秀吉は、こんど新しく作らせたキセルを取って一口吹い 噛んで吐き出すように言われて、こんどは寧々が押しだ てみてから、カン高くタ・ハコ盆の縁をたたいて抛り出した。 淋しかった。 寧々の方はケロリとして冷静に秀吉を眺めている。 ( かっての側室の時とは違う : : : ) 「寧々」 今までは少してれた駄々ッ子の表情で、しかし大したこ と秀吉は、押しころした声で呼びかけた。 だわりも見せずに寧々に話した。それゆえ寧々も笑って同 「こなた人が変ったの」 意して来たのだが、こんどはまるで違う手応えだった。 「何がおかしいのだ。以前には、どのように腹に据えかね ( 或いは心で、有楽の言った妊娠云々に期待をつないでい いたわ る故ではなかろうか : ることがあっても、どこかに詫び易い労りと隙があった。 そうであっても無理はないと寧々は思う。世継のない淋 。、、近ごろはそれが無い。冷い理詰めだけが情愛ではある しさは寧々の方が秀吉以上であった。 しかも有楽はそれを「わしの才覚ーーー」と告白してい る。嘘なのだ。嘘とわかったおりに、秀吉の落胆と怒りを 寧々は笑い続けた。 「そ、フまで仰せならば、もう伺うことはやめまする。した見るのはたまらなかった。 が、変ったのは寧々の方ではなくて、太政大臣とかにおな「阿茶々のことは : やつばり寧々は、このまま黙って傍観者にはなれなかっ りなされた殿下の方 : : : とは思われませぬか」 た。年齢を超えて、いっからか母のような労りを秀吉にお 「わしが変る : : : そのような事があるものかツ」 ばえている。 「では伺うのはやめまする。それが労りとあれば、申上げ 「阿茶々のことは ? 」 ることはござりませぬ」 「寧々、わしは、どのようなことがあっても北政所とし秀吉はきき返した。彼の方でも寧々が折れて出て呉れる て、こなたへの情と礼とは欠かぬつもりじゃ。こなたもそのを、我儘な童児のように甘えて待っている。そんな眼だ。 「世間に笑われないよう、身分にふさわしいお扱いが願わ 、れはわかっていよ、フが」
がある筈じゃ。その時の名前のことじゃがのう寧々」 寧々はいぜん微笑をうかべたままで、よく動く秀吉の唇 恐らくいま日本では、秀吉の前で寧々ほど自由にロの利 辺を見つめている。 「寧々というのは愛くるしい女童という意味の俗称で、従ける者は一人もあるまい。 寧々はそれを喜びたかった。感謝したかった。にもかか 一位北政所の名としては少しおかしい。そこで公家風に吉 めがしら 子と名乗ってはどうであろうな。従一位豊臣吉子 : : : むろわらず、なぜか淋しさが胸いつばいにあふれて来て、眼頭 のかすんでゆくのをどう押えるすべもなかった。 ん吉子の吉は秀吉の吉じゃ : 「どうしたのじゃ ? 急に気分でも悪くなったのか」 押してたずねる秀吉の前へ、寧々はたまりかねて身を伏 「こなたに異議が無ければ、蔵人頭の左近衛中将まで、 せた。 その旨内奏させておこうと思うがの」 「お許しなされて下さりませ」 「とにかくこれからが、われ等夫婦にとってもわが世の春「なに、許せと何を許すのじゃ。水臭いぞ寧々」 「わらわは、我儘な女子でござりまする」 じゃ。ふり返ってみれば長く辛い人生であったがの」 「そのようなことはない。それは秀吉が許してあること 「おや、寧々はどうしたのじゃ ? 眼にい 0 ばい涙をためじゃ。女子だとて、思うことを口にも出さず、くよくよと、 て居るではないか。あ、落ちた一粒 : : : これは、何とした牛馬のように従うてあるは意味ないこと。どこまでもある : とは、信長公や濃御前の生前からわ 才能は仲すがよい : のじゃ寧々」 しの言い通して来たこと、こなたはそれに従うたまでなの 寧々はたまらなくなって面を伏せた。 これほど自分のために気を使う良人が哀れでならなくな 「お許し下されませ」 った。関白太政大臣豊臣秀吉 : : : その不世出の偉人とたた 寧々はもう一度言ってから秀吉を仰ぎ直した。 えられている良人に、これほど気を使わせる自分はいった 「我儘なわらわをお許しなされて、わらわに、もう一つだ い、何という幸福な女子なのであろうか : 2
