「敵はいま、ようやく飯を炊きだしたところだ。われ等の 十三 飯はもう出来ている。さて、戻って、腹いつばい湯づけで 姫は、良人の明るさに誘い込まれて、自分も笑いながらも詰めるかのう」 築山にのばっていったが、良人の指さす城の四周を見てゆ 姫はホッと吐息をもらしながら良人のあとから山をおり くうちに、全身は硬ばり、膝頭はふるえだした。 一万五千という数は、しばしば家人の口から聞いていた 顔ばかりではない。歩き方も、落着きぶりも、清々しい が、これほど夥しいものとは思っていなかった。 朝の光の中で少しもふだんと変っていなかった。 ふと - 一ろ 「あれが、医王山、あれが大通寺山、あれが姥ケ懐、あれ九八郎が、大あぐらで湯づけを食べだすと、重臣たちか が鳶の巣山、あれが中山、あれが久間山 : : : 」 ら、どの方向に陣取ったは誰らしいと次々に知らせて来 と、指さされる限り、旗と人馬でうずまっている。 敵がやって来たと知った瞬間、すでにこの城は消えてし そのたびに九八郎は、 まいそうな小ささに感じられた。 「そ、フか」 もしこの時、そっとふり返った九八郎の横顔に、ふだん と、飯を噛みながら答えるだけで、何の指図もしなかっ と違った緊張が少しでも見られたら、或いは姫は、大地に 膝頭をついてしまっていたかも知れない。 「急いで、野牛門にお出下さるようにと、松平三郎次郎さ 「どうだ。見事なものであろうが」 まお待ちかねでござりまするが」 そ、つい、つと、 みようが 「わしも武将に生れた冥加には、一度でよい。この位の人「特に急ぐには当らぬ。分りきっている者が、わかりきっ 数が指揮してみたいの」 た時にやって来ただけじゃ」 「早く、ご武装なさりましては」 それから又、ひとしきり、焼味噌のうまさをほめたり、 「なあに、急ぐことはない」 そばで見ている姫に話しかけたりして、そろそろと武装に っ一 ) 0 と、九八郎はあざ笑った。 2
和合というはふしぎなものであった。信康が徳姫と睦も 近づくと親吉は馬からおりて声をかけた。 、フと心掛けるようになってみると、徳姫の方もまた、あっ 「おう、この鹿毛はまだまだ力が足りぬようだ。乱戦とな けないほど簡単にこだわりを捨てて来た。 っては、いもとない。尤もまだ若いせいもあろうが」 「ーーー殿、お許しなされて : : : わらわは殿を憎んだことが 信康は改めて振返りもせずに、汗に濡れた馬の前足をさ 」ざりました」 すりながら、 閨の中で、思い出したように詫びたりする總姫は、かっ 「これから川へ乗り入れて洗うてやろうかの」 「ルメ : ての日のあやめよりも素直な女に見えたりした。 ( ーーーおれは武将の子であった。わき目はふるまい。まだ 「なんだ。あとでひとつ、うわあごへ焼きごてを入れてみ あれこれ、父に劣りすぎている ) て呉れぬか。素姓はよい。名馬の素質はもっている」 「ル又 : そう思い、あれから酒も節して、夜は武辺噺に熱中し、 昼はきびしい鍛錬に没頭している信康だった。 親吉はもう一度呼びかけて、それから何かロごもった。 あえ 信康は、馬の喘ぎが荒くなりすぎたのを見て、ひらりと 「用があるのか親吉、駿河へ出陣か」 地上におり立った。 「いや、ちと、気にかかることを耳にしましたので」 信康の視線が自分の上へ来てとまると、親吉は思いきっ 「いくじのない奴め、まだいくらも駆けておらぬそ」 平首をたたいて馬に話しかけているところへ、これも騎 たようすで信康を見返した。 乗の平岩親吉がせかせかと近づいて来るのが見えた。 