・ : かならず無用な血が流れるそ」 「またわからなくなりました。。 とうすればいいのですか。わが藩が動かなくとも、長州が動きます。 土佐が動きます」 ふんどし 「人の褌で相撲をとるな。誰が動こうと、自分が半身不随では、人の手足まといになるだけだ。薩 : おま 摩一藩の藩論さえ統一できぬ者が、他藩を動かし、天下を動かそうと思う心根が間違いだ。 けに、俺の見るところでは、長州も土佐もまだまだ独力で動けるところには来ておらぬ。どっちも薩 摩の島津久光の褌で相撲をとろうとしているのだ。これではどうにもならぬ。一言でいえば、まだ機 が熟せぬのだ」 「機が熟せぬと言って、じっとしていてもいいのですか」 「じっとしているよりほかはない。あわててたたき落しては渋柿だ。待てば熟する柿が無駄柿にな 「先生 ! 」 村田新八は叫んだ。「私は鹿児島に帰ります」 「 ) ・て、つか 帰ってよく考えてみるがよい」 「考えつくしました。私は同志と共に行動に移るつもりです。他の藩の有志との盟約にそむくことも できません。 : : : 先生に叱られるかもしれませんが、私も先生にはついて行けないような気がしはじ五 第 めました。 : : : 柿の熟するのを待っておれない短気な男のあったこともおぼえていて下さい。後のこ とはお願いします」 る」
「何が ? 」 大久保が聞きとがめた。 「あぶない時だ。お互いに気をつけることだ」 吉之助はやっと自分をおさえてそう答えた。 酒肴が運ばれて、話は雑談になった。大久保は島の思い出話を引出そうとしたが、吉之助は誘いに 乗らす、 「では、とにかく、意見書を作ってみよう」 と言って引上げてしまった。 あとで、大久保は小松と顔を見合せて、 「さて、困ったことになったそ」 と一一一口った。 「どうしても、西郷が御進発に反対ということになれば、正面衝突のほかはない」 みけん と、小松も眉間に皺をよせた。 「島から帰って来たばかりなのだから、すこしは自分をまげて、形勢を見るという態度をとってくれ るといいのだが : 「西郷さんも、相当我の強い人のようですな」 「我が強いというか、ひたむきで前後をかえりみないところがある」 と、大久保は答えた。「島に行っていくらか角がとれて来たかと思ったが、そうでもないらしい かど
「いや、君に当てつけたのではない。僕は当てこすりは言わぬ。昨夜、堀次郎とこの屋敷であったの だ。まったく昔と打って変った重役ぶり、策士ぶりであった。腹に据えかねたので、殺してしまうそ とおどかしてやったが : 「殺すとまで言ったのか」 ー確たる証拠が挙 「理由はあるのだ。堀は長州の長井雅楽と結託して、何かこそこそやっている。 がったら、そのままにはしておけない。君も一度、堀にあってみろ。今は大阪に行っているが、間も なく帰って来るはすだ」 ・ : 君にそんな 「堀は大阪にはいなかった。久光公をお迎えに兵庫の方に出かけたという話だった。 におどかされたとすれば、堀は久光公の前で、何をいうかわかったものではない。困ったことになっ 「なに、あいつもまんざら馬鹿ではない。少しは考えなおしていることだろう」 吉之助は大して気にかけない様子で、「とにかく、浪士というものは、これを用うる方法によって良 くもなり、悪くもなる。用うる者の心次第だ」 の 「君はまだ疑っているのか。疑うなら、いま僕をこの土地から引揚げさせてみよ。かならす明日にも 章 ・ : それでも僕が浪八 浪士は暴発する。大きなことをいうようだが、僕がいるかぎり、暴発は起らぬ。 士を煽動していたというか。その時になったらわかる」 あんど 次第に安堵の色が大久保の顔に浮かんで来た。