( ーーーどうなっても驚かぬ ! ) 自分で燭台を二人の間へ近づけて坐った。 そんな捨鉢さが、時には平然として寧々ばかりか秀吉に 今宵だけはどんな場合にも笑いを消すまい : : : そう考え ていながら、ともすれば頬のあたりが引きつりそうで気に も反抗させそうで気がかりであった。 それに寧々には何としても出生のひけ目がある。信長のかかった。 : この部屋の絵を描いた絵師の名か。こ 姪であり、浅井長政の姫であり、柴田勝家の養い子 : : : と「伺いたいこと・ : 並べて来ると、いずれも寧々の生い立ちとは比較にならぬれはな、こんど、日本一の称号を許してやった狩野永徳 家格であった。 寧々は次第に、この聚楽第が怖ろしいものに思われだし秀吉は敏感に寧々の意図を感じとって、ずるい目をして 最初から煙幕を張って来る。 「日本一にもいろいろござりまするようで」 ( ここで、あの阿茶々と一緒に住む : : : ) それはずっと幸運に恵まれつづけて来た寧々の生活に 「そうじゃ。茶では利休、茶碗では長次郎に許してやっ そろそろ暗い影のめぐって来る前兆ではなかろうかと : た。刀の目ききでは本阿弥光二、これから、謡いも舞いも 寧々がその事で秀吉に相対したのは、京童の眼をうばう日本一を許してやる。そうなると、もろもろの職人や芸人 どもの中にパッと一度に花が咲くぞ。みなそれぞれ技を竸 財宝が、淀から船上げされて、すっかり聚楽第へ運び込ま うて努めるからの」 れた十八日の夜であった。 「女子では、いいえ、女の子の数を持つ日本一は ? 」 秀吉は上機嫌で寧々の居間へやって来ると、 「な、なに ? 「どうじゃな、お気に召しましたかなこの奥の普請は 眼を細めて、寧々の前へあぐらをかいた。 「側室の数での、日本一は何誰でござりましようなあ」 「ああそのことか、それならば、家康かも知れぬの」 「それは残念な、なぜまた殿下が日本一におなりなされま せぬ」 寧々は、さり気なく笑って頭を下げてから、 おだやかに言われて秀吉は、眼をグリクリさせた。たた 「伺いたいことが、こざりまする」
との事を取繕うて呉れますように」 「もうよい。では、阿茶々どのを何処に住わせるお気か、 「恐れ入りました。必す、政所さまご配慮を無にせぬよう こなたの考えどおりに申されませ」 寧々はじっと湧き立っ感情をおさえて他人ごとのようにに致しまする」 有楽が退ってゆくと、寧々はそのまま考えこんだ。 言った。 「都へ来るとあれば、孔雀には孔雀にふさわしい巣がなけ ( これ以上、有楽をいじめてみてもどうなるものでもな ればなりますまい」 問題は有楽が引起したものではなくて、秀吉のやったこ 五 となのだ。 ( 男というものは : 「恐れながら、その儀は偏に殿下の思召に依ること 何時もは苦笑して済ませたことが、今度だけは何か妙に の有楽に意見などあろう筈はござりませぬ」 気にかかった。胸さわぎと言っても通るまい。やはり嫉妬 有楽は、もう完全に寧々に屈服した形であった。 なのかも知れない。 「こだ、殿下からは、とにかく、こなたの手許へ預りおく よう、その上で改めて指図しようと仰せを蒙って居ります ( なぜあのような小娘に : そう思ってみると、この小娘は、今までの側室たちにな いものをたった一つ持っていた。それは寧々に劣らぬ勝気 「とにかく、こなたのお手許へのう」 さであり、時には身の破滅をも意に介すまいと思われる類 「はい。殿下にもまだご思案がっきませぬ様子にて : : : 」 のない自我の強さであり我儘さであった。他の側室はどこ 寧々はそこで訊くのをやめた。 これだけ手酷しく責めておいたら有楽はもはや小細工は までも寧々に一目おいている。しかし阿茶々の身辺には、 なし得まい。有楽の口からハッキリと、懐妊云々は、彼の寧々では押えきれないある種の妖気がただよっているよう 才覚と言わせたことで充分だった。 な感じであった。 「大儀でした。移転のことで何彼とお忙しかろう。今日の長い間幸福に背を向けて生きて来た、全身にしみついた ことはわらわも忘れます。こなた様もお気にかけずに、あ虚無かも知れない。 ひとえ なにか
