家康 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 9
173件見つかりました。

1. 徳川家康 9

た、眼の黒い間に、わが身の手でわが子の家内を決めてお秀吉は笑いながら手を振った。 いてやりたいのじゃな。よかろう、聞き届けよう。して、 その相手に望みでもあると申すか」 「はい。ござりまする。他の者ではならぬ相手がござりま秀吉が家康の国替えを立案しだしたことの中には、北条 氏を討っことの他に、織田信雄とも引離したい考えが秘ん する」 「思い詰めたと見える。よかろう、誰じゃ、申してみよ」でいた。 しかし、それを正面に押出したのでは、家康はじめ、徳 「はい、織田信雄さまの末の姫、小姫君と、上洛のおり、 川家の家中の者がいよいよ警戒しだすであろうと判断し この母の前で婚礼させておきとう存じまする」 て、わざと、家康の転出したあとへは信雄を入れるつもり 「なに ! あの信雄が姫と : だと言葉を飾ったのだ。 秀吉の顔いろは一瞬たったがサッと変った。 それを朝日は、どこからか耳に入れたのであろうか ? その筈だった。 ( そんなことはない ! ) 秀吉は家康に国替えのことを承知させるため、家康の旧 あておこ もしそれを聞かせる者があるとすれば、家康より他にな 領、三河、遠江、駿河の三国は信雄に宛行なう予定じゃ い筈だったが、家康が朝日を見舞うたときの二人の会話な と、止むなく洩らしたあとだったのだ。 ど、一句も洩らさず秀吉は侍女に報告させてあった。 ( その信雄の姫を秀忠に : ( 偶然の一致であろう : : : それにしても、何という皮肉な そうなると、北条氏は滅んでも、徳川家の親類は依然と 朝日の夢であろうか ) して関八州の地続きに隣接して残ってゆくことになる。 秀吉は笑いながら、この事だけは病人に思い切らせるよ それにしても、家康にさえ悟られずに済んだと思ってい まっこ るこのあたりの掛引きに、なんで朝日が真向うから斬り込うにと手を振りつづけた。 : 織田の小姫はな、まだようやく六歳ではない むようなことを言い出して来たのであろ、つか : / : : : それはまたこなたの思案らしくもない。それか。秀忠は十三歳じゃそ。十三歳と言えば、もうそろそろ は考え落しじゃ」 正室ならすとも、側女の欲しい年ごろ : : : 折角こなたが選 141

2. 徳川家康 9

曾っては鬼作左で充分家中の押えになったこの老人も、 「異存があるのか爺 : : : 」 今ではたた頑固一徹な、それも事毎に家康に楯をつく奇妙 「異存など、あっても殿はお聞き入れなさるまい」 な存在に浮上ってしまっている。 「なんじゃと ! 」 そうした老臣は作左ひとりではなかった。現に今日は同 「これは評定などと言うものではない。殿がひとりで命今 を下すばかり : : : 評定などと言うのは大まんちゃくじゃ」席を遠慮させている酒井左衛門尉忠次もそうであった。 「意見があるなら申せと言っているのだぞ」 この方は家康の叔母を妻にしている関係もあって、作左 ごうがん 「意見などは大ありじゃ。殿の仰せを黙って聞いて居るよりも更に傲岸であった。 と、秀吉めが、どのような無理を言ってもご尤もさまで 作左は、家康だけに喰いつくような語勢で皮肉を浴びせ : そう言って機嫌を損じるな。秀吉の前に這いつくばって来るだけだったが、忠次の方は家康よりも家中の誰彼を 七い・とばしこ 0 て奉公せよ。それが忠義じゃと言っているように聞える。 そうではないと仰せられるか殿 : : : 」 家中の者に威張りちらされては隠居を命じるより他にな 「それが、爺の意見か」 「意見などではない。殿の言葉の足りぬところを補足して ( その意味では、作左はまだまだ : : : ) しうちの殿は見どころもあり、思慮も深く、人間の幅も出来ている。 みたまでじゃ。みなの衆、よく聞かっしや、。 そう思って同席させたのだが、そろそろ彼の存在も、時 いっからか秀吉の毒気にあてられての、腰が抜けてしもう 勢の波には添いかねる硬直期に人ったらしい。 たわ。よいかの、それゆえ、何事も秀吉の命令第一、 : 爺がまた思いきったことを吐したそ。一口に これでよいのだ イ、ハイとご奉公さっしゃれや : : : 殿ー 言えば爺の言う通りじゃ。ただ腰が抜けたのではなくて、 ろう。あとは無駄ロというものじゃ」 それが日本国のためと断じて、この家康が命じるのじゃ。 家康は思わず大きく嘆息した。 今までのことはこれで決った ! その先のことで、何か意 見があらば申せ」 作左はもう一度フフンと笑った。 ( もはや、本多作左衛門は老いすぎた : ぬか 775

