「なに、着物をかえていると。律義な男だ」 信長はかたびらの胸をはだけて、長谷川竹にひかせた高 それから眼の前の配備図をゆっくり巻いて、カ丸の手で 松城の配備図の上へ身をのり出しては時々みずから朱を入 誓書棚へそれをおかせたときに、 れていた。 愛「青山与総、たたいま立戻ってござりまする」 そばには森蘭丸、カ丸、坊丸の三兄弟の他に、小川 「ご苦労、して、光秀は坂本城へ引きあげたか」 平、高橋虎松、金森義人などの小姓たちが居流れ、そのう しろに、わざわざ御前へ呼び出された、津田源十郎、賀藤「はい、本早朝、一族を引きつれ、出発致してござります 兵庫頭、野々木又右衛門、山岡対馬守などの壮年組も、時る」 「そうか。ではハゲめ、二カ国の加増で、ようやく機嫌が 時額の汗をふきながら控えている。 治ったのだな : : : 神経のこまかすぎるも扱いにくいもの 「よいか充分に留守は心してな」 じゃ・ 信長は何かべつなことを考えているといった独言に似た 言いかけて、信長は、急に鼻翼をふくらませ、 つぶやきで、 「本丸へは、津田、賀藤、野々木、遠山、世木、市橋、櫛「青山、その方が入って来てから、妙な匂いがするよう 田が詰めて留守するよう、また二の丸へは蒲生、木村、雲じゃな」 と、自分のかたびらを嗅いだり、顔を横にふったりし 林寺、鳴海、祖父江、佐久間与六郎、それに福田、千福、 丸毛、松本、前波、山岡と、充分心して備えを怠るな」 「おかしな匂いじゃ、魚の腐ったような」 「ははツ」と、みんなは声をそろえて答えたが、信長は、 「恐れながら : : : 」と、与総は自分も眉根を寄せて、 それも半ば耳に入らぬ様子で、 「移り香があまりにひどいゆえ、衣服をかえて参りました 「青山与総はまだ戻らぬか」 と蘭丸に言った。蘭丸はすぐに立上って居間を出てゆが、まだ肌着に残っていたものと見えまする」 「何の移り香だ。これは」 き、やがて急ぎ足にもどって来た。 「はい。日向守家来ども、残肴をあちらこちらに捨てて参 ' 「ただいま立戻られ、汗の通したお召物をかえて居られま りましたので、堀どのと計ってそれを取片づけ、とり取え 6 」 0 300
そのたびに中門から中庭へ忍び込んだ黒い点の一つが虚 蘭丸が信長の躰を押しもどそうとした時に、 「うぬつ、ハゲめが 空をつかんで消えてゆく。どこで誰が射ている矢かわから なだ 信長は最初の矢をきりきりつと引きしばって、闇の中へないので、いったんは雪崩れ込むかに見えた敵兵の動きが これでとまった。 ひょ、つと放った 0 と、同時にメリメリと中門が押しゃぶられ、敵の影が闇「上様、なにとぞ蔀の内へ」 の庭へ点々と浮きあがった。 「 4 、フ」 信長はその時はじめて、例の割れるような声で下知し ) 0 これとう 「惟任光秀が謀叛、是非もなし。かくなる上は、眼にもの 「方々曲者でござる ! 」 「謀叛でござるそ」 見せて腹切ろうそ ! 」 「よよッ 急に寺内は蜂の巣をこわしたような騒ぎに変った。 と近くで大ぜいの声がしたが、信長はもはやそれを聞い 寺内の人数は夜警や火の番の足軽小者までをふくめてせ いぜい三百の小人数だったが、さすがに信長が選りすぐってはいなかった。 て連れている小姓たちだけあって、飛び起きるとその動作蘭丸の言うままに、堂宇の蔀のうちへ引きあげて、そこ は敏捷をきわめていた。 から近づく者を射伏せる姿勢でかたわらをかえりみた。 さっさと襖を開けて廻るもの、敵の矢にそなえて畳をあ すでに蘭丸はみんなを指揮するために走り去って、うし げる者、足軽たちを指揮して庭へ走る者、信長の周囲へ人ろに控えているのはまだ十四歳の蘭丸の末弟坊丸と、ほか 垣を作るもの : 四五人だった。 誰もこのような危急を予想し得たものはなかった筈なの 信長はその中の一人にふと視線をとめると、 に、一瞬にしてそれは最善と思える防備の姿勢をとってい 「阿濃かツ」と、鋭く言った。 し」 信長は息もっかずに四本つづけて矢を射はなった。 「こなたは女どもを引きつれて今の間に早く落ちよ」 る。 321
