申す - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 8
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1. 徳川家康 8

「お館さま : : 」と、お愛は言った。 「お許しなされて下さりませ」 家康はびつくりして顔を近づけ、 「何を申すぞ。無理させ通したわしが悪いわ」 「いいえ、いちばん大切な、こんどのご移転に : : : 身体が 弱うて : : : お役に立たす、お許しなされて下さりませ」 「お愛 : : : 」 し」 「こなた、それを心底から申すのか。忙しさにとりまぎ れ、見舞うてもやらぬことへの怨みではないと申すか」 こんどはお愛の方が、びつくりしたように眼をみはっ その表情の変化だけで、それが、皮肉や怨みの言葉では なく、この女の心底からの声とわかった。 「お館さま ! 」 「おう、何を言いたいのじゃ。あ、涙などこばして : : : 動 くな、拭いてやろう」 すでにお愛の方は、精も根も尽き果てた人に見える。 「許す : ・・ : と、二一一口、おっしやって下さりませ」 そう言えば、浜松からここへ移転の途中で、血を吐いた と聞かされたことがある。しかしこれほどとは思わず、家「何をこだわるのじゃ。許すも許さぬもあるものか。こな しつけ 康は見舞う代りに奥の者たちが、新しい城での躾に、慣れたは一心に働きとおした」 るまで、充分注意するようにと、彦左衛門をもって命じさ 「いいえ : : : いいえ、許すとおっしやって下さらねば、お せたのであった。 愛は切のうござりまする」 大久保彦左衛門はそっと部屋を出ていった。 お愛の方はもう侍女の介添えをしりぞけはしなかった。 おとなしく寝かされて、枕に右頬をつけたまま、またた きもせすに家康を見上げている。 「一古しいか」 いい一え」 「医師は、何と申したぞ」 「無理はせぬようと申されました」 「無理はせぬようにと : 家康はこれも相手から眼を放さず、 「無理をし通したのう、こなたは」 そう言うと、急に胸元へ切ないかたまりがこみあげた。 ( これほど重いとは知らなかった ! 許して呉れ : : : 許し 262

2. 徳川家康 8

ここが大事と、こう申しまする」 寧々は、ちょっと首を傾げたまま、すぐには言葉をはさ 七 まなかった。 : とは臥って 寧々は、何も彼も知らずに居れない。勝気な女の貪欲さ 秀吉の性格では、確かにありそうなこと : で、次第に曾呂利に肉迫していった。 も、それがどうして効なきことなのか、その辺の知識はな いのでわからなかった。 曾呂利新左衛門は、この辺でお相手をご免蒙りたかった。 何彼のおり、曾呂利がこう評したなどと秀吉に洩らされて曾呂利は鋭くそれを感じとって、 は、彼の立場は危くなる。どんな場合にも、自分を絶対者「つまり、朝鮮へお走りなされたのでは、一文もこっちの の位置におかねば承服出来ない秀吉の性格だった。 利得にならぬ。堺衆も儲からねば、殿下も戦費を注き込む 「これも、私めの意見ではござりません。やはり納屋蕉庵だけ : : : お手許が苦しくなれば、再び国も乱れてゆこう : どのが : : そう考えての言葉でござりましよう。それよりは、交易 物資の豊かな南蛮の島々へお目を向けさせ申すよう、堺衆 「言いわけはよい。何と言われたのじゃ」 「殿下が万一、走り出し易い方へお走りなさろうとて、朝は今から心を協せて用意にかかっておかねばならぬ : 鮮あたりへお出なされては、それこそ一大事と、こう申すと」 ので : : : はい、やつがれにはよくわかりませぬ。が、蕉庵寧々は頷いたが、いぜんこれもはっきりとはわからな どのは、ひどくそれをお案じなされて居りました」 「朝鮮へ : 朝鮮では、堺衆が儲からぬ。それゆえ、儲けのある方へ 「キよ、 0 し日本中は平定し , ミ、 秀吉の目を向けさせよ。どうせじっとはしていられぬ秀吉 オカさてこんどは何処へ・ と、ご覧なされると、すぐ近くにあるのが朝鮮 : : : とこのことゆえ、利得のある方へ巧く梶を取るように : : : そん ろが、ここは労して効なきところ : : : うしろに大明国が控な風に受取って、それと家康との関連を探しだした。 えてあり、三年五年では片の附かぬ戦になろう。堺の茶道「すると、徳川どのに、上様を朝鮮へ走らせて、その留守 衆がお側に附いてあるかぎり、これだけはおさせ申すな。 に天下を紊す下心ありとお言いやるのか」 いやるのじゃ」 242

