駿河 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 5
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1. 徳川家康 5

まさちか この城は父信玄さえ奪えなかったのを勝頼はわが手で落その名は大河内源三郎政局。 し、家康、信長に、その武威を示した城であり、また武田彼は八年の間に度々変ったこの城の城将から、幾十回と 家士気のよりどころでもあった。 なく、幾百回となく、言葉を尽して降服をすすめられた 若しこの城を奪われると遠江一国はきれいに家康に進呈が、その都度きちんと姿勢を正して同じことを言い返し してしまったことになるばかりか、ここを失、フことは、直た。 ちに駿河をうかがわれる脅威となった。 「・ーー・・わが殿、家康どのは並の大将ではござらぬ。必す高 したがって家康がこの城の周囲にひしひしと砦や対城を天神城へ救援にやって来ると申された。申されたことは必 築きだしたのは天正八年の三月だったが、その年の秋になず実行なさるお方ゆえ、降服などは思いも寄らぬ」 ってもまだ取り囲んだまま陥落させることは出来ない。 中には感心する者もあったが、はげしく怒る者もあり、 天正二年、勝頼が強引に攻め立てた時には、徳川方はっ拷問、乱打は毎度のことであった。 いに織田信長の援軍が間に合わず、城将小笠原長善の寝返床は石畳、時々ここに水がさすので、八年の歳月の間に 5 2 りで城は落ちたのだったが、こんどはここに籠った武田勢 いっか足は両方ともくるぶしから腐ってなえていったが、 が、勝頼の援軍をじりじりと待っ番であった。 彼の意地は軒昻たるものであった。 戦略的には何といっても、北条氏政と結んだ徳川方が優「まだ、わが殿はござらっしやらぬかのう」 位にあり、家康はここに主力をおいて攻撃出来るのに、勝 頼は、伊豆、駿河と北条におびやかされ、両面作戦を余儀 なくされている。 高天神の城は高さ七百尺ほどの高天神山の頂きに築かれ さて ている。 今の静岡県掛川市の南にあたり、海までは約一里、 こうして地上で死闘のくり返されているこの城の地下の すいらん 石牢に、八年前の戦で、たった一人武田家への降服を拒ん全山翠につつまれた天然の要害だったが、すでにこの頃 は石牢にあってもそれと分る木枯の季節であった。 で抛り込まれたままの三河武士が、いまだに、はげしい闘 かんせい 志をもって生きつづけていた。 大河内源三郎はその木枯に、近ごろただならぬ喊声が、 1 一うもん

2. 徳川家康 5

て、雷雨のあとはカラリといつもの晴天、いまになって接 待役交替などの事がすでに岡崎まで来ている賓客に聞えま しては、それこそ気をわるくなされましよう故、このまま 接待役はおっとめなさるようにとの御意にござりまする」 : フーム」 「なに、このまま勤めよと、上さまが : 光秀は、思わず呻いてそれから両手を畳につかえた。 「仰せの通りに仕りますると、お申上げ下され」 岡崎城では、久しぶりに寛いだ家康を迎えて、上下をあ 声も挨拶もいぜんとして鄭重な光秀だったが、光秀の内げて喜びにひたっていた。 、いではいよいよ疑惑がひろがった。 今川家の城代の捨てていったこの城を、家康が拾った時 二人の衝突を極端な性格の相違によるものとは判断出来は、三河の四分の一も自由にならない松平家のどん底時代 なくなって来ている光秀にとって、五郎左衛門と蘭丸がとであった。 りなして、信長がカラリとこだわりを解く : : : そんな事は それがいまは三河、遠江、駿河の三カ国を完全に掌中に 2 ありようのないことであった。 おさめて、そのかみの今川義元を超える大大名になってい る。 ( また何かたくらみ居るな ) むろんそれは深く胸に包んで決して色には見せなかった家康自身の感慨もさることながら、安土へ随行するため に来ている重臣旗本の面々にとっても、見るもの、聞くも が、例の独り碁癖は、あわただしく光秀の心の盤上で、黒 の、思い出すもの、触れるものが、みな熱涙をさそう想い 白の石をふやした。 出のたねであった。 じよう こんどの旅に従う者は、酒井左衛門尉忠次、石川伯耆守 数正、鳥居彦右衛門元忠、本多平八郎忠勝、楙原小平太康 政をはじめとして、天野康景、高カ清長、大久保忠佐、同 ただちか 忠隣、石川康通、阿倍善九郎、本多百助、菅沼定蔵、渡辺 大地の塩