を敢てした陪臣にすぎないのた。 た作兵衛の躰が、ふしぎな身軽さでパッと宙にういたと思 光秀は、そうした逆臣のままで真昼の日の下に立っこと うと庭へ飛んでいた。 をひどく怖れ、矢継早に使いを派して来るのであった。 そこで左馬助光春は、山本三右衛門、安田作兵衛、四王 と、双方でともに叫んだ。一方は突き損じた蘭丸の声で 天但馬守の三人に、 あったし、一方は庭へ飛びおりた瞬間に、切り石で畳んだ 「ーーー夜明け前に是非とも首級を」 雨垂落ちの溝へ足を踏みこんで、仰向けに倒れた作兵衛の と厳命し、作兵衛は、ついに頑強な抵抗線を破ってここ狼狽の声であった。 まで進み、はっきりとその眼で信長の姿を見とめたのだ。 作兵衛の躰が、あわてて起き上ろうとしたとき、欄干に 蘭丸は、倒れたまま躰を作兵衛の前にころがし、もう一片足かけた蘭丸の槍がくり出された。 度夢中で相手の脛をはらった。 決して素早いくり出し方ではなかったが、一方はまだ起 作兵衛はあせりきった呻きをあげて一歩すさった。そのき上ろうとする途中だったので、草ずりのすきから左股を 瞬間に、パッと身を起すと、蘭丸はまた猛然として作兵衛つらぬき、そのまま穂尖はカチッと石に突き立った。 に尢大きかかった と、その瞬間に、槍を捨てた作兵衛の右手は腰の大刀に かかっていた。 もはや、これほどの体力はあるまいと思いこんでいた作 「ウーム」と蘭丸は低くうめいた。 兵衛は不意をつかれて、右に左に穂尖を避けながらたじた じとうしろへすさった。 作兵衛の豪刀が槍の柄と欄干のぬきと蘭丸の右足とを膝 蘭丸はそれに勢いを得て、いよいよはげしく突きかかのあたりから一度に切りはらっていたのである。 る。事態は逆になった。さっきまで余裕をもって攻勢をと 「む : : : む : : : 無念 : っていた作兵衛が見る間に欄干ぎわまで蘭丸に押しつめら 蘭丸の槍は、ゆらりと大きくひと揺れすると、槍の柄を れた。 つかんだまま、どっと縁に倒れてゆき、それを合図のよう にして、奥の障子がカーツと異様な明るさに変っていっ と、蘭丸の必死の気合いが口を衝き、同時に後退して来 「こッ 334
さであろうか。十八歳の全身は信長の持つものすべてを吸作兵衛は舌打ちして、蘭丸に向き直った・ 「上様 ! 」 い取って、恐怖することのない超人に育っている。 と、蘭丸は奥へむけてまた叫んだ。 「おお、蘭丸か、心得たツ」 「敵は一歩も近づけませぬ。心おきなく」 作兵衛もまたびたりと槍を構えて対していった。 「と、つ ! 」 蘭丸から先にはげしく ~ 大きかかった 作兵衛は、いら立って槍をくり出した。 作兵衛はそれを軽く左右に受け流し、それからカランと 槍がもつれた。 蘭丸はまた強か尻餅ついて槍の柄で作兵衛の脛をはらっ そしてその槍が離れた時に、手傷を負っている蘭丸はド ッと縁へ尻餅ついた。 その瞬間だった。それまでじっと濃御前を見つめていた 信長が、すっと視線をそらすとそのまま奥へ向けて歩きだ 作兵衛はあせっていた・ したのは : 蘭丸も討ちたかったが信長に一槍つけて、その首級を早 くあげたかった。 奥へ通ずる小障子は中の灯りを映して白く光っている。 三条の光秀の本陣からは本能寺の表に陣取っている明智 「右大将かえさせ給え ! 」 左馬助のもとへ、何度か伝令がやって来ていた。信長の首 作兵衛は信長に追いすがった。 しかし信長は振返りもしなければ歩みもとめなかった。級はまだかというあせり切った督促だった。 やくと もし戦いが昼に及んだら勝敗は逆睹しがたいものに さっと明りが畳にこばれ、それから障子はまたしまって 、つこ 0 なろう。京童が騒ぎだす頃までに、信長の首は是非とも三 条河原にさらしておかなければならない。さすれば無力な その障子のそばへ走り寄って、 「たツ ! 」と作兵衛は外から一突きしたが、その時には髪現実主義の公卿どもは、有無なく光秀に従って宮中へ取り なし、彼の頭上に新らしく武将の頭領としての官位を奏請 をふり乱した蘭丸が、もうまた作兵衛に襲いかかってい して呉れるに違いない。それが無ければ彼は一個の主殺し したた 3