3. 徳川家康 9

「しかし、それを頂戴致すたびに、光はこれあるかなと 「それが、立正の根本かと心得まする」 存じ、胸が熱くなりまする」 「フーム」 そう言うと、光悦の眼は真実うるんでくるのであった。 「民よりおごって民に命令するは無理を強いるもの。無理 が通れば世は乱れまする。市井の風下なればいざ知らず、 五 選ばれて関白となるほどのお方ならば、その位の我慢が無 うては叶いませぬ。万民の富むまでは節倹第一 : : : みなが家康は心の底から楽しくなった。 ついしよう 空腹を無くしたおりに寺院を建て、更に歩をすすめて茶会光悦は決して追従の言える性質の男ではない。 それどころか、彼はハッキリと今日の大茶会をあざ笑っ もよし、花をかざして踊るもよし : : : 」 ている。 「わかった。わかったぞ光悦」 彼に言わせたら、これもまた根本に「立正ー・ーー」の願い 家康は額をおさえて手を振った。 てきび 「いやはや、手酷しいのうこなたの意見は。武士は自からが欠けているゆえ無駄なことだと言いたいのであろう。 りんしよく それにしても、世間から吝嗇とさえ評されている家康の 耕さぬ。自ら耕さぬものがおごりにふけっては民の負担 心を、これほど的確に理解して呉れている人間がここにあ ・ : 家中にそう教えて、麦飯食うて居る家康も、こなたに ろ、フとは : 言わせると贅沢じゃ」 「恐れ入りました。その儀について光悦に感懐がござりま家康が家中の強さは、家康自身の質素さにあ 0 た。家康 は決して家臣の誰彼よりもおごってはいない。 する」 いや、奢る者の統率力は知れてあった。よりよく統率す 「なに感懐があると」 るためには、更に奢らせ、更に加俸せねば納まらなくなっ 「はい。光悦がお館さまを敬慕致しまする第一の理由は、 てゆく。与え得る領地が無限ではない限り、この統率力は 御家に参上致しましたおりの麦飯にござりまする」 やがて限界点に達して・ハラバラに崩れ去ろう。 「なに、わが家の麦飯が気に入ったと申すのか」 家康が頼朝以来の鎌倉の歴史に学ぶところはここであっ 「恐れながら、味咐椀もまた底がすいて見えまする」 た。わが身の質素さを示して足らぬを嘆かせぬところに団 「手痛いことを申すのう」

4. 徳川家康 9

に積み、隠居すべきときと、おのれの心が命じたおりに隠 居する。禄を貰うて有難いゆえ忠義のお返しを申上げた 「血迷うな。まだ家康。 よ、こなたの性根の見ぬけぬはど老 り、主君の言うことゆえ無理でも従うたりする腰抜けでは いてもいなければ無気力にもなって居らぬわ」 「設 ない。見損うて貰いますまい」 言い放って上半身をぐっと乗出し、下から執拗に眼を据「おう、何だ爺」 えてじい ーっと家康を睨めあげた。あたりに妖気の漂うよ 「それほど高言なさるならば、柴を積んで大政所を脅迫し うな面魂であった。 たことを、後悔したり恐れ入ったりする作左でないこと、 しかと覚えてお置きなされ」 五 「そのことで、そちはそれほど腹が立つのか」 家康は思わず顔をそむけたくなって来た。 「立たいでかツ。生れおちるとから今日までのご奉公、作 家康に向って「見損うな : : 」とは、何という思い切っ左が性根はそのようなところにはない。作左が数正の夢を た暴言であろうか。 見たいわれも知らぬとは情ないお方じゃ殿は : これほどの暴言の吐ける男は、たしかにいまの家中には 「なに、数正の夢を見たいわれ : : : あ、あれでそちは怒っ よ、つこ 0 ているのか」 ( こやっ、何を考えて、このような無礼を敢てするのか 「殿 ! 数正めは、自分こそ家中第一の大忠臣と、うぬ ばれくさって大坂へ出ていった。それは殿がご存知の筈 考えあっての暴言とわかれば、ここで家康もまた眼をそじゃ」 らしてはならないところだ。 家康は、キグリとしたように自 5 をのんで、すぐには答え よ、つとしなかった。 「見損うなとは、ほざいたなあ作左」 「お、つ、ほギ、いた」 ( こやっ、数正とわしの間の黙契に気付きおった : : : ) そうわかっても、しかしこれは口外すべきことではな 作左衛門は薄気味わるくひとっ喘いで、 「今日はこの作左、殿と一世一代の果し合いをする気なのかった。 118

