斉彬公のことについて、吉之助はいろいろと手をつくして調べているのだが、どのような人物なの か、まだよくわからない。聞く人によって、評価がちがうからだ。 えいまい ある者はいう。 ( 斉彬公は英邁であるかもしれぬが、江戸に生れて江戸に育ち、薩摩言葉も満足に 話せない どんなに英邁でも、これでは藩の事情も通ぜず、藩の気風に合わぬと思われても仕方ある風 またある者はいう。 ( いや、薩摩を知らないことがかえっていいのだ。薩摩一藩のことのみにこだ わらず、常に高所に立って、日本と世界の状勢を大観することができる。薩摩が望んでいるのは、そ三 のような気宇広大な藩主だ ) そうかと思うと、 ( 斉彬公には蘭癖がある。蘭学者どもと交り、自分でもオランダ語の手紙など書 「平造、またあう・せ」 「これは、御免下さい」 「ああ・御免 ! 」 ( 似合いの夫婦だ。嫁の方が少し美しすぎるか。いや、そんなことはどうでもいい ) くすのき 何をねらったのか、鳶が楠の梢をめがけて、さっと舞い降りた。 ( 俺もどうやら腹がへって来たようだ。 : あの娘が、今晩給仕に来るといったな。いや、それも、 どうでもいい。俺は若殿様のことを考えなければならない ! ) らんべぎ
いんじゅんこそく 「藩庁のやり方は、いつもそんなものだ。因循姑息、泥棒を見て縄をなうのがせいぜいのところ。経 りん 綸もなければ、政策もない。琉球警備だって幕府への申しわけにきまっている ! 」 一座は再び黙りこんだ。座敷の隅で、さっきから漬菜を手づかみにして、がぶがぶと茶を飲んでい た有村俊斎がだしぬけに頓狂な声を出した。 「危急存亡 ! : まさに危急存亡のときだそ ! 」 危急存亡はこの少年の口癖である。彼がそれをいいだすたびに、仲間はいつも顔を見合せて苦笑す るのだが、今晩は笑うものはなかった。 沈黙に堪えられなくなると、青年たちは狂ったように論しはじめた。 「フランス東洋艦隊の狙っているのは、決して琉球ごとき小島ではなかろう」 「そうだ、彼らの目標はわが薩摩藩た」 「いや、日本だ。冖 彼らは日本を、支那の如く安南の如く、 足下に踏みにじろうとしているのだ」 「では、どうして、いきなり薩摩にやって来ないのだ。まず琉球にやって来たのは、平和な意志を持 っているからではないかなあ。ただ通商貿易を求めるだけで、侵略の意志はないのではないか。そう黒 の だとすれば、べつにあわてる必要はない」 「そんなのん気なことを考えるな。ます武備のない琉球をうかがい、それから薩摩にやってくる。こ じようせき れが戦争の定石だ」 「わが藩に武備があるというのか」 「あるしゃないか」 アゾナ / つけな
うるう 閏五月末の蒸暑い曇り日、島津斉彬は老中阿部伊勢守正弘を官邸に訪れた。琉球問題に関する内談 であった。 阿部正弘は斎彬を奥書院に導いて、人払いをした。二人は日ごろから尊敬し合った親しい友人であ る。特に、最近の複雑な政局に関しては、若い老中の正弘は斉彬の意見に聞くところが多い。正弘に はまた斉彬を万年世子の地位から引き出して、中央政界の中心におきたいという下心があった。 しかがです。 英仏両国はまるで貴藩だけを狙っているような現状ですね。お困りでしよう」 「英仏米の諸国が狙っているのは、薩摩ではない。 日本だ。御老中、対策がありますか」 「江戸まで来るのには、まだ時間がある。ひとつ、薩摩方で先例を示していただきたいものです」 「薩藩は幕府の方針に従うだけです」 「これは意地がわるい ・ : むしろ幕府が薩摩の方針に習わなければならぬ現状でしよう。 若殿、対 策がありますか ? 」 「えつ、本当か ? 」 御殿で、町奉行の近藤隆左衛鬥と物頭の赤山靱負とが話していたのを聞いたのだから、まちがいな かろう、という返事であった。 一座は色めきたった。斉彬帰国の報は、青年たちの心に、濃霧の中に太陽を見たような希望と喜び を与えたのである。 81 第五章黒朝