3. 徳川家康 8

命じられて来ている : : : そう判断しただけのこと。あとの 殺気は余計なことじゃ、こなた様がたのご損、殺意をて て考え直す気に : 十二 そこまで言って、茶屋はびたりと言葉を切った。 相手は一向に殺意を捨てない。次第に息づかいが荒くな 「刃物をおひきなされませぬか」 り、切尖の奥にギラつく眼の血走りが、青く冷い焔を噴き と、茶屋は言った。 たしている。 「私は悪いことを申しましたようで。こなた様たちが斬っ てはならぬと命じられて来ている : : : そう言ったのはあや ( これは伊賀者じゃ ) そう感じたのは、彼等の構えのひそやかさから。風もな まりだった」 い真昼の堤の陽炎めいた身のこなしは、戦場で名乗りあう 相手はもう答えなかった。あやしい殺気が白日をはじい 陽性の兵法ではなくて、忍びに長けた陰性のそれであっ て冷く肌に迫って来る。 「ものは相談じゃ。私は他言はせぬ。茶屋めはつけられてた。 「手代衆、やむないことになったぞ」 いると感付いて、そのまま道をそらして見えなくなった : : そうおっしゃればせいぜい小言で済みましよう。斬合う暫く、じりじりと相手の動きに応じて躰を右にまわしな てはご損。なあ、ご思案をお変えなされ」 がら、茶屋は到頭刀を抜いた。 「わしはの、殺生はしたくない。相手が手を引けば引きた 「黙れッ ! 黙ってかかれ」 かったし、無事に済めば、このお二人の背後のお方の名 「それ、それが詰らぬこと。こなた様たちは、斬ってはな らぬと命じられている : : : 私にそう言われて、頼んだ人のも、考えまいと思うたのだが無駄になった」 名も知られたと誤解なされた。頼んだ人の名を悟られた ら、生かして戻るなと厳命されて来ているのであろう。し「斬合うとすれば申しておかねばならぬ。われ等の相手は かし茶屋は、頼んだ人までは知りませぬ。ただこなたたち伊賀者じゃ」 の眼の中に殺気がないゆえ、斬るな、脅して試せ : : : と、 二人の手代はパッと左おにわかれて相手に刀を擬してい 396

4. 徳川家康 8

「ご覧の通りじや使者どの」 ねていった。 「ご覧の通りとは : 「ござりました。先方でも、もはや諸将に発表したものと 「当方の矢倉などはもういらぬ。その事がこんど父子の衆見え、お館がお帰りなされたら、すぐに縁談の日取りその にお目にかかってよく分ったからの」 他の打合せのため、誰そ重臣を遣わされたいとの内意にご 「なるほど : : : 」 ざりました」 「それゆえ見たままを立帰ってお告げ下され。家康は、父「そうか : 子の衆に面談申上ナ、 いよいよもって、い易く覚えたゆえ、 家康はその日の八ッ頃 ( 午後二時 ) から降りだして、 境界の要害は不用と、さっさと取崩させて浜松へ帰ってい よいよ雨勢を増している庭の雨脚を見やったままで、すぐ ったとのう」 にはあとの指図をしようとしなかった。 うららかな陽射の中で、紀伊守は幾度もうなずきなが 「お館のお考えでは、誰をお遣わしなさるおつもりでござ ら、眼の下の作業に見入った。 りましよう。その者を呼び寄せて篤と談合しておかねばと 存じまするが」 家康はそれにも答えようとせず、 家康が、三島から沼津、駿府を経て浜松へ帰り着いたの「使者は、信雄どのからか、それとも秀吉自身の使者か」 は三月二十一日だった。 「されば、滝川どのが、こんどは関白御自身の内意と申し て参りましたが」 その間、殆んど家康は笑わなかった。いやただ笑わなか 「関白自身の内意 : ・ っただけではなく、北条父子の名もまた沼津を離れると、 一切口にしなかった。 「はい。関白よりこのご縁談を発表なされた時、大坂城内 おそらく、彼の思案は、沼津を離れる時から秀吉への対は大変な騒ぎだったと申されました」 策に切りかえられていたのであろう。 城へ戻ると、すぐに松平家忠を深溝から呼び寄せて、再「天下人より、卑しき者へ人質を出すなどの先例はいまだ び信雄より縁談のことについて使者が来たかどうかとたす承わり及ばず、以ての他の儀に候と : 104

