毛利 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 6
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1. 徳川家康 6

ひらいてみると「自分は秀吉の意志を誤り伝えたような秀吉は応じまい。もしここで五千の将兵を見殺しにしてい ったのでは、毛利家の士道には晴も義もないと見られ、そ 気がする : : : 」と、ある。 なるほどそれならば夜中の再会見申込みもおかしくはなれが全軍の戦意喪失をもたらして、やがて瓦解のもとにも なろ、つ。 い。が、その事に家政が気付いていない点が却っていぶか しさを印象させる。 ( そうだ。ここはどこまでも誠実に : ・・ : ) 恵瓊はそう心に決めると、 ( ハ 1 ア、これは彦右衛門が智恵ではないな ) 彦右衛門の智恵でないとすれば黒田官兵衛かそれとも 「では、このまま、早速ご同行申そう」 秀吉自身の智恵 : : : と、答えははっきり出て来るのであ と、家政に云った。 る。 云いながら心のうちでは、やはり何かあったと重ねて思 ゆっくりと書面を巻いて、ふっと「明朝参上ーー」そう い、これは交渉がまとまるかも知れないそとも計算してい 云ってみたくなる自分の触角を、しかし恵瓊はおさえてい こうして、家政の案内で、二人がいつも秘かに会見場所 何といってもいま困難な立場に起たされているのは秀吉としている石井山の中腹の蛙ケ鼻の仮屋にたどり着いたの 側ではなくて毛利側なのだ。 は、すでは丑満ツ。 毛利の家訓には元就の遺した三矢の訓えがあり、上下の もともとこの仮屋は、このあたりに住まう樵夫の掛小屋 だったのを、陣廻りの休息所に建替えたもので、たどりつ 結束もまた鉄壁でなければならぬとしてあった。 いた時には人影もなかった。 云わば今度の戦局面では、秀吉側は完全な勝利者であり、 毛利方は、家訓にしたがって、水攻めに逢っている清水宗 安国寺恵瓊は家政の案内でその仮屋に入ってゆくと、従 治以下五千の生命を、是が非でも救わねばならぬ立場にお者が燭をともす間、縁に立って、ひっそりと湖上に浮いた かれていながら、その実、手も足も出ないことになってい 高松城を見ていた。 高松城には一つの光もない。いちめんに汕を流したよう 捨てておけば城兵は餓死するであろうし、急に攻めてもな静けさでにぶくよどむ水面に、千古の星が点々と映って

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信長に中国征伐の命を受け、播州に出陣し、書写山に陣めてから、 「それについて安国寺がこんなことを述懐していました。 取ったのは天正五年の十月だった。 それ以来今日まで足掛け六年、具足を脱いで寝た日は数ここでは秀吉に、勝つ手段が一つあるがと」 「なに、わしに勝つ手が毛利方にか」 えるほどしかなかった。 しかに、も」 信長の大志が、戦国の終熄にあることを知り、感激して 「ほう、これは聞きずてならぬ。どのような手じゃ」 それに献身して来た点では、秀吉が第一と誰の前でも云い 「惟任日向守をけしかけて謀叛させることだと申しまし 切れる。 ( それほど心酔している信長が、光秀すれに討たれたなど 「なに光秀に : : : 」 「殿、何を考えて居られまする」 秀吉はキグリとした時の癖で、金壺眼を大きく見張り、 黒田官兵衛は跛をひきながら入って来て、 脇息に身を乗出して笑った。 「そう云えば、ずいぶん女気なしの暮しが長く続きました 「そんな手があったらなぜ打たぬのじゃい毛利方は」 なあ」 「しかし、それは永い勝利にはならぬからたと申します。 と、片足を投出して坐っていった。 力やがて日向守を討って又 秀士ロはすぐここを引揚げる。、、、、 引返して来るであろう。つまり : と、官兵衛はからかうように声をおとして、 「結果は却って殿に名をなさせる。それが忌々しいゆえ献 「官兵衛、かりにいま、ご主君右府さまに反感を抱いて、 策はしないと申しました」 謀叛する者があるとしたら誰であろうかな」 秀吉は官兵衛好高がすわると、いきなり訊いた。官兵衛「フーム。安国寺という坊主はおかしな坊主た。これはい つか味方にせねばなあ軍師どの」 はふと怪な顔になったが、 また殿の惚れ癖がはじまりましたな。今度会 「また殿のお癖が出ましたな」 うた時に、そのまま殿の言葉を告げて見ましよう」 笑いながらあたりを見廻し、近くに聞く人のないのを確