の中の北条政子を連想させるものがあった。秀吉が、例の 「あの人と仰せられますると ? 」 気性でこだわりなく政治向きのことに口を出させた故もあ : だんだんお許も殿下に似て来られる。阿茶々ど ろう。九州の人事にまで介人し、肥後へは佐々成政を推挙「ホホ : のがことじゃ」 して、現にその地方では一揆が起りかけている。 「政所さま仰せにて、叶わぬとあれば、それがしから改め 秀吉の宣教師追放のことにも口を出し、その緩和を願っ て熱心に運動して来る小西行長や、その父の寿徳などを度て殿下に申上げまするが」 度引見しているようであった。したがって諸大名の中には「叶わぬと言うたら、わらわが嫉妬していると、また蔭ロ 寧々を恐れるものと、眉をしかめる者と、取入って利用しの種になろう」 「さあ・ : : ・」 ようとする者とがめつきり殖えている。 長政はそうした寧々を警戒はしだしていたが、諫める必「困った顔をなさらずともよい。加えるお気ならば、その まま連れて往んだがよかろう」 要はないと信じていた。 寧々ほど真剣に秀吉の身を案じ、その功業を完うさせよ寧々はさらりとした調子で言って、しかし次にはきびし うとして、細心の注意を払っている者は他になかった。 く眉をひきしめた。 オカこの行列、沿道で男たちには見せぬよう、それ その意味では寧々は文字どおり秀吉のよりよい半身に違「しこ ; 、 よ、つこ 0 がわらわの願いゆえ、その旨しかと伝えてたもれ」 し / 、刀 / コんっ】」 「ご移転の支度は、ほば出来ましたようで」 長政はわが耳を疑った。 長政は打ちとけた様子で室内を見廻しながら、 「大坂ご出発の行列について、殿下より、政所さまご希望秀吉は、寧々が京へ着くと間もなく内裏へ奏上して、従一 しんしやく 位の宣下を乞うつもりであり、それだけに今度の行列は一 は、充分に斟酌致すようにとのご下命でござりました」 : と、そ 「ほ、フ」 世一代の豪華さで後世の語り草にもなるように : んな夢をひろげている。その夢を知り尽している筈の寧々 と寧々は悪戯ッ児のように眼を細めて、 : とは、何を考えての言葉で 「行列の中へは、やはりあの人を加えるお気であろうかのが、沿道へ男は立たせるな : 2
「よ : 「聞きましよう。こなた、殿下に何と言われたのじゃ。行 「こなた様は、この寧々よりも殿下の方が組し易いと見ら列に加わる筈の阿茶々どのを、どうしてそれから除いたの れたようすじゃな」 「それは : 「政所さま」 っこ、、何のことでござりまする」 「こなた様は、阿茶々どのが懐妊された : : と、殿下には有楽はもう一度急き込んで寧々の鋭鋒をおさえてから、 申上げたのであろう」 「改めてご相談申上げまする。いったい阿茶々をどのよう いえ、それは : に扱うたらよいのでござりましよう。さすがの有楽もこれ にはホトホト手を焼きました」 有楽の額にはついに小粒の汗がキラキラと光りだした。 それは有楽の本音であり、又巧みな逆襲でもあった。 ( こんな筈ではない : たかが女子ひとり、秀吉の側から押させたら、手もなく 四 屈服するであろうと思っていたのが、僅かの手違いから逆 こよっこ 0 寧々は、ロ辺に皮肉な笑みをうかべたままで有楽を見返 秀吉がまだ寧々に何も打明けないうちに、寧々の方から 呼びつけられてしまったのだ : 今更、ほとほと手を焼いたもないものと、腹の底ではお 「いいえ : : : と、言われると、そのようなことはない。懐 かしくもあり贈くもあった。 妊などはして居ないと言うのじゃな」 ( 或いは世間の噂はまことなのかも知れない : 「そ : : : それが」 有楽がひそかに愛していた阿茶々を秀吉に奪られたの 「それがどうしたのじゃ。こなた様らしゅうもない。なぜで、有楽ほどの男も動顛している : : : それにしても、秀吉 そのように語尾を濁される ? まさかこなた、懐妊などし に、懐妊しているのかも知れぬとは、何という弱点につけ て居らぬものを、したかも知れぬなどと、殿下を偽ったの入った奸智に長けた言いより方であろうか。 ではあるまいなあ」 寧々が考えても、そう言うことが、一番秀吉を操り得る 「北政所さま : ・・ : 」 言葉とわかっている。 4 4
