- 村田新八もしきりにその事を言って口惜しがった。 「手前らの失策を全部先生におしつけたのだ。小刀細工が行きづまって、ついに収拾がっかなくなつ たので、刀を持出して大切な同志を斬って捨て、その尻を全部先生に持って来た。恥知らずの標本の ような奴がそろっている。中山、堀、有村俊斎 : : : こいつらは札付きの悪党で致し方もないが、大久 保はいったいどうしているのだ。同志面で策士面の大久保市蔵の顔が見てやりたい ! 」 「新八、大久保を憎むな。あれが今いちばん苦しい立場にいる」 「苦しいどころか、あいつがいちばん得意顔をしているかもしれぬ。殺された柴山愛次郎先生も、大 久保は汕断のならぬ男だとかねて言っていました」 「いやいや、俺は大久保を信じている。大久保が生きているかぎり、われわれの志も生きると信じて しる」 「先生は人を信じすぎます」 「そう見えるか。これでなかなか人を恨む男だよ。今でも、どうしても許せない奴らの顔が目の前を ちらついてならぬ。 : ただ、おまえには相済まぬと思っている。前途有為の身を : : : 」 「僕は自分の前途のことなど考えていません。僕に相済まぬというのなら、死んだ有馬先生や森山新 五には何といってあやまるつもりです」 「うん、森山さんには、一層相済まぬと思っている」 と言って、吉之助はそばに寝ている森山新蔵の方に頭を下げた。 新蔵は病後の身体を蒲団から起して、
森山は答えた。「だが、今朝もまた新五左衛門の夢を見ました。目がさめるとびっしよりと寝汗 : こいつが芯にさわります」 「どんな夢です」 村田新八が不遠慮にたずねた。 「それがどうも : : : 」 と、新蔵はロごもる。 「新五君の夢なら、元気な夢でしよう」 「それが : 森山は言いにくそうにしてしたが、。 、 - ふるっと身ぶるいして、「気の弱りだと思いますが、新五の奴、 いつも血まみれの姿で夢の中に出て来るのです」 森山新蔵の不吉な夢が、かならずしも五臓のつかれのせいばかりでなかったことがわかったのは、 それから数日後であった。港役人の肥後が、吉井幸輔と伊地知正治の飛脚便をひそかにとどけてくれ たが、その手紙に、実に驚くべき事件が記されてあった。 伏見の寺田屋で、有馬新七の同志がほとんど全減した。斬ったのは幕吏ではなく、大山格之助、奈 良原繁など同じ誠忠組の壮士で、しかも、この斬殺を命令したのは、実に久光自身だという。 二人の手紙を綜合してみると、事情は次のようなことになるらしい 久光は四月の十日に大阪 164
吉之助は平野国臣の一行より一日おくれて、三月二十七日に大阪についたのであるが、藩邸にも顔 を出さず、市中の宿屋も避け、立売堀に沿った加藤十兵衛の寮に身をひそめた。十兵衛は森山新蔵の 心友で、本居学の流れをくむ富商であった。 到着を秘密にしたわけは、幕吏の追求を避けるためであったが、同時に、行動にうつる前に、人の 意見にわずらわされることなく、自分の目で充分に形勢を観望したかったからである。 長州は森山、薩摩と土佐は村田に調査をまかせ、自分は編笠に面を包んで市中を歩き、市民の声や 動きの中から、時勢の流れともいうべきものを洞察しようと努めた。 森山新蔵の報告によると、長州藩邸には久坂玄瑞を中心にして、松下村党の元気者がほとんど結 集しているということであった。高杉晋作は藩命によって上海に渡航したとかで姿を見せなかったが ' 入江九一、佐世八十郎、寺島忠三郎、堀真五郎から山県小輔、品川弥次郎に至る三十名近い決死の若 侍がいつでも動ける用意をととのえている。土佐の吉村寅太郎、越後の本間精一郎なども、ここにか ゆくまい : これで、われわれも本当の頭首を得たわけだ。思いきりやれるぞ。早くあいたいもの ど。どこにいるか、皆で手分けして探そうではないか」 「探しましよう」 弟子丸が勢いこんで、「村田が一緒なら、村田を探してもいいわけです。なに、見つかりますよ、す