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「しかし、それがしはそのまま席を立ってしまった : : : す ると重ねて殿は」 あまり恵瓊の断り方があっさりしていたので、彦右衛門 「何と仰せられました」 はムッとした。 「 : : : わしは毛利方の申出た条件では、考える余地がみじ 「すると、城将一人の生命にこだわって、五千の兵を餓死 んもないと申したのではない。城将清水宗治を切腹させれさせる : : : それが毛利家の士道でござるか」 ば、右府さまへわしの面目も : ・・ : そう呟かれたが、・ へつに 「いやいや」 ・・と お呼び止めもないゆえ、そのまま退出してしまった : と瓊は笑った。 ころが臥床に入ってふと気付いたことは、これは、それが 「その事は幾度もご貴殿に申上げた通り、羽柴どのと毛利 しの、大変な落度ではなかったかという惑いでござる」 方との考え方の相違でござる。毛利方には羽柴どののよう 「なるほど」 な、個々を寄せ合うた数の勘定はござらぬ。五千はつねに 恵瓊はおだやかに頷いて、 一体でござる。いや、五千だけではない。援軍三万の将士 「すると、ご貴殿は、城将、宗治どのを斬れ、さすれば当はつねに一体、将を失うては士も立たす、士を失うては将 方の申出に応じよう : : という風に御大将の心を読まれた も無い。それゆえ、忠臣清水宗治を斬れと仰せられるの のでござるな」 は、毛利の誇りのすべてを捨てて降服せよと云われるのと し力に、も。二 若し殿のお心がそれであったら、貴僧もう一同じ道理 : : : この安国寺が手には及ばぬことと申上げたの 度毛利方をお説き下さるや否や、それを確めておきたく存でござる」 「ウーム」 じ、かくは夜中、お越しを願うた次第 : ・・ : 」 彦右衛門がそこまで云うと、恵瓊は手をあげて相手をさ と彦右衛門は呻いていった。 えぎった。 はじめからこの交渉、自分の手には負えぬことと思って 「その儀ならば、望みはござらん」 いたが、次に黒田、次に秀吉自身と、三段の構えを云われて 来ているだけに交替してはあまりに自分が惨めであった。

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え、東へ向けて動かし得る軍勢の数は、この秀吉のそれに 「策はある : : : と仰せられると、吉川、小早川の両大将に 清水宗治を斬らせる手段が ? 」 も及ばぬ。ここで互いに意地を張り、和議の機会を失うこ 恵瓊があわてて訊き返すと、 とは、毛利家のために忠ならずと、この秀吉が申したまま 「むろんある ! 」 を宗治に打明けるがよい」 「ウーム」 秀吉は真顔になった。真顔になると顔中が刺すような鋭 さに変ってゆく秀吉だった。 と恵瓊は息をつめて秀吉を見返した。 「よいかの、ここでは宗治の生命ひとつで、毛利方もこの 「のう、秀吉も武将、宗治があつばれな心は分りすぎるほ 秀吉も顔が立つか立たぬかの仕儀になった。この事をまずどに分っている。それゆえ、宗治が自決に香華を贈ろう。 貴僧の胸に納めておいて、貴僧はこのまま高松城へ赴くのむろん城に籠る五千の生命はそのまま助けるが、その他 に、毛利方から割譲を申出ている五カ国のうち、二カ国だ 「えっ何と仰せられまする。愚僧が、このまま清水宗けは宗治が忠死に免じて受取るまい。よいか、こう申せば 治がもとへ」 宗治は類いまれな忠臣ゆえ、必ず主家のため、五千の生命 「、よ、つ」 のために自決する。自決を見届けた上で早速に和議をまと め、公儀 ( 信長 ) への取りなしは、この秀吉が生命にかけ 秀吉は、じっと視線を恵埈に据えたままで、 「この秀吉、清水宗治を、さすがは音に聞えた名族毛利のても致すゆえ、名族毛利が末は万々歳と申し聞かせよ」 聞いているうちに、恵瓊はガタガタと全身が震えて来 忠臣と、心の底より感服している。いや、何も隠すことは ない。ここで和議の成ると成らぬとの利害の差をこまかく 宗治に説くがよい。安芸、周防、長門、備後、備中、伯耆、 策、策といいながら、秀吉のそれは決して小さな策では 出雲、石見、隠岐の合計百六十二万石。というが、これは なくて、どこまでもきびしくこまかい理性の上の計算であ っこ 0 表向きでの、九州には、豊前、豊後、筑前、筑後から肥後 にまで、大きな勢力をもって毛利一族を狙う大友氏が控え それにしても清水宗治が、主家のためと説けばすすんで ている。これへの備えは寸時もおこたれぬ筈 : : : それゆ自決し、この難関に打開の道がつくと見ている眼の確かさ 、」 0

