光悦 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 9
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1. 徳川家康 9

くして家康を観察しているように見える。 このように近く一座して 初対面ではないらしかったが、 の話などは始めてなのに違いない。 「ど、つじゃな ? 」 と、家康は言った。 「北条家には名刀が多いであろうな」 若い光悦はちょっと唇をゆがめかけた。さりげない相手 食事を済して蕉庵が帰ってゆくと、入れ違いに徳川家の お使番小栗大六と、刀剣目利きの本阿弥光二の伜光悦とがの話しぶりに、深い意味を感じ取ろうとして、意識過剰の かたちになっている。 やって来た。 聚楽第内では話しにくい情報の交換は、いつもこうして「さしたる名刀も見受けませなんだが、実戦に用い得るも 茶屋の許でするのだが、みなが集合すると、永井直勝は縁のは無数にござりました」 「ほう、実戦に用い得るものと言われると」 へ出て見張り役についた。 京の市街はまだざわざわとざわめいている。大茶会の昻「相州ものでござります」 弾き返すように答えて光悦は話題を転じた。 奮の名残りが市民の間で消えがたいのであろう。西から北 「徳川さま姫君が、若君氏直さまご簾中にわたられまする へまわりかけた風の音が時々締めきった障子をかすかに鳴 そうで」 らしていった。 「本阿弥光悦どのは、つい最近に小田原から立戻りました 「そうじゃ氏直はわしの婿じゃ ; ので」 「ご家中では、まさかに徳川さまが、殿下の御妹御とのご 縁を重しとして、わが愛姫をお捨てなさることはあるまい と、小栗大六の言うあとから、 : と、もつばらの評判でござりました」 「直接おたずねのこともあらばと、お呼び申しました」 ・ : 」家康は笑い出した。 茶屋が、若い光悦をいたわるように口を添えた。 光悦は、町人にしては光りすぎる眼を据えて、全身を固「わしはそのようなことをたずねて居るのではない。た 立正夜話 れんちゅう 7

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どのお方が欲しい。それがこれからの日本国の運不運を決陽院の生涯だったと一一一〕える : めるであろうと : ( いったい彼女の一生のどこに光りがあったであろうか : 「いや、お待ち下さい茶屋どの」 光悦はテレた様子で四郎次郎をさえぎった。 しかも、その不運の糸はまだ完全には断ち切れす、家康 「折角、信長公以来のご苦心がみのって、とにかく戦乱はの二女の督姫はいま、小田原の氏直に嫁いで戦乱の風の匂 いにおののいている。 終りかけた。その仕合せを外から突き崩されては意味がな そこでどこまでも内から立正の実をあげねばならぬ : 督姫だけではない。現に家康が、聚楽第へ伴って来てい : と、こう申すのでござりまする」 る朝日御前など、関白の妹に生まれていながら、すでに生 ける屍ではなかったか。 「ただのまとめ役ではなく、立正の心を奉じたお人 : と、こう言われるのじゃな ? 」 ( ここらで乱世の糸を断たねば : : : ) 「その立正が、まとめ役 : : : それ以外にはまとめ役はない 断って呉れと、祖父も祖母も、父も、妻子も、みなひと : と、こう存じますので」 しく家康に迫っている : 家康は、つなすきはしこ、、、、 「光悦」 オカ改めて質間はしなかった。 「十 5 、ツ 家康自身の眼もすでに光悦と同じところを見つめてい し」 る。敢て他を語るまでもなく、家康自身の経て来た過去「今宵はよい心の糧を得た」 が、そのまま「平和」の尊さを示す鏡でさえあった。 「お恥しゅ、つござりまする」 祖父の清康は二十五歳で陣没した。 「わしも、こなたの言う、立正を心掛けよう。こなたもそ 父の広忠もまた二十六歳で、家臣に刺された傷が原因での心を市井のうちにひろめて呉りやれ」 果てている。 「ありがたき仰せ、光心にきざんで努めまする」 正妻の築山御前のみじめな最期も、嫡子信康の哀れな生「茶屋、造作をかけたのう。では学者のこと、頼んでおく 涯も、みな乱世の求めた犠牲であった。 そ」 いや、それよりも更に哀れに想い出されるのは祖母の華家康が起ちかけると、小栗大六が、あわてて立って供揃 8

