「君がこんなに早くつむじを曲げようとは思わなかった。自分としては、全力をあげ、至誠をつくし てに当っているつもりなのだが、それが君にわかってもらえないのは残念だ」 「大久保、おまえは至誠をつくしているかもしれぬが、やっていることは小人の小策ばかりではない か。もっと考えてくれ」 「これ以上、考えることはない」 「おまえらのやっているのは、考えているのではなくて、企んでいるのだ」 「国学者の本で読んだが、考えるはかむがえる、神かえるという意味だ。人間の浅ましい思いを捨て て、神の心にかえるのが即ち考えることだという。 ・ : われわれはもっと、考える修業をしなければ いかんのではないか。考えすにお互いに企らんでばかりいるから、仲間喧嘩になる」 湯 「誠忠組などと自称しているが、どいつもこいつも俗物臭くなって、昔の面影はない。成上り者がわ が世の春に酔っぱらっているのだ。ロで勤皇勤皇というが、勤皇とはどこから始めるのかと問えば、 砂 答えのできる奴は一人もいない。藩内の情勢も知らず、日本の情勢も知らぬ。まして外国の事などは しら こう、もり 検べようともせず、鳥なき里の蝙蝠をきめこみ、勤皇勤皇と威張りかえっているのだから、危くて見五 第 ておれぬ」 「君のいうとおりかもしれぬ」
「勤皇という言葉は、うつかりすると、便利のよすぎる看板になる。私心をかくしてくれる金看板に なる。藩主の私心、藩士の巧名心、志士や浪士の野心を綺麗にかくしてくれるかくれ蓑になることが ある」 「看板ではありません」 「おまえにとっては看板ではない。信念で、信仰だ。それはよくわかっている、俺はおまえを信じて ・ : そこで、新八、おまえは自分の信念が、けがらわしい連中の看板に使われることを許せる 「許せません」 「人間というものは、浅ましいものだ。弱いものだ。若い時は今のおまえのように、純粋な信念によ って働いていた者が、命を捨てたつもりで夢中で働いている間に、時勢が動いて、お小納戸役に栄進 する。その途端に、ふっと魔がさす。私心が芽生えて、信念が浮上り、中味を失った信念が栄達のた めの金看板になってしまう。そうなると、もうお仕舞いだ。勤皇屋と勤皇屋が、街角の饅頭屋のよう しのぎ に、元祖本家争いで血眼になって鎬をけずりはじめる」 「長州と薩摩の関係には、すでに本家争いの芽が見えるそ。薩摩は勤皇は俺一人でやるから、お手伝 いは無用というし、長州はおまえが早くやらなければ俺が先にやるぜという。 : この争いが昻じて、 二大雄藩の正面衝突となったら、喜ぶのは誰た。 : : : 幕府たけではないそ」 力」 100
瀬戸際に立たせているし、寺田屋の一件も、私の努力の不足による点がなかったとは言いきれない。 この責任はどうなるのか。どうしたら、同志に詫びることができるのかと思いつづけて来たのです」 「それは何もあなたの : : : 」 「責任ではない、責任だと思うことは自惚れだ、とあなたは教えて下さった。同志たちは、決して私 の命令や私の計画に従って動いているのではない。みな自分自身の魂の声を聞きつつ勤皇の一筋道を 歩いているのだ。 : ・私が島に流されようが、首を斬られようが、大義の一本道を歩く人の数は変ら ぬ。ふえこそすれ、決して減りはせぬ。責任を感ずる必要はない、誰に詫びることもいらぬとあなた は教えて下さった」 「先生、それはどういう意味ですか」 そばで聞いていた村田新八がたずねた。「僕にはわかりませんが」 「新八、おまえはこれから鬼界ヶ島という名も恐ろしい離れ島で暮さねばならぬ。一生帰れぬかもし れぬ。追っかけて死罪の命令が来ないともかぎらぬ。 : : : 若いおまえをこんな目にあわせるのは、み んな俺のせいだ、まことに気の毒だ、相済まぬ、と俺があやまったら、お前は怒ったな、僕は先生の ために勤皇をやっているのではないと怒った」 「そうです、怒りました」 「斉彬公と藤田東湖先生が生きて居られて、西郷、まことに相済まぬ、余の到らぬせいで、おまえに 二度も島流しの憂目を見せるとあやまられたら、私も怒る。私の勤皇は私自身のえらんだ道た。お二 人のために勤皇をやっているのではありません、と言って怒る。おまえの気持と同じだ」 176
