際しないことになっている ) ( そんな国是は今日かぎり改めてしまうがいい。世界の形勢。 よそのような孤立を許さない。頑固なこ とをいうと、お前の国は減されてしまうそ ! ) 」 一座は騒然となった。俊斎が憤慨してどなりはじめた。 「畜生め、人を馬鹿にするな ! 」 吉井幸輔もどなった。 「無礼の奴だ。わが藩の実力を見くびっている。わずか二隻や三隻の軍艦で、わが藩を威嚇するとは なにごとだ ! 」 「おい、待て待て・フランスは : 伊地知正治が訂正しようとすると、俊斎は眉を釣りあげて、 「待てとは何だ・あんたはフランスに味方するつもりか」 「無茶をいうなよ」 「何が無茶だ ! 」 「おい、有村、やめろ ! 」一座の年長者として、吉之助は仲裁の役にまわらねばならなかった。「議 論は話を全部聞いてからにしろ。腕まくりはよせ、みつともない。 : 伊地知、つづけてくれ」 「フランスは自分の手で琉球を減ぼすとはいわなかった」正治は説明した。「イギリスのことをいっ へいどん : イギリスは清国をたたきつけた余勢を駈って琉球を併呑しようという野心を抱き、近いうち に、東洋艦隊の全部をひきいて、琉球に来襲するという」
むさんおしよう 「吉井 ! 岩切清五郎は無参和尚の弟子だといったのは、お前だったな ! 」 「弟子だというわけでもないが : : : 」幸輔は、吉之助の見幕におどろいて、言葉をにごした。「岩切 せいこうじ もときどき哲「光寺に来ることは来るよ」 きこっ 誓光寺の無参和尚は、吉井幸輔の叔父にあたり、 学識と奇骨に富んだ傑僧として聞え、一部の青年 たちの尊崇を集めていた。 「ごまかすな ! 岩切を真面目で信頼するにたる男だと俺に紹介したのは、貴様だ ! 」 「うん、僕はそう信じていたのだが : 「おい、税所 ! 」今度は税所篤の方をにらんで、「お前も無参和尚の弟子だったな」 「そうだよ」 吉之助は吐き出すように叫んだ。 ぜんばうず 「禅坊主という奴は、若い者に娘の手をにぎってもいいと教えるのか ! 」 「そんな馬鹿な : ・・ : 」 おもちゃ 「百姓の娘は玩具ではないそ ! 」 「なにも僕が : : : 僕がにぎったわけじゃない。もっと落着けよ」 だが、そんな言葉は耳にも入れず、吉之助は大きな目で一座をにらみまわして 「俊斎 ! 俊斎はいないか ? 」 「茶坊主は御殿だ」伊地知正治が答えた。「俊斎がどうかしたのか ? 」 「いや : ・ : ・とにかく、この問題は僕にまかせてもらおう」
第二章南海の黒船 ある晩、下加治屋郷中の青年たちの会合で「論語」の輪講が終った後、大久保市蔵がおかしなこ とをいいだした。 はんせん 「琉球にフランス軍艦がやって来た。三本マストの帆船だが、備砲三十数門、乗組員二百数十人、長 さ五十間の堂々たる大艦だ。フランスは印度、安南、南支那を攻略した勢いで、一挙に琉球を征服し てしまう下心らしい」 かきやくたすけ にせぐみ 市蔵は二才組 ( 青年組 ) の中では年少の方であるが、藩の記録所書役助をつとめているので、時々 、ロ このような新知識を持って来て、仲間をおどろかす。 「それはイギリスのまちがいではないか」伊地知正治が隻眼を光らせてたすねた。彼もまた、新知識黒 の点では市蔵におとらぬと自認している青年だ。「フランスが南支を攻略したという話はまだ聞かぬ。 ホンコン シンこく イギリスならたしかに清国と戦って香港という港を奪取したそうだ」 章 「いやフランスだ ! 」大久保市蔵はいつもの自信に満ちた口調で答えた。「イギリス船もずっと以前 第 に琉球に来たらしいが、べつに暴行ははたらかなかったようだ」 「フランス軍艦は暴行に及んだのか ? 」 ごうぢゅう せきがん
正午近い時刻になって、二人は山を降りて来たが、獲物は例の野兎のほかに一匹もなかった。鉄砲 の先に兎一匹をぶらさげて、吉之助は浮かぬ顔色である。 俊斎は両腕一杯に蕗と山うどの東をかかえこんでいた。吉之助が鳥を追いまわしている間に、沢の 中にもぐりこんで採ったのだ。季節はずれの山芋まで二、三本掘っていて、獲物は俺の方が多いそと いいたげな得意顔であった。 待ちかねていた仲間は、二人の姿を見ると、どっとはやしたてた。樺山三円の顔が見えないだけで、 いつもの顔ぶれが全部そろっていた。腰掛茶屋からほど遠くない草原に石の竈をつくり、大久保市蔵 がせっせと火を焚いていた。竈の上では、大きな鉄鍋に湯がぐらぐらと煮えたぎっている。 吉井幸輔は大山正円を相手に相撲をとっているし、伊地知正治と税所篤は焼酎の徳利を中にして、 二人とも真っ赤になっていた。ぼんやりと草に坐って海を眺めているのは、身体のわるい長沼嘉平で あった。 吉之助は手をふって、駄目だ駄目だという意味を示しながら、仲間の方に近づいて行き、面目なけ に頭をさけた。 の方は引き受けたと仲間の前で大きなことをいった手前がある」 「ロのヘらない小坊主だ」吉之助は笑いながら立上った。「撃って来てやるから、おとなしく待って いろ ! 」 ふき かまど 114