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そうすれば、或いは人間としての秀吉の、もう一つの面 らも潔癖で負けらいで、世に言ういっこく者であった」 : と忠 しかし、それだけにどちらも事物の本質を見きわめなけを発見して、光悦の心を開かせる原因にもなろう : 告して呉れているのだ。 れば承知出来ない純真さを持っている。 光悦は日蓮宗を信じ、利休は禅に参入しながら、どちら ( それも、そうかも知れぬ : : : ) と言って、いつも権力者の前から敗退していて、それで も一世の師表でありたいというような、野心に似た覇気を よいのであろうか。祖師日蓮はその敗退をこそ最も戒むべ もっている点までが酷似していた。 」と軽くいなされたのき卑怯と訓えているのではなかったろうか : その利休に、光悦は「若い 利休が二ぜん目の飯に口をつけた時、山菜の蕗に手をつ だ。これは相手の言い方が軽ければ軽いほど、手きびしく けていた光悦が、いきなり箸を投げ出して泣きだした。 突き放されたことにもなる。 利休は済していたが「給仕に出ていた弟子はビグッと躰 光悦はいま、その無念さと、性格から来る鋭い反省とを を波打たして一ひざ退った。それほどはげしい光悦の動作 噛みわけているのであった。 ( 居士は、秀吉でなくとも、利休や光悦のような生き方をであり泣き声であった。 「ヒヒ : めざす者は必す時の権力者とは衝突するものだ : と、光悦はひきつるように肩を震わせて両鬢を掻きむし そう言いきって聞かせて呉れた。 っ」 0 ( そうかも知れない : 「わしは : : : わしは : : ここまで来ていて、何も、成し得 いや、或いはそれが政治をめざす者と、求真の道をめざ : そう思いながぬ人間だった : : : 」 す者との宿命的な相異に違いあるまい・ 「そうではない ! 」 」から・米る ら、何とも納得出来ないのはやはり「若さ と、利休の声があたりを押えた。 怒りなのであろうか ? 「この次、同じような困難に出会うた時、こなたは、道の 居士はここで怒ると秀吉のために自滅させられるぞと警 告して呉れている。それよりも、病気を言い立てて京へ戻ために敢然と死ねるほどの経験をしてのけたのじゃ」 「なに、次には敢然と : れ : : : と。 ユ 97

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だ、刀の話をしたまでじゃ」 家康はゾグリとした。 ひとみ ( 何という珍しい気魄を持った眸であろうか ) 「そうじゃ。実戦に向くとか向かぬとか申したの」 年齢はまだ三十にはならぬらしい。 「はい。申しました。相州もの : ・・ : と、申上げましたは、 しかも町人の身で、千軍万馬の間を往来し、鍛えに鍛え 相州一円、鎌倉から三浦三崎のあたりまで、百姓どもに総 て来ている家康に向って、一歩もひかぬ気力で対して来る のである。 動員を下しておる儀にござりまする」 「なに、それも刀の話か ? 」 ( 本阿弥光二は、よい伜を持った : 「武力の話でござります ! 」 光二と家康は、家康が今川家へ人質となっている頃から 光悦はもう一度弾き返すように答えてから 、いかにも生の知己であった。今川家の刀剣を磨きにやって来て、家康 活力に満ち浴れた感じで眼を輝かせた。 の竹千代とうまが合い、彼のためにわざわざ拵えを作って 「われら親子は、代々日蓮宗を信仰致しまする」 呉れた一腰を家康はいまも大切に持っている。 「なるほど : ・・ : 」 「ほう、すると、この家康は、そちの信仰の意に叶うたの 「それゆえ、立正安国の祖師の道は終日われ等の念頭を離 力」 れぬ祈り : : : 刀を鑑るも旅をするも、磨くも飾るもみなそ「仰せの通りにござりまする。信長公ご在世の折から、た の一念に連りまする。その心をもって見参らすると、恐れ。こ オ一筋に筋目を通して、安国の道のみ歩ませられた武将 ながら徳川さまご一念も安国にあらせられる。これそ得難は、恐れながら日本国中に、徳川さまを他にしてはござり き仏縁と、命じられませぬことまで、仔細にさぐり来ってませぬ。それゆえ、われを忘れて差出口を致しました。お 」ざりまする」 許し下さりませ」 そう言うと、光悦の眼は星のように光ったまま、びたり家康は真顔で深くうなずいた。 と家康の視線に吸いついた。 「差出口ではない。ありがたいことじゃ。宗旨は違うて も、わしの心オカ 、、こし、に立正安国の他にはない。あったら 仏に罰せられようでの」 7

