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検索対象: 西郷隆盛 第10巻
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1. 西郷隆盛 第10巻

大久保は夕食の膳にもっかず、下女の運んで来た渋茶に喉をうるおしただけで、机の前に坐ったき り、じっと何事か考えこんでいた。奈良原繁が高崎佐太郎をつれて一杯飲みに行こうと誘いに来たが ' ちちまさはる 今夜は書き物があるからと大久保はことわった。伊地治正治と有馬新七がちょっと顔を出したが、大 久保は同じ口実で話し相手になることをさけた。彼と久光との間に起った事件はまだ誰の耳にももれ ていない様子であった。大久保はそれをじっと肚の中におさめ、かみ殺し、かみくだき、何らかの方 法で血路を開こうと異常な努力をつくしているかのように見えた。 宿の取次ぎの者が入って来て、大久保の名を呼び、玄関に大島三右衛門という人が訪ねて来ている と一『ロった。 「大島 ? 」 と、問いかえして、大久保ははっと気がっき、 「一人か、一人で来られたか」 と、上ずった声で問いかえした。 月・ の 「はい、お一人でございます」 「御案内しろ。いや、僕が行こう」 須 彼らしくない取乱した態度で、そのまま玄関にとび出して行った。 旅姿の吉之助は深編笠をかたわらにおき、式台に腰をおろして、草袿の紐をといているところであ九 大久保はどなった。

2. 西郷隆盛 第10巻

「何が ? 」 大久保が聞きとがめた。 「あぶない時だ。お互いに気をつけることだ」 吉之助はやっと自分をおさえてそう答えた。 酒肴が運ばれて、話は雑談になった。大久保は島の思い出話を引出そうとしたが、吉之助は誘いに 乗らす、 「では、とにかく、意見書を作ってみよう」 と言って引上げてしまった。 あとで、大久保は小松と顔を見合せて、 「さて、困ったことになったそ」 と一一一口った。 「どうしても、西郷が御進発に反対ということになれば、正面衝突のほかはない」 みけん と、小松も眉間に皺をよせた。 「島から帰って来たばかりなのだから、すこしは自分をまげて、形勢を見るという態度をとってくれ るといいのだが : 「西郷さんも、相当我の強い人のようですな」 「我が強いというか、ひたむきで前後をかえりみないところがある」 と、大久保は答えた。「島に行っていくらか角がとれて来たかと思ったが、そうでもないらしい かど

3. 西郷隆盛 第10巻

「いや、君に当てつけたのではない。僕は当てこすりは言わぬ。昨夜、堀次郎とこの屋敷であったの だ。まったく昔と打って変った重役ぶり、策士ぶりであった。腹に据えかねたので、殺してしまうそ とおどかしてやったが : 「殺すとまで言ったのか」 ー確たる証拠が挙 「理由はあるのだ。堀は長州の長井雅楽と結託して、何かこそこそやっている。 がったら、そのままにはしておけない。君も一度、堀にあってみろ。今は大阪に行っているが、間も なく帰って来るはすだ」 ・ : 君にそんな 「堀は大阪にはいなかった。久光公をお迎えに兵庫の方に出かけたという話だった。 におどかされたとすれば、堀は久光公の前で、何をいうかわかったものではない。困ったことになっ 「なに、あいつもまんざら馬鹿ではない。少しは考えなおしていることだろう」 吉之助は大して気にかけない様子で、「とにかく、浪士というものは、これを用うる方法によって良 くもなり、悪くもなる。用うる者の心次第だ」 の 「君はまだ疑っているのか。疑うなら、いま僕をこの土地から引揚げさせてみよ。かならす明日にも 章 ・ : それでも僕が浪八 浪士は暴発する。大きなことをいうようだが、僕がいるかぎり、暴発は起らぬ。 士を煽動していたというか。その時になったらわかる」 あんど 次第に安堵の色が大久保の顔に浮かんで来た。

4. 西郷隆盛 第10巻

ふふん、わかるまい。威張りくさ 0 た大和人の言葉になおせば、 ( これほどまでに難儀して、い 0 た ちょんまげ い誰のためになるのだ。みんな大和の丁髷のためだ ) ということになるのだ。 去年の砂糖一揆は面白かった。あっはつは、代官所の書役様が尻に帆かけて、仮屋元までお逃げな さった。 ・ : 後でだいぶ犠牲者は出たが、たまにはいい。昨日も今日も相も変らぬ三百六十五日では まったくやりきれん。 庭先に人の気配がした。 「誰だ ? 」 と、仲為はふりかえって、「ああ、仲祐か。この馬鹿者、どこへ行って遊んで来た ? 」 榕樹の幹の間の夕暮の光の中に、長男の仲祐が思春期に入りはじめた少年の哀愁を蒼みがかった片 頬にただよわせて、真夏の海から上って来た妖精のように佇んでいた。 「湾仁屋の港に行って来ました。湾直道の家に : : : 」 「湾の家などに何の用があるのだ。若い娘でもいるのか」 若い息子はさっと赤くなったが、またすぐ蒼ざめて、 えんとうじん 「新しい遠島人が来たのです」 「なに、遠島人 ? : 遠島人がめずらしいのか」 唇をかすかに曲げ、反抗的な調子をひびかせて、仲祐は答えた。 「大きな : : : 大きな遠島人です」