第二章浪士の書 吉之助は重富屋敷の玄関で大久保と別れ、ただ一人で有村家に帰って来た。 いつもよりもながい 俊斎は役所に出て留守であった。吉之助は雄助と次左衛門の霊位の前に坐り、 黙檮をささげて、居間にこもったきり顔を出さす、運ばれた昼飯の膳にもほとんど箸をつけなかった。 午後になって俊斎が帰宅してみると、吉之助は縁側の陽だまりに坐って、しきりに右足をなぜてい た。どうしたとたすねると、ながい船旅のせいか、右脚に痛風めいた痛みが出て、癇にさわってなら ぬという返事であった。 俊斎はさてはと思ったが、素知らぬ顔で、 「重富屋敷の首尾はどうだった ? 」 吉之助は浮かぬ顔で首をふった。 「ちがう。まるでちがうそ」 「ちがう、何、が ? 」 「斉彬公とは大ちがいだ」 「斉彬公にくらべるのは無理だ。だが、久光公には久光公のいいところがある」 19 第二章浪士の書
俊斎が出て行くと、間もなく若い村田新八が森山新五左衛門をつれてやって来た。 干烏賊と焼酎の徳利を手土産に持って来たが、若い二人は何かひどく気負い立っている様子で、頬 , を血の色で燃やしていた。 果して、帰国の祝いをやや固苦しい口調で述べ終ると、村田新八はいきなり切りこんできた。 「先生、あなたは進発論に反対だそうだが、いったいどういうわけですか」 「もう、そんな噂が立っているのか」 「有馬新七先生も心配しておられました。西郷が帰って来て、大久保や中山の頭をたたいてくれるの 。ししが、ひどい自重論を唱えているそうで困ったものだ、と嘆いております」 「そうか、俺は進発には反対だ」 「なぜです ? 」 「日本はいま空前の危機にのそんでいる。一藩の野心や私人の功名慾によって行動すべき時ではな ・義務だ。西郷は三年間の遠島生活のために、すっかり時勢におくれて、固陋になり、野暮くさくなっ てしまったのだ。それでいながら、万事に差出がましい、干渉がましい片意地な口をきくのはまった く御近所迷惑だ。 : と、俊斎はもう内心そんなふうに思いはじめている。吉之助と二人きりでいる と、肩がこり、何とか口実をつけては、その場をはずしたくなるのであった。 し」 ーしカ ころう 21 第二章浪士の書
わかさぎすずき 宇治の名物は、氷魚、鱸、鰻、鮓、円柿に茶磨、風炉の灰。 木がくれに茶摘みも聞くや宇治の里 これは芭焦の新風で、 もののふの 八十うじ川のあじろ木に いざよう波の行衛しらずも これは人磨の古典である。 とうえん 国学の同門である本田親雄と森山棠園は筆をかんで歌などひねっていたが、ふと気づくと、楽しく 酔った吉之助と新八は素っ裸で庭先に出て相撲をとっていた。 の 昼食の後は、舟を出して平等院から宇治橋の間を漕ぎ上り漕ぎ下り、観音堂や橋寺に詣で、通園ケ殆 茶屋で茗茶の味を楽しみ、ふたたび万碧楼に帰って来ると、もう日暮であった。 章 今晩だけは泊るつもりで、打ちくつろいだ夕飯を終って、なお盃を挙げているところへ、伏見から 第 の使いの者が、本田家からの手紙を持って来た。開いてみると、意外にも大久保市蔵の筆で、 「至急西郷に要用あり、下関より急行して伏見までたどりついたるところ、何事そ、この切迫せる情 すし ちゃうす
示したら、ただちにひっ捕えて国許に送りかえす用意ができております」 「そりや、早いお手廻しだ。だが、来原さん、あんたもつまらん役目を引受けたものだ。若い者に斬 られぬまでも、笑われますな」 来原良蔵は苦笑した。 「あまり好い役目だとは私も思っていない。しかし、長井も同じ殺されるのなら、他藩の者には殺さ れたくないでしよう。もしも貴藩の中に長井刺殺論を説く者があったら、あなたのカで、よろしく御 鎮静願いたい」 西郷は答えた。 「薩摩の長井刺殺論の木元は、あんたの目の前に坐っております」 「なるほど ! 」 来原もさすがに長州では一流の人物である。苦笑にまぎらして多くは言わす、あとは世間話などを して、おだやかに帰って行った。 11Q