5. 徳川家康 9

しに喰ってかかったか、あの凍言の意がはじめてわかつの東ねはっきかねましよう」 「新領の束ね : : : と、申したの」 「作左衛門どのの : : : あれを、諫言にお取りなされまする 、気風荒い坂東武者、余程心を締めてかかりませ か上様は」 ぬと」 「そうじゃ。ありがたい諫言であった ! あれはのう佐「ハハ . 渡、もう一度封禄の多少を言わぬ者どもで、家中を固め直「何をお笑いなされまするので」 して八州へ赴くように。さなくば関白が術中に陥ろうそと「佐渡よ。わしは新領の東ねだけを考えて言うのではな いう爺一流の苦肉のいさめであったようじゃ」 い。さるお方の天下を監視する : : : それには並みの結東、 「なるほど : 並みの我慢ではならぬと申しているのだそ」 「そして、爺みずからが、禄などで仕えるのではないぞと佐渡は、再びギグリと言葉に詰った。 言う手本を示した」 家康は、ゆっくりと馬を打たせながら、その眼をじっと 本多佐渡の眼は複雑にうごいていた。彼にとってこれほ東へ向けている。 かつばう ど痛い喝棒はなかった。家康を補佐するつもりで、自分の 負くるを知らずに滅んだ北条氏の小田原城を足場にし うんじよう 政策を真向うから叩き割られた感じなのだ。 て、東へ向う家康の構想は、すでに胸奥で静かに醴釀して 「佐渡よ」 いるらしい。 「よッ 叩こうとする秀吉の矛は巧みにかわし、ここで家中を締 「それゆえな、所領と城はどこまでも実力第一で割り振らめ直そうという : ねばならぬそ」 何時か陽は山の端にかくれて、左にひらけた海の上が燃 「よッ えるようなタ焼けに変っている。 「不平の徒あらば、家康が許へ呼び出せ。納得のゆくよう佐渡は何故ともなしにきゅっと胸が熱くなった。 に説く努力は、家康も怠るまい」 「なるほど、これは恐れ入りました。そう無うては、新領 224

6. 徳川家康 9

佐渡はキラリと鋭く家康を見返して息をのんだ。 これ以上聞く必要はなかった。 本多佐渡にとって、この家康の、さりげない呟きほど大 秀吉は、織田家の旧領の尾張を信雄から召し上げる代り きなおどろきは無かっこ。 に、家康の旧領をそのまま渡そうと言うのに違いな、・ しかし信雄にとっては尾張の地は父祖代々の所縁の地 : 父祖代々の血を吸った徳川家の旧領を、そっくり召上げ たぶん信雄は、 られて関八州を与えられる。 「ーー、・・尾張はそのままわれ等に」 この事に重臣たちが、どれほど大きな不満を抱くかが本 と秀吉に乞うに違いない。 多佐渡の心痛の種であった。 そうなると秀吉は、家康の旧領はむろん渡さず、尾張か ( それを押えるためには、とにかくそれぞれの所領を増し らも信雄を追い払う気らしいと、家康は見て来ているのてやるより他にない ) しもス そう考えて、家康の諮問に答えられるよう、秘、に、井 或いはそれが小牧、長久手の戦のおりからの秀吉の胸裏伊は、本多は、榊原は、酒井は、大久保はと、それそれ城 に秘めた方策だったのかも知れない。 と領地の割りふりを考えている佐渡であった。 ( 考え深いお方だ ! 歯がゆいほどに考え深い : : : ) その佐渡に、家康はいまハッキリと、家臣に多くは与え ぬそと宣言したのだ : 佐渡がそう思った時に、 「佐渡、わしはな、家臣に多くは与えぬぞ。多くを与えね成程理由は明確だった。封禄の多きをのぞんで仕えるよ ば働かぬ : : : そのような家臣は、どれだけあっても無駄と うな家臣ばかりでは、関八州の統治は至難に違いない。 った。それぞれが豊かすぎると、結東カが弱まって却っ と、言ってそれで果して家中の不満不平が押えられるも て我説を押し通す : : : 北条氏滅亡の因はそこにあったそ」 のであろうか : 佐渡は、びつくりして家康を見直した。 「佐渡」 「よッ 「わしはな、作左めが、なんであのように、関白の前でわ よ ) 0 2

