居り - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 9
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1. 徳川家康 9

「これはしたり、置きとうないなどと : : : 愛おしいご肉親「わらわもようやく駿府になじんだ。それに長丸どのも居 のことゆえ、若しこの地でご不自由なされておわしてはることゆえ、動くのが気うといのじゃ。なあ小萩、そなた と、それをお案じなされてのお言葉でござりましよう」 はそのようなことを思わぬかえ。どうせ夢に似た人の世な 「そうであろうか」 がら、女に生れた甲斐に、母らしい心になって暮してみた 「それ以外に何の意味がござりましよう、なあお上人さま」 北い僧はこくり・とした。 小萩は困惑しきった表情で膝をすすめた。 「挈、、つか・ 五 と、御前はうなずいて、 「それならば、お案じ下さりまするなと、そう申してたも「御台所さま、聞く人もないゆえ小萩は歯に衣着せずに申 上げまする。都へお住居なされませ」 れ、世の中はどこも別に変らぬものじゃ」 : と、こうお「なぜじゃ。こなた、わらわの言うた、母らしい、いになっ 「と、仰せられると、ご帰洛のお心はない : て生きて見とうはないと言やるか」 っしやりまするので」 さから 「帰ってもおなじこと。それゆえお案じないように」 朝日御前は抗う : : : という程の口調ではなかった。た 僧は鋭い眼をして小萩を見やった。小萩はそれをおさえだ、田 5 うままを : : : と言いながら、それを口にすると、ひ どく心外らしい小萩の言葉に疑念を抱いた程度であった。 る様に小さく頷き、改めて笑顔をつくって朝日御前に向き 小萩は額に汗をにじませて息をついだ。 直った。 「御台所さまの、やさしいお心はよくわかりまする。わか 「御台所さまは、童女のようなことをおっしやる。でも、 それはご本心ではないような。やはり都で大政所さまとおりまするゆえ一層申上げねばなりませぬ。長丸君とて、決 して心は許されませぬ」 暮しなさりたいのに違いないのでござりまするなあ御台所 さよ」 「なに、長どのに心が許せぬとは ? 」 はら いいめ、」 「御台所さまのお胎を痛めたお子と言うではなし、日々の 御前はもう一度ハッキリと首を振った。 御機嫌とり、あれとてみな思惑あってのことでござります きぬ 2

2. 徳川家康 9

そのまま生命を育てる宇宙の力を直政に連想させる。 それなればこそ直政もまた、かって大政所が岡崎へやっ 手を振りながら泳ぐように寄って来た。 て来たおりにも、両家の間にわだかまる感情を超越して近 侍出来たのであったが : 「おお兵部どの ! 」 直政は、到頭眼がしらを押えていった。 いまを時めく関白太政大臣の大奥に、これはまた、何と ついに大政所は直政を見つけた。 いう素朴な人情の世界がかくされていたことか。 「こんどもまた来てたもったか。うれしゃ。うれしゃ。わ 大政所は、あやしい足どりで秀忠に近づくと、いきな 許がついてあらば、秀忠どのも大安心じゃ。さ、こちらへ 両手をひろげて秀忠の肩を抱いた。 来られて、この婆の酒も一献受けてたもれ」 何の見栄もてらいもない。 そう言われては直政も背を向けては居られなかった。 ( 朝日の養子なればわが身の孫 ! ) 「大政所さまには、何時に変らぬご健勝の態を : : : 」 そ、つ信じきっている様子で 「固苦しいことよ。お許とわれ等の仲ではないか。あの折 : 朝日が待ちかねての 「よう来られたー よう来られた : には、ほんにお許の世話になっての」 う : : : お許が来られたら、これこのように元気になった 「これは恐れ人りました。何分にも不行届にて」 「そうそうあの折の作左めは何としたぞ。あれもな。あま そ、ありがたや : : : ありがたや : : : 」 秀忠の手を取って額にいただき、それからその手を朝日り腹が立ったゆえ、殿下に切腹させようと申してはみたも の掌の中へおさめた。 のの : : : 考えてみれば、徳川家には忠義な侍、それゆえ婆 「ほんに、眼のさめるようなあで姿じゃ。さ、立ってみてからとり止めて賢うたが : : はい。たぶん、それを有難く心得てあることと」 もそっと母に寄り添う たもれ。いや、坐ったままでよい。 「そうか、それはよい , て右を向いてなあ」 何ごとに依らず、あとに怨みの 大政所が出てくると、いつもその場に仄々とした土の香残るはよくないことじゃ。して、まだ壮健で勤めて居るか」 「はい : : : それが、つい先だって隠居を願い出でまして、 がただよい出す : : : そしてその香の奥にひそんた温さが ノ 47

