かすり 吉之助は絣の袖をまくりあげて、 ・ : 江戸から連れて 「火のないところに煙はたたぬ。誰がそんな重大なことを話してくれたのだ ? というのが事実だったら、聞 来た連中で若殿様のまわりに人垣をつくり、国許の者にはあわせない、 : おい正円、ここだけの話だ、遠慮はいらぬ。話した人の名前をいってみろ ! 」 き捨てならぬ。 「赤山靫負 : : : 」 ものがしら 「えつ、物頭の赤山殿 ? 」 「そうだよ、赤山殿がある人に向って嘆いておられた。 : : : 若殿様にお目にかかって、国許の実状に つきいろいろと申上げたいこともあるし、江戸や京都の政局に関して、おうかがいしたいこともある のだが、御内談を願っても許されず : : : というのは、いつも碇山将曹自身か、でなければ彼の腹心ど : これでは、若殿様も御窮 もが座に侍って目を光らせているので、話も何もできたものではない。 屈なことだろうと、赤山殿が嘆いておられた」 「相手は誰だ ? 」大久保市蔵がたずねた。「赤山靱負殿は誰に向って嘆いておられたのだ ? 」 大山正円は市蔵の顔を見て、ニャッと笑った。 「それを聞きたいのか ? 」 「聞きたい ! 」 「お前の親父さんだよ ! 」 「大久保次右衛門殿と話をしておられたのを、僕は今日御殿の溜の間でちらりと聞いたのだ」
であった。 ( ふうん、あの歩きぶりは、跡を追って来たものとも思えぬ ) 不及が赤山の屋敷について、名前をつげると、すぐに座敷に通されたが、主人は先客と対談してい るところであった。大きな後姿はさっきの若侍である。 「ああ、いや御遠慮には及ばぬ」赤山靱負が引き合せた。「内輪同様のもので、西郷吉之助と申しま す。お見知りおき下さい ・ : 吉之助、こちらはお数寄屋頭山口不及殿」 吉之助はとびさがって、うやうやしく挨拶した。 「お名前はかねてうけたまわっております」 「いや、こちらこそ」不及は礼をかえし、靱負にたずねた。「やはり西郷吉兵衛殿の : : : 」 「そうそう、 いっかお話した下加治屋町の一党で、 : : : 伊地知、吉井、長沼、大久保などの伜 : : : あ の郷中には、親子ともに、奇妙に激派がそろっていて : : : 」靱負は胸をそらして笑いながら、「この とうも ~ 、 吉之助こそ激派の頭目と見当をつけ、すこしはおとなしくなるかと、嫁を世話したのだが、さつばり おとなしくならす : : : 」 「赤山様 ! 」吉之助は膝を正し、「今のお言葉、本気ですか ? 」見ると、顔色が変っている。「私をお となしくさせようと思って、嫁を世話したというのは : 赤山靱負は目で笑いながら、だが、言葉は激しく、 「馬鹿者め ! 一人前だと思っていたが、まだ人の冗談もわからぬのか」 「は↓の」 162
自分が結婚したら、和尚は笑うだろう。和尚に笑われるのは仕方がないとして、仲間はなんという 、こプっ .- っ・、カ ? いやいや、自分はもう二十二歳だ。二十歳をすぎれば、長男でなくとも、たいてい結婚する。現に いくらもいる。 ・自分より齢下で結婚しているものは、 ・ : 自分は徴役ながら、ちゃんとした役ももっ ているし、二十二歳なら、むしろおそすぎるくらいだ。 しかし、待て ! この弁解は成り立たぬ。仲間に誓ったことがある。 ・ : 自分は若殿斉彬様のため に身を捧げようと決心している。大義のためなら、いっ命を捨ててもいいと、かねて仲間の前で公言 している。 : よけいな足手まといを身につけては、せつかくの決心も鈍る。 > ノ . し ・ : 赤山殿は、 赤山靱負殿は、どんなつもりで、自分に結婚をすすめるのだろうか ? そうそう 齢は若いが、正義派中の錚々として聞えている人だ。新しい使命を与えて、若殿のために働けと命ず るのならわかるが、嫁をもらって身をかためよとすすめるのは、どうしたわけであろう ? 赤山様の名前を持ち出したのは、父の口実かな ? それにしても、相手の娘というのは、誰だろう ? : まるで心当りがない : まさか、赤山一族の娘を自分にくれるというのではなかろう。家柄が ちがいすぎる。 もしも、そんな話であったなら : ・ いやいや、そんなことを考えるのは卑劣だ。断乎としておこと わりしなければならない。格別の手柄もないのに、名家の娘をもらい、その縁故にたよって立身出世 することなど、考えるだけでも男子の恥だ。 あれを考え、これを考えているうちに、眠ってしまったらしい