「気にかかる事とは ? 」 すっかり空は晴れて、頭上へぬぐったような青空がひろ「それで、それがしはこれから浜松へ往んで来ようと存じ がり、ぐっしよりと汗のとおった肌を、涼しい風が快くな まする。殿 : : : 殿は何か、酒井忠次どのに怨みを受くる覚 でて通った。 えはござりませぬか」 「左衛門尉に怨みを : : : そのような事があるものか。陣中 の口論は口論ではない。互いによかれと思うて意見を闘わ すは評定のつねのことじゃ」 「殿、ご精が出ますなあ」 139
の れ な 囲オ か ー 1 に頭喊完、抜 つ人 そ ん 。敵近 だ な ま カ成 の城 と と た数 ん十九 、駄 は侍門だ門 刀 ろ ら だ で も 尸ぃツ ぬ打 と 隊 そ の だ が ゆ は 鉄 が ま を 鉄 の し、 の じ ま声こ 城 四 っ 、ろ ん や砲 で 閉 石包 く や し ま だ門 八増 十 。上 っ ざ隊 は て は で実 に逸 ま を十 出 ろ を射 せ ん の た せ に ひ 数 が押人 て 達妨 が て な り で カ ; 百 、せ ひ し っ き そ っ よ し げ は が な にそ り が九 ろ な て し ら た り ら 十敵 。味 り も が な は て せ 文 ま い郎事 四方 し と っ か の 冫こ た 字閉 、た な数十 せ を ば せ は と は は り 、わ聞面 に し五 を が お る ら ぬ 開て倍 か間、 そ え倒 と か 六 く か 力、 いあ大 けぞ も れ で 上 る ぬ っ き そ そ オこ た ん な と ふ は て 頃 て く て と 城 を ギ 来 の次 ひ か で い / 、 へ た十 び ら あ し り 々 る 谷 が て ま く の に の 底 な で せ を た い 侵 ぬ 待 狽 上 る に た の が 陸オ わ 。か 入 す こ一 1. 大作 が ロ て き業そ 味 や の 石包 込 る さ っ で し、 -1 も 九こ ど者 大 鉄 を 九 せ焔半て ' 。九次 あ逃 ん 四 よ 目リ 通 八 れ の の砲 ば 丿 ( で わげ と し の は八 た の に つ / 、 か で綱姿 苦 。色白 た郎 寺 な郎 を か は い て る が け は鉄 い放返 は が の ら ど て な か い た と っ が 卓月 人た城 そ ら見 ら 失 せ竹砲 し よ っ 門敵 んれ 敗 が か も た東 て っ せ に て 曷 寄 ど 隊 だ が も き ろ た い の に し、 に 奪 手 の ばす生寄当 っ る は っ つ 。れ でた甲槍 叩 手 あ き向 っ た っ わ と の 蔵 る と 直 と そ 。州隊 た た れ の を 勢 ー主 き 理竹 を か る ろ よ あ 力、 風 た め 、そ ら 甲 敵 進 ら を配 を に お と っ の だ 北 、州 ろ に は か は の し 勢 ・隋 っ 出 にこ退 き な 上 よ じ っ て た 代 き性人 っ いけ し みし の 押 中 ん ち て り だ よ た で 寄 構 て も 燃 し あ に せ あ 引 つ人 た も オこ ん え え て 。た る 次隊 っ と あ の 々 は 四 松げ 原 わ 平 們・し、 ら ら 五 の ん ま 東城 ず の ず 挺 に妙 す が の る 奪外 れ 覚赤 鉄 37