若い村田新八の方は燃え上る憤怒と焦燥をかくそうとしなかった。こんな魚臭い破れ舟の中で舟虫 のように死んで行くくらいなら、自分一人でもいいから、二条城に斬込んで所司代と刺し違え、みご と死花を咲かせてやったものを、と奥歯をかんだ。自分が寺田屋にいたら、大山や奈良原に兇刀を抜 くひまは与えぬ、先方が斬るより先にこっちが斬る、久光の上意は最初から無視して突出したのでは ないか、久光の上意などふりまわす手合は一挙の前に斬り捨てておく。有馬、柴山、田中ほどの武芸 者がそろっていて、わずか八名の鎮撫使に斬られるとは自らの壮挙に酔い、寺田屋の二階で前祝いの 酒に酔いくらってでもいたのか、と罵倒した。 「薩摩もこれでおしまいだ。これが薩摩の勤皇の正体だったのかと、日本国中が笑っているだろう」 と、吉之助も言った。「もう人前で勤皇の二字を口にする資格はなくなった。勤皇の士を殺して、 くら勤皇のどんちょう芝居を打とうが、とんと見物人はあるまい」 「それでいいのですか、われわれはじっとしていてもいいのですか」 「とび出そうにもどうしようにも、お互いに翼をもがれた籠の鳥だ。明日にも首をしめられることで あろう。たとえ命を長らえたにしても、頼るべき同志朋友は皆殺され、政権をにぎって時を得顔の連 ・ : もう何をする気 中は、同志を裏切り、朋友を殺して平然としている犬畜生同然の奴らばかりだ。 も起らぬ。たとえ赦免されても、二度と出て行くものか」 日ごろの吉之助らしくない自棄と絶望の言葉であった。 こき その絶望をさらに深めるように、城下に残っている老祖母の死が伝えられた。古稀を越えた高齢で 親が あったから、意外な報せとは一一一口えなかったが、折が折であったので感慨が深かった。ながい物 168
「長州も二派に分れて動いているのだ。長井雅楽は藩公を抱きこみ、幕閣及び軟弱公卿と通じ、公武 だかっ 合体と開国策を唱道している。久坂一派は長井を蛇蝎視し、斬るの斬らぬのと騒いでいる。土佐の現 状によく似ているのではないか」 「しかし、重役の周布政之助や大阪留守居役の宍戸左馬之助は久坂の一党を庇護しています。家老の 中の少壮派はすべて長井に反対しているというし、長井さえ斬れば、長州は薩摩よりももっと統一さ れた藩になります。先生は長井を斬ってはいけないと言われるのですか」 西郷は答えた。 「奸物を斬ることには、俺はいつも賛成だ」 「それなら問題はありません。長井は近いうちにかならす斬られます。長井は勤皇の公敵です。長州 の同志が斬らなければ、われわれの手で斬ってしまいます。 : : : 長井を斬って、長州が勤皇の一筋道 宿 を驀進しはじめたら、薩摩は立ちおくれです。ぐすぐすしているわけには行かんのです」 の 「そこが問題だ。薩摩と長州が先陣争いで喧嘩をはじめたら、喜ぶのは誰だ ? 」 大 「勤皇先陣争いなら、いくら争っても喧嘩にはならないはすです」 章 「その通り。たが、久光公はなぜ長州の援助をことわったのか。薩摩の独力で公武の周旋に乗出そう七 第 となされるのか ? 」
ことになろう。久光公は僕の報告も説明も全然聞こうとなされぬ。僕の留守中に万事が決定してしま ったのだ」 月の光の中で、吉之助の顔色が急に黒ずんで見えた。怒りの血が頬に突き上げて来たらしい。左手 で大刀を引寄せ、右手の拳を膝の上で握りしめてうなった。 「ど、どいつだ、久光公に毒をさしたのは ? 」 「昨日、堀次郎が拝謁して、何か申上げたらしい」 「堀か ! 」 「その前に、姫路あたりで、有村俊斎が拝謁した」 ・ : 僕はさっき、俊斎にあった。一緒に来た森山と村田は俊斎の宿に待たせてある。俊 「俊斎が ? 斎がどうして ? 」 「平野国臣が伏見通いの淀川船の中で、俊斎にあったと言ったろう」 「ふうむ」 「その時、平野は君の事について俊斎に何か言ったらしい。西郷の決心は非常なものだ、大阪でも京 都でも、西郷の人気は絶大で、諸藩の有志は西郷一人を頼りにしているが、西郷もかならずその信頼 に報いるであろう、下関であった時にも、今度はあんたと死ぬ番だ、久光公の駕籠を空しく東に向わ せはしないと言った、実にさかんなものだ、久光公に六分の勤皇心があるなら、西郷は十二分の勤皇 : あわて者の俊斎はその言葉をそのまま久光公の 心のかたまりた、さながら勤皇軍の旗頭である。 : ・久光公は火のように怒っている。西郷は言語道断の曲者だと、仰 お耳に入れてしまったらしい 146