3. 徳川家康 5

砲衆ばかりをもって行列を整えさせた。 この黒坊主は昨天正九年の二月二十三日、宣教師のワリ ャーニが献じた二十六、七に見える印度人らしい若者で、 信長はこれに彌助と名づけて召使っていた。 「ー惣身の黒きこと牛のごとく、彼男、すくやかな器量 なり。しかも強力十人の人にすぐれ : : : 」 とあるから弓鉄砲だけの供揃えとともに、当時の人々の 驚くさまが思いやられる。 こんどの戦功によって駿河一国を与えられた家康は、そ うした信長の行列のために、自領内の道路の辻々にすきも なく茶屋、厩、用便所などを建てて、いずれでも御膳進上 の用意をととのえて送迎した。 そのために、わざわざ京都と堺に人を派して諸国の珍奇 をととのえた。家康としてはずいぶん思いきった出費であ 信長が安土に凱旋したのは天正十年の四月二十一日であり、同時に深く心にひそめた信長への警戒のあらわれでも あった。 いまギ、れ この時の旅の豪勢さは、甲州の人々はむろんのこと、駿浜松を出て今切の渡しをわたる時の御座船の美々しい飾 河、遠江、三河、尾張と見た人々をことごとく驚倒せしめりも、信長の気に入ったようであったし、大平川やむつ田 やは 矢矧川などにはみなわざわざ新しく橋をかけ、大天龍 信長はわざわざ身辺に身の丈六尺二分の黒坊主 ( 黒人 ) 月へは船橋を架けて渡したのもひどく信長の気に入ったよ を安土より甲府に呼びよせて引連れ、小姓、馬廻りの者は うであった。 浜松でことごとく暇を出して帰国させ、それ以後は弓、鉄信長は、安土城に帰るとすぐに華麗をきわめた第三層の 、」 0 火の巻 261

4. 徳川家康 5

進物の取次は光秀の役、目録披露のおり、これにも必す信 長は一言ありそうな気がするのだ。あまりに少なかったら、 この信長をくみし易しと軽視している。そちたちが 心届かぬせいじゃ」 そう言って怒鳴りそうであったし、多過ぎれば : ( いやいや、多すぎる筈はない : 馬鎧三百の贈物が、すでに予想外、黄金三千両とは思い と、光秀は思った。家康の身なり、家中の質素さ。事に s ・んしよく もよらぬ額であった。 よると家康は生れつきの吝嗇なのかも知れない。 「進物、取りおろしてござりまする。ご検分下さりますよ遠江と三河は領していても、これまでは寧日ない戦で、 駿河からはまだ何の収入もない筈だったし、信長の東海道 酒井忠次が告げて来たときはもはや暮れであった。家康見物のためにも莫大な出費のあった直後であった。 ( 家康とは、また、何と信長を怖れている男なのであろう はこくりと頷いて、 「では、日向守どの、心ばかりの家康が手土産、ご堂納下か ) 衣食を節して整えたに違いないと分るので、光秀は家康 されて、御前へよろしゅうご披露のほど」 が哀れになり、その実直そうな丸い躰を見直さずにいられ 家康のあとから光秀も立ってこれに続いた。 よ、つこ 0 そして、客殿へ通って見て、さすがの光秀も思わずわが 石川伯耆が目録を読みおわると、家康はまた丸い躰をか 目を疑った。 がめて光秀に一礼した。 行列の荷駄は殆んど全部進物だったのだ。 ほうきのかみ 「心ばかりの手土産、お恥かしゅうござるが、御前へよろ 石川伯耆守が、一一人の着座をまって目録を読み上げた。 しゅうご披露下され」 「ひとつ、黄金、きん三千両なり。ひとつ、馬鎧三百足な 「お心にかけられたご進物、さっそく上様に取次ぎ申上げ り : : : ひとっ : まする。それまで、あちらで、風呂などを召されてご休息 光秀は思わず全身を固くして息をのんだ。 水嵩まさる

