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検索対象: 徳川家康 9
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1. 徳川家康 9

田編 氏族 ー忠継リ忠雄 ー忠雄 同 氏 ー政綱 土 浅野氏 浅光時 ( 土岐氏より ) ー光忠ー光盛ー国盛ー頼隆・ : 長勝。 氏 リ長政ーー幸長Ⅱ長晟ーーー光晟 の ー長晟 長治 ー長慶 並日直 一三ロは 系 系一 利昌 ( 土岐氏一族 ) ー利勝ーー利長 利房 池田氏 元助 恒利 ( 源頼光裔 ) ー信輝 ( 勝入 ) ーー輝政 長吉ー長幸 利利 益重 高満 宗満宗信 鳥居氏 重氏 ( 平氏支流 ) : ・ ( 十五代略 ) : ・忠明ー忠吉 黒田氏 女子 識隆ーー孝高 ( 官兵衛、又如水と号す ) ー、長政ーー忠之ー「 ー高友ー利高 某ー長興 ー友氏ー利則 ー高政 重孝ー直之 ー忠宗 ー本翁 ( 意伯 ) ー元忠 ( 彦右衛門 ) ー ー忠広 高教ー高宗ー高政ー重隆 ー信長 康忠 ー忠政 ( 新太郎 ) ー ー成次 ー忠勝 ー忠頼 忠昌 女子 ( 井伊直勝室のち離婚 ) ー女子 ( 酒井忠勝室 ) ー定盛 ー女子 ( 奥平忠昌室 ) ー女子 ( 真田信重室 ) ー女子 ( 大河内忠雄妻 ) ー忠春 ー女子 光之 ー之勝

2. 徳川家康 9

「これは少々言葉が過ぎましたかな。そのようなことは先 を取られませ。その構えを取るためには、大納言と関白が 不仲であってはなりませぬ。関白は大納言を活し、大納言刻ご承知だったかも知れぬ。お気にさわったらお許し給わ は関白を活用する : : : その道は必ずあるものとしてご思案れ」 そこまで言って天海は思い出したように、 なされませ。この理をお生かしなされば、そこから産れる ものは怨みでもなく、贈しみでもなく、必ず天下有用の芽「そうそう、そう言えばこの城には、まだ鎮守がござりま せぬそうで。存応どのも気にして居りましたが : : : 」 となり・学 ( しよ、つ」 家康の眼はふたたび光りを宿して来た。 と、巧みに話題を変えていった。 天海の指摘のとおり、二人が国内で反撥しあう気はなか った。しかし、、いとはうらはらの一一一一口葉を飾って「無 , ーーー」 家康は天海の話に乗っては来なかった。 以前の対立が、そのまま二人の間に残っている事は蔽うべ どうやら今までの会話が深く家康を捕えたらしい。彼は くもない事実であった。 くつろ 「種子は、種子のままでは発芽は致しませぬ。大地あってゆっくりと脇息を前へ置き直して寛いだ表情になって身を 発芽する。関白を大地と思われませ。大地には、肥えた土乗り出した。 壌もござれば、瘠せた土壌もござる。その意味では、関白「ご僧は、おりおり堺へも参られたそうじゃの。利休居士 は決して上々の土壌ではないかも知れぬ。といって、そのとはお会いなされたかな」 土壌をきらって種子を腐らすは愚かなこと。これが、第二 「会いました。あのご仁は、巧く関白を活用なされました の相対を悟った者の歩み : : : 」 「お待ちなされ、すると、ご僧は、この家康を、何の種子「あれをしも、活用と言われるか」 と、こ判断なさるのじゃ」 「仰せの通り、茶の道は、関白の派手好みを土壌にして、 「知れたこと、最も大切な、平和の種子と思えばこそ佗びの花を咲かせました。これで茶道は当分すたりますま し」 「ふー」 「なるほど、そうかも知れぬ。して堺では居士の他に誰マ 9 3