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「おお、勝手にさをて頂きまする。居士 ! 」 茶碗はどうやら、今、戦場にある古田織部正の焼かせた てんしようぐろ 「天正黒ーー」らしい。 「まだ何か用があるかの」 それをそっと光悦にすすめてから利休は言った。 「それではこなた様は、茶の道を通じて、関白をお導きな 「どうじゃな、新しい茶碗を高く売りつける、金ばかりが さろうという、以前のお志は捨てられたのじゃな」 まいさおう 「いいや、以前も今も、格別変ったつもりはないの」 目あての売茶翁じゃという悪口は聞かなんだかな」 「と、仰せられると、以前からそのようなお志は無かっ 「聞いては居るが今日までは : : しかし、これからは〔信じると一一一口わっ た。祖師日蓮が鎌倉で辻説法なされたおりのような、激し「信じなかった : しやるか」 いご気性はお持ちなかったと言われるのじゃな」 勢い込んで光悦がそこ迄言うと、利休は舌打ちして笑い光悦は答える代りに掌の中の茶と茶碗を賞味しようとあ せっていった。 「こわやの、怖わやの。今日蓮が何を言うやら : : : さ、湯 ( 若い ! ) と言われた一言が無性に彼をいら立たせる。果 たぎ が沸って来た。鎮魂のために一ぶく点てよう。まず、気をして自分の怒りは軽卒だったのか ? それとも相手の世故 しずめて、それからあたりを見直しなされ。な : の汚れが、こっちの若さを瞞着しようとしているのか : それにしても茶の美味さはまた、何という意地のわるさ 利休は光悦の怒りを無視して、弟子の運んで来た風炉ので彼の味覚を引っかきまわして来るのであろう : ・ 前に坐った。 利休はとみると、もう意地のわるい三白眼になって、一 燭台を引寄せて茶器を調べだすと、さすがに光悦にはロ碗の茶が光悦の内部に、どうした変化をもたらすかと、そ をはさむ隙は与えない。 れをじっと見まもっている様子であった。 まさに「鎮魂ーーー」の茶であろう。ふくさを捌く手許か光悦が茶碗をおくと、利休は言った。 ら、目も心も時空の中に溶けこんで、あるのはただ暮れお「どうじゃな、心が洗えたかな」 「さ、それは・ ちた谷間の静寂だけであった。 ふろ まんちゃく 190

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豪傑、かくれた名将を世に出してやれと申して居るのがわほど徹底した鍛冶も、刀も、自分も他人も一緒くたに侮辱 からぬか。よし、ムマ日はにし、 よく考えて返事に参れした話がまたとあろうか。 ( 日蓮の唱えてやまなかった「立正ーーー」を無二のものと こうして秀吉の前から退出し、ものの二丁も歩かぬうちして捧持している光悦に、そのカタリの片棒を担げと言う のだ : に、光悦の胸の憤怒は爆発した。 もともと秀吉の派手好みに反感を抱いていた光悦はこれ 次第に、秀吉の命令の内容がわかって来たのだ。褒美に 領地はやれぬゆえ、茶碗を与え、刀剣を与えてゆく : : : そで完全に秀吉を軽蔑した。部下にニセモノの名刀を褒美に こまでは許せる気がした。まさにその通り、日本は呉れ好やって、みずからは黄金の釜で茶を点じる : きの秀吉が、思う存分に分けてやれるほど広大な島国では そうなると光悦は、無性に家康が懐しくなった。家康は いまでもきっと秘かに北条父子を救う道はあるまいかと人 間らしい苦労を重ねているに違いない : : : そんな想いで、 しかし、それとその日の話とは全く別であった。 刀剣は兇器ではない。実用第一の器具でもない。これ家康の移ったばかりの今井の本陣を訪れて、しかしここで は、これを以ってわが身の正義を護り、一荘一国の正義をも光悦の若さと潔癖さは見るもむざんに打ちのめされた。 護りぬこうとする、秩序維持の悲願をこめた武人武将の魂家康はこの時もはや、北条父子の滅亡し去ったあとの、 であり重宝であるべき筈のものであった。 関八州の治め方に冷静な画策を傾けていた。 たばか 言わば正義の象徴とも言うべきその刀の鍛え主の名を詐その意味では秀吉といささかも選ふところのない不潔さ にみちて見えた。 れとは、何という思いあがった権力者の増上慢であろう 無銘の刀剣は、たとえどのような名刀に見えても鍛えた 人にとってはどこか意にみたぬところがあって名を刻まぬ光悦が今井の本陣を訪れたとき、家康は、本多佐渡を相 手に、しきりに侍帳を繰りながら筆を入れていた。 場合が多い。 : これ「ーーー光悦か、殿下のご機嫌はどうじゃの」 それを日本一の銘刀と偽って褒美にやろうとは : 184