3. 徳川家康 9

「いいえ、よいのです。もう十三歳ゆえ、子供らしい玩具 四 ではお喜びあるまい。と言うて、刀や武具では母の贈りも のにふさわしいとは言いがたいし : 朝日御前の天井へ据えた眸がうっとりと和んで来た。 ( 何時からこうしたことになったのか ? ) 「まだ、それを考えているのか。何よりも、こなたの健や 秀忠のことを考えるときだけが、朝日の生甲斐になってかな笑顔を見せることじゃと言うて居るのに」 しまっている。 たぶんいまも、上洛して来る秀忠に何を贈ろうかと空想 と、とっぜん朝日の表情は三転した。 どこか痛みだしたのか」 しているのであろう。それだけで人が変ったように活き活「どうしたのじゃ , きと見えだした。 「秀忠どのも十三歳になりまするなあ」 はげしく首をふりながら朝日の視線は震えながら家康の 「そうじゃ。あくれば十三歳 : : : 」 それにからんだ。 「もう、そろそろ奥方を : ・・ : 」 「正月までは、あと二十日もござりまするなあ」 言いかけて朝日は、ふっと口を噤んだ。 「そうじゃ。正月早々に寄こそうほどに、二十五日経った ら会えるであろう」 ( 自分の生命はもはや燃えっきようとしている : : : ) 出来得れば、自分の心に叶うたやさしい女子をそばに残「お館さま ! 」 おび していってやりたい。 「どうしたのじゃ。急にそのような布えた顔になって」 と言って、これはどこまでも、自分の心遣いとして家康「二十五日 : : : 生きてあろうか。わらわの生命は : には知られたくなかった。 家康はハッと胸をつかれて、これもあわてて首を振っ 秀忠の気性ゆえ、朝日が言い出しても、必ず家康に相談 しよう。その相談のおりにはじめて家康がそのことを知る「何を申すそ。治らねばならぬと申して居るに : 方が楽しかった。 「お館さま ! 腰元衆をお呼び下され」 「これ、また起き出して何とするぞ」 「なんと申したのじゃ。こなた」 なご こ 0 736

4. 徳川家康 9

右近が微笑しているとわかって相手はいらだって吼え立 「わしはな、今まで数十度戦場を駈けて来た経験で、わし てる。 に勝っ相手と負ける相手の見わけはつく。そちたちも、そ 「フフフ、いかにもわしは高山右近じゃ」 のようじゃ。そちたちは四人一度にかかっても、この右近 「歩かぬと繩を打って曳き立てるぞ」 しば に斬られることを知っている。わしもまた斬れることを知 「そうか : : : わしが素直に縛られてやればの」 っている」 「なんだと、手向いすると申すのか」 コフ : : 、つぬツ」 「わしは、そちたちを石田治部が手の者と感じとった。加 「と、言うてみてもその槍は繰出せまい。繰出した時には 藤主計どのや、細川忠興どのが手の者ならば曳かれていっ てもよい。何れも話せばわかるご仁だからの。ところが治その者の首から先に飛ぶ時と、そちの方で知っている。や めさっしゃい、わしも無益の殺生はしたくない」 部はそうではない。あれはもともとわしとは仲が悪いし、 しきりに関白に切支丹の怖ろしさを吹き込んで来ている手そう言い放っと、くるりと北へ向きを変えて、すたすた と四、五歩あるいた。 前、わしを斬らねば済まなくなる男だ」 「め、ツー・」 「問ロはも、フよい。歩一くか、歩一かぬか」 えんきよう 「それをいま答えているのだ。よいか、曳かれて行けば斬ふしぎな猿叫を発して背の高い男が槍の穂尖で追いすが られる。ここに居れば生き残れる : : : そういう時に、そちっこ。 「こッ ! 」と、短い気合いがこれに答え、突きかかった一 たちならば何とするそ」 落着きはらった反問に、背の高い侍は躍りあがった。 人は躱された上に槍を手繰られて、みずから右近の拳に脾 「ここに居たとて、動かぬとわかれば生命はないぞ。斬っをあてていた。 て捨ててもよいと許しは出ているのだ」 「ウーム」その男がのけぞるのと、あとの二人が、仲間を 「ほう : : : 」じろりと四人を見やって、右近は又低く笑っ呼びに家並みのある方へ走り出すのとが一緒であった。 残った一人はあきらかに膝の震えのわかる構えで、しか し右近に槍をつけている。 「そちたちは、嘘を吐いたな」 つ」 0 かわ 7