3. 徳川家康 9

「ほ、フ」 はり彼には彼で目算があったらしい。 「御みずから双方のお顔の見える場所にあっては指図がし それほどよく気の付く秀吉ゆえ、家康も、その命には否 にくい。そこで、まず堂々とご出陣あって、然る後に陣中やは言わずに従わねばならぬと言うことだった。 から大奥へご命令が飛ぶ : ・ : こうなりますると、北政所も 「すると、殿下ご自身のご出馬は春のうちかの」 ご違背はなりませぬし、離れてあってはご口論もなりかね「されば、三条河原に石の大橋の架り終った頃 : : : この前 まする」 の九州征伐の前例もあれば、三月一日、禁裏より節刀を賜 : なる程のう」 り、新大橋を堂々と渡ってご進発なさる : : : と、考えられ 「その辺にぬかりはござりませぬ。多分、陣中から淀の君て、さして違いはござりますまいかと存じますが : ・ : ・」 の方へは、そもじが身辺に居らぬと淋しい。若君は大坂の家康は、また重たげにうなずいた。 城に入れて、即刻陣中へ参るようにと : 「なるほど三月一日 : : この前もそれで禁裏からまで、お 見送りがあったのう」 ひと 「そして北政所さまの許へは、留守中は若君のこと、偏え「桜の花のほころびかける頃 : : : 道中は、お花見でござり にそなたに頼み入る。又、長滞陣となるゆえ、身辺のこと は淀の女房を呼び寄せて世話させる。さよう心得おくよう「大谷どの」 し」 : これで双方、まずまずご納得かと」 吉継はそう言うと、よく光る眸をまたひたと家康に据え 「北条父子は、大きな損を致しましたなあ」 て言い直した。 「いかにも。少々身の程を知らなすぎましたようで」 「お花見の発進では九州のおりの例もあるのに : 「そのような些末なことまでご深慮の行きとどく殿下のこ ・ : 今度は とゆえ、うかつに否やを申すと、後々まで悔いの種が残りそれに、捨丸さまと北政所の折合いつける策まであったと まするでなあ」 家康は、軽くうなずきながら、笑いをこらえた。 「大納言さま、その辺が人間の運不運でもござりましよう 吉継が、思いがけない饒舌を : : : と、思っていたら、やか。日の出の勢いで関白太政大臣までお進みあったところ 106

4. 徳川家康 9

敢えず上洛した。折角の思し立ちゅえ、充分策を練られる秀吉は、ふたたび上洛して来るという家康をおさえて奥 ように : : : そう言うてこそ向うも家康をたのませられる。 州に備えさせた。むろん家康だけでは不安なので、甥の羽 たとえ感情の一片たりと関白と衝突しては、日本国の大き柴秀次、蒲生氏郷、伊達政宗、上杉景勝等の五人に九戸政 な損じゃ。なるほどわが身の浄土ゆきは、しばらく見合せ実を討つように下命した。 ねばならないところじゃ : 幸い六月に人って伊達政宗が宮崎城を攻めておとした 本多佐渡はもう何も言わなかった。家康の心に大きな龍 が、これとて油断は出来ない気がした。政宗と蒲生氏郷の が宿ったらしい。その眼は活き活きと宙へ光って知が桜い間こ 冫はいぜんとして面白くない空気がそのまま残って る。 ろに輝きだしている : そこへ宗義智から、自身わざわざ朝鮮へ出向いていって 王に掛けあってみたのだが、王は明国への道案内はご免蒙 無常の秋 るという返事の由の知らせがあった。 国内でも、大陸出兵に双手をあげて賛成という空気はな い。利休によって代表された堺衆をはじめ側近の石田三成 までが、何彼と言うと思い止まるようにと匂わす。そうし その日秀吉は印度の副王に贈る返書の草案を読ませて聞た空気の中だけに秀吉は宗義智の交渉についても疑間をさ しはさまずにいられなかった。 き、奉行に全国の検地に取りかかるよう命じておいて淀の 城に向った。 ( ーー・あ奴、いい加減なことを申して、朝鮮の機嫌を取っ 京の暑さは、いつもより秀吉の身にこたえ、機嫌は必ずているのではあるまいか : しもよくなかった。 そう言えば宗家はもともと朝鮮との密貿易で立って、 この春、家康が江戸に帰ると同時に、奥州の南部信直のる。義智にとって大切な取引先なのだから秀吉の言葉が果 一族、九戸政実が糠部城によって叛旗をひるがえした。そしてそのまま取り次がれているのかどうか ? と考えて来 れ以来、考えてみると不快なことばかりが続いている。 ると疑いは深まるばかりだった。 345