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平になった喜びに : 老母がござりまする」 「されば」 「ふーむ。だいぶ話がそれたようじゃの」 と、光悦は考えて、 「この老母は、光悦が他家から頂戴致しました絹物を着せ たいと存じて贈りますると、その喜びを皆に分っのだと申「粥供養を仕りまする」 し、これを何十枚かの袱紗にして、出入りの職人たちの女「粥供養とは ? 」 「洛中、洛外の寺院の庭に大釜を据えまして、当日は市民 房子供に与え、かって一度もわが身の着物に致しませぬ。 の老幼と共に粥をすすって過しまする」 これをもって、光悦が答えご推量願わしゅう存じまする」 「手 6 、つ , ・ 家康は思わずポンと膝をたたいて、 「ど、つじゃ ~ 余屋」 「関白もない。花子 ( 乞食 ) もない。町人もない。武士も すす わがことのように四郎次郎を振返った。 ない。みながおなじものを啜りおうて新しい世に出発す 四 「こなたの夢は、大きいのう」 「そうか。こなたの母御は、絹物を着物とせずに皆にわか 「はい。そしてその折みなに申してやりまする。かくのご つか」 とく、釜の用意もあり、非常のおり、飢饉のおりのために 家康に言われて光悦はもう一度笑った。 米も積んである。これは天子の命にて、この釜、米とも 「老母に言わせますると、それがまことの茶の心のように に関白がしかと預りおくゆえ、安堵して家業に精出すよ 、こざりまする」 う。そしてその方たちが、みな温い飯にありつくまでは、 「なるほどのう、ではもう一つたずねたい。よいか、決し関白自身、今日のこの粥、おし頂いて啜りつづけようそ てこなたを試しているのではない。家康自身、よい導師にと」 家康は、あわてて聞き返した。 出会うたつもりで訊ねるのじゃ」 「光悦よ。すると、関白は、毎日粥を食して過すのかよ」 「これはまた、もったいないことを ! 」 「こなたならば、あの大茶会の代りに何をやるそ。世が太光悦はまた無邪気に笑った。 かゆ ききん

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鋭く截ちわけて、逡巡を許さぬものがその面魂に感じられ「英雄のご心事はわれ等の計り知れないところ : : : と、ご る。 容赦願わしゅう存じまする」 「ほう、すると光悦は、祖師日蓮のご心事は相わかるが 家康はふと声をおとした。 関白殿下のご心事はわからぬか」 「光悦」 「十、ツ 「恐れながら、太陽は誰の眼にもハッキリと映じまする が、わが運命の星は見えませぬ。わからぬものが、わかる 「小田原のことはわかった。そなたの眼は活きている」 ものより偉大なのだとのご解釈は、ちと、納得致しかねま 「恐れ入りました」 「どうじゃ、その活きているこなたの眼に、こんどの北野する」 の大茶会は何と映じたぞ」 家康は、もう一度光悦の、不逞々々しいまでに冴えた眼 光悦は一瞬ハッとしたようだった。批評を許さぬもののをじっと見詰めた。 ( これは武士としても珍しいほどの気魄を持った男 : : : ) 批評を求められた困惑が、チラッと眉の間をよぎった。 そうなると更に家康は問い詰めてみたい興味にかられ 「ご風流、まことに、結構なことと存じました」 「結構だけか。ありがたい時世 : : : とは思わなんだか」 「恐れながら、ありがたいと言う言葉は、今少し吟味致し 「なるほどのう、すると、これは一つの仮定じゃが、こな て使いとう存じまする」 たがもし関白殿下ならば、この大茶会はやらぬと申すか。 ど、つじゃ」 「ほう、すると、ありがたい時世とまでは思わなんだな」 「よ、 0 冫しこの世にはまだ茶のことなど、楽しめない人々が 「私が関白なれば : : : でござりまするか」 無数にござりまする。それゆえ、数寄者として楽しむは、 「仮りにじゃ。ハ話よ」 楽しむ当人にとってありがたいことながら、それも出来な光悦ははじめてニコリと頬をくずして笑っていった。そ い人々の存在を忘れた時には無意味になろうかと心得ますの笑顔はまた、人が変ったように清々しく無邪気であっ る」 「身辺の話を致しまして恐れ入ります。実は光悦に一人の 「すると関白殿下のご心事は ? ご心事を何と思うそ」