「相手は伊集院兼寛の妹だ」赤山靱負はずばりといった。「名前はお俊 : : : 齢は十七」 吉之助が黙っていると、赤山靱負は気ぜわしくたたみかけて、 「知っているか ? 」 「存じません」 「見たこともないか ? 」 「ございません」 ほうぎり ほんとうに知らなかった。同じ方限には伊集院という家はないし、若い娘と道であっても、見て見 ないふりをして通りすぎ、まして娘の品定めなどということは、よほど親しい仲でもほとんどやらず、 うかつにやったら、撲られかねないのが薩摩の士風である。 「そうかな。先方は知っているようなことをいっていたカ : しかし、とにかく、よい娘だ。美人 とはいえないかもしれぬが、気だてのいい働きものだ。 : お小姓組だから、家柄も同格。・ : ・ : お前 妻 さえ異議がなかったら、明日にも話は決るのだが、どうだな、吉之助 ? 」 かたわ 赤山靱負はひとりで、さっさと話をすすめて行く。吉之助は困って、傍らの父の顔をふりかえり幼 ながら、 「でも、私の家のような : : : 貧乏な上に家族は多いし : : : それに、あっちにもこっちにも借金だらけ第 の家に来てくれるでしようか ? 」 靱負は笑って、吉兵衛の方を向き、 かねひろ
吉井邸に待っていた三人の武士は、どれも三十前後の壮漢であった。 竹内伴右衛門は眉の秀でた、目の澄んだ、どこか学者風の匂いのする郷士であった。加治木領の郷 士は、鹿児島の城下士よりも一格落ちた田舎侍として扱われていたが、竹内の物腰と言葉づかいにを 気品と教養があって、ただの田舎侍とは思えなかった。 「赤山殿のお使いと申されたな ? 山田一郎左衛門殿も御来会か ? 」 「存じません」 「吉井邸に行って、赤山の代理で加治木の竹内伴右衛門殿をお迎えにまいりましたといえ。そうすれ ば、竹内ほか二名のものが出て来るはずだ」 「相手に何を聞かれても、知りませんと答えろ。赤山の命令で、お迎えにまいりました、とただそれ だけでいし : それから、ます僕の屋敷の方に行き、誰もあとをつけていないと見極めたら、この 屋敷に案内する。 ・ : もしも、つけられていたら、そのまま、僕の屋敷に送りこみ、お前の父の吉兵 衛殿を呼べ。そして時刻を見はからって、吉兵衛殿に竹内殿たけを案内して、この屋敷につれてくる ようにいえ。 : わかったな」 「わかりました」 「行け ! 」 198
母に起されて、煎餅蒲団から転げ出したときには、もう陽は高くの・ほり、早起きの吉次郎とお琴は 鍬をかついで、畑に出たあとであった。 父の吉兵衛は、朝餉の膳に坐っていたが、障子越しに吉之助に呼びかけた。 「さあ、早く顔を洗ってこい : 昨夜はおそくまで目をさましていたようだな。どうだ、決むはっ 「煮えきらない奴だ。 : とにかく、今日はお屋敷につれて行く。赤山様の御親切を無にすることは できぬ。 : 赤山様の前で、断るなら断る、お受けするならお受けすると、お前の口からはっきりと 御返事申上げるがいい」 時刻を見はからって、親子は赤山靱負の屋敷に出かけた。二人はすぐに主人の居間に通された。 吉兵衛は赤山家の用達をつとめて、毎日のようにこの屋敷に出入りしているが、吉之助はときどき 父の代理で顔出しはするものの、主人の靱負と正式に口をきくのは、今日がはしめてであった。 吉之助のかしこまった初対面の挨拶を笑顔で受けて、靱負はいった。 「なかなか立派な若者になった。 みごとな体格だ、六尺あるか ? 」 「いえ、六尺には三寸ほどたりません」 曺之助は正直に答えた。 145 第九章幼な妻
春の爛けるころ、西郷家では、二つの縁談が並んですすみはじめた。 いちき 吉之助とお俊、お琴と市来六左衛門 お琴の縁談はまったく思いがけぬ人を介して申込まれた のであったが、これにも吉兵衛夫婦は異議はなかった。市来六左衛門は同じ家中の青年で、家格は低 いが、人柄は着実、家計も内福を伝えられていて、決して悪い相手ではなかった。西郷家の貧しい裏 庭にも、春の恵みはあまねいて、兄と妹の新樹の枝に、つつましくもみごとな花が咲きそめた感じで あった。 幼 まず吉之助の方の日取りが決まった。 章 名望家の赤山靱負がすすんで肝煎りの役を引き受けたのであるから、伊集院家にも異議はなかった。第 ただ、あまりに家柄の高い赤山靱負に仲人に立ってもらったのでは、後に思わぬさしさわりがあっては ならぬという考えから、正式の仲人はべつに立て、五月の黄道吉日をえらんで式をあげることとなった。 