じ、女子にならぬうちにのた。 事実、徳姫は、しんけんにそのことを考えだしているの であった。 徳姫は一瞬躰をかたくした。 ( 話してはならぬことを話していた : それはただ信康の心があやめに傾いているからというば それは自責でなくて、この城にいることがだんだん敵の かりではなかった。自分と信康の間へ、あやめを人れてさ 中にいる怖しさに変って来ているからであった。 えぎった築山御前の心がわかるからであった。 徳姫の位置から視ていると、こんどの大賀彌四郎の事件 喜乃は姫に眼くばせして出ていった。 は、すべて築山御前の家康への憎しみから生れていた。そ「奥平美作、このたび又、大殿のご使者として岐阜に赴き れなのに、罰されたのは彌四郎だけであった。 まする。それでご挨拶に」 いや、彌四郎が罰されるのは当然として、何も知らない声はそのまま筒抜けたったが、姫はすぐに入れとは言わ みまさか 2
↑しいからでござりまする」 「分ったのだな。やはりお方は : : : 」 「ほほう、わしが信康を斬ると、こなたは口惜しいのか」 と言いかけるのをおしとどめて、 「三郎どののことではござりませぬ。そのために姫の生涯 「この姫の手紙、仰せの通りお渡し申しまするほどに にも、築山御前の生命にもかならず累は及びましよう。同 さ、この濃もこの場でお手討なされて下さりませ」 じ女子の身として、濃はたまらなく口惜しゅうござります 濃御前はまだ信長に屈服したのではなかった。新城の森る」 信長はこんどは小首をかしげてじっと妻を見つめていっ から谷へほととぎすが青葉をかすめて二声わたった。 た。濃御前が、このように強い態度で良人に抵抗して来た 五 のは、二人が結ばれてこの方ないことだった。 「女子は男のおもちやではござりませぬ ! たとえそれ 「なに、卞ュにせよと : 信長は思いがけない妻の言葉に、しばらく息をのむ表情が、どのように天下のお為であろうと、このことに同意し ては女子としての濃の心が済みませぬ」 になっていたが、やがてまたからかうように笑い出した。 「そのようなものかのう」 「お方もまた、あの明智のハゲの従妹だわい。こなた達の 「築山御前は哀れな乱世のいけにえ、一の姫にしても憎ん 血統の中には、たわけた意見癖があると見える。ハゲ奴、 わしが叡山を焼払う時も、長島攻めの折も、小ざかしく意で三郎どのの告口をして来たのではござりませぬ。ほんの 見しくさった。坊主を殺すと七生祟るというような愚にも一時の迷い、愛おしさからの迷い : : : 濃にはそれが女子の さがひとしお 性と一入かなしく思われまする。ところが殿はそれを楯に つかぬ意見をな。お方もやはりその類いじゃ」 して、姫から良人を奪い、築山殿を失うように謀られる。 いいえ違いまする」 濃御前はゾーツ 濃も同じ愚痴な女子、さ、お手討なされて下さりませ」 とするほど冷やかにさえぎった。 「濃はご意見は致しませぬ。ますこの濃からお手討にと願御前の面からは、いっか血の気がひいている。五月の風 っているのでござりまする」 が青葉を洗って流れ込んだが、居間の空気は凍てつきそう なきびしさだった。 「ふーん。なぜ手討になりたいのだ」 おなご 120
「敵はいま、ようやく飯を炊きだしたところだ。われ等の 十三 飯はもう出来ている。さて、戻って、腹いつばい湯づけで 姫は、良人の明るさに誘い込まれて、自分も笑いながらも詰めるかのう」 築山にのばっていったが、良人の指さす城の四周を見てゆ 姫はホッと吐息をもらしながら良人のあとから山をおり くうちに、全身は硬ばり、膝頭はふるえだした。 一万五千という数は、しばしば家人の口から聞いていた 顔ばかりではない。歩き方も、落着きぶりも、清々しい が、これほど夥しいものとは思っていなかった。 朝の光の中で少しもふだんと変っていなかった。 ふと - 一ろ 「あれが、医王山、あれが大通寺山、あれが姥ケ懐、あれ九八郎が、大あぐらで湯づけを食べだすと、重臣たちか が鳶の巣山、あれが中山、あれが久間山 : : : 」 ら、どの方向に陣取ったは誰らしいと次々に知らせて来 と、指さされる限り、旗と人馬でうずまっている。 敵がやって来たと知った瞬間、すでにこの城は消えてし そのたびに九八郎は、 まいそうな小ささに感じられた。 