本田親雄はずぶぬれの袂をしぼりながら、舟子の差渡す渡り板をふんで乗りこんで来た。 舟底部屋に入ると、声を聞きつけたのであろう、吉之助も起き上って、煙草に火をつけているとこ ろであった。 . しュ / . し これはどうしたことです ? 」 坐りもあえず、本田は平手で首筋の水をはらいながら、怒ったような声でそう尋ねた。 吉之助は煙のかげでやわらかに笑って、 「何を怒っているのだ ? 」 この有様は : : : ど、どうしたわけだ : : : 」 「ああ、それか。あっはつは、勤皇道楽の成れの果てだよ」 と、吉之助は答えた。 本田は吉之助の帰りを待つつもりで、大阪の蔵屋敷まで来ていたら、大久保にあい、吉之助の身の 上に変事が起ったと聞いてわが事のように驚き、安治川口の舟という舟を片つばしからたずねまわり ' 二時間以上もかかって、やっと探しあてたのであるが、勤皇道楽の成れの果てだと軽く突っぱなされ て、しばらくは返す言葉がなかった。 「いったいどうなるのです、これから」 と、同じ問いをくり返す。 「わからんな」 と、吉之助は答えた。 15 ?
「浪士を嫌い、志士を見殺しにすることは、草莽の間にみちみちた勤皇の正気を感得できない証拠だ。 他藩との提携を嫌うことは己れ一個の功名心に駆られること、結果において、徳川幕府にかわる島津 幕府を打ちたてることになる」 「そ、そんなことは : とい、つ力」 「あるかもしれぬ」 「その時の覚悟がお前に出来ているか ? 」 「俺はおまえを信じている。おまえにはその時の覚悟はちゃんとできているにちがいない。 ・ : 久光 しゅうせん 公には公の考え通りの公武の周旋を行わせておく。それを妨げる必要もないし、方法もない。だが 俺たちは、どこまでも斉彬公の御大策を実行する。浪士を嫌わす、志士を殺さず、薩摩一個の功名心 にとらわれることなく、わが身は捨て、一途に勤皇をはげむ。小策を弄せす、企みに堕せず、おもむ ろに諸藩の連合をはかって、機ひとたび熟し、万策成ると見たら、一挙に討幕の軍を起して、幕府を 押しつぶしてしまう」 大久保は膝をたたいて、 「わかっている、わかっている」 「よし、それがわかれば、もう何も言わぬ。 「今すぐ、これから出発してもらいたいのだ」 そうもう : おまえの言い分を聞こう。話せ」
吉之助は自分が久光公の進発に反対した理由を包みかくすことなく詳細に説明して、最後に言った。 「そういうわけで、私は久光公の御進発にも反対、有志の即時挙兵論にも反対です。と申しても、私 1 はいわゆる公武周旋家ではない。あくまで幕府の失政を糺弾し、もし反省せすんば、勤皇諸藩は大同 協力して、関白と所司代を斬ゑそれどころか、彦根を討ち、大阪を取り、箱根を突破して、江戸城 を焼くべきだと確信しております」 「ふうん、なるほど、なるほど。たいした御決心じゃ」 宍戸左馬之介は膝をたたいたが、やがて、思慮深げに斜視の目を光らせて、「すると、なんですか、 つきつめて言えば、あんたは久光公とは現在のところ意見を異にしているということになりますか」 「薩摩藩士として、その点にはお返事できかねます。しかし、ロに勤皇を唱えても、おのれ一個の私 意や一藩の利益のために大局を見あやまり、公武一和と言いながら、結局において幕府を強化するご とき政策をとる者に対しては、相手が何人であろうとも、断乎として反対しなければならないのであ ります」 「なるほど、それでわしも思い当る節がある」 左馬之介はもう一度小膝をたたき、「わが藩の長井雅楽の説に久光公も御同意であるという噂が立っ むこん ているが、これはあながち無根の説ではないということになりますな」 「えつ、久光公が長井と同論 ? 」
第八章宇治の川風、 第九章須磨の月 : 第十章勤皇道楽 : : 第十一章山川港 : : 第十ニ章露と消えにし : : Ⅲ 第十三章徳之島 第十四章山上の風 : : 第十五章茶と米 : : 年表 * 181 111