5. 徳川家康 8

「知れたことじゃ。おなじ戦をするにも、秀吉が妹一人、 らぬのだから真偽を嗅ぎ出す手だては、使者のロうら、態 人質にとった上での戦の方が有利になる」 度から窺い知るより他にあるまい」 そっとあたりを見廻しながら声をおとしてそう言うと、 「それで、お前さまは、怒らせようとなされたのか」 作左衛門は視線もそらさすに、 「すると、作左はそうでは無かったというのじゃな」 「それなら、二人質にとった方がよろしゅうござろう」 「それがしは、虫が好かぬゆえ、好かぬままに扱うただけ でござる」 と、呟くように答えた。 「それはいかん。それでは掛け引きが無さすぎる。わし は、まことの大政所を寄こすつもりならば、彼等はきっと 「いかにも。こんどの使者は、秀吉の母御を岡崎へ寄こす 腹に据えかねて怒りだす : : : と、そう思うて探りを入れて ゆえ、殿を上京させよというのに決って居る」 みたのじゃ」 「作左 ! 」 「それで、お前さまは、偽せものを下すつもりに違いない 2 と見て取られたのでござるな」 「おぬしは人が好すぎるそ。それでは、わしの言う意味が 「そこまでハッキリはせぬ 。ハッキリはせぬゆえ、こなた わかって居らぬわ」 に意見を訊いているのじゃ」 「き、よ、フで、こざろ、つかの」 作左衛門は直接それには答えず、 「そ、フじゃとも。わしがいよいよ怪しいと申したのは、そ の秀吉が母御という女性のことじゃ。よく考えてみるがよ「偽せ者と、わかったら、何となさるご所存で」 はじめてきびしく視線を燭台からそらしていった。 都には御所づとめをした年かっこうの似た老婆などは 「知れたこと。殿の上洛を止めねばならぬわ」 掃くほど居ろうぞ。この三河で誰がいったい秀吉の母御、 「止めて、その後は ? 」 大政所の顔を見知って居るのじゃ。誰も知るまいが」 「今が戦いどきじゃ。妹一人質にとってある」 「それは知らぬ。ただ一人を除いてはの」 「その一人は御台所 : : : が、御台所ははじめからそれを一言 そこへみんなを寝所へ案内した若侍たちが、後片付けに い含められて嫁いで来ていたら何とする。つまり誰も見知戻って来たので、作左衛門の方から先にムツツリと席を立

6. 徳川家康 8

「われ等の策は、無心などではないぞ殿」 京に戻って、どのような場合に、どのような話が出ても この士風を忘れて弱味をさらすようなことはあるまい。 「前口上はよい。本筋の策を申せ」 「申さいでか。わしの策は関白にあやしい節や無礼なき ざしが見えたら、すぐさま尾張へなだれ込めということ家康は到頭笑いだした。 じゃ。まず尾張へなだれ込んで清洲から岐阜をおさえ、そ「すると作左、そちの言葉に従うと、明日にも兵を出さね の上でうしろを向いて号令すればこと足りると申しているばならぬことになるのう」 「なぜでござりまする」 のだ」 「茶屋がもう、相手にあやしい節があると知らせて来てい 「号令とは、誰に向って発するのじゃ」 「東を向けばみなまだお味方じゃ。北条、上杉、伊達とある」 る。九州征伐のように行くものか。関白にお花見などはさ 「それは話の本筋ではござりませぬ。殿は何となさる気 せてはおかぬわ」 か、その策を申されませ」 「わしの無心と申したのはな、人事をつねに尽せという意 3 茶屋四郎次郎があわてて口をさしはさんだ。 「それはもう、たしかに本多さまの申すとおり : : : それゆ味じゃ。人事を尽した上での行動には、もはやアレコレと え、関東のことが片付くまではそのようなことも申出はす気は使うまいぞと申したのじゃ」 くせ 1 一と 「これは廻りくどい。曲言じゃ。わしは関白が国替えなど 士よしカ・ : と、私は申上げました筈で」 「黙られよッ茶屋どの、今のわしの意見、これから殿がおと言い出した時のことに限って申しているのに」 「その時には、何でそちの指図を待とう。さっさと北近江 作左の 持ちという策をここで聞かねばならぬ。さ、殿ー まで一挙に出るわ」 策は申上げました。こんどは殿の番じゃ」 「フーム」 家康はようやく胸のしこりが溶けて、おかしさがこみあ 「考えることはあるまい。わしに国替えを命じるようでは 茶屋四郎次郎は、もう充分に作左に依って代表されたこ東のことが治まらぬ。東が治まらなくなれば日本の不為 め、日本の不為めを敢えてするような人の下風に、なんで の士風の前に困惑しきっている。