「そ、フか」 もしこの時、そっとふり返った九八郎の横顔に、ふだん と、飯を噛みながら答えるだけで、何の指図もしなかっ と違った緊張が少しでも見られたら、或いは姫は、大地に 膝頭をついてしまっていたかも知れない。 「急いで、野牛門にお出下さるようにと、松平三郎次郎さ 「どうだ。見事なものであろうが」 まお待ちかねでござりまするが」 そ、つい、つと、 みようが 「わしも武将に生れた冥加には、一度でよい。この位の人「特に急ぐには当らぬ。分りきっている者が、わかりきっ 数が指揮してみたいの」 た時にやって来ただけじゃ」 「早く、ご武装なさりましては」 それから又、ひとしきり、焼味噌のうまさをほめたり、 「なあに、急ぐことはない」 そばで見ている姫に話しかけたりして、そろそろと武装に っ一 ) 0 と、九八郎はあざ笑った。 2
はじめのうちはこの九八郎の笑いに合す者は稀であっ 女もひとつであった。 甲州勢をうち破って徳川方の大きな開運のくさびとなるた。 しかし、日夜の訓練がやがて彼等を不敵な明るさにして か、それとも一同城を枕に白骨をさらしてゆくか : いって、今では九八郎が笑うとみんな大口あけて、咽喉ば 季節は五月に入った。 とけを陽にさらすよ、フになった。 山ほととぎすが城の野牛門から龍頭山の青葉の方へ鋭い 五月七日の朝であった。 声でよく渡った。 亀姫が、昨夜の睦まじい語らいを、そのまま夢に持ち込 城廓の修理、施設はやりつくして、夜があけるとから、 んで、甘く薄眼をあけてみると、かたわらにもう九八郎の 城のあちこちでは、 姿はなかった。 「やっー・」「と、つー・」 びつくりして姫は起き出した。 と、はげしい斬込みや、夜襲の稽古の声がつづいた。 どこから敵がやってきても、必す撃退してみせる : : : と良人の起きていったのを知らずに眠っていた自分が、こ はすか いうことは、敵に少しの油断があっても直ちに撃って出の緊迫した空気の中ではひどく済まないものにも、羞しい ことにも感じられた。 て、その虚を突きうる攻撃力を持っているということだっ 九八郎は親ゆずりで、朝は必らず諸肌ぬぎになって太刀 「よいか、ひっそりと城にこもっているだけでは、遠巻きを振った。はじめは三百回ずつだったのが、今では五百回 になっている にして敵は兵力を吉田へさくぞ。それをさせてはならぬの 退くも進むも出来ぬように釘付けにしておいて、折を場所は寝所のすぐ裏の築山のかげであった。 みては荒胆ひしぐがわれ等の役目ぞ。忘るなよ」 「殿、殿はもう太刀を振り終られてか」 巻わらを斬る者、土俵を突く者、カ石をさす者、弓を射庭下駄をひっかけて、姫が築山のそばに出て行くと、 ヾっ ) 0 る者と見てまわって、そのあとでは必らず九八郎は笑いと 「おう」と、築山の上から九八郎の声が呼んオ 「来たぞ来たぞ、ここへのばって見るがよい。あっちもこ 「ワッハッハ・ っちも旗の波、いやはや見事なものそ」 : これで勝ったの、勝ったわ勝ったわ」 一 0 2
さまお手許の密書は、おぐしあげの琴女と奥に居られる喜 「なんでまた大殿は、左衛門尉さまなどを遣わされたの 力」 乃の姉妹が、お手討なされた小侍従を通して、内容こまか 「重政 ! 」 く岐阜へ書き送ったと見るべき節がござりまする」 こんどは信康が沈黙した。 「そなた、何か心当りがありそうじゃの」 今まで自分一人のことと考えていたのが、母の身にも及 「よ、ツ 0 全くなくはござりませぬ」 びそうになって来たのだ。 「と申すと、この信康に何か疑いのかかることがあると一一一口 「すると、母の内通にこの信康も加担したとの疑いであろ 、つのか」 、フかの」 「′」ざりまする」 「いいえ、そうとは思われませぬ」 と、重政は、小さく答えてうつむいた。 野中重政はゆっくりと首を振った。 「ほほう、それは訊きたい、何であろうの」 「これから内通の怖れがある : : : と、思われた故でござり 「築山御前さま、甲州へ内通の儀にござりまする」 「それは : : : それは申すな。過ぎ去ったこと、遠いことで「なに、これから内通のおそれがあると。たわけたこと 「が、その遠いことが再び生きたのではござりますまい 「と、仰せられても、御前はいまだに織田を仇敵と、若御 か。長篠以来、しばらくひっそくしていた勝頼が、また活台さまの前で呼ばれまする。それに密書には、織田、徳川 滾に動き出しました」 の両家を滅した上は勝頼より殿に、織田家の所領のうち一 「、つー↓も」 国を贈ると書いてござったように伺いました。それゆえ同 「殿 ! あの頃の密書はみな、右府さまの手許に届いて居腹と言い立てる所存ではござりますまいか」 り・まする」 信康はまた黙った。 「まさか、そのよ、フなことが : しまだに信康の前でも織田家を罵る 事実、母の御前は、、 「ないと思召したいは人情でござりましようが、築山御前のをやめなかった。 145