5. 徳川家康 9

上半身を乗り出すようにして右手をふった。相手が答えら 「いいや、それは慎しみましよう。お二方のご迷惑になっ れない立場にあるのを知っていて、そうしなければいられてはなりませぬ」 ないほど嬉しかったのだ。 「もうおひと方は ? 」 「細川忠興さまと、古田織部正どのじゃ」 「あ、そうじゃ。娘が来て居りましたな。いや、ご好意忝 実際、ここまでこうして見送りに来て呉れるというのは けのうござりまするが、これにはもう充分名残りを惜んで 並大抵の好意ではなかった。秀吉を激怒させ、上使にやっ来ました」 ののし て来た富田、柘植の両人を罵り返した利休なのだ。いや、 「よし、船を出せ」 その他にもう一人、恐らく意地わるく利休を監視している と、信能は部下に言った。底の浅い川船は底を撫でなが 石田治部少輔の眼が光っているに違いないのだ。 らとも綱を解いて動き出した。 ( さすがに細川さまじゃ ! ) まだ見送人は双方とも立ったままで、その距離は次第に これはただに茶道への理解だけで出来得ることではなかひらいてゆく。 った。治部何するものそ ! そうした剛愎な勇気を必要と 利休の眼にじっくりと涙が湧き出したのはタ陽がかげつ幻 することであった。 た時からだった。 乗物は川岸で停った。 お吟は二人をはばかって、船着場の上手の堤をうごかな 依然として二つの人影はタ陽の中へ立ってじっと利休を 。先ずお吟が見えなくなり、やがて細川、古田の二人の 見つめている。 姿も視野から消えた。 利休は静かに渡し板を踏んで屋根船の中に坐るまで、二 こうして利休が堺へ下ってゆくと、その翌日、問題の木 もどりばしはりつけ 人の他に娘のお吟もまた来ていることを忘れていた。 像は聚楽の大門の戻橋で磔に処された。木像の磔という かたじ 「忝けない。何よりのはなむけを頂きました」 のは前代未聞のことなので、その前は身動きならぬほどの 見物人だったが、それと同時に、秀吉は加藤清正を遣わし 「お会いなさるかな ? 」 背を向けたまま、堺まで護送してゆく上杉家の岩井信能て、大徳寺をも取りこわすようにと命じるのだという噂が 立った。 が声をかけた。

6. 徳川家康 9

掛錫し、更に武州の蓮馨寺から甲斐に飛び、越後にわた り、会津に赴き、又上州に引返して世良田の長楽寺で葉上 家康から天海に城へ来るよう知らせがあったのは、その禅を学んだと書いてある。 川越の北院に赴く前にも会津の天寧寺から佐竹義宣に迎 翌々日の十月一日であった。 存応から本多佐渡守正信を通じて天海の人となりは詳細えられて、下野の河内郡にある不動院に招じられてあった に伝えてある。それだけに、ところどころ修理したあとのというのだから、並みの凡僧では無いらしかった。 見えるがらんとした本丸の書院に通された時には、やって家康は師礼は取らなかったが、対等の客として自分のわ 来た天海も、それを迎える家康も仕合の場にのぞむ兵法者きに天海を迎えた。 によく似た緊張のいろをかくせなかった。 決して顔には出さなかったが、その眼は肉太な眼窩の中 家康にとっても、この陸奥の寒村に生れた一僧侶が、信でチカリ、チカリと光っている。 長と知り、秀吉と知り、信玄と知り、謙信と知り、政宗と 天海の方は家康を全然無視して、存応の借着らしい紫衣 知り、芦名と知り、佐竹と知り、北条と知った存応の親友で本多佐渡のすすめる円座の上へすわっていった。 というのだから充分興味はかき立てられている。 時刻は五ッ半 ( 午前九時 ) 。 しかもその学歴は更に一層面白かった。 窓の障子には小さく斜めに陽が当っている。 十一歳で高田の龍興寺に人り、法印舜幸のもとで得度し 「ご僧は芦名盛常の一族じゃそうじゃの」 てから、十四歳で宇都宮明神山の安楽山粉河寺に移って皇「いかにも、陸奥国大沼郡の高田に生れました」 舜権僧正の子寮に入り、十七歳で叡山にのばって神蔵寺の 「ご出家の動機は、何であったかの」 実全に学び、更に園城寺では智証流の法門を問わず、勧学「貧乏でござる。貧乏の上に十歳で父を失いましたゆえ、 少しでもわが家の暮しを助けたいと存じて出家致しまし 院の尊実について倶舎の性相を学んだというのである。 その後も殆んど一カ所にとどまることなく、奈良の興福 た。世に貧ほど罪深いものはございませぬ」 寺では空実僧都について法相三論をきわめ、遠く飛んで下「存応上人の話によれば、ご僧はどんな大寺の住持にもな 野の足利学校に儒学を求めるかと思うと、上州の善昌寺にれる身で、好んで旅ばかり続けられたと承ったが : : : 」 とくど がんか