第六章死地の兵 関門海峡は雨に煙っていた。雨に際立っ潮流の縞を越えて、丸い伝馬船が下関の船着場についた。 まぶか たいひょう 雨合羽にくるまり、饅頭笠を眼深に傾けた大兵の武士が、二十三、四の俊敏そうな若侍を伴につれ て、棧橋に降りた。吉之助と村田新八である。三月十三日に鹿児島をたって、今日二十二日の夜明け 方に下関にたどりついた。途中で、森山新蔵の飛脚便を受取った。諸藩有志の動きが思いのほか切迫 しているから、手間どらずに旅程をすすめられたいという催促状であった。 さんばし 棧橋で小舟を雇い、竹崎の白石屋敷まで漕がせた。屋敷の裏手は海に開いていて、舟を乗入れるこ とができるのを、吉之助も新八も知っていた。 とうえん 吉之助の姿は陸からも目立つらしい。舟が水門に入ると、森山新蔵棠園と白石正一郎が出迎えていの た。吉之助は舟からそのまま「子亭」と名のついた木立の間の茶室に案内された。数年前、月照と二地 人でこもったことのある思い出の深い茶室であった。 ちゃがゆ ちやせん まっちゃ 香りの高い茶粥と正一郎が自ら茶筅をとった抹茶が朝食のかわりになった。 正一郎は数年あわない間に額が抜けあがって、ひどく老けて見えた。 「だいぶ苦労をなされたな」
歌や隠し芸がびとしきり終り、ふたたび座がしめやかになったとき、大久保が思い出して、 「森山さん、言い忘れたが、あんたの息子の新五左衛門に下関であった。かねての打合せの通り、美 玉三平などと一緒に脱藩して来たのだ」 「おお、それは : 「ほかの者の耳に人ったら、追いかえされること必定と思ったので、僕一個のはからいで、大阪に先 発させておいた。無事に二十八番屋敷に入ったらしい様子です」 「そうですか。安心しました。あれが後をついでくれると思えば、私も思い残すことはありません」 「、い , 細いことを一一一口い相うな」 俊斎が言った。「何もまだ殺されるときまったわけじゃない」 森山新蔵は不快そうに顔をそむけた。大久保がその気持を察し顔に、 「森山さん、新五左衛門にはいずれあえると思うが、何か伝言はありませんか」 「ほかにありません。おまえが元気でいてくれるので、父は安心しているとお伝え下さい」 と、新蔵は答えた。 翌る十一日の午前十時、名残りなく晴れた雨後の風に乗って、汽船天祐丸は煙を吐き、白帆を張り あげた。次第に小さくなる船の姿を、大久保、有村、奈良原の三人が、安治川口の葦の間に立って、 いつまでも見送った。同志にして、主命による監視役という相矛盾した二つの資格で。 むじゅん 156
いる。城下からはるばる訪ねて来た吉次郎たちに面会を取りはからってやりたいのは山々であるが、 藩庁の禁令を犯すことはできない。吉之助の釣舟が浮いているのを見て、よそながら兄弟親族の対面 を取りはからってくれたというわけなのであろう。 小舟の影が消えると、吉之助は釣道具をかたづけ始めた。さすがに釣りをつづける心の余裕もなく なったのか。 「もう昼飯の時刻だ」 そう言って、伝馬船を親船の天神丸の方に漕ぎかえらせた。 天神丸の胴の間には、薄い汚れた蒲団にくるまって、森山新蔵が寝ていた。 暑苦しい船中生活で身体の弱っているところへ、食当りして、はげしい下痢をわずらい、この四、 むしろ 五日、船板の上のあらい蓆に寝たっきり動けないのである。ゆったりと肥っていた身体が嘘のように 痩せ、たるんだ皮膚に小皺があらわれて、四十男の男盛りがまるで老婆のような顔になっていた。 「釣れましたか ? 」 新蔵は吉之助の顔を見ると、カなげにたずねて、荒蓆の上で苦しげに寝がえりをした。 「昨日と同じ、磯の小魚ばかり。 : 変りばえもせぬと新八に笑われたところだが、潮汁にでも作ろ 吉之助はやさしく答えて、「すこしは食慾は出たかな、森山さん」 162
ししどさまのすけ くまわれていた。藩邸留守居役宍戸左馬之介が半ば公然とこの一党を庇護しているところを見ると、 参政の周布政之助や江戸にいる桂小五郎の内諾を得てやっている仕事にちがいない、と森山の報告で あった。 薩摩屋敷の浪士は日に日に人数を増して、今は二十八番長屋に収容しきれないほどである。まず京 都から追われた田中河内介親子、千葉郁太郎、藤本鉄石、清河八郎、安積五郎、伊牟田尚平、久留米 の原道太ほか六名、豊後の小河一敏の一党約二十数名、筑前の平野国臣、秋月の海賀宮門、ほかに名 前は不明だが、肥後藩の有志数名。 土佐藩の動きは目下のところ分明でないが、武市半平太が坂本竜馬、吉村寅太郎などを使って、長 州の久坂玄瑞一派とかたく結び、義挙の準備をすすめている。その他、水戸、越前の浪士、民間の平 田門人の動きも軽視できぬ、と村田新八は報告した。 一見して、まことにさかんな景況であった。