7. 徳川家康 9

三河、遠江、駿河などの旧領に、何で関八州をつけてや 野、下野、上総、下総となるとこれはもはや、われ等には 計算もならぬ大きさ。それがしの軽率な臆測ながら、こんってよいものか。むろんそれは取上げてのことなのだが : しかし軽率に口をすべらせたと話し出した手前、それ どご上洛なされたら、このお話が出るのではあるまいか 口がすべりました。お聞き捨て下さりまするよは家康の勘違いとは言えなくなった。 「大谷どの」 かろう し」 家康は、辛じて頬から笑いを消さずに済んだ。 「ご帰洛なされたら殿下にそう申上げておいて下され。家 西郷の局が死ぬ直前に予見していたことがついに目の前 康はそのような莫大なご恩賞は遠慮申上げたい考えらしい に迫って来た。 こと。われ等家中は節約第一を旨とする者どものみなれ むろん吉継はそれとなく家康の気をひいて見るように、 ば、ただいまの所領で何とかみなを養い得る。それ以上の 秀吉から内命されて来ているのに違いない。 ことは望みませぬとのう」 ( さもなくて、何でこのようなことを洩らすものか : : : ) やはり役者は家康の方が一枚上らしかった。 「ほ、フ、これはおどろきました」 家康は、相手の視線が次第に射ぬくような探りのいろを大谷吉継は、はじめて視線に狼のいろを見せてあわた だしく瞬いた 帯びて来るのを意識しながら、 「それはちょっと信じられぬことじゃ」 と、生まじめに言った。 「信じられませぬかなあ」 おそらく秀吉は、関東へ移封のことを家康に匂わせて、 「信じられぬ。家康はすでに、甲、信のほかに三河、遠上洛のおり、即答出来るよう心の用意をさせておけと吉継 江、駿河と持っている。それに関八州を加えたら日本の半に命じてあったのに違いない。 ばを頂戴することになるからの」 ところが家康は、相手の言い出し方の不用意さを捕えて 「莫大な加封ーーー」はいらぬと鮮かにかわしていった。 吉継はちょっと舌打した。 しかもその話に、それ以上は触れさせまいとするかのよ こう巧みにかわされようとは彼も思っていなかった。 つ、つぞ、 709

8. 徳川家康 9

たしかに。 ( そうなってしまったのでは、天下の見張り 「数正めは、徳川家に秀吉と太刀打出来る外交家は自分以 外には無いとうぬばれて、みすから敵のふところに身を捨役は勤まるまい : てた : : : そのおり作左は、あやつに言ってやったものじゃ。 この腰抜けめ、うぬの歩く道ばかりが武士の道だと思うな 作左衛門はまた言葉を続けた。 と」 「殿はこの作左に何と言われた。家康が秀吉と手を握るの は、秀吉に屈したのでは無うて、秀吉よりも一段と上に立 「たとえ数正が、どのような弁舌で秀吉をたぶらかそう と、背後の家中に、秀吉を怖れる気風が生じてしもうたち、秀吉で治る天下かどうかを監視してゆくためだ。それ ら、お使番などに何が出来る。一番大切なは敵の前で、敵がまこと神仏のお心に叶うたやり方 : : : と言ったであろ う。それならばそれで、どこまでも秀吉を怖れさせる監視 の中で、敵のうしろで、敵を怖れぬ性根なのだ ! それが 無くなったら立ちどころに滅亡の風が吹きかけよう。秀吉者の姿勢というものがある筈じゃ」 「それはあるとも。それをわしが崩したとでもそちは言うュ が偉いゆえ、数正は苦しいのだという顔を誰にも見せる . ハッキリは一一一一口 ノ力」 な。見せたらうぬを永代軽蔑してやると : わなんだが、充分腹にこたえさせてやったのじゃ。その数家康が、眼をそむけたまま応えてゆくと、 正が夢にあらわれた : : : そしてもはや、うぬも進んで身を「誰が殿の姿勢が崩れたと言うた ! 」 作左衛門は肩をふるわしてわめき返した。 ひけとわしに言うた : : : そう申上げてもわからぬ設に、乍 : この情無さは殿には通じ 左は一生仕えて来てしもうた : 「殿は、自分一人で天下の監視が出来ると思うか。殿だけ がいい気で姿勢を整えたつもりでいたとて、背後の家中の それが崩れていったら、殿など床の間の置物ほどの役にも 家康は、急に視線をあらぬ方へそらしていった。 立たぬ。監視するつもりの秀吉にペろりと一度に呑まれて ようやく作左の考えていることが呑みこめた。作左は、 自分の秀吉に対する態度から、家中の者まで秀吉を怖れるしまうわ」 家康は、とっぜん低く笑っていった。 気風に移行するのを案じているらしい。