7. 徳川家康 8

を聞くと、この作左は片腹痛くて虫酸が走る : ・しちしち 力」 「直々お話し中ゆえ、お控えなさるが宜しかろうと申した名は申さずともお分りでござろう。体裁ぶって、この戦国 の世にありながらさような事を申した者に、ひとりでも天 のじゃ」 「これは聞き捨てならぬ。他家の事はいざ知らず、徳川家下のことなど思う者がござりましたか。みなわが身、わが では、主君の一大事と見た時に、槍を納めたり、ロを噤ん野心のためでござった。わが身のためには、親兄弟も殺し 合う : : : そのような世の中で、信じ得ないことは仰せられ だりはせぬ習わしでござる。君臣水魚、言わねばならぬこ るな」 とは何時でも申す」 家康は音をたてて汁「これは、いよいよもって意外なことを承る。本多どのも 有楽はチラリと家康を見やったが、 をすすっているので、やむなく又、作左衛門に向き直っお聞き及びであろう。関白殿下はおみすから異心のない証 拠を示せとあらば、大政所さままで、お遣しなさろうと仰 「すると、本多どのは、義兄弟とならせられても上洛にはせられておわすのじゃ。それがお分りにならぬとは : 「分らぬ。さつばり分りませぬ ! そのようにしてまで天 反対じゃと言われるのじゃな」 「いかにも。それがしは関白どのなど、一向に信じられぬ下が取りたいものかと、いよいよ呆れてゆくばかりでござ ゆえお止め申す」 「黙られよ ! 」 「これは又思いがけぬ事を聞くものじゃ」 ついに短気な富田左近がききかねて開き直った。 「思いがけぬことではござらぬ。われ等が承って居るとこ ろでは、この縁談は、われ等の主君を上洛させるための手と、その時になって家康ははじめて、 「控えよ作左」 段 ! 上洛させて有無を言わせず討取る手段、と見てとっ てお止めせずに済むものではござるまい」 盃を取って、自分から有楽へさしながら、 「その方たちの頑固さにも困ったものじゃ。よいかたた 作左衛門はそう言うとぐっと上体を使者の方へねじ向け いまは芽出度い縁談の話し中じゃぞ。関白どのが、今すぐ て、 「そもそも、天下のためとか、日本国のためとか申す言葉上洛せよと仰せられているわけではない。詰らぬ先走りを っ ) 0

8. 徳川家康 8

川家にとっては禁可であった。 「その事じゃ、戦さは人数ではないからの」 それをわざわざ作左衛門は数正に言わせようとしている 「そうとも、何の上方勢など : : : 現に小牧、長久手で、眼 : それがわかるだけに、 にもの見せてあるではないか」 「静まれ、騒ぐな」 「それに、味方は、甲信の地でいよいよ山駈け野駈けで鍛 家康が制止したとき、数正は、 えて居るでのう」 ( 到頭、来るものが来た : : : ) 再び騒然としてゆく人々の表情を、数正は意地わるいほ そんな感慨で、腹立ちとは全く違った孤独を感じて口をど静かな眼で見まわしていった。 つぐんだ。 どの顔も逞しく、その限りでは頼母しかった。しかし、 「数正は意見を申したまでじゃ。採る採らぬはわしの胸に その怒りは浅く見えた。いや、怒りというより、それは一 ある。静まれ」 種奮然とした凛々しさで、悲しみの底をのそかぬ眼であり 家康はもう一度みんなを叱っておいて、 姿勢であった。 「しかし、数正も、みなが人質を出さぬというのならば、 と : : : 思ってきて、数正カノ ; 、ツとなったのは、家康と思 それに従う : : こう申すのだな」 わず視線の行きあった時であった。 「やむを得ませぬ。決定はお館のなされますることゆえ」 作左の眼の中に湧きだしたふしぎな悲哀が、ここでは、 「作左はまだ何か申分があるか」 さりげない冷静さのかげにあって、ドキリとする程深く悲 「ござりまする。数正の意見は、意見としても腰抜けじゃ。 しくかくされている。 戦うても十中七八まで負けであろうとは何というたわ言。 数正は、その瞬間に、胸の中がカーツと一度に熱くなっ っ ) 0 いざ合戦となって見よ、おれ一人でも秀吉の首位掻き取っ て来てみせてやる。そのような勇士は殿の旗下に、箒で掃 ( 家康と作左の二人だけは、わしの言うことがよくわかっ くほど居るではないか」 ているのだ : 数正は、しかしその頃から、作左の眼の中にふしぎな悲数正は軽く頭を下げた。 哀のいろの動きだしているのをハッキリと読みとった。 「恐れ入りました。作左のおだてに乗って、ついうかうか