5. 徳川家康 9

ししえ、味方の出来ぬ戦ゆえ、ご当家と戦わせぬよう、 「お許の言うこと、わが家を案じての苦言と受取ってたず「、、 ねたい」 ご苦心なされておわすこと : : : 駿府にあって、よく感じ取 れました」 「何なりと、知れる限りは」 もと 随風はそういうと、ちょっと言葉をきって氏直を正視し 「その許は当城へ参るまでは、何れにあったぞ」 「恐れ入りました。駿府にあって、あれこれ、天下の雲行た。 きを眺め来ってござりまする」 「その許、家康公を存じて居ろう」 氏直は、あわてて父を見やり、随風を見やった。 「いいえ、直接には存じませぬ。さればとて、あのご仁の ( 何の必要があって、この風来坊は、このような思い切っ お考え : : : など、いささかは推断致して居りまするが」 かんか 「では訊ねたい ! わが家と大坂方との間に干戈起らば家た毒舌を弄してゆくのか ? ) 父や自分を怒らせたら、自分の生命が危いことに気付か 康公は何れに味方なさると思うそ」 ぬのであろうか。 「それ、その事にござりまする」 ( それとも、斬られる覚悟で言っている : : : と、したら、 随風は、ちょっとあたりを見廻してから、 「お人払いの要はござりますまいなあ。何れもご近臣の方その目的はいったい何であろうか : 方ゆえ : : : 」 氏直の頭脳では、随風の正体はまだ解しようがなか 「構わぬ。話せ」 た。しかも随風の身辺からは依然として恐怖らしいもの も、気おくれも感じられない。 「はツ。家康公は、殿さまの舅御でござりましたなあ」 「それがどう致したのじゃ」 「旅の僧、するとこなたは若しや、徳川どのに頼まれて参 ったのでは : 「たしか、西郷の局のお腹にお産まれなされた小督姫 : 随風はゆっくりと首を振った。 天正二年のお産れとかききましたゆえ、本年は十六歳 : 「頼まれて動くようでは、まことの気儘ものとは申せませ これは家康公にとってもお愛しいわけで : : : 」 ぬので」 「それで : : : それで、味方すると思うのかツ」 こと しゅうと 1 ) こ ) : っ

6. 徳川家康 9

それにお吟は利休の娘とはいい条、実父は天下に聞えわへ行けば、北の政所さまはおよろこびかも知れぬが : : : 」 たった松永久秀。決して他の側室に気押されるほどの血筋「お父さま : : 私は、お父さまのお心がききたいのでござ ではない。 りますが。お父さまの大事と思うて駈けつけて来たもの 「お父さま、もう関白殿下のご帰洛は目の前に迫っていまを、ご奉公に出てみたいかとはあんまりな」 「なるはどの、つ : ・・ : 」 す。話があったら何としたらよいのでござりましような あ」 利休は、相変らず眼を閉じたままで答えた。 「ふーむ。何としたらよいものかの、つ」 「もしお父さまがお断りなされたら、殿下はどのようなご 無理をいい出すか知れない空気 : : : と、これも石見どのの 「するとこなた、父が殿下に、あらぬ憎しみは受けたくな お言葉でした」 い。このまま無事にありたいと言えば、わが身の感情は殺 してお側へ行くというのじゃな」 「たぶんお帰りなされて、第一回の茶会にお父さまを呼出 利休の声は依然として淡々としたものであったが、それ そう。そしてその席で話が出ると : に応えるお吟の声は強かった。 利休はまたしばらく釜の音に聞き入ったあとで、 「おっしやる通りでございます ! 古稀を超えられたお父 「これはそなたの間題じゃな」 さまに、もしものことがあってはそれこそ見て居られませ と、軽 / 、いっこ。 ぬ」 「そなた、ご奉公に出てみたいか」 「ふーむ。それでわかった」 / . レ気刀・ お吟は蒼ざめた表情のまま怨めしそうに父を見返した。 : なにが、おわかりでござりまする」 お吟自身の問題とは、何という父らしい強がった言葉であ 「こなたの心が、よオくわかった」 ろうか。お吟は、それが、父の浮沈にかかわる大事と、昨「私は、お父さまのお心を、まだ、また・ 夜も殆んど寝ていなかったほどなのに : ませぬ」 「お吟」 「どうじゃ、こなたの胸のうちは : : : 或いはこなたがお側 ・ : : 司ってよ居り 255