阿部正ムよ、 、よいよやるそ。 どうだ、お前の心も決まったか ? 」 「なんの話ですか。だしぬけに」 「とぼけちゃいかん。御老中首席の職権をもって、いよいよ薩摩の大殿様をたたきつける。 場になってあわてるようなことはなかろうな」 斉彬の顔には、さすがに暗い影がうごいた。 阿部正弘は、当主斉興を隠居させるために、い よいよ非常手段を用いる。これまで伊達宗城や黒田 斉溥とともに、いろいろと手段をつくしてみたが、斉興は意地になって位を譲ろうとしない。 この上は 最後の切札として、琉球における密貿易問題を持ち出し、調所笑左衛門に責任をとらせ、いやでも斉 興を隠居させるよりほかはない。 琉球の密貿易は重豪以来の薩摩の秘事であり、薩摩の財政難を救って、今日の大をなさしめた財源 であるが、今はなかば公然の秘密となって、阿部正弘にもその証拠をにぎられている。それを持ち出 して攻めれば、斉興は一も二もなく頭をさげねばならぬ破目に立たせられるが、斉彬としては、簡単 死 に賛成できる筋合いのことではない。 「それは困る」斉彬ははっきりと答えた。「あなたは黒田家の当主だからかまわないようなものの、 私は島津家のものだ。 ・ : 自分の家が幕府によ 0 て弱点をつかまれ、不正を摘発され、犠牲者を出そ一 うとしているのを目の前に見ては、あわてないわけには行かないでしよう」 「今さらあわてても、もうおそい ! 」斉溥は突っ放した。「阿部は明日にも調所笑左衛門を召喚する といっている。 : : : 笑左衛門もすでにそれを感づいていることだろう。彼のことだ、お前より先に対 ーー・その
いナ - ることにしよう」 169 第十章江戸と薩摩
ちちぶくず 立てることになり、とうとう自分の首が危うくなるところまで行ってしまった。お前は秩父崩れの話 を知っているだろう」 「知っています」 秩父崩れというのは、ちょうど四十年ほど前の文化五年に起った薩摩藩のお家騒動である。藩主 びんらん 島津重豪の急激な開化政策がもたらした士風の頽廃、財政の紊乱に、国家老秩父太郎の一党が公然と 反抗して、重豪の激怒を買い 一党ことごとく切腹し果てた事件である。藩中に私党を結ぶことの危 険の例証として青年たちがしばしば聞かされる戦慄の物語であるが、それでも、秩父太郎とその一党 の激烈な志操を今なお追慕し、ひそかに尊敬している藩士たちも少くない。 そこまでは吉之助も知っていたが、この和尚が秩父騒動に関係があるとは、まったく初耳であった。 おどろいて和尚の顔を見なおしていると、和尚は枯れた手をあげて、自分の首筋をちょんとたたき、 笑いながらつづけた。 「あの騒動で、わしも危うく首がとぶところだったのだ。 ・ : 重豪公の開化政策はまったく大変なも のだった。われわれが薩摩の国言葉を使っても役人に叱られる。古来の薩摩の士風と風俗のいっさい を根こそぎにして、上方の風俗に変えてしまおうというのだ。江戸風の着物の着方、髪の結い方、言 葉の使い方を教える役人がいたのだから、思い出してもぞっとする。 : 詩人の頼山陽が漫遊に来て、 さつまはやと 章 四 剛健を伝えられる薩摩隼人に昔日の面影なきを嘆じ、その柔弱ぶりを笑ったのもその頃の話だ。 しようゆうたくみ にぶ 倡優巧に、鉄剣鈍し ひにく 馬を以て妾に換え、髀肉生ず