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: それは知らぬ」 ぶまいかと存ずるが、名案あらばその智を愚僧にお貸し下 と、官兵衛は鋭い視線を陽の照りだした樹間にそらし 癶、れ一 「と云われると、貴僧は承知したが、毛利方では絶対に承て、 「人には人それぞれに持って生れたご運がござるよ」 服せぬと云われるか」 「ほう、ご運が無ければ、諦めなさると云わっしやるの 「いかに、も」 力」 「やむを得ぬと思、っている迄。しかしこのご連は、ひとり と、黒田官兵衛は大きく云った。 「ここは天意がいずれにあるかを試すところ。貴僧ひとわが方の御大将だけのご運ではない。そのまま毛利、吉 小早川の三家のご運にも連なるもの : : : のう安国寺ど つ、御大将に会うて下され。そして、それがしに申したと ころをそのまま、御大将にお告げ下され。それで御大将にの、凡そ談判不調となれば三つの場合しか無い筈じゃ。そ の一つはわれらの御大将が破れて自滅してゆくか、それと 思案があるかないかがご運の決まるところだ」 も毛利方の三家が地上から姿を消すか、もう一つは共に斃 れて誰かが漁夫の利を占めるかじゃ。そうハッキリ分って いながら毛利方がどこまでも武門の意地にこだわるとあれ 恵瓊は改めて官兵衛を見直した。 ーオしさ、お供申 ( それにしても、何と思いきったことを口に出来る男であば、この決をとるのは御大将より他によよ、。 つ、つ、か・ 恵瓊は一瞬総身の寒くなるのを感じて口をつぐんだ。 若し恵瓊が秀吉に逢って、秀吉に名案がないと分ったら 官兵衛の言葉の無造作さは、無責任な放言ではなくて、 どうする気なのか : ( 責任は官兵衛になくて秀吉にある : : : と、この男はそらすでに底の底まで計算して肚を決めているものの放胆さと うそぶ 分ったからであった。 嘯く気なのであろうか : 「官兵衛どの、ではこなた様は、御大将にご名案ありとお「お供申しましよう」 しずかに云ってこんどは恵瓊が低く笑った。 考えなされて居られるのじゃな」 3 4

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彼の六感で、信長が病死したとは田 5 えなかった。 「黒田どの、ここで否と申上げたら、いったい御大将に何 彼はまた、信長が清洲にある頃城下ですれ違って、そのと進言なさるお心じゃ」 「やむを得ない」 眉間にただよう剣気にキョッとしたのを覚えている。 と、官兵衛はつぶやいた。 ( これは異相じゃ。事によると : : : ) その時の印象がその後も強く頭に残り、いっかも冗談に 「退くに退かれぬ、羽柴秀吉と毛利三家が、戦って戦いぬ まぎらせて、信長は天下を取ってもそれが完う出来す、あ いて共に斃れて行くでござろう」 とを継ぐのは秀吉ではあるまいかなどと官兵衛に語ったこ 「なるほどの、つ」 とさえあった。 「安国寺どの、貴僧の好きな羽柴秀吉、貴僧に義理ある毛 ところがそれが適中しないまでも、それに近い凶変があ利三家、共に倒れて天下はひと手に渡るか、それとも再び ったらし、。 戦国に逆行するか。ここらが仏者の思案の決めどころでご 官兵衛はそれを恵瓊に隠す必要はないと頭から割り切っ ざろうそ」 て来ているのだ。 「と、仰せられると、拙僧も申上げずばなるまい」 ( これは、わしも殺される時が来たかも知れぬ : : : ) 恵瓊は手首の数珠をはじめて大きく宙にもんで、 知らねば許されたであろうが、皮肉なことに恵瓊はそれ「諸如来、諸菩薩もご覧ぜられよ。この恵瓊はいずれの ほど鈍感に生れついてはいなかった。 敵、いすれの味方でもござらぬ。が、黒田どの」 ここで若し生きのびる方法があるとすればそれは一つ、 「 4 わ、つ」 彦右衛門や官兵衛の云うとおり、高松城で歯を喰いしばっ 「何れの味方でもない白紙に戻って思案して、毛利方に て烈々の気を吐いて来た城将清水宗治を、毛利兄弟に刺ら清水宗治を斬らせる手段があれば承りたい」 せることより也によ、。 「なんと云わるる」 「安国寺どの、今更、貴僧らしくもない。すでに胸中で、 「この恵瓊が、天下のためと、いかほど説いてみてもここ あれこれの勘定は済んでいる筈。引受けたと申されるか、 は戦場、双方の感情が尖りきっているところゆえ、毛利方で 否と申されるか」 は千に一つも承服すまい。承服せねば、それがしの手は及 2