7. 徳川家康 9

う。それが一国一家の中に巣喰うと滅亡の虫に変る。誰も武田勝頼は、失地の回復を目ざして長篠に出て来なかっ 彼もを仮想敵として動いてゆくゆえ、いつの間にか周囲が たら滅びはしなかったろうし、今川義元も上洛を急いでみ でんがくはざま まことの敵に変る。いまの北条家にはその形がなくはなずから田楽狭間に討たれに出ていったも同然だった。考え よく心を静めて故事と思い合せてご覧なさるがよい。 てみると、 亡ぶるものはの、大抵この妄想の虫のため、すすんで動い ( 北条氏が、何を好んで関白と戦うのか : て滅んで居る。じっと守勢をとって滅びたものは一人もな そうした疑いが氏直の心に芽生えだした。秀吉の召に応 じて、自分か父が上洛し、天下統一に協力するといった なぐるみ 氏直はそっと床几に腰をおろすと、そろそろ色づき出しら、上野の奈胡桃城のことなど間題ではなかったのだ。 た桜の葉の間から、深く澄んだ秋空に眼をやった。あたり ( するとわれ等は、この僧の言う被害妄想の虫につかれ は嘘のように静かであった。 て、意味のない滅亡の動きを始めているのかも知れない ) 「随風どの」 小声で呼びかけると、随風は細く眼を開いた。 氏直が改めて随風に視線を向けたときには、随風は並ん「父が最も案じて居るのは、上洛すれば秀吉は、そのまま で床几にかけたまま、コグリコクリと、居睡りはじめていわれ等を取籠めて殺してゆくか、さなくとも国替えは免れ まいと見て居るが、これも妄想だとお身は言いやるか」 ( ただの僧侶ではない : しかし随風は答えなかった。聞いているようでもあり睡 自分に危害を加える者などありようが無いと信じきっ っているようでもある。 て、木の間もる光の中に「安心ーーー」そのものの座を作り「答える要は無いと言われるのじゃな」 出している。 そう言えば、確につつましく守勢を整えて滅んだ者は歴「戦えば、徳川どのも、わが家には味方せぬ : : : と、年さ 史になかった。時風を察せず、みずから敵を求めて動いたれたなあ」 者が滅んでいち。 100

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ているのじゃ」 つきに過ぎない。それだけに、これはうかつな返事は出来 よ、つこ 0 秀吉は、その頃から機嫌を直したようだった。 「大納言、聞いておくりやれ。治部めはのう、わしが耳に 「参りました。何とも家康には、思案がっきませぬ。やは したくないことばかり報告しくさる。利休めが、富田と柘りこれは、殿下のお智恵を拝借せねばなりますまい」 植を使いにやったおり、このように不遜な態度であったと 「そうか、考えっかぬか」 か、このように不吉なことを申したとかのう」 「はい。何分にも、木像の磔という一方のご処置が凡慮を 「なるほど」 抜きすぎて居りますので」 「、ツ、ツ、 「それで予も怒った。そして、それならば大徳寺がわるい ( : ・ : そうか。よし、ではこう致せ清正」 ゆえ、大徳寺を叩っこわせと申したのじゃ。するとこわす「はツ には誰をわしたらよろしゅ、フ、こざりましよ、フかと聞きく 「古渓和尚めは、利休に貰うた青茶碗を大切に所蔵してい さる。これでは話は壊れるばかりじゃ」 る筈じゃ。寺を壊しに来たと申してな、その青茶碗を出さ 「仰せの通り」 せるのじゃ」 「そこで腹立ちまぎれに清正が宜しかろうと申したら、清「 : 正めがまた、本気で壊しに行く気で居る。ハッハッ、・ 「よいか。そして和尚が取出して参ったら、その茶碗を縁 案ずるな。お身のおかげで怒りも納ったわ」 へ叩きつけて割ってやれ。そして、これで利休めを増長さ 「ありがたき儀に存じまする」 せた、わるい寺を壊したそ : : : そう申して戻って来い」 「そこで大納一言、お身ならば大徳寺を何とするぞ。とにか 「なるほど、これは御名案 ! 」 く木像は引きおろして磔にしてやったのじゃ。しかしその清正よりも先に家康が、感嘆したように盛上った膝を叩 木像を人もなげに飾らせたは大徳寺、大徳寺をそのままに してはおけまい。お身ならばどう決着をつけてゆくそ」 「木像を磔にして人の生命に代え、茶碗を割って寺院一つ 逆に秀吉に間いかけられて、家康は生まじめに首を傾げをお救いなさる。家康、よい土産を頂きました。そこがま ことの、こ仁政に、こざりましよ、つ」 た。そもそも木像の磔などと言うことが、秀吉好みの思い 297