9. 徳川家康 9

どのお方が欲しい。それがこれからの日本国の運不運を決陽院の生涯だったと一一一〕える : めるであろうと : ( いったい彼女の一生のどこに光りがあったであろうか : 「いや、お待ち下さい茶屋どの」 光悦はテレた様子で四郎次郎をさえぎった。 しかも、その不運の糸はまだ完全には断ち切れす、家康 「折角、信長公以来のご苦心がみのって、とにかく戦乱はの二女の督姫はいま、小田原の氏直に嫁いで戦乱の風の匂 いにおののいている。 終りかけた。その仕合せを外から突き崩されては意味がな そこでどこまでも内から立正の実をあげねばならぬ : 督姫だけではない。現に家康が、聚楽第へ伴って来てい : と、こう申すのでござりまする」 る朝日御前など、関白の妹に生まれていながら、すでに生 ける屍ではなかったか。 「ただのまとめ役ではなく、立正の心を奉じたお人 : と、こう言われるのじゃな ? 」 ( ここらで乱世の糸を断たねば : : : ) 「その立正が、まとめ役 : : : それ以外にはまとめ役はない 断って呉れと、祖父も祖母も、父も、妻子も、みなひと : と、こう存じますので」 しく家康に迫っている : 家康は、つなすきはしこ、、、、 「光悦」 オカ改めて質間はしなかった。 「十 5 、ツ 家康自身の眼もすでに光悦と同じところを見つめてい し」 る。敢て他を語るまでもなく、家康自身の経て来た過去「今宵はよい心の糧を得た」 が、そのまま「平和」の尊さを示す鏡でさえあった。 「お恥しゅ、つござりまする」 祖父の清康は二十五歳で陣没した。 「わしも、こなたの言う、立正を心掛けよう。こなたもそ 父の広忠もまた二十六歳で、家臣に刺された傷が原因での心を市井のうちにひろめて呉りやれ」 果てている。 「ありがたき仰せ、光心にきざんで努めまする」 正妻の築山御前のみじめな最期も、嫡子信康の哀れな生「茶屋、造作をかけたのう。では学者のこと、頼んでおく 涯も、みな乱世の求めた犠牲であった。 そ」 いや、それよりも更に哀れに想い出されるのは祖母の華家康が起ちかけると、小栗大六が、あわてて立って供揃 8

10. 徳川家康 9

「決ったことを聞くな官兵衛」 秀吉は笑いながら眼を細めて、 九 「関八州は、大納言がもの。大納言自身が受取るに決って 家康が広間を出ると、随行して来た本多佐渡が案じ顔に 居ろうが。のう大納言」 家康はこの時にも、直ぐに返事は出来なかった。かすか寄って来た。 に眼顔でうなずきながら、ふとまた氏直や督姫の哀れな姿「帰るそ佐渡。馬の用意を」 「かしこ亠まり・きした」 が胸をよぎった。 一礼して傍の鳥居新太郎を眼顔で馬の用意に走らせてか 「その他に打合せておかねばならぬことがあったかなあ官 ら、 兵衛」 「いや、城受取りの手筈を駿河さまに御願いすれば、その「関白殿下の、ご機嫌はいか。、で と、声をおとした。 他のことは私と滝川とで : : : 」 「高野へ行くまでの氏直を、誰が手許に留め置くかじや「決ったそ佐渡。小田原の処分は」 しかし佐渡はそれに格別注意をひかれた様子はなかっ 力」 「本来ならば駿河さまにお願いするが順当なれど奥方のこた。或いは家康と秀吉の会見している間に彼は彼独得の諜 ともござりますれば、右府さまご家中の滝川どの陣屋が宜報網で秀吉の近侍から何か聞き出しているのかも知れな 。そんな点では天才的な佐渡なのだ。 しかろ、つと」 「そうか。それでよかろう。では大納言、お聞きの通り佐渡は一層声をおとして、 「関八州に、甲斐をおつけ下さる件、ご交渉なされました じゃ。早速、城受取りの用意にかかって頂こうかの」 力」 家康は鄭重に一礼して、座を立った。 「では、それがしはこれにてお暇を : : : 」 家康は軽く首を振った。 「いま、その時機ではないようじゃ」 ( これで小田原の事も終った : そう思うと、ぐっと胸が熱くなり、視野が曇って行きそ「これはまたお気の弱い。事が決着致してからでは、ぐっ うだった : 220