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万に存ずる」 恵瓊は、この狸めがと思いながら、そっと頭を下げてい つ、」 0 「いや、それには及び申すまい」 恵瓊が口をはさんだが、官兵衛は手を振った。 「いや、ここでこの官兵衛、安国寺どのと刺違えるやも計 られす、そうなってはかかりあいに相成るゆえ、ますます 五 、と思わず笑った。 恵瓊もハハノ 「いったい談判はどのあたりでつまずかれたかのう。すべ 「では、それがしは中座仕ろう」 て物事には機というものがござるでな。右府さまご着陣の 彦右衛門が去ってゆくと、又二人は顔を見合せて笑いあ 前に事を決する : : : これは毛利方にとってまことに好機、 った。決して親しさだけの笑いではない。互いに互いの心 のがすべからざるものと存ずるが」 を読んで、一歩も譲るものかという、はげしい闘志を閃め 官兵衛はそういうと、 かせての笑いであった。 「これこれ、みなは離れて居れ。近づくな」 官兵衛の前に湯を持って来ようとした、彦右衛門の小姓「安国寺どの、このあたりで、ご自身の出世のためにも手 をお打ちなされ。貴僧とても、あれこれ野心は胸中にあふ を叱った。 彦右衛門は彼が恵瓊に書状を贈ったてんまっから今までれている筈じゃ」 「まほ、フ」 の話をこまかく聞かせたのち、 「城将、清水宗治を斬るは、毛利の誇り、毛利の士道を抛と、こんどは恵瓊の眼が薄気味わるく光っていった。 っ 「愚僧の胸に野心が無いなどとは申しますまい。力し って、降服せよというに等しい。それでは取次げぬと云わ たい黒田どの、何事が起られて、このように講和をお急ぎ れるので」 なさる」 「なるほど : : 何事が起ったと思われる ? その位のことの看 官兵衛はしさいらしく首を傾げて、 「では蜂須賀どの、暫くこの場をはすして居って下さらぬ破出来ぬ貴僧でもありますまい」 「秘密ゆえ、黒田どのの口からは洩らせられぬとでも云わ 力」 9 3

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秀吉は五千の将兵をみな殺しにしようとは考えぬ将器で しる あったし、毛利方もまたこれを救うことに全力を傾けてい 恵瓊は何か切なくなった。 ( この静寂の底で、小ざかしい人間どもが、奸智をかざしる筈なのに、僅かな双方の執着がこの交渉を行詰らせてし まっている。 て殺し合わねばならぬとは : : : ) うしろで人の話声が近づいた。 何のために ? 何をのそんで : : : ? 陣屋から交渉相手の蜂須賀彦右衛門が出向いて来たので ある。 「みな遠ざかって居れ」 恵瓊は「生くるためーーー」という言葉を以前から軽蔑し そう言って仮屋の中に入って来ると、 ていた。 人間は、生くるために在るのだと考えると、あらゆる事「さすがに丑満ッ刻、静かでござるな。いや、早速のご入 来かたじけない」 が争闘の種になる。生存本能のどんらんさが果てしもなく 彦右衛門は一本の燭台を距てて安国寺恵瓊に挨拶した。 相互の不安を拡大してゆくからであった。 「早くても明早朝と思うた故、あれからウトウト仕って それが僅かな相違たったが、「生かすために」となると、 その内容はがらりと変った。 その言いわけを恵瓊は思うた通りのことを云うと、心の 「ーーー地獄、極楽の相違は、紙一重でござる。人間は生き るために在るのか ? それとも生かすためにあるのか ? 中に刻み込んでから、 「ご書面に、羽柴どのの意を誤り伝えたとござりましたゆ 前者をかざせば無間地獄へ、後者をたどれば極楽へ達しま え、取るものも取りあえす」 「、れば : それは、恵瓊がよく毛利元就に彼の仏法をたずねられて 答えた言葉であったが、実際には、生かそうと念じつつ殺彦右衛門は殊更にゆっくりと、 「それがしが、毛利方の申し条、手厳しく拒絶して来た旨 し合う場合も決して無くはなかった。 言上すると、殿はちょっと渋いお顔をなされたのてな」 いま水中に浮かんでいる高松鹹の運命がそれである。 3