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′、、もない」 「な、なんとなされました本多さま」 「突然そのように仰せられると : しかし正信の答えはない。 「いやいや、さすがはお館の目がねに叶うた茶屋どの、こ まるで平伏でもするかのように低く頭を垂れて、かすか れで正信も安心して大事を打明けられまする」 に肩をふるわしている。 な、なんとなされましたので ? 」 茶屋は再び唖然とした。 「本多さま ! どうやら今までは正信の試問で、ほんとうの目的はこれ から先にあると一一一一口、つことらし い。いよいよ出でて、いよい 「どこそお加減でも : : : 人を呼びましようか本多さま」 よ奇怪な性格の持主と言うべきだった。 「いやいや、誤った ! わしがあやまった : 正信は神妙に指尖で眼頭をおさえてから、もう一度頭を その時になって茶屋四郎次郎は、本多正信が泣いている 下げた。 のでは ? と、はじめてそれに気がついた。 「お館さまより、こなたの人物については、いろいろ伺う ( しかし、何のために : 8 て居りながら、正信は、この目で確めねば安心ならぬ不遜 3 と、考えて来ると、いよいよわからなくなって来る。 すぐさっきまで、あれほど言いたいことを言いまくってさを持っていました。許して下され」 いた相手が、不意に両手を突いて泣きだしたのだから無理「本多さま、まずお手をおあげ下され。茶屋四郎次郎、ご 返事に困りまする」 もない 「いや、聞きしにまさるご心底 : : : 改めて申上ぐるまでも 「ったー ないことながら、今までの話は水にお流し下され」 正信はもう一度呻くように言って、上躰を起した。 「茶屋どの、許して下され。お館さまのご信任厚いこなた 「そして、これから正信の申すことに、遠慮のないご意見 を、試そうとした正信の疑い深さを許して下され」 が承りたい」 「と、言われると、あの茶屋を試そうとて」 正信は三度人が変ったかに見える、ふしぎな誠実さを見 「、いにもない浅井の姫のことなどあれこれ申してみまし オ ! わしの小さな智恵など及ぶべせて言葉をつづけた。 た。申しながら恥入っこ

10. 徳川家康 8

「されば、彼等を、まことに喜ばせようとの思召ならば、第一と評されている宗室。その宗室の言葉だけに秀吉もす 殿下おんみすからデウスにひざますかれ、政治をあげて彼 ぐには次の問いが発せなかった。 等の教えのままになさるより他には : 「双方から、相反した命令が同時に出てみなければ去就は 「なに、政治も彼等の教えのままに ? わからぬか : : なるほどの、フ」 「はい。そうせずば、彼等はいっか殿下を異端となすこ 「恐れながら、故右府さまも殿下も、その点では少々虫が と、南蛮各地よりの事情に徴して明らかと心得まするが」 よすぎましたようで。信仰と政治は別 : : : そうした何の訓 「宗室 ! 」 練もなさらずに、勝手に布教をお許しなされた。当然その し」 揺り返しは参るわけで」 「すると、わしがデウスの家臣にならねば満足せぬと言わ 宗室は事もなげに言って、静かに茶碗へ手をのばした。 れるのか」 十 「仰せの通りにござりまする」 「ではたすねるが、当今切支丹を信ずる大名どもの数も多秀吉は、しばらくじ 0 と宗室を睨むように見返して、 い。彼等は心底ではデウスの家来であってわが家臣ではな いと申すか」 宗室の言葉は、今ごろまで切支丹に対して何の対策も持 「殿下、それは難題にござりまする。宗室はご覧の通り商っていなかった秀吉のうかっさを詰るように耳にひびい 人あがりの一介の数寄者 : : : そのようなことは、切支丹のた。 命令と殿下のご命令とが利害相反したまま、同時に発され ( 南蛮との交易を望む以上、充分それは考えておかねばな た時でなければ判明致すことではござりませぬ。仮説のおらぬこと、それを今更 : : : ) たすねは迷惑に存じまする」 相手が落着きはらって茶を楽しめば楽しむほど、無言の 詰問は胸に痛い。 と、秀吉は言葉を切って茶を喫した。 そこで秀吉は、 がらりと口調を変えていった。 頑固者ーーーというよりも、恐らくその胆の太さでは九州 「そもそも、この九州での、信徒の数はいかほどであろう 326