徳姫は次の間に立ったまま冷たい声で信康に言った。あた。さ、飲み直そうぞ。的をせい。膝を貸せえ : やめはびつくりして敷居ぎわへ立っていって手を仕えた カ徳姫はあやめの方など見ようともしなかった。 十三 「何事でござりまする」 そりあとの蒼い眉はびくびく震え瞳孔は大きく見開いて菊乃が徳姫のもとへ連れ去られてから、信康はあんがい おとなしかった。 いる。二度目の声は常人の声ではなかった。 まだ血の納まらぬ産婦の激昻には、信康をゾーツとさせ そろそろ酒量を超えている。また夜半まで荒みつづける るほどあやしい殺気がっきまとっていた。 のではあるまいかと思っていると、四ツにはもう臥床に入 信康はこれも徳姫を見なかった。 った。入ってもすぐには眠らず、 「この小娘、憎い奴ゆえ、手討にしようと思うたが、姫の 「ーーーわが家の不幸の原因は父と母との不仲にある」 みつ 誕生もあり、正月でもあるゆえ、お方に預ける。血を見た そんなことを一一一一口、つかと思、つと、じっと天井を瞶めたまま、 くない。連れていんでくれ」 「ー・ー母はもう狂うて居られる。何か破滅が来ねばよいが」 徳姫は凄じい眼をして菊乃を見やり、それから又信康へ 不安そうにつぶやいたりした。 視線を向けた。 「あやめ、おれの眠らぬうちに眠っては成らぬぞ」 全身はいぜんとしてはげしく震えつづけている。やがて 姫は叱るような声で言った。 ( 殿もまた淋しい人なのだろうか 「喜乃、その娘を連れて来やれ」 そう思ってそっと袖をかたしくあやめだったが、そのあ それきりだった。パッと裾をさばくと、まっすぐ顔を立やめに信康は思いがけないことを言った。 てたまま風のように去っていた。 「そなたの躰のぬくみ : : : 早い、脈打ち、そなたは生きて 喜乃は菊乃を手招いて、丁寧に一礼して連れていった。 いる」 不意に信康が、泣くような笑うような声でわめきたてた。 「え ? 何と仰せられました」 : あやめ、あやめ、これでようやくさつばりし 「こなたも、おれも、人間は生きていると言ったのだ。今 111
「殿は、万一織田勢の来ぬ場合は、徳川勢たけで長篠へ赴「これで勝ったわ。それつまめつまめ」 く決心でござりまするな」 「たまらぬ。あの腰のふりようはどうだ」 「決ったことを訊くものではない。高天神城の時は小笠原家康はみんなの笑顔と忠次の奇態な手ぶりを半々に見や め、きっと敵に降ると見てとったゆえ動かなかったのだ。 りながら、自分で自分の心をのそいている気持であった。 奥平九八郎ほどの勇士を見捨ててなるものか」 ( みんなの笑い声の中にも、忠次の踊りの中にも、つねとは 「では、長篠へ赴いて、確信ありと言わせられまするか」違うものがある : : : ) 「知れたことだ。兵の強弱は大将次第。信玄の兵が強かっ 人間は、いにしこりのある時は、笑っても踊ってもそれが たとて、勝頼の兵も強いと思うな。まず踊れ、忠次」 ひどい誇張になってゆくものだった。 家康がそう言って盃に口をつけると、忠次はすっくと立 ( これは、いしなければならぬことじゃ ) つ」 0 それでもみんなの滅人りがちな気分は幾分薄らいだよう 「踊りまする ! これで腑におちたゆえ、思うさま踊りま する」 一座がわっと湧き立ったところで、家康はそっと座をは ずした。 窓の障子に十四日の月が木斛の枝ぶりをそのままあざや 酒井忠次の蝦すくいの狂言は、極めつきの珍芸だった。 かに映している。それに気がついたからであった。 向いはちまきをして目ギ、るを持ち、腰をふりながら跳ね蝦「よい月らしい。眺めてこよ、つか」 を追いかけたり、魚籠につまみ込んだりの仕種であった武装のまま庭先へ出ていって、革足袋の先に下駄を突っ が、吉田の城主という地位と、いかにも尊大に見えるそのか冫た 容貌とが、ふしぎな可笑しみを誘って来る。 