5. 西郷隆盛 第10巻

俊斎が出て行くと、間もなく若い村田新八が森山新五左衛門をつれてやって来た。 干烏賊と焼酎の徳利を手土産に持って来たが、若い二人は何かひどく気負い立っている様子で、頬 , を血の色で燃やしていた。 果して、帰国の祝いをやや固苦しい口調で述べ終ると、村田新八はいきなり切りこんできた。 「先生、あなたは進発論に反対だそうだが、いったいどういうわけですか」 「もう、そんな噂が立っているのか」 「有馬新七先生も心配しておられました。西郷が帰って来て、大久保や中山の頭をたたいてくれるの 。ししが、ひどい自重論を唱えているそうで困ったものだ、と嘆いております」 「そうか、俺は進発には反対だ」 「なぜです ? 」 「日本はいま空前の危機にのそんでいる。一藩の野心や私人の功名慾によって行動すべき時ではな ・義務だ。西郷は三年間の遠島生活のために、すっかり時勢におくれて、固陋になり、野暮くさくなっ てしまったのだ。それでいながら、万事に差出がましい、干渉がましい片意地な口をきくのはまった く御近所迷惑だ。 : と、俊斎はもう内心そんなふうに思いはじめている。吉之助と二人きりでいる と、肩がこり、何とか口実をつけては、その場をはずしたくなるのであった。 し」 ーしカ ころう 21 第二章浪士の書

6. 西郷隆盛 第10巻

「いい身体をして、毎日ぶらぶら遊んでばかりで : : : 子供や若い者を相手に相撲の真似などして喜ん でおる」 「そう一一一口えば、ぼつけのような所もある。勝伝の婆も言っていたが」 できぶつ 「それはちがうぞ。遠島人にしてはなかなかの出来物ということじゃ : : : 仲為の旦那がたいへんな肩 の入れようで、息子と甥御を弟子入りさせて字を習わせるという話じゃ。ぼつけが字を教えるはすは オし」 これは本当の話である。仲為は長男の仲祐と親戚の政寿の息子の義志孝を吉之助に附添わせ、炊事 雑用をさせる儚ら、読書を授けてもらうことにした。仲祐は十七、義志孝は十二、どちらも島の名家 の総領息子で、大勢の下女下男にかしずかれる身に、遠島人の炊事雑用をさせようというのだから、 尋常の肩の入れ方ではない。 「ふうん、してみると、やつばり、ぼつけではないのかな」 「ぼつけではない ! 」 すこし離れた木の根を枕に沖の雲を眺めていた筋骨のたくましい若者が、むつくりと身体を起して ' 「その証拠には相撲が強い。わしは、今までこんな強い人を見たことがない」 相撲は吉之助の好物である。月の明るい夜などに、村の四つ辻で若者たちが相撲をとっていると、 どこからともなく現われて来て ' いつまでも飽きずにながめ入っている。 この島の相撲は、大島のとはちがって、最初から四つに組み、倒されただけでは負けにならず、相 手の背中を土におしつけた方が勝ちである。

7. 西郷隆盛 第10巻

わかさぎすずき 宇治の名物は、氷魚、鱸、鰻、鮓、円柿に茶磨、風炉の灰。 木がくれに茶摘みも聞くや宇治の里 これは芭焦の新風で、 もののふの 八十うじ川のあじろ木に いざよう波の行衛しらずも これは人磨の古典である。 とうえん 国学の同門である本田親雄と森山棠園は筆をかんで歌などひねっていたが、ふと気づくと、楽しく 酔った吉之助と新八は素っ裸で庭先に出て相撲をとっていた。 の 昼食の後は、舟を出して平等院から宇治橋の間を漕ぎ上り漕ぎ下り、観音堂や橋寺に詣で、通園ケ殆 茶屋で茗茶の味を楽しみ、ふたたび万碧楼に帰って来ると、もう日暮であった。 章 今晩だけは泊るつもりで、打ちくつろいだ夕飯を終って、なお盃を挙げているところへ、伏見から 第 の使いの者が、本田家からの手紙を持って来た。開いてみると、意外にも大久保市蔵の筆で、 「至急西郷に要用あり、下関より急行して伏見までたどりついたるところ、何事そ、この切迫せる情 すし ちゃうす