「ふーむ。なるほどの、フ」 全く別になっていたであろう。 寧々は、秀吉の人生が、最後に至って大きな空虚をはら秀吉は、しかしそうは受取らない様子であった。 みだしたことに言いようのない不安を覚えている。天下統 ( やはり女だこれも : : : ) そんな微笑が、眼尻に薄くにじんでいる。或いは茶々へ 一という、曾っての日の燃えるような目標は、どう曲げよ うもないギリギリのものであった。 の嫉妬を押えかねて、いかにも寧々らしいこじつけで無理 ところがそれは達成された。そして一足軽から身を起しを言い出した : : : そんな風に受取っているのかも知れな た秀吉よ、、 ~ しま関白太政大臣という、前人未踏の絶頂をき 「なるほど、言われてみれば、一理はあるが」 わめて、ウロウロと次の目標を探しだしている。 「一理あると思召されたら、お許したまわりとうござりま すでに絶頂をきわめてしまったのだ。誰も彼にさからう する」 者もなければ正面から敵対する者もない。 「しかし、寧々」 それだけに、次の第一歩を、どこへ踏み出すかわからな い危険を内包しているのだ。 「世間では、そう思うまいぞ。関白と北政所が到頭夫婦い 絶頂の次にあるのは天であった。天へ昇ろうとあがく えよう か、それとも世のつねの栄耀へ歩を移すか。何十人の愛妾さかいをした。それでなければ、あの美々しい行列で京へ を侍らそうと、どのような饗宴の中に惑溺しようと、誰も着き、十日と経たぬうちに、すぐ大坂へ帰るなどと言うこ とがむる者がないということは、考えようによれば戦慄をとはあり得ぬことだと噂しよう」 「噂などはお気にかけさせられまするな。それよりは、こ ともなう人間の危機であった。 寧々はそれを秀吉に言いたかったのだ。今こそ秀吉がのこは戦場、うしろにある本城の備えの固めが後々のためで そんた、曾ってのどの戦よりも危い人生の決戦場に臨んでござりましよう」 いるのだと : 「寧々、こなたは、又ここを戦場と申したなあ」 それゆえ寧々は、大坂城にあって手に汗し、眉をあげて「はい、殿下のご生涯を飾るか否かの最後の戦場でござり まする」 これを見守っていたいのだと : わくでき せんりつ
「いいえ、そのようなことは : 「申すことがあると一一一口、つのか」 「まさか、姑と争うこなたではなし、では、なぜそのよう 「はい、お願いの儀がござりまする」 な無理を言うのじゃ」 「申してみよ」 「恐れながら、殿下のご本城は大坂にござりまする」 秀吉は再びギョッと警戒する顔になった。 「それがどうしたと申すのじゃ」 「こなたが申すことゆえ、無意味なことではよもあるま 「寧々は北政所、ご本城で留守をまもる緊張しきった昔の 十分思案を重ねた上のことであろう。聞こう、申して心を持ち続けて生きとうござりまする」 みよ」 「なに、留守居の心で生きたいと : 「申上げまする。わらわに大坂在住の儀、お許したまわり 「はい。若いおりに、殿下がご出陣なされますると、寧々 と、つ、こギりまする」 の五体はハリ裂けそうでござりました。良人の身に間違い 「寧々 ! 」 ないか、留守の心にゆるみはないかと : : : 寧々はこれから も、その心をしつかりと持ち続けて生きとうござります 「他のこととは違うぞ。わざわざこの新邸へ移って来て、 る。それにはやはり本城に居るがよい。ここは言わば殿下 とりで 今日で幾日になると思うそ。何が気に入らぬで大坂へ戻るご出陣中の砦の一つ : : : 砦のことに気を取られて、ご本城 とい、つのじゃ」 のことがおろそかになってはなりませぬ」 言いながら寧々の眸はまたしても、しっとりと露にぬれ 「気に入らぬなど : : : 勿体ない。そのような儀ではござり てゆくのであった。 ませぬ」 「では、何故じゃ。聞こう」 十 「殿下のお傍の御用はもうわらわで無うても勤まります る。大政所さまも、京へお越しあれば、実の姫の三好どの 寧々は、自分の言葉が真実に遠い述懐になってゆくのが 奥方もあられますることゆえ」 悲しかった。 若し思うままを口にしてよいのたったら、その言い方は 「そち、三好の姉とでも争うたのか」 もったい 3 5