外へ出てみると、遠く近く鳴いている蛙の声が耳に生き す - 一うがわ 今日はその特徴が殊更目立って、みんなはワーツと腹を た。菅生川の流れの音もかすかにしている。 よじって笑いだした。 そっと植込みの間をぬけて松の下へ歩いていった。うし 「こりやおかしい , どうだあの生まじめなお顔は」 ろに従っていた井伊万千代は家康の思考をさまたげまいと 、、こっこ 0 もっ - 一く
「なに、馬鎧三百に金三千両」 何を思ったか信長はふいに険しい顔になり、それから大「蘭丸、持ちあげてみよ」 「よッ きくのどばとけまで見せて笑っていった。 蘭丸はその一領を取上げて、信長の顔を見ながら左右に ふった。乾いたうるしと革の音が石蔵の中で冴えたこだま をひびかせる。 「騎馬、武者の鎧三百、よし、見ようその鎧を」 「一里さは」 笑いを納めると、信長は急にまたきびしい表情に戻っ て、 「上乗にござりまする」 「蘭丸、そちも来い。光秀、案内」 「光秀 ! 」 「よッ 「よッ 「タ庵、こなたも後学のために見ておけ。東の客が、どの 「家康の心構えが分ったか」 ような鎧を呉れたか」 「と、仰せられますると」 そう言うと、信長はもう先に立ってずかずかと居間を出「柱に彫りものしたり、茶道の遊びに千金投じたりする、 ていた。 われ等への皮肉もあろう。が、、かにも東の護りはぬかり この七層の城では武器蔵は石で畳みあげられた一階にな ませぬと言いたげな土産じゃ。して、何かこの他に口上は っている。あたりはすでに仄暗かったので、蘭丸は信長のなかったか」 うしろに続きながら小姓たちに、 : 」と光秀は小首をかしげて、 「灯を」と、命じて駆けるように階段をおりていった。 「そう仰せられて思い出しました。このたびの旅が終りま 信長が積みあげた進物の前へ立っと光秀は手ずからそのしたら、徳川どのも、すぐ中国へ出陣したいゆえ、羽柴が陣 一つを取ってその場へおいた。 中へ戦況を見に重臣をつかわしてあるげにござりまする」 「よチ ) ツー . 四方から小姓がそれに灯をさしつけると、中におかれた 黒糸おどしのうるしが、ずしりとした重量感でにぶく光っ 信長の眼は燐光を放って光秀の額にすえられた。 290
「露払い仕りまする」 り、手には数珠と経巻が持たれていた。 二枚の短冊には、 いきなり昌次のうしろで若い女の声がした。 帰る雁たのむぞかくの言の葉を 御前の侍女のお藤であった。 もちて相模のこ府におとせよ お藤は懐剣を胸に突き立ててから、全身のカで、これも 歌を口にした。 ねにたててさそ惜しまなむ散る花の 色をつらぬる枝の鶯 「 : : : 咲く時は : ・・ : 数にも入らぬ花なれど・ : ・ : 散るにはも れぬ春の暮かな」 と、書いてあった。 「お藤 : : : 」 勝頼に言われるまでもなく御前の心は時々故郷へとんで いたのだ。しかし、そこへ帰りたいとは田 5 っていなかっ 一度経巻をおいて懐剣を解きだしていた御前は、ふたた び経を取ってお藤の方へさらりと開いた。 この世で知った一途な良人への思慕を、誰にも、どのよ 「こなたまで : ・・ : 伴してくりやるか」 みだ うな出来事にも紊されたくはなかった。いや紊されずに済「奥方さま : : : 」 「お礼を言います。あの世で楽しく、のう」 む世界へどうして良人を連れ去ろうかというのが、新府を 出る時からの御前の希いのすべてであった。 