9. 徳川家康 9

に積み、隠居すべきときと、おのれの心が命じたおりに隠 居する。禄を貰うて有難いゆえ忠義のお返しを申上げた 「血迷うな。まだ家康。 よ、こなたの性根の見ぬけぬはど老 り、主君の言うことゆえ無理でも従うたりする腰抜けでは いてもいなければ無気力にもなって居らぬわ」 「設 ない。見損うて貰いますまい」 言い放って上半身をぐっと乗出し、下から執拗に眼を据「おう、何だ爺」 えてじい ーっと家康を睨めあげた。あたりに妖気の漂うよ 「それほど高言なさるならば、柴を積んで大政所を脅迫し うな面魂であった。 たことを、後悔したり恐れ入ったりする作左でないこと、 しかと覚えてお置きなされ」 五 「そのことで、そちはそれほど腹が立つのか」 家康は思わず顔をそむけたくなって来た。 「立たいでかツ。生れおちるとから今日までのご奉公、作 家康に向って「見損うな : : 」とは、何という思い切っ左が性根はそのようなところにはない。作左が数正の夢を た暴言であろうか。 見たいわれも知らぬとは情ないお方じゃ殿は : これほどの暴言の吐ける男は、たしかにいまの家中には 「なに、数正の夢を見たいわれ : : : あ、あれでそちは怒っ よ、つこ 0 ているのか」 ( こやっ、何を考えて、このような無礼を敢てするのか 「殿 ! 数正めは、自分こそ家中第一の大忠臣と、うぬ ばれくさって大坂へ出ていった。それは殿がご存知の筈 考えあっての暴言とわかれば、ここで家康もまた眼をそじゃ」 らしてはならないところだ。 家康は、キグリとしたように自 5 をのんで、すぐには答え よ、つとしなかった。 「見損うなとは、ほざいたなあ作左」 「お、つ、ほギ、いた」 ( こやっ、数正とわしの間の黙契に気付きおった : : : ) そうわかっても、しかしこれは口外すべきことではな 作左衛門は薄気味わるくひとっ喘いで、 「今日はこの作左、殿と一世一代の果し合いをする気なのかった。 118

10. 徳川家康 9

「こなたを何れへ隠したと、ご詮議のため、今朝ほど京へあってもお吟のことは死んだで通そう」 連行されたそうな」 「それが、わかって居るほどに辛うござりまする」 木の実は、そっとお吟の膝へ手をのせた。 「とゆうて、こなたが名乗り出てみてもどうにもなるま ( 覚悟している筈 : : : ) い。そこの道理を噛みわけねばのう」 それゆえ取乱すなという意味の女らしい万りであった。 「宗啓どの」 蕉庵はそこで助言を求めるように宗啓を見やって、 ( ついに母も連行された : 「きびしく禅の修行を積まれたお前さまの眼には、宗恩ど それは、お吟にとって予期しないことではなかった。何のはどう見えまするかの。世にも仕合せな人妻ではござる 学い力」 時からか、妻であると同時に父の弟子にもなりきっていた 「おっしやるとおり : 母親の宗恩だった。 宗啓はおだやかに頷いた。 父ひとりを殺して後に残ることがすでに母には耐えられ 「良人を知って良人に仕え、一心同体を味わい尽した宗恩 ない負担らしかったが : どの、これ以上に恵まれた女子はない : : と一次、やきしゅ、つ ( それにしても京へ引立てられて、どのような調べを受け 、こぞ、りまする」 るのであろ、フか : そう思うとわが身を拷間にかけられているような辛さで「やはりそう見えまするか。わしもな、居士の死後、ひと あった。 りで生きてゆける女性ではない。何れ四十九日でも過ぎた 「お吟 : : : ではない、お金であったの」 ら、後追う人と見ていたが : と、蕉庵が口をはさんだ。 「そのことでござりまする。それが肉親の娘一人助けて死 「覚悟は出来ていた筈じゃ。取乱してはなりませぬぞ」 ねる : : : そんな心で、たぶん、いそいそと引立てられて参 し」 ったことで ) こギ、り・ましよ、つ」 「母者は、居士に劣らぬご気性の女子、どのようなことが 「たとえ、治部どのがどのように責め折檻してみても、こ 371