「蘭丸 ! 光秀を : ・ と、信長は大喝した。 ハゲを叩き出せ ! 」 : なんとせられまする」 「その方、この信長の眼を、そのように他愛ないものと思 うているのか。こんどの家康接待は、どこまでも戦賞のお「これほど説いても自身の誤りに気づかず、顔いろ変えて 礼に来る者をもてなすのじゃ。たわけめ、駿河一国を加増詰め寄ろうとする。この信長をあなどる心があればこそ、 されて、喜んで礼に来る者に、天子のご下向と同じような もう許せぬ ! 蘭丸叩けツ」 「はツ」と言って一瞬蘭丸はあたりを見た。 扱いをしてよいと思うか。それで天下の分が正せると思う しかし、光秀の、ねっとりとからみつくような粘りに不 ているのかツ。退れツ。退って休め。うぬのハゲは狂うて 居るわ」 快をおばえているので、信孝も五郎左もとめようとしなか さすがにこんどは光秀の顔いろが変りだした。 他の近習や小姓などは、むろんロの出せるところではな あまりに二人の対照が妙なので誰かフッと笑ったのも、 光秀の神経に強くひびいた。 それにしても落雷のようなはげしさで次々と毒舌をあび「蘭丸、なぜ叩かぬ」 「はツ、上意でござるご免 ! 」 せてゆく信長と、何度言い返されても「恐れながら : : : 」 小姓でありながら濃州岩村で五万石を貰っている蘭丸の と自説をまげずに抗ってゆく光秀の性格とは、たしかにど ちらも異常であった。 鉄の要を打った扇子が、パッと光秀の烏帽子をとばした。 「恐れながら : ・・ : 」 と、また光秀は言った。 「このまま坂本の城へ戻って休息せよとの仰せながら、家むろん蘭丸は叩いたのではなかった。叩くと見せて烏帽 中あげて全力を尽しました今度の役目、すでに客人のご到子を飛ばし、そのままその場に平伏する思慮が蘭丸にはあ っこ 0 着も近きことにござりますれば : そこまで重々しく言った時に、ついに信長の癇癪は爆発烏帽子を飛ばされると、事毎にハゲハゲと呼ばれている 光秀の、ぬけ上って、すでに毛根をなくした頭がまる出し つ ) 0 かなめ 270
と、言って彼は左足で屍体を蹴ろうとして、傷の痛みに それなのに、まだ眼だけが生きているのはなぜであろう 顔をしかめてそれをやめた。 「うぬは、ついに、 この作兵衛に右大将の首を取らせなか或いは再び生れて来ることのない現世を、どこまでも見 きわめようとする執着がそうさせたのかも知れない。 った。天晴れな : : : 憎い奴たうぬは」 そう言うと、作兵衛は血刀をくわえて蘭丸のル骸を柱の手にも足にも感覚はなかった。 そばまでひきずり、そこへ無理に立てかけた。 御前は無理に首を右へ起して倒していった。 信長の首の取れなかった忌々しさを、蘭丸の首でいやす「殿の焼けてゆくも、人間の哀れな踊りもみんな見た。こ つもりなのであろう。 の上首のない蘭丸の屍体など見とうはない」 聴覚のなくなった御前の眼にうつる、この無言の世界の御前は首をめぐらしてはじめて、あたりが水いろの夜明 動作は、もろもろの音響の中で行われる殺戮とは比較にな けを迎えているのに気がついた。 らぬむごさであり無情さであった。 すでに頭上の星は消えていた。透明な磁器の表面に似た 6 3 ( そうだ。蘭丸は十八歳で、哀しい人間の踊りを踊り終っ 空を、南西の風につれて時々まっ黒な煙がうずまきながら ていったのだ : 流れてゆくのがよく見えた。御前は、ふっと豪華な安土城 御前は蘭丸の唇をかんでこときれている前髪立の首の討の七層の天守を想い出していた。 たれるのを見るにしのびず、そっと首を左へ向け変えよう いまこの本能寺の伽藍を焼いた業火が、そのまま安土に として、すでに自分にその力もなくなりかけているのに気流れていって、あの華麗な天守閣をひと砥めにしてしまい そうな気がしきりにする。 ついた 人も、そして、人々の造ったさまざまのものも、いっか はすべて「無」にしてしまう。誰がするのか分らなかった 所詮それらの一切はふしぎな傀儡師の糸の先にあった やや左むきに、傷ついた躰を地面に伏せて倒れていたのが、 で、御前の血は傷口からすっかり大地へ吸いとられてしまのだ : ったらしい もう蘭丸はあの利発で端麗な首を作兵衛に渡してしまっ