「わかってくれたか、礼をいうぞ ! ・ : 僕の気持がわかってくれれば、縁談は無理に強いなくとも ・ : 女を餌に男一匹を釣ったとあっては、赤山靱負の名がすたる。そんな詭計を用いたのでは、 お由良を取巻く奸党どもと異なるところはない。 ・ : 吉之助、嫁をとるのはまだ早いと芯から思って いるのだったら、この縁談はもうすすめないそ ! 」 「イハよ、′ハよ . : 」吉之助は真っ赤になって、吃りながら、両手をついた。「嫁も欲しいと思ってお ります。どうそ : : : 万事 : : : おまかせ致しました。 : よろしく : : : お願いいたします」 きもい
「人を迎えに行ってもらいたい。ー吉井七之丞の屋敷に待っている」 吉之助は両手をついて、 「赤山様、一つだけおうかがいしたいことがございます」 赤山靱負はきっとなって、 : そのことなら、い 「何のために誰を迎えに行くと聞きたいのか ? しいつけられたとおりに動いてくれればいいのだ」 を信じて、 「いえ、そのことではございません」 「なにごとだ ? 」 「先日の人髪と蛇皮のことでございます。あれは、やはり : 「あれは : : : 残念ながら、本物ではなかった。大久保市蔵の意見の方が正しかったようだな」 ま 「人命呪詛 ~ こ用いたものにはちがいないが、兵道家が用いたものとはちがう。多分百姓どもの用いた岩 ものであろう と、和田仁十郎殿の意見であった」 和田仁十郎は牧仲太郎と相弟子で、兵道の一方の権威である。その人の言葉たとすれば疑うわけに一一 十 はゆかぬ。 第 「さようでございますか」 吉之助は失望して、頭を垂れた。 っさい問うな。 ただ、僕
「江戸の噂だというから、 : どこからともなく耳に入ったのだと思うが : 「、もう . 、 もう、何も聞かぬ ! 」吉之助は畳の上の人髪と蛇皮をつかんで、懐中にねじこみなが ら、「江戸の噂が伝ってくる場所くらいは、僕も知っている。君に聞く必要はない」 「西郷、待て ! 」 「待たぬ ! 」と立上って、「ただ、さっきの一言忘れるな。若殿呪詛の確とした証拠があれば、牧仲太 郎を斬りに行くという、その一言 ! 」 「無論、忘れない。だから、待ってくれ ! 」 「もしも、その言葉を裏切ったら、俺は貴様を斬る ! 」 「ああ、その時には、よろこんで斬られよう。・ : : ・ 「どこに行こうと、俺の勝手だ ! 」 吉之助は、その足で、赤山靱負の屋敷にかけつけた。靱負はまだ城中から帰っていなかった。 「待たせていただきます」 吉之助は、玄関側の暑苦しい小部屋に坐 0 て、一時間以上も待 0 た。夏の夕日が、簾の上に青葉の一一 影を斜めにうっしはじめる頃、赤山靱負は帰って来た。 「ああ、お前か。 しばらく顔を見せなかったな」 「田舎をまわっておりました」 、、 0 おい、どこへ行く ? 」 すだれ
「はあ」 「明日は非番だったな。つれて行きたいところがある」 「どこで亠ラ ? 」 「赤山様のお屋敷た。赤山様もお前の結婚のことを心配して下さっている」 その夜、吉之助はながいあいだ眠れなかった。 長男であるからには、いすれ嫁をとらねばならぬことは知っていた。だが、い よいよ、その時が来 たのかと思うと、なんたか、くすぐったい。誰カかどこかで笑っており、誰かがどこかで怒っている ような気がして、心が落ち着かぬ。 いっか岩切清五郎のことで肚を立てたとき、無参和尚から、お前は一生女の手をにぎらないと誓え るかといわれ、内心どきりとしながらも、口惜しまぎれに、決してにぎりませんと答えたことも思い 出された。淫らな戯れ心から女の手をにぎることと、正式の縁談とは、全然ちがうものであろうが、 やつばりなんだか気がさす。 妻 白状すれば、無参和尚の前で大きな口をきいた後にも、若い娘の姿を見て、ひそかに胸をおどらせ たことは一度ならすある。誰にも打ちあけなか 0 たが、忘れられない面影を幾度か夢にまで見て、あ幼 の娘を妻にと憧れたこともないではない。 章 九 : し だが、そのたびごとに、自分をおさえて、結婚のことなどはまったく忘れたつもりでいた。 第 かし、父に縁談のことをいわれて、こんなに胸がどきつくところを見ると、やつばり、心の底につよ 3 い期待をもって、その時の来るのを、心待ちに待っていたのかもしれぬ。 みだ