5. 徳川家康 5

福島城から再び急使が信長のもとへ飛んだ。直ちに援軍 脈を通じたとなり、勝頼がそれを処断しかねたとあって を送られたいという使者であったが、それは同時に、信長 は、及ばす影響は大きいと勝頼は考えた。 が、ひそかに待ち望んでいた好機の到来でもあった。 勝頼は直ちに出兵のふれをまわした。 「ーーよし、われ等と結んだものを見殺しには出来まい。 半ば感情にかられたこの面目維持のための出撃が、いよ この信長自身で救援に赴くゆえ安堵するように申伝えよ」 いよ彼を危地へ追い込む原因になろうとはさすがの勝頼も 信長は使者を返すと直ちに、飛騨の金森長近と浜松の家 考えられなかった : 当時すでに福島城の木曾義昌は信長のもとへ人質を送康のもとへ急使をとばした。 信長自身は信濃から兵をすすめ、金森長近は飛騨から、 り、勝頼の憤怒を計算にいれてしきりに使者が信長のもと 家康は駿河からと、三方から勝頼を攻め立てようというの へ往来していたのである。 その原因は言うまでもなく勝頼の課して来る軍役の頻繁であった。 この急使を受けて、家康は更に駿河の穴山梅雪のもとへ き、にあった。 一年として、民を養う暇もなく、春夏秋冬絶え間なく戦使者を送った。 「ーー・すでに、武田家の前途も決定したゆえ、この家康に にかりたてられたのでは、いかに戦国とは言え、自滅のほ 降服するよ、つ」 かはなくなろうーーーそう考えて生き残るための戦いから、 勝頼が小さな面目にこだわって木曾へ出撃すると言いだ 生き残るための降服随身に政策を変えていった義昌だっ したその一石は、見る間に中部日本全体へ大きな波紋の渦 をひろげていったのだ。 これはひとり義昌だけの間題ではなかった。 足許の甲府城からさえ逃亡する軽輩小者が現われ出した 義昌処断のために出兵すると聞かされて、駿河にあった のを、しかし誰も勝頼の耳にはいれなかった。 穴山入道梅雪も、 勝頼は、自分の命令は、それぞれ正確に諸将の間で実行 これで武田家は滅んだ : ・ と慨嘆し、彼も又生き残るために、家康への随身を考えされるものと信じ、みずからは旗本一千あまりをひきつれ て、甲府城を出発した。 だしていた。 231

6. 徳川家康 5

か」と、家康のもとへ言い送った旨の返事があった。 そして、わざわざ氏政と甲州勢が黄瀬川をはさんで対陣 して見せたのは、信康が自刃して間もない去年の十月二十 . 田原の当主北条氏政の末の妹だった。 勝頼の正室は、、 先代氏康が年とってから生まれたので、その愛情を一身に五日のこと。 あつめて育ち、長い間手を握りあって来た武田氏に嫁がせ どうやらそれで、家康も氏政と勝頼の不和を信じた様 子。したがってひそかにその策略がきっかけとなり、家康 て来たのである。 と氏政とはほんとうに手を握り合ってしまったと言うので その意味では戦国時代にめずらしく政略の匂いの少ない 結婚で、今年十九になった小田原御前は、諏訪氏の美貌をある。 もしそれが事実だったら、勝頼は毛を吹いて傷を求め、 うけついで三十を過ぎても端麗すぎるほど端麗な勝頼を、 われとわが手で孤立の石を打込んでしまったことになる。 ひたすらに愛している。 こんどは謀者がかわって言葉をつづけた。 勝頼もまた、若い正室の心にこたえて近ごろでは、側女 「徳川どのは、相成るべくは織田家の援助を求めたくなか は殆んど遠ざけていた。 それだけに両家の間の親和がくずれるなどとは想像出来ったのでござりましよう。そこで北条どのと連合し、ご当 ず、実は勝頼の依頼でこんど家康に氏政を接近させていっ家に当ろうと腐心して、ついに北条どのを説き落したので たのである。 ござりまする」 : いや、どうしてそちはそれを知っ 「・ーーー織田家と徳月家の間には、こんどの信康の事件で必「そのようなことが : すひびが入ってゆく。ひびが入れば織田家から援軍は来またのじゃ。なぜ双方が真実に結びあったと分るのじゃ」 「はい。両家とも、ご当家には何の知らせもなく共に、出 いゆえ、策を構えて、家康を駿河におびき出してはくれま 陣の用意をはじめて居るが何よりの証拠かと : し力」 「して、徳川方のめざすは ? 」 氏政にそう言い送ると、氏政は心得て、 「申すまでもなく高天神城の奪回にござりまする」 「ーーー家康が駿河へ出兵すれば、氏政も兵を出して勝頼に それを聞くと勝頼はいきなり身をひるがえしてわが居間 当るゆえ、駿河を徳川、北条の両家で分けようではない 204