「お父上、右府さまのもとより上使、青山与総どのが見え そう言い放って、さっさと次の間へ出て行った。 られてござりまする」 「もはや来られた : と、明るい声で告げていった。 と、光秀はもう一度沈痛に吐息してみんなの顔を見てい つ」 0 「電光石火が、上さまご作戦、よいかの、われ等の心はす 光秀の長男光慶は、この時まだ十四歳だった。 でに決っている。どのようなご難題を蒙ろうと騒いでは相 どこかに繊弱さを見せてはいるが、しかし明るい感じの成らぬぞ」 かたぎめ 美少年で、誰からも隔意なく敬愛されていた。 それから殊更ゆっくりと立上り、肩衣の襟を正して客間 その無心な笑顔は、時が時だけに、一層一座の不安を深へむかった。 めた。 客間では信長のお使番、青山与総が、ニコニコと笑いな 「上使が : ・・ : もう参られたか」 がら扇を使っていた。 「はい、お父上は、今日、ご本丸の階段から落ちられまし 「日向守さま、今日はひどい目に会われましたそうで」 たそうな」 光秀は苦々しげな表情できちんと、下座へすわって挨拶 「御上使が、そのようなことを言われたのか」 「おけがはなかったかと案じたり笑ったりして居られまし 「殊のほかの暑気、御上使には、ご苦労に存じまする」 た。ご本丸の階段はよく磨かれてはあるが、お父上のお頭相手はそれを軽くうけて、 ほどなめらかではない筈なのにと言われて」 「これはこれは。どうも安土には時々思いがけぬ落雷がは 「たわけ者 ! 」と、光秀は渋い顔して叱りつけた。 やりましてなあ」と、また笑った。 「戯れごとは男のロにせぬものと、あれほど訓えてあるで「して、御上使のおもむきは」 「落雷お取り消しにござりまする」 光慶はそれでも尚笑顔をおさめず、 「えつ、落雷お取り消しとは ? 」 「上使が、そう仰せられましたゆえ、お取次ぎまで」 「惟任五郎左衛門さま、森蘭丸さまご両人のおとりなしに
る。 下腹部から脾腹へかけて、ジーンと熱鉄を突きこまれた なかったのだと思い、それから自分を突き伏せた作兵衛 ような熱さを覚え、もう一歩踏み込もうとした足がガグン が、なぜ信長に襲いかからないのかとふしぎに様った。 と折れて膝をついた。 眼ははっきりと見えているのに、耳はひどくたよりな それでも、まだ立とうとした。薙刀を振ろうとした。し い。どこか遠くで、 かし、それは、前面をさえぎるみどりの扉にさまたげられ「作兵衛とどまれツ」 て動かなかった。 森蘭丸の声らしかった。 御前の躰はその時すでに芝草の中へうつぶしてしまって御前は全身の力をこめて首を立て、その声の方を見やっ 6 」 0 いたのだ。 プーンと草の匂いが鼻に入り、首だけ立てて見ると中庭 一人の足軽が御前の右手の欄干に立っていま、肩から作 の芝原全体が青い水面に見えた。その水面に点々と倒れ伏兵衛を縁側へ送り込もうとしているところだった。 した敵味方の死体が睡蓮の花をうかべたように眼に映っ ( ああ、殿があぶない : 作兵衛は槍を杖にして、ひらりと縁へとびあがった。 「安田作兵衛、みしるし頂戴 ! 」 五 信長はそれでもまだ傲然と槍を突いたまま。 , 前はふしぎなものを見るように、もう一度地上へ咲し 白い綾衣の単衣に、同じく白いひとえ帯をしめた姿が、 た睡蓮の花を見やり、それから信長の方を仰いだ。 かっきりと浮出して、ふしぎな崇厳さで殺気の像を描き出 している。 ( もう引きあげていてくれますように・ しかし、信長は傲然ときざはしに片足おろして突っ立っ 微動もしない信長のかげから、いきなり一つの人影がと たままだった。 び出して作兵衛に槍をつけた。 しかも、その眼は爛々と血走って自分にそそがれてい 「作兵衛、森蘭丸を見知ってかうぬは」 躍り出したのは蘭丸らしい。 それにしても何という疲れを知らぬ蘭丸の闘志の凄まじ 御前はその眼と視線のあった時、自分の生涯は不幸では っ ) 0 332