その信康も、近ごろでは信康なりにあやめの死を解釈す るようになっていた。 あやめは、何よりも信康と徳姫の不仲をおそれていたの だと思った。自分のために夫婦の間が不和になっては、織 田家へも徳川家へも済まぬ事と、小心な善良さで思い悩ん でいた。そこへ築山御前が菊乃という娘を連れて来たの 信康はその朝も未明に床をけって馬場へ出て来ていた。 父の家康も、祖父の広忠も毎朝駒をかったこの岡崎城ので、信康の愛情の他へ移らぬ間に死を選んだのだ : 馬場には、桜の古木が欝然とならび、重なりあった青葉が解していった。 それ以来、信康は徳姫との間の和合を考えるようになっ 朝靄の中で山脈のように見えた。 そのまわりを片肌ぬいだ信康は疾風のように駆け去り駟ていた。 心のどこかで、それが、あやめの冥福を祈ることと、そ け来って、時々平首にうく馬の汗を見やっていた。 あやめに思いがけない死にようをされてから、信康の心んな気持もうごいていたのかも知れない。 は一筋に武芸の鍛錬にかたむいた。 そう言えば菊乃はあのまま徳姫のもとで十九歳になって いる。 いや、その途中で、一時は流行の踊りにおばれていこう としたこともあったが、それはどうやら信康にわれを忘れ 母の築山御前にはそれが気に人らず、 させるには至らなかった。 三郎どのは、、 しつになっても世継をあげぬ北の方 いつもどこかであやめが淋しげに自分を見つめている。 に、何の遠慮をなさるのじゃ」 (- ーー・、あやめ、うぬはなぜ死んだのだ ) 時々やって来て、徳姫に聞えよがしに言って帰ったが、 心の中で呼びかけると、あやめは黙ってかすかに首をふ信康はもう笑って済ました。 るだけだった。 当の菊乃が、すっかり徳姫の召使いになりきって満足し ( ーーわからぬことをする奴だ。おれの心をふみにじっているせいもあった。 鞭の足音 138
あやめだけではなく、いっかみんなが面を伏せてすくん 「このようにご気分のこじれた日ゆえ獲物もない。それにでいた。 「あやめ ! 」 この寒さ : : ご不興のまま帰途につかれると、ばったり旅 の僧に出会うた」 「それもこれも、みなこなたたちが、和子を産まぬことか あやめは何を言い出されるのかと、一語々々に固くうな ら来ている。仏弟子にそのようなむごい事をなさる若殿で ずき返している。 「僧に会う日は獲物はないと、昔からの言い伝え、そこではないのに、心の不満に悪鬼が憑いた。みなこなたたちの 罪そこれは : 若殿はカーツとなされた。うぬ、何か殺生禁断のまじない あやめは顔いつばいに恐怖をうかべ、茫然として築山御 : よいか、これは戯れじゃ。するとそ でも致し居ったか : 前を見上げていた。 の僧が、小賢しくも答えたそうな。私はみ仏の弟子ゆえ、 ( 何の罪もない僧侶にそのようなむごいことをして : : : ) 日常坐臥、つねにそれを念じて居りますると」 だがそれが、自分の罪と言われては、何のことやらとん と、解らないあやめだった。 「若殿の怒りはこれで押えきれないものになった。いきな 「なぜ黙っているのじゃ。のう、そうであろうが」 り馬からとびおりると、その僧の衣のえりに繩を結いっ 御前は眼をひきつらせてたたみかけた。 け、馬に一鞭あてられた : あやめは思わず顔を蔽った。 四 どこかで曳き殺される人の悲鳴が聞えたような気がした あやめに分っているのは、築山御前が何かひどく怒って のだ。 「僧は助けを呼んだそうな。が、 怒り狂った若殿は、仏弟いるということだった。 ( このあやめが何故わるいのか : : そうわめか 子ならば法力でうぬの生命をまもるがよい : 和子を産まぬとゆうて、べつに信康に叱られたこともな れて、いっかな馬をとめさせられす、つ、こ、、 し冫むごたらし ければ嘆かれたこともなかった。 、死にギ、ま从・ 8 9