そ、 2 言ってから昌次に、 戦も、政略も、陰謀も、義理もない世界。そこへ思いの 「では」と言うと懐剣の鞘をはらった。 ままに飛び立ってゆく自分の心を、いくぶん誇らかに兄た 勝頼は立ったまま、落付きはらった御前の姿を裂けるよ うな眼をしてじっとみつめている : ちに告げてやりたい郷愁だった。 侍女のお藤が、ばさりと草の上にのめった。 ( どんなに兄たちが自分を惜しむか : : : ) しかしそれは悲しみだけではなくて、ほのばとした勝利 感さえ伴っている。 「では、仰せによってそれがしが : : : 」 土屋昌次が刀をとって御前のうしろにまわると、 っこ 0 四 小田原御前の眸はお藤の屍体から、ゆっくりと良人に移 248
った。城内に帰る時は心せよゃ。よいか、必ず生きて戻っ賀彌四郎との密約のさてつが、勝頼をすっかり頑固にして てな、すぐに参ると言ってやれ。いや、大儀であった ! 」 しまった。 四万あまりとは又吹きまくったものであったが、それが この小城ひとっ落せなかったと言われて、天下に号 信長の口から聞くと少しもおかしくないのがふしぎであっ 令がなると思、フか : た。織田勢は二万、徳川勢は八千と分りきっている癖に。 たとえば、ここへ徳川、織田の両主力がやって来て、こ 「仰せ、一々性根にきざみつけてござりまする。ではこれこで決戦が展開されても不利ではないと言い張った。 にてご免 ! 」 ( 反対するほど意地になるのだ : 「おお行けッ ! 」叱りつけるように言ってから信長は家康中には、そっと小声で、 をふり一込ってカラカラった。 これで武田家も終りでござるな」 「もはや時は移せぬぞ浜松どの」 そんなことを囁く者まで出て来ているのだが、何しろ家 うなず きようかん 家康はこくりと頷いて、黙って去ってゆく強右衛門の荒宝の旗を持出されてしまっているので、誰も表面から強諫 らくれた後姿を見ていた。 は出来なかった。 玄蕃頭は城の南岸、武田逍遙軒の右にある、わが陣屋の 前で馬を降りると、 翌十七日 「よく気をつけよ。今朝はまた雁峰山であやしいのろしが げんばのかみ 医王寺山の武田勝頼の本陣を出ると、穴山玄蕃頭 ( 梅雪 ) あがっているからの」 はうかぬ表情で、自分の陣屋に馬をすすめていった。 供をして来た家臣の河原彌六郎に手綱を渡した。と、そ いぜんとして、勝頼は、この長篠城にこだわりつづけての時たった。馬を受取った彌六郎が小首をかしげて立ちど いる 「これこれ、その方はどこの百姓じゃ」 この小城ひとつを落してみたところで、戦略の上からは 大した意味がない。それよりも一部をここへ残して、すぐ 弾丸よけの竹東をかついで行く五、六十人の人足の中か に、岡崎か浜松を衝いた方がよいと、すすめるのだが、大ら、一人の男を指さして声高に言った。 、、や 3
ぐに出発だぞ」 寸刻を争うでのう」 猛り狂っていた一揆を途中でなだめて来た噂はもう光俊そう言われれば、所謂、甲賀衆と呼ばれ、伊賀衆と名づ 父子の耳にも入っていた。 けられている地侍たちは、いずれも信長に深い怨みを抱い さすがは駿、遠、三、三国の太守、神仏の化身と噂しあていた。 っていた矢先だけに、家臣一同はコソコソと引きさがり、 それはかって、信長が伊賀征伐のおり、他国にのがれた 父子もびつくりして顔をそむけた。 者まで探し出して、仮借ない成敗を加えたからであった。 葉の繁りすぎた茶園のうねに斜め陽をさけ、汚れきった ( それらに若し光秀の手が及んだのでは : : : ) 躰で赤飯をむさばり喰う姿は、神仏の化身どころか醜怪な家康が、最も憂えているのはそれであった。 