8. 西郷隆盛 第10巻

寺師は村役場でしばらく休息し、さて外に出ようとしてびつくりした。役場のまわりが村人によっ てすっかり取りかこまれていた。村人は手に手に棒を持っていた。附近にある砂糖小屋の柵を引きぬ いて来たのだ。虚勢をはる余裕はなかった。ぐずぐずしておれば袋叩きである。身軽な男であったか ら、裏口から横っとびにとび出して、馬にとび乗り、供の者をおき去りにして逃げ出した。二里あま りの道を逃げに逃げて、伊仙の村で息を入れていると、供の者が追いついて来て、 ほらがい 「とてもいけません、犬田布村の者がもう村境まで来ています。法螺貝を吹き鳴らし、鎌や鉈を持っ てたいへんな勢いです」 「そりやいかん。よしツ、代官所までひと走りだ、続けッ ! 」 寺師は馬にとびつき、二度ころげ落ちて、やっと鞍の上に坐り、亀津をさして逃げて行った。 みちぶしん あとでわかったことだが、村境まで押し寄せた暴民というのは、実は伊仙の村人が道普請のために 村中総出で集っていたのを一揆と見誤ったのであった。 きんだち と 「水鳥の羽音に驚いたというわけで、とんだ平家の公達ぶりでしたよ」 と、仲為は苦笑してみせたが、すぐに真顔になって、「しかし犬田布の村人にとっては、笑い事どこ茶 章 ろではなかった。なにしろ、代官所に弓を引いたのですから、その後が大変です」 五 とりで 大田布村の村人は、こうなった以上は、厳罰はまぬかれぬところと覚悟して、村境の丘の上に砦を十 きづき、もともと武器はいっさい許されていない身の上であるから、小石、棒、斧、鎌、鉈などを集 めて武器にかえ、法螺貝を吹き、鐘を鳴らして気勢をあげ、代官側の来襲にそなえた。 なた

9. 西郷隆盛 第10巻

・ : かならず無用な血が流れるそ」 「またわからなくなりました。。 とうすればいいのですか。わが藩が動かなくとも、長州が動きます。 土佐が動きます」 ふんどし 「人の褌で相撲をとるな。誰が動こうと、自分が半身不随では、人の手足まといになるだけだ。薩 : おま 摩一藩の藩論さえ統一できぬ者が、他藩を動かし、天下を動かそうと思う心根が間違いだ。 けに、俺の見るところでは、長州も土佐もまだまだ独力で動けるところには来ておらぬ。どっちも薩 摩の島津久光の褌で相撲をとろうとしているのだ。これではどうにもならぬ。一言でいえば、まだ機 が熟せぬのだ」 「機が熟せぬと言って、じっとしていてもいいのですか」 「じっとしているよりほかはない。あわててたたき落しては渋柿だ。待てば熟する柿が無駄柿にな 「先生 ! 」 村田新八は叫んだ。「私は鹿児島に帰ります」 「 ) ・て、つか 帰ってよく考えてみるがよい」 「考えつくしました。私は同志と共に行動に移るつもりです。他の藩の有志との盟約にそむくことも できません。 : : : 先生に叱られるかもしれませんが、私も先生にはついて行けないような気がしはじ五 第 めました。 : : : 柿の熟するのを待っておれない短気な男のあったこともおぼえていて下さい。後のこ とはお願いします」 る」

10. 西郷隆盛 第10巻

第二章浪士の書 吉之助は重富屋敷の玄関で大久保と別れ、ただ一人で有村家に帰って来た。 いつもよりもながい 俊斎は役所に出て留守であった。吉之助は雄助と次左衛門の霊位の前に坐り、 黙檮をささげて、居間にこもったきり顔を出さす、運ばれた昼飯の膳にもほとんど箸をつけなかった。 午後になって俊斎が帰宅してみると、吉之助は縁側の陽だまりに坐って、しきりに右足をなぜてい た。どうしたとたすねると、ながい船旅のせいか、右脚に痛風めいた痛みが出て、癇にさわってなら ぬという返事であった。 俊斎はさてはと思ったが、素知らぬ顔で、 「重富屋敷の首尾はどうだった ? 」 吉之助は浮かぬ顔で首をふった。 「ちがう。まるでちがうそ」 「ちがう、何、が ? 」 「斉彬公とは大ちがいだ」 「斉彬公にくらべるのは無理だ。だが、久光公には久光公のいいところがある」 19 第二章浪士の書