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来たが、これだけでは足らぬゆえ、こなたの思案で、日本 最上の刀剣というをつくり出せという内命であった。 「・・・ーーあの、日本最上の刀を私に鍛えよと : なんと仰せられましたので : : : 光悦はうかと聞きお としましたが、何処かに無銘の正宗がたくさんある : 「ー、ーー・鍛えよと誰が申した。そちは刀鍛冶ではあるまい。 と、仰せられたのでござりまするか」 現今、日本最上の刀 : : : と、申せば相州の正宗であろう。 その正宗の刀を日本一のそちが極め付けをして作れと申し光悦はそう訊き返して、もう一度秀吉の揶揄するような 舌打ちを浴びせられた。 ているのだ」 「ーーーわからぬ男じゃの、正宗で無くても、正宗に劣らぬ 「ーーー正宗を作る : : : とは、何のことでござりましよう ? 」 正直に言って、光悦は、その時まで秀吉が何を考えて居刀ならば、正宗で通して世に出してやるがよい。さすれば 刀も喜ぶ道理と申したのじゃ」 るのかはっきりとは擱み得なかったのだ。 「ーーーえ ! ではあの偽せの鑑定をせよと」 秀吉は幾分歯がゆげに、しかし笑いを交えて言い足し たわけめ、誰がニセと申した。こなたはもう少し 1 しかし世の中には無大人かと思うていたが、案外話のわからぬ男だの。そちは 「ーーー真物の正宗は幾振もあるまい。 銘のもので正宗に劣らぬものは幾らもある。これをそちの日本一じゃそ ! 」 : はい。それは、私も自信して居りまする 名で正宗として世に送り出してやれ。それがそのまま日本 国平定のお役に立てば、刀もよろこび、貰うた相手も気負が」 これぞ無から有「ーーーそれそれ、その自信は思いあがって居るそ。そちの し立ち、そちのご奉公にもなってゆく : ・ : ・ を産むまこと三方得。よいか、正宗の銘刀をそちの名で創日本一は、刀剣では本阿弥光悦が日本一 ! と、この秀吉 が決めてやったゆえそれで世間が通るのじゃ」 り出すのじゃぞ」 「ー・、・ーすると、その日本一の光悦に、無銘の刀をあつめて 光悦はわが耳を疑った。何かきき違いではないかと思っ てあたりをみた。 正宗に造り変えよと : かくれた 「ーー・・無銘の刀ではない ! 無銘の名刀じゃー

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利休はチラリと眼をあげて、 に名物の蚊柱が立ちだしていた。 「おお、光悦どのか」 その間を光悦は、憑かれたもののように歩いた。 そして、目の前に小さな庵をみつけてハッとして足を止すぐまた手許に眼をおとし、それから、何かドキリとし たように小刀をおいて光悦を見直した。 めた。 「顔のいろがよくない。何かありましたかの」 「あ、自分は、利休を訪ねようとしていたものらしい」 : つくづく小田原などへやって来たことを悔いて たぶんここだけは濁世の汚辱はあるまいと、意識の外で「はい・ 居ります」 考えて、ここを慕って来たのに違いない。 「はう、まあ、おあがりなされ。家の中はいぶしてあるゆ ( そうじゃ。ここで腸を洗わねばやりきれぬ : : : ) 声に出してつぶやいて、光悦は利休の小庵の柴折戸を入え蚊が少い」 っていった。 「お邪魔致して、よろしゅうござりましよ、フか」 「帰れ : : : と、言うても、帰る顔ではない。手すさびは又 四 明日のことにし、ましよ、フ」 利休は、そろそろ手許が暗くなりかけているというの「花筒でござりまするか」 「尺八だの、茶さじだの : : : 韮山からよい竹を採って来て に細い丸太を並べて作った濡れ縁に出て、せっせと竹を 貰うたのでな」 削っていた。 言いながら利休は自分でも部屋へ戻って光悦と向いあっ 無心 : : : というよりも、それは暮れるを惜しんで急き立 てられるように仕事に執念している姿に見えた。 近侍している三人の弟子の姿は見えない。それぞれ庵を「近ごろ居士には、ずっと殿下のお側へお出でが無いよう ゅうげ 出て、タ餉の用意にでも取りかかって居るのかも知れなで : : : 」 「そのことじゃ。わしが、伊達どのをお許しあるようすす や、 め過ぎたというのてな、強く叱られてしもうて : : : い 時々びしりと、自分の頬や手の甲をうるさげに叩、こ。 「これは、居士には、ご精の出ますることで」 それに淀の鹹からお添駸さまもお着きなされたことゆえ 186