わからないことは、人にたずねるよりほかはない・知らないもの同士がいつまで議論を上下してい ても、埓はあかない。ある晩、吉之助が提案して、一同手分けをして、真相を調査しようということ になった。異国船問題は大久保市蔵が調べ、斉彬公のことは西郷吉之助が調べる。この二つの問題を まず解決すれば、他の問題は自然に解けるのではなかろうか、と話がきまった。 異国船の問題に関しては、市蔵より先に、伊地知正治が調べをつけて来た。 「わかったそ、わかったそ ! 」彼は会合の席で、長い巻紙に書き記したものを懐から取出し、得意け に一同の顔を見まわした。「思ったより形勢は切迫している。琉球には現在、フランス人が滞在して いるのだ ! 」 「えつ、まだ軍艦がいるのか ? 」 「いや、軍艦はいない。軍艦がいないのにフランス - 人が残っているのだから、形勢は重大だと僕は思 彼は巻紙をひろげ、異国船来航の歴史を話しはじめた。 薩南に、オランダとポルトガル以外の異国船が姿を現したのは、天保八年のアメリカ汽船「モリソ黒 ン」号が最初らしい。モリソン号は日本人の漂流民を乗せて、鹿児島湾内の山川港に人港した。漂流毎 民送還を機会に、通商を求めようとしたらし い。だが、藩政府は暮府の異国船打払令に従って、それ 章 を砲撃し、追いかえしてしまった。その後、モリソン号は長崎にまわり、長崎奉行とごたごたを起し一一 たが、その事情はよくわからない。 「天保八年といえば、俺たちはまだほん、の子供だったな」吉井幸輔がいった。「有村俊斎などはまだ らら
自分より年下の大久保市蔵や長沼嘉平が、どこから聞きだして来るのか、南海の事情や中央の形勢 はつらっ を湲刺と論ずるのを聞いていると、自分も何かいってみたくなる。だが、その場かぎりのことを口に 出すのは気がとがめる。意見を持たぬのは恥ずかしいが、本当に知らないのだから、黙っているより 「西郷、遠慮しなくともいいじゃないか」伊地知正治がうながし顔にいった。「近ごろ、君はいやに だまむし ・黙り虫になった」 「うん、百姓の村ばかりまわっていると、たんだん物がいえなくなる」 迫Ⅲ太次右衛門は郡奉行をやめたが、吉之助はもとの役にとどまって、新しい奉行について村々を まわっている。 ( 良吏になれ、虫になるな ! ) という太次右衛門の教訓を身に体して、誠心誠意、事にあたっている つもりである。農政に通ずるために、藩の農政記録や先人の農業書を読みあさる。農事の実際を知る ために、百姓になったつもりで村人と胸をひらいて語り合い、また家の手助けをも兼ねて、弟の吉次 あるじ 郎と一緒に鍬もにぎる。庄家の家に泊った夜は、算数に明るいその家の主に頼んで、算盤の稽古をつ けてもらう。 だが、そのような努力にもかかわらず、果して自分が真に百姓のために役にたっ良吏になり得るか かきやくたすけ どうか、まったく疑問だ。郡方書役助になって三年、二十歳になったが、農政の改良などは思いも よらず、百姓の生活は年々目に立って悪くなるばかりだ。 百姓の生活ばかりではない。自分一家の暮しも、ますます苦しくなゑ子供は多いし、物価はあが
イギリス船が碇をあげないうちに、いよいよ来るべきものが来た。かねて予告のあったフランス東 洋艦隊である。四月七日の朝霧を破って、先駆艦「サ。ヒン」、つづいて旗艦「クレオパトラ」と「ウィ テ・トーリアス」が那覇の港を圧して碇をおろした。司令長官の名は、ポール・セシル。要求は前年 那覇と薩摩を結ぶあわただしい飛脚船の往来は、そのせいで の如く、和親、貿易、布教の自由。 ・あった。 鹿児島の藩庁にも、対策はなかった。藩主斉興も世子斉彬も権臣調所笑左衛門も江戸にいて、藩庁 の頭脳はからである。 急使は工戸に向ってとぶ。 江戸の藩邸では御前会議が開かれる。調所笑左衛門は老中阿部正弘の屋敷にかけつける。世子斉彬 としあき のもとに急使が立つ。