7. 徳川家康 5

「いいや、かくなっては隠し立てもなるまい。そう申して領していた勝頼が、女房どもと一緒にさまよい歩いて 来られた主は峠の向うの岩殿の城主、小山田兵衛尉信茂殿そう思うと急に切なく、空腹がはげしくなった。 でござる」 九 勝頼はそれを聞くと、黙って馬を返すよりほかになかっ 小田原御前は、勝頼が寄っていっても殊更に視線をさけ たど ( 信じられぬ ! これから辿って行こうとする小山田信茂て黙っていた。どこで手に入れたのか、輿の上から百姓蓑 が、自分たちをこの寺に宿泊させて討取ろうと計っていよがかかっている。窓は開かれて、タ闇に浮き出た御前の半 面は、怒っているようでもあり、全然無感動に硬直してい 、フとは : : : ) るよ、つにも見えた。 しかし、それを押返して聞く勇気はなかった。 山門を出ると雨脚はだんだんつのり、風も行手の坂東山「御前、程なく轟村の寺に着こうぞ」 からいよいよはげしく吹きおろす。 勝頼はそれだけ言うと、あわてて輿のわきから馬を離。 4 2 このままでは疲れ切った女たちの中から凍死者が出そうし、そのまま先頭に立っていった。 であった。 ト山田信茂までが自分を見捨てたとはどうしても信じら れない。やはりこれは、滝川一益の手の者が寺僧を脅かし しかがでござりました」 たものと思いたカった 心配そうに訊ねる太郎信勝に、 「このあたり、他にも寺はあった。そうじゃ、轟村の万福馬を急がせて、轟村へ着いたときには具足も髪もぬれそ ばっていた。 寺に赴こ、フ。急げよ」 すでに、松明も使い果してわずかに先頭の土屋昌次兄弟 勝頼はそう言ったあとで、自分から後になっている御前 の手にあるだけだった。 の方へ手綱をさばいて馬を近づけた。 うかつにつつじが崎を出てしまって、そのまま入る城を万福寺の灯りを認めて昌次が先に山門をくぐっていっ 失くしたということが、何か嘘のような気がしてくる。った。その間勝頼は馬を停めて、老杉の下に声もなく集って いこの間まで、甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の五カ国をくる人々の群を、数えてみた。

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「待てト斎」と、ト斎をとめた。 「なきお父様さえ、うかとは手をふれさせなんだご重代の 四 甲胄を・ : ・ : 」 「申すなツ、ト斎、早くこれへ持参させよ」 武田勢が勝頼にひきいられて甲府 ( 古府 ) のつつじが崎 「よッ の城を出発したのは桃も桜も、まだ蕾の固い二月の末であ つ ) 0 ト斎はふたたび立ち、一座は凍てついたように、きびし い沈黙におちていった。 直ちに東三河を衝くとふれさせ、その方面へ以前の長篠 いかなる時にも、この家宝をかざして出で立っ戦には異城主菅沼一族の兵を移動させながら、勝頼はそれより西の ぶせつ 議をはさまず生命を落せと言い伝えられている品々だっ武節街道をめざしてすすんだ。 勝頼の生涯に二度ない好機といわれ、新羅三郎以来の家 それをここへ運んで来いとは、もはや誰も何も言っては宝を持出されては、この戦をあやぶむ老臣たちも口を閉じ ならないということだった。 てこれに従うよりほかなかった。 一座ははじめのきびしさからだんだん低くうなだれだし すでにこの頃には、勝頼をこの街道から一挙に岡崎城へ 長坂釣閑だけは、そうしてうなだれてゆく人々を意地迎え入れようとする大賀彌四郎はこの世の人ではなかった わるい眼でみつめてゆく のだが、勝頼のもとへはその知らせがとどいていなかった。 「みなの心はよう分る : : : 」 彌四郎の一味のうち、ただ一人、天龍川を泳ぎわたって 湯上りのような頬をして勝頼は頭を下げた。 武田領へのがれていった小谷甚左衛門が甲府に潜人してい った時には、勝頼は城を出ていっていたからだった。 「この勝頼の生涯に二度ない好機、父の遺志を継がせてく れ、三河勢など : : : 長篠城など : : : ひと揉みに揉みつぶし駿河、遠江への道とちがって、木曾山脈を右に見て、山 また山の間をすすむこの行軍は、おびただしい小荷駄をし てみせてやる。小異を捨てて微力な勝頼を助けてくれ」 一座のすみで、洟をすする音がした。そっと手の甲で涙たがえているだけに、意外に手間どった。勝頼が蛇峠山を なみあい ねばね をぬぐっているのは、信玄とは瓜二つの弟、逍遙軒であっ越え、波合から根羽にたどりついたときには、谷から峰は ) 0 っ ) 0