し」 「吉之助、お前は僕を信じてくれるだろうな」 吉之助は大きな目で、じっと靱負の顔を見つめていたが、 「信じます ! 」 「山口殿は九歳のときから若殿の側近に侍して、殿の御寵愛もことさら深かった。そのために奸党ど もに憎まれ、江戸から薩摩に追いかえされた : ・ : ただそれだけだ ! 」 「山口殿は江戸に友人も多く、その友人たちとの文通も繁く、だから江戸の消息にもくわしい。その 点をとらえて、隠密だという噂を立てれば、誰でも容易に信じる。 : だが、われわれはそのような 噂を信じてはならぬ」 「もしも、お前が若殿様を心からお慕い中しているのなら、山口殿をあらぬ噂からお護りするがいい : 郷中の仲間でその噂を口にするものがいたら、断乎として取り消せ ! 」 「わかりました」 「よし、わかったなら、今日は帰れ。 : : : 郷中の青年たちに、くれぐれも軽率な行動をつつしむよう に、お前からよく伝えろ」 「そのようにいたします」 「江戸の様子が聞きたければ、僕の知り得たかぎりを、いずれそのうちに話してやる。 : : : ロ区もノ、 167 第十章江戸と薩摩
「重大でないといったな。もう一度いってみろ ! 」 清五郎は目を伏せた。 「君は薩摩武士の家に生れ、しかも郡方横目という責任ある地位にある」吉之助の膝の上のにぎり拳 がふるえている。「薩摩の士風を忘れ、官吏の綱紀を忘れて、村娘にたわむれたことを、君は重大で はないという・のか」 「しかし : : : 」 「士風も吏道もすたれはてた世の中だ。江戸や大阪の藩邸には、剣法よりも三味線のうまい藩士がい るという。だが、われわれがその真似をしていいのか」 「百姓娘を玩具にする奴は、百姓を玩具にする奴だ」 「待ってくれ、しかし・・・・ : 」 「腐れはてた奴だ ! 」吉之助はどなった。「岩切清五郎、僕は今日かぎり君と義絶する。君を斬って しまえというものもある。だが、こんな腐った奴を斬るのは刀の汚れだ。 : おい俊斎、行こう」 吉之助は庭にとび降り、そのまま露地にとび出した。草履をまちがえて俊斎のをはいたが、それに も気がっかなかった。 取りあえず、事の結果を長沼嘉平に報告しようと、萩原小路の方に歩いて行くと、うしろから俊斎 は、ばたばたと追っかけて来た。 「西郷さん、待って下さい。岩切が : : : 岩切さんが : ・
第八章世子の隠密 * * * 宿 第九章 , 幼な妻 * * * 鬲 第十章江戸こ薩摩 第十一章蛸は死んだが * * * * Ⅷ 第十ニ章海光はまだわ 156
「まあ、 しいさ。芋か大根を買ってくるのだろう」 大久保、早く兎を料理しろ ! 」 「兎人りの薩摩汁か。 「よしきた ! 」 / 川の方に降りて行った。 市蔵は小刀と兎をさげて、 兎の料理ができあがる頃に、吉之助はやっと村の方から帰って来た。見ると、よく肥った豚に縄を つけて、両手でうんうん引っぱっている。 一同はおどろいて、 「ほんとに持って来たのか、無理をするなよ」 「罰金は冗談た」 と、口々に引きとめたが、吉之助はどうしても聞かない。 とうも気がすまないのだ。豚追いをや 「これで我慢してくれ。肴は引きうけたと広言を吐いた手前、。 ろう、豚追いを ! 」 豚追いというのは、薩摩士族の青年たちの愉快な遊びである。いつの頃からはじまったか知らぬが、 野外で催される祝いごとの会合では、ときどき行われる。大豚を野原の真ん中に放ち、手に手に青竹 ほらがい を持った青年たちが、法螺貝の合図とともに、豚を追いまわす。犬をけしかけることもある。 法螺貝の音、青竹のひびき、犬の鳴き声、逃げまわる豚。 : : : 人と犬に追われて、進退きわまると、 豚も猛獣になる。牙こそ持っていないが、死者狂いとなって、砂をとばし、土を蹴立てて、犬を転ば し、人間に突きかかって来る。そうなると面白い。人間と豚の組打ちがはじまる。豚に投げとばされ 116