これに久光のひきいる千五百の精兵を加えれば、天下 と、そう考えるの のこと将に成らんとすと豪語しても、かならすしも楽観に失するとは言えぬ。 宿 が普通であろう。事実、若い村田新八のみか、分別ざかりの森山新蔵まで、この景況を目の前に見て、 の すっかり昻奮していた。年来の宿望は旬日の後に達成される。いよいよ命の捨甲斐のある日が近づい阪 たのだ、と口に出して言った。 だが、吉之助の考えは、おのすから彼らと異っていた。四年前の吉之助であったら、一も二もなく七 第 村田や森山に同感したであろう。平野国臣、真木和泉、有馬新七の意見に無条件に賛同し、行動を共 にしたにちがいない。何故なら、彼らの意見は二、三の枝葉の点を除けば、四年前の吉之助の意見と まさ
第十一一章露と消えにし 藩庁の命令は、六月に入って、やっと下った。西郷吉之助は徳之島へ、村田新八は鬼界ヶ島へ渡海 すべし、とただそれだけで、森山新蔵の処分に関しては何事も記してなかった。渡海の理由は、 一、浪士と結んで暴挙を企てた事 二、年少客気の者どもを煽動した事 三、久光を強いて京都に滞在せしめようと計画した事 し 四、下関より無断で大阪にとび出した事 え と 第四の下関事件を除いて、まったく身にお・ほえのないことばかりであった。よほどの悪意をもって露 見ないかぎり、こんな解釈は生れぬはずだ。伏見の宿で大久保にあったとき、「いま俺を京阪の地から章 - 引揚げさせたら、浪士はかならず暴発するそ。浪士をおさえ得る者は、この俺ばかりだ」と高言に似 - た言葉を吐いたが、現にその通りになったではないか。自分がいたら、決して寺田屋の惨事は起させ はしなかったのだ。
ような形であらわれようとは実は予想していなかった。崖はかならず崩れるそと予言しておいたら、 その崖が自分の頭の上に崩れかかって来たようなものである。おしつぶされたわが身の不運をなげく よりも、事の成行きを看破できなかった身の愚かさを自嘲したくなる。自分の勘と判断力を信するこ とのできなくなった虚脱感を、吉之助はどうすることもできなかった。 崩れた自信の隙間から、雑念が泥水のようにわき上って来る。天を恨な気は起らぬものの、人を憎 あいまい む気は猛然と起った。大久保の曖昧な態度、俊斎の軽卒、堀の無節操、中山の奸悪、久光の頑愚。 これだけ大根役者がそろっておれば大詰の幕はもう見なくともわかっている。はたでやきもきするだ けが野暮た、投げ出してしまえ、という気にもなる。 しかし、森山新蔵にくらべれば、自分の不運などは取るにたらぬ、という当然な反省もわいた。二 十歳の齢まで育てあげた一人息子が、戦いの場ではなしに、無意味な内争に斃れたのである。父子と もに大義に殉する覚悟でいたとはいうものの、父親の心としては、自分は先に死んでも、息子は生き 残って、治まる大御代に家名のを咲かせてもらいたいと心ひそかに願っていたことであろう。 それにくらべれば、自分などは気楽な身の上ーー・だと思えば、なおさら森山を慰める言葉は見つか らなかった。 森山新蔵は何も言わなかった。病み衰えた肉体に残る最後の意志の火をかき立てて、じっと運命に たえている様子であった。 ↓ 67 第十一章山川蓚
にして、大久保は三人を自分の宿舎にとめて、一晩中語りあかした。そして、翌る十日の今日、附添 いとも監視ともっかぬ資格で、大阪まで送って来たのである。 大久保が行ってしまうと、お互いにもう話すこともなかった。 「少し眠ろうか」 吉之助は森山と村田をふりかえってそう言い、舟底部屋の湿けた畳表の上に、ごろりと横になった 9 村田が船頭から借りた刺子羽織を着せかけてやると、間もなく静かな寝息をたてはじめた。 降りしきる雨の中で、川は暮れはじめた。大久保も俊斎もまだ帰って来ない。吉之助と新蔵は眠っ ていた。若い村田新八も横になっていたが、屋根板のすき間からもれ落ちる雨だれが気になって、ど うしても眠れなかった。 「おおい、 おおい」 岸の上で、誰かが呼んでいる。「薩摩の舟はいないか、大島三右衛門殿はいないか」 声はたしかに、そのように聞えた。村田新八ははね起きて、低い梯子をかけのぼった。 薄暮の色にとざされた岸の柳のかげに、番傘をさした男が立っていた。 「おおい」 新八は叫びかえした。「大島先生はここだが、あんたは誰だ」 「おお、村田だな。伏見の本田だ。 二時間さがしたそ。やれやれ」 さしこ はしご 151 第十章勤皇道楽