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ときどき混って聞えて来るような気がしてならなかった。 「あれが人の喊声だったとすれば、、 しよいよ殿がこの城を 「耳のせいかな ? 」 奪い返しにやって来たのだが : 鹹の北隅に、地上から二十尺ほどの石段をだらだらくだ そう一言えば、この城へは近頃、いろいろな人が入城して り、更にその下に構築されたこの石牢にも、たった一つ外来ているようだった。源三郎が名を知っている一方の大将 界とのつながりを持った高い息ぬき窓が作られている。そだけでも、牢番にきくと五人以上はたしかにいる。 こから時にわすかな春の匂いを感じとったり、嬋の声を遠岡部丹波守、相木市兵衛、三浦右近大夫、森川備前、朝 く聞いたり、みそれ、木枯、颱風と、それでもさまざまな比奈彌六郎、小笠原彦三郎、栗田彦兵衛など、みな、遠江 季節の変化が源三郎を訪れてくるのだった。 から駿河にかけて武勇の名をもった人たちだった。 改めて指をくると時々数が混乱したが、とにかくここで それらが、或いは、家康に攻寄せられて、ここで一戦す 冷たい冬をもはや八度びは迎えようとしている : る気で入城して来ているのかも知れない。 髪は生えるに任せていたし、着物はあれから三度貰った いつも午過ぎとおばしき頃に食事を運んで来る牢番が、 原形はとどめていなかった。 今日は少し遅くなり、 外から入って来た人が見たら、恐らく人か野獸か分らな ( ははあ、日が暮れたな ) かったに違いない。 そう思った頃にやって来た。 それでも牢番の小者は一日に一度すつ小さな握飯二個と牢番の名は作蔵というそうな。もう五十も半ば超えた話 水と漬物か、塩か、味咐の一品を申しわけのように附けてずきの小者で、やって来ると、きっと何かしら話しかけて おいていって呉れた。 戻ってゆく。 源三郎はそれで充分だった。三河の意地は粗食になれて その作蔵が、 ; カんどうの灯りをたよりに牢格子のそばへ いる。そもそも降服とか弱音を吐くとかいうことを源三郎寄って来て、 は嫌いなのだ。嫌いなことをせずにすますためにはそれ相 「囚人どの、それ食事じゃ」 当の代償を払わせられる。 ( おれは贅沢なんだ ) と、源三 そう言ったまますぐ戻ろうとするので、 郎は思っていた。 「これこれ作蔵」と、源三郎は冷えた石畳の上でいざりな 276

10. 徳川家康 5

勝頼は、薄く眼を閉じて聞いている。 氏政からの返事を見た時、勝頼は黙ってこれを二つに裂 美妙な十三絃の糸のひびきが、これほど心に鋭くひびく ことはなかった。 今川氏真などの為めに、家康にせよ氏政にせよ一兵も損 ( この女の前に、自分は再び戻って来れないのではなかろずる筈はない。口実のための口実と、あまりにハッキリ分 りすぎているからだった。 ふっとそんな気がして来たり、 小田原御前はポーツと頬を上気させて弾く手をとめた。 「お、いにかないましたか」 ( 自分の留守に御前の方で死ぬのではあるまいか : それを自分に知らそうとして、絃と絃の間の霊に、あや「おう、思わずうっとりとしてのけた」 「それは、琴のせいではなくて、春の陽ざしのせいかも知 しい囁きがかくされているような気がしたりした。 小田原へやった使者からは、剣もホロロの挨拶で、若れませぬ。上様、こんどのご凱陣は ? 」 「さよう、早ければ蝉時雨のころ : ・・ : 」 : と、労りよりも怖れの多い し、御前がそれを知ったら : 「遅ければ ? 」 せいもあったが : 「遅ければ : 氏政の返事で、落ちぶれた今川氏真が、家康の浜松城へ 何気なく言いかけて、勝頼はあわてて御前から眼をそら 身を寄せていることがわかった。 ( どこまでも用心深い家康め : : : ) たった今、野面にさらされた、自分の死屍の幻を描いて 氏真を使って、北条氏と結び、今川氏の旧領を駿河に求 いたところだったからである。 めてやるというのが口実らしい。 「遅ければ : 今川家は北条氏にとっても重なる縁者、その氏真の と、また御前は首をかしげてうながした。 ために旧領を復す戦ゆえ、家康どのに同意した。武田家も 今川氏とは縁のある間柄、直ちに駿河は今川氏に返還され「遅ければ、遠州あたりで新しい年を迎えなければならぬ : かも知れぬ」 たい。若し返還不同意の場合には、武将の意地ゆえ、弓箭 「まあ新しい年を ? 」 の間にまみえよう。妹姫のことは存分になさるがよい」 272