一個の巨獣に見えた。 「伊賀侍は、百姓一揆のようには行かぬで、急がねばなら のだて 「ここで野点の茶を一服献じようと存じましたが、すぐに ぬ」 ご出発でござりまするか」 家康は立上るとすぐに帯していた国次の短刀をとって光 「おお、無用に致されたい」 俊に与えた。 家康はガッガッと口を動かしながら、 「いずれ、今度のことがおさまったら、改めて宇治の茶は 「非常の時には非常の覚悟がなければならぬ。この接待こ味わい直そう。堅固でなあ」 そ何よりの馳走、もし余分があったらこの飯、各自に握っ 田原にとどまったのは、わずかに半刻たらず、当然ここ て分けられたい」 で一夜を過す筈と、光俊の嫡子、久右衛門光太が、長谷川 父子は心得て一行に配った大だらいを見廻ったが、殆ん秀一とともに供侍の狩出しに奔走している間に、足半だけ どそれは空であた。 を無心してさっさと斜め陽を背にして出発してしまってい 「されば、今すぐ次を焚きましよ、つほどに」 そして、その出発もまた、一行を待ちうけていた危難を 「いや、それは無用に致されたい」 巧みにかわす原因になったのだが : 食べ終るとすぐに家康は立上っていた。 その意味では家康の六感は動物的な冴えを持っていた。 「このあたりが、これでは、伊賀路のほどが思いやられる。 あしなか 372
ついしよう に拉し去って行きそうだった。 も知らぬ方々、追従は迷惑じゃ」 ( 古い家臣たちも、きっとそれを淋しがっているであろう 「お館さま、途中で酒を、と、仰せられませぬよう」 「よけいな指図はするなと申すのに」 「タ景からは三位中将 ( 信忠 ) さまと、源三郎 ( 末子 ) さ濃御前は、姫と呼ばれた昔のころの信長を、なっかしく まが参られまする。中将さまとは、甲府以来ご食事も共に臉に描いて、やがて自分も眠りにおちていた。 くつろ 明くれば、いよいよ六月一日。 なさらぬよし、ご父子でお寛ぎなされますよう」 四ッ ( 十時 ) ごろから客殿へは、昨日のうちに通じてあ 信長は呆れたように舌打ちした。 「・ハケモノ婆アめ、一から十まで指図しくさる。それでった公卿雲客たちが続々と集った。雨はふりみふらずみ。 信長は案じていたほど不機嫌ではなく、進物はみなその は、ほどよい時に虫干しどもを追い帰せ」 「はい、充分ご歓談の上、ご帰還を願うように計らいます場で返したが、坊主に茶を立てさせて京の夏の行事などを おもしろそうに語りあっていた。 たぶん、夕刻からの、父子水入らずの酒宴の計らいが気 その夜は信長はいつもより早く寝所に入った。 シトシトと降りつづける雨音が、深い濠にかこまれた本に入っていたからであろう。 能寺の森をつつんで、風帳を取りまく女たちの姿が、何か濃御前はむろん、こうした表立 0 た客席〈は、殆んど姿 も見せなかった。 幻影を見るように汗ばんだ淡さであった。 濃御前は信長の眠りつくまで傍にあって良人の寝姿を眺 めていた。 おびただしい公卿や僧侶の客が帰りだしたのは七ッ ( 四 ( 自分が出て来なければ : : : ) そう思っていながら、今では良人と自分の間に遠い遠い時 ) すぎからだった。 彼等は一様に、信長を豪放らしく見えて、その実、神経 距離を感ずる。 右大臣という官位と、おびただしい人々の追従とが、二質な猜疑ぶかい大将と見ているようだ 0 た。 人をぐいぐい引きはなして、やがてどちらも見えない位置それだけに、あっさり先に帰っては、うわべはとにかく 313