あろうか : 用とお伝え下され」 「沿道へ男は出すな : : と、仰せられまするか」 「僧侶も : それは何のためでござりまする」 「そ、つじゃ」 「僧侶には女犯の戒がある。それらの人々に殊更関白の奥 寧々はあっさりと頷いて、 の賑やかさを誇示するは心ないことじゃ。関白は切支丹の 「たとえ関白の内儀じゃとて、母親じゃとて、世間への慎 ハテレン達さえ追放なされた。そのお方に、慎しみのここ しみはなければならぬ。これ見よがしの行列は神仏〈の怖ろが無くば、妻のわらわが取繕う : : : おわかりであろう」 れもある。男たちは家業に励んで見送り無用。女は女同志長政はハタと言葉に詰ってしまった。 ゆえ、女たちだけの見送りは受けましよう」 ( これは、並の諫言ではない : 事もなげに言って手筥を片付けだした。 寧々ほどの女性が、いざ大坂を発っとなってこれだけの ことを言い出すのは余程の決心があってのことであろう。 「政所さま」 長政は、寧々の言葉の意味を噛みわけるのにしばらくか 「まだ何か ? 」 つつ ) 0 ー刀ュ / 「政所さまは、こんどのご移転を機に殿下へ諫言なさるお 心のようで」 すでに移転はこの十三日と決定し、諸般の準備はととの っている。そうした時になって男たちの見物は許さぬと 「いいえ、これは平素からの妻の心掛け : : : それ以外の何 は、寧々から秀吉への挑戦状にひとしかった。 ものでもござりませぬ」 「政所さま」 「しかし、ここで、男も僧侶も見送り叶わぬなどと仰出さ れては : しばらくじっと考えてから長政はロを開いた。 「何か、殿下にご不満がおありのようで」 「婦道にそむきまするかな。寧々にはそうは思えませぬ 「いいえ、不満などあろう筈はありませぬ」 : 。大坂城で世人をおどろかせ、大仏殿でおどろかせ、聚 寧々は取りつくしまもない口調で、 楽第でおどろかせ、その上行列でおどろかせて、大茶会で 「そうじゃ。男たちばかりで無うて、僧侶も一切見送り無又おどろかせる : : : 殿下には、民をおどろかせることしか 2
いやそうではない。確な筋から聞いたことじゃ。故 ( 妻もやはり孤りなのであろうか ? ) いや、そうではない。寧々はどこまでも良人に従属した : は、まだよいとして、浅井 信長公の姫、前田さまの姫 : さまの姫から、利休居士の娘で万代屋の後家、それに光秀妻ではなくて、良人と対等に生きてゆく女性の典型であり の娘で細川さまの奥方になられておわすお珠の方まで召出たかったのだ。 ( あの人がどのような目的を掴んでゆくか。それを大坂城 そうとしたそうじゃな。つまり始めは身分のある未通女だ たが、だんだん舌が肥えられての、それで、たまりかねで静かに見まもっていてやろう : : : ) しかし、それとは反対に、自分の人生に突きささったト て北政所が諫言なされたのだそうな」 言うところ、聞くところは違っていても、寧々の大坂帰ゲの痛みは大きかった。寧々はそれと闘おうとして瞬きも 城が関白夫婦の喧嘩とされている点ではどの噂も一致してせずに遠ざかる京を見ている : 、つ」 0 その噂の中を、寧々は聚楽第を出て淀から船で大坂へ下 野の風 途中の行列も彼女の申出で来る時の五分の一にも足りな かったし、侍女はわずかに十数人だった。 淀で御座船に乗りかえると、寧々はじっと秋空のかなた 京童が待ちこがれた十月一日がやって来た。この日は関 にそびえる京の山容に視線をやって動かなかった。 自我を押し通したあとの侘びしさよりも、何かしら身の白秀吉が、日本中にふれを廻した北野の大茶会の当日なの である。 引きしまる感慨だった。 ( 良人を戦場に残してゆく : : : ) 万代屋の後家のお吟は、起き出すとすぐに窓をあけて空 そんな割切った感情ではなくて、寧々自身、はじめて戦を見やった。この茶会は秀吉にとって一世一代の壮挙であ 場へ出向いてゆくような昻奮が皮膚の下をあらあらしく走るばかりでなく、今は大宗匠の名で呼ばれている養父、利 っている。 休居士の道業を決定づけるほどの大切な日であった。 つ」 0 5