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五カ国というと大譲歩のように聞えるが、備後のほかはま ような幸運な男に出会うたのが運負けと、早く気づく軍師 だ毛利の領地ではない。明日、安国寺恵瓊に会うたら和議 が毛利方にはいないのか」 「ところが : はならぬと一蹴しておけ」 : 」と、官兵衛はまたすべる馬のあがきを立 直しながら、 官兵衛はフフフと笑った。 「では、どうあってもこの高松城に立籠る、清水宗治以下「向うには、向うの思惑があるようで」 を引渡せというので」 「どんな思惑だ。おれの運に勝てるとでも思っているの 「そうだ。つべこべ掛引していると、五千の城兵が飢えてか」 ゆく。餓えたあとでは勘定が合うまいがと一番ここは強く 「つまり、殿以上のお方がもう一人いる。そのお方がやっ 出てくれ。こなたもだが、安国寺も掛引のつよい奴だ。わて来てからの方が、交渉はしよかろうと考えているよう しはこれが毛利の最後の肚とは考えられぬ」 こんどは右側の蜂須賀彦右衛門が笑った。 「それは右府さまがことだな」 「先方でもそう云っているでござりましようて」 「さよう、そして右府さまと交渉してから譲った方が、憎 「なんと云うて居る」 い筑前の顔をつふしてやれるというわけで : : : 」 官兵衛はそう云うと行手に立って入道雲を見やって意地 「羽柴筑前とは又、何と掛引の強い男かと」 わるそ、つにニタリとした。 : それはそうじやろ。向うもこうしておれが どっしり腰をおちつけて、水攻めまでやるとは思うていな かったに違いない」 「全く、思いきったことをなさる。ご覧なされ。二百町歩「ロに毒を持った男だ」 の大池の中で、無事に立っているのは城へ通する道路の並秀吉は大形に顔をしかめて官兵衛を睨んでから、 木ばかりた。 人家も屋根を浮かしているし、小さな森や林「向うがその気なら、こっちは何時まででもねばってや は水草に変っている」 る。なあに、右府さまが来られたとて、おれの云うことは 「それゆえ、この辺で手を打てと申しているのだ。わしの通ってゆくわ」 9

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「木の実さま、またお邪を致して居ります - 「茶屋はそれを知らなかったのか ? 」 茶屋は如才なく頭を下げて、 「一向に : : : それは 「羽柴筑前守さまは、毛利さまと講和をなされたそうで」 : それでは家康どのが頼り無かろう。こんどの 中国攻めで、一番大きな勝因を作ったのは堺衆じゃ。堺衆「はい。それについて、面白いことを伺いました。あとで がつねに筑前の攻め人る前に米の買いしめをやって歩いお話致します」 木の実は、この前家康を迎えた時よりも又一段と清楚な た。中国ばかりか、毛利の手に渡りそうな地域は、九州 瞳のかがやき方で、持って来た青貝の入札箱を蕉の前に も、四国も、山陰も : : : むろん筑前が頼みでな。筑前とい 、。賃まれた者おいた。 、つ男は、ふしぎな魅力をもっているらしし が、みな彼の味方になって働いている : : : 」 「お父さま、硯箱もいるのでございましよう」 おお、硯もいるが : : : そうた。その面白いことというの 「フーム」と、茶屋はうなった。 : となりそっを、先に茶屋どのヘ聞かせてやるがよい。その間にわしは 「それでは、人札の結果は見るまでもない : でござりまするなあ」 紙と硯の用意をしよう」 「はい。ではお願い致します」 「いやそうではない、人を動かしたと云うことと、頼る ということとは別もの、動かされた人が、動かされた一 木の実は蕉庵が立ってゆくと、そのまま下手へ坐って茶 悦びを感するとは限るまい」 屋を仰いだ。 生れたままの嬰児のようによく澄んだ眸の奥に、感じ易 い青春の息吹きがかくされている。 「まず、入札の結果を見てから」 蕉庵がまた楽しそうに扇子を動かしだした時、木実「こんどの講和の出来たのは、清水長左衛門尉宗治という 人の、ご器量だったというのです」 が、青目 ( の手文庫ほどの箱を捧げて入って来たので、ツ とあたりは明るくなった。 「ほう、高松城主、清水長左衛門どのの : : : 」 「はい。羽柴方では宗治さまの首を渡せば和を結ぶと云 、毛利方では忠臣を殺すほどなら一戦すると云いはっ 5