ちまさはる 知正治や有馬新七なども訪ねて来て、酒になり、その席で、吉之助は勢いにまかせて、「久光公は斉彬 カかと くら大兵を率いて上京しようとも、こんな地五郎に何が出来るか」と放 公の踵にも及ばぬ人物だ。い 言したという。 「地五郎」というのは「田舎者」のことで、久光はまだ生れて一度も藩外に出たことがない。そんな 地五郎が地位も力量も経験も徳望も天下第一級とたたえられていた斉彬公の真似をしようとはとんだ 猿芝居だという意味である。 噂半分と見てもそれが久光の耳に人ったら、それこそ取りかえしのつかぬことになると思い、大久 保はひまを盗んで吉之助を訪ね、いろいろと情勢を説明して、 「腹も立とうが、とにかく藩庁に顔を出すだけ出してくれないか。君が役所に坐っていてくれるだけ で、余計な邪推は消えるし、またいろいろと当路の人と話し合っているうちに、案外な道も開けるこ とと田うからこ と一一 = ロった。 吉之助はうんうんとうなずいて聞いていたが、翌日は早朝から藩庁に顔を出し、役人がいそがしげ に立ちまわるのを、べつに苦い顔もせすにながめていた。これでまず安心と大久保が思っていると、 次の日は顔を出さなかった。それつきり何日待っても出て来ないので、どうしたのかと思って自宅を 訪ねてみると、留守であった。 「島から持って帰った神経痛で、右足が痛んでならぬと言い、湯治に行くと申し、一一、三日前から揖 すき 宿の温泉に行っています。あなたは御存じのことと思っていましたが :
第九章須磨の月 あかし 明石から舞子の浜、大蔵谷から須磨にかけての海岸一帯は、島津久光の軍勢によって占領された形 であった。名目は普通の参覲であるが、千五百を越え、二千に及ぶ武装完全な供そろえは、世間の耳 目をそば立たせるのに充分で、行列の移動につれて、小さな戦雲とでも形容したい不穏な空気が、京 都をさして刻々と近づいて行く。 四月六日の朝八時ごろ、大久保市蔵は大阪から舟で大蔵谷についた。船着場から、まっすぐに本陣 に駆けつけてみたが、久光はまだ到着していなかった。夕方の四時ごろには着くだろうとのことであ ったから、割当てられた宿に帰って休息していると、有村俊斎、奈良原繁、堀次郎などが、いそがし げに姿をあらわした。俊斎は姫路まで久光を迎えに行くのだと言って、そそくさととびだして行った。 堀次郎とは、特に西郷のことに関して充分に打合せておく必要があると考え、その話を持ち出そう とすると、 「いや、わかっている、わかっている。西郷と僕との間には多少の誤解がないでもなかったが、それ はもう当人同士の話合いでさらりと解決したのだ。心配することはない」 と、かるく逃けられてしまった。 138
、次の日が久留米。久留米には一日いたきりで、柳川に二泊。その後は当地に来るまで日奈久の温泉に 滞在していた」 「すると、久留米は二十六日でございますな。へい、どうもおじゃまいたしました」 と出て行ったが、間もなく帰って来て、 「たびたびお騒がせ致しますが、実は二階のお客様は久留米藩の盗賊方で : : : 」 「ふうん」 「御都合で、ちょっとこの部屋を拝借したいと申されるのですが、いかがでございましよう」 「部屋をかえろと申すのか」 「さようで」 「よかろう。俺は長逗留の客だ。上でも下でも苦しゅうない」 そう言って、長刀を鷲づかみにし、肩を怒らせて二階にのぼって行った。階段の途中で、数人の捕 つ手とすれちがった。お互いに殺気をふくんだ視線をかわしたが、捕つ手は若侍の顔と姿を目で検べ ただけで、べつに手出しをしようとはしなかった。 二階の部屋に入ると、若侍は長刀の目釘をしめして、階段に近い襖のかげに身を伏せ、息を殺して 階下の話声に聞き耳を立てた。下では再び何か密議をこらしている様子であるが、話声が低すぎて聞 きとれなかった。そのうちに、突然、 「薩州だ ! 」 . 「さよう、間違いなし ! 」