幕閣の中で外国通として聞えている筒井紀伊守や川路聖謨も姿をあらわす。 ー藩邸のまわりは騒然として来た。 、つさいが幕の向うで行われる芝居であった。何事か行 だが、鹿児島にいる青年たちにとっては、し われていることだけはわかるが、事件の筋はさつばりわからない。 鹿児島城下には不気味な噂がくすぶり、下加治屋町郷中の会合でも、話題はいつも異国船間題であ かんじん る。例によって大久保市蔵や伊地知正治が腕まくりして議論するが、肝腎の対策の点になると、一同 腕組みをして、黙りこむよりほかはなかった。 ある晩、茶坊主の有村俊斎と樺山三円が目を輝かして、新しい事実を報告した。 「近く、若殿様が御帰国になるそうだ。幕府が琉球問題解決の全権を若殿様に一任したのだ」 カり
生れていなかった」 「僕は生れていたよ」俊斎が躍起になって、「まだ十年にならないじゃよ、 「ちょうど十年前だな」吉之助は指を折りながら、「だが、漂流民を送ってくれた船を打ちはらうと いうのは、すこし無茶じゃないかなあ。少くとも礼に反するような気がする」 まさはる 「いや、それはちがう ! 」正治は断乎とした口調で、「漂流民のことは口実にすぎない。諸外国の目 的は東洋の侵略だ。うかつに交渉をはじめたら、どんな目にあうかわからない」 吉之助は素直にうなすく。正治はつづけて阿片戦争の事情を説明した。 シンこく 「この戦争は天保十年に、イギリスが東洋侵略の第一着手として仕かけたものだが、老大国清国はま アモイ ったく抵抗力がなく、たちまち広東、厦門、上海を攻略され、天保十三年にいたって、ついに香港を 割譲し、広東以下の五港を開くことを余儀なくされた。 : その翌年、武装したイギリス測量船がわ が琉球八重山島沖にあらわれた。すなわち、香港に基地を得たイギリスは、 いよいよ侵略の魔手をわ が南海にのばしたのだ」 青年たちは息をのんで、聞き入っている。正治は、巻紙をくりひろげながらつづける。 「軍艦を派遣する前に測量船をよこすところに、彼らの慎重な用意のほどがうかがわれる。 ・ : 島役 人は測量は国禁であると抗議したが、相手は耳をかさす、前後二カ月にわたって附近一帯を測量して 悠々と立ち去った。琉球に関するかぎり、詳細な海図がイギリスの手に入っていると考えなければな らない。 : その翌年、すなわち弘化元年に、今度はフランス軍艦が那覇港の沖合にあらわれた。こ れは大久保の話したとおり、備砲三十数門の堂々たる大艦だ。黒潮の上に白帆をはって、巨砲の列で南 カントソ シャンハイ オし力」 ホンコン
「子供たちは ? 」 ほうそ ) みな : いえ、末の男の子が一人だけ痘瘡でなくなりましたが : ・ 「それはお気の毒だ」 われになくあわてながら、それだけいって、吉之助はその場を立ち去ろうとした。女を見てドキリ とするなど、男児の恥だ。長沼や伊地知が知ったら、ひやかすにちがいない。 そのとき、川の中から、平造が娘に呼びかけた。 「お信、何か用か ? 」 ひどく親しげな口調である。おや、と思って、吉之助が見ると、平造も真っ赤になっている。 ( なあんだ ! ) と思った。損をしたような気がしたが、もう一度安心した。 「平造、このお信は : : : お前の : : : 」 「はい、まあ : : : 」 吉之助は胸を張って大きな息をした。鎮守の森の上で鳶がみごとな輪を描いている。 平造は照れた顔で、 「お信、用事はなんだ ? 」 「はい、今晩、お奉行様のお給仕に庄屋のお屋敷にまいります。それで、夕飯の仕度ができませんが 「うん、 しいよ、冷飯でたくさんだ」 吉之助は歩き出した。
2 「早くいえ ! 」 膝でつめよるものもある。市蔵はちょっと思わ せぶりな間をもたせて、 「若殿様だ ! 」 なりあきら 「若殿斉彬様はっとに世界の大勢に着眼され、海 外の学問にも心を寄せられて、海防のことに関し ては特に御造詣が深いと聞いている。造船術、築 城法、砲術、海戦術、すべてオランダの原書につ いて奥義を極めておられるそうだ。 : ・若殿様に 御帰国を願い、藩公の位についていただけば、問 題はただちに解決する。 ・ : 因循姑息な重役連の 頭を抑えることのできるのは若殿様だけだ」 市蔵は唇をなめて、一同の顔を見まわした。 誰も答えるものがない。吉井幸輔は漬菜を食う 手をやめた。長沼と伊地知は、腕組みをして考え こんでしまった。吉之助は大きな目を二倍に見開 いて、じっと市蔵の顔を見つめている。