「なに、馬鎧三百に金三千両」 何を思ったか信長はふいに険しい顔になり、それから大「蘭丸、持ちあげてみよ」 「よッ きくのどばとけまで見せて笑っていった。 蘭丸はその一領を取上げて、信長の顔を見ながら左右に ふった。乾いたうるしと革の音が石蔵の中で冴えたこだま をひびかせる。 「騎馬、武者の鎧三百、よし、見ようその鎧を」 「一里さは」 笑いを納めると、信長は急にまたきびしい表情に戻っ て、 「上乗にござりまする」 「蘭丸、そちも来い。光秀、案内」 「光秀 ! 」 「よッ 「よッ 「タ庵、こなたも後学のために見ておけ。東の客が、どの 「家康の心構えが分ったか」 ような鎧を呉れたか」 「と、仰せられますると」 そう言うと、信長はもう先に立ってずかずかと居間を出「柱に彫りものしたり、茶道の遊びに千金投じたりする、 ていた。 われ等への皮肉もあろう。が、、かにも東の護りはぬかり この七層の城では武器蔵は石で畳みあげられた一階にな ませぬと言いたげな土産じゃ。して、何かこの他に口上は っている。あたりはすでに仄暗かったので、蘭丸は信長のなかったか」 うしろに続きながら小姓たちに、 : 」と光秀は小首をかしげて、 「灯を」と、命じて駆けるように階段をおりていった。 「そう仰せられて思い出しました。このたびの旅が終りま 信長が積みあげた進物の前へ立っと光秀は手ずからそのしたら、徳川どのも、すぐ中国へ出陣したいゆえ、羽柴が陣 一つを取ってその場へおいた。 中へ戦況を見に重臣をつかわしてあるげにござりまする」 「よチ ) ツー . 四方から小姓がそれに灯をさしつけると、中におかれた 黒糸おどしのうるしが、ずしりとした重量感でにぶく光っ 信長の眼は燐光を放って光秀の額にすえられた。 290
うとしているのではなかろうかと考えていたのが、いっか 「大丈夫でござる」 そしてそのまま玄関へ出ていったが、玄関で走り寄ってらか、 ざんげん ( これは五郎左ばかりか蘭丸も、この光秀を讒言していく 来る家臣を見ると、 ( これは長秀も一役買っているのではあるまいか : と、動かぬ思いに変っていった。 今まで考えてもみなかった疑惑の雲がむらむらと湧きあ っ一 ) 0 、刀子 / 光秀がここまで準備したあとの接待役ならば、もはや何 長秀は今まで通り接待の仕事を続けよと言ったが、その人にも勤まる筈。丹羽五郎左衛門長秀はここで接待役に代 あとで、信長に、また君命をないがしろにしたと言わせるって、四国、中国への出征を免ぜられようと計っているの に違いなく、蘭丸は、いま光秀の所領に加えられている近 気ではあるまいか。もしそうだとすると、これは、切腹、 江の宇佐山城が欲しいため、秘かに機会を狙っていたに違 追放、いずれの口実にでもなりそうであった。 「長秀めも臭い : ・・ : 」 やっこ そう言えば、蘭丸がそれをしきりに信長に願い出ている 光秀は奴の揃える草履をはくと、自邸へ引籠る気にな という事を茶坊主の口から光秀は聞かされたことがあっ り、はじめて眉を逆立てた。 よしなり 九 宇佐山城は蘭丸の父、森三左衛門可成が曾って領し、そ 磨きぬかれた階段を落ちて、したたか腰を打っているのこで討死したゆかりの城であるからだった。 ( そうか、側近みんなが敵であったか : で馬には乗れなかった。 いつもの光秀ならば、こうした憤怒のあとの思考が、い 光秀はともすれば片足曳きそうなぶざまな姿をかくそう かに逸脱しやすいものかに気付かぬ筈はなかったのだが、 として必要以上に、そろそろと胸を張って山をくだった。 くだりながら、何度もまた両側の青葉はかすみ、道はば今日の憤怒はあまりに大きく口惜しすぎた。 光秀は山裾のわが屋敷にたどりつくと、すぐに使いをや やけた。 って、大宝院から重臣たちを呼び戻した。 はじめは五郎左も信長の旨を受けて、自分を罠にかけよ 2