「無理かどうか、試して見なけりやわかりますまい」 二、三日して、また政照はや 9 て来た。真っ赤な花の一房を片手に下げていた。吉之助は目を見張 って言った。 「ほう、ツッジですな。もう咲きましたか」 「山道を歩いていたら咲いていましたので : : : 」 「大島より半月以上も早い。南ですな。いただきましよう。ちょうど花瓶の白百合がしおれたところ です」 「今年はいつもより暖いようです」 「寒いよりも暖い方がよい。時に、相撲の相手は見つかりましたか」 「先生、本気なのですか」 「本気だよ」 「では、つれてまいります」 政照のつれて来たのは、璞潤という名前の全島一と言われている力士であった。大兵ではないが、 いかにもよく鍛えられた筋肉をもった若い漁師であった。 囲いの前に仮りの土俵をつくり、二人はさっそく取組んだが、何度闘っても勝ちは吉之助のもので あった。しまいには璞潤の方があきれて、 「こりや、どうしたわけじやろう」 と、頤をかかえて土の上に坐り込んでしまった。 あご 67 第五章春
ら、自分を大島に島替えするように御周旋相願申し候。桂氏が大島にいる間は、島替えがむずかしい という話だが、これは奇妙なことに候』 大変乱が起らぬかぎり、この島を出ないつもりと書いておきながら、大島へ島替えするように頼む のはおかしな話だが、吉之助はその矛盾に気がっかなかった。つまり、それほどわが子の誕生がうれ しく、一日も早くその顔を見たい父の感情を無意識に告白してしまったのである。 「では、やつばりお呼びにならないのですな。つれないお父さまじゃと、お子たちに恨まれますそ。 やれやれ」 宮登喜は不足顔でそんなことを言い、手紙を持って大島に帰って行った。 むしろ それから三日とたたぬ八月二十六日の午後のことであった。吉之助が庭の木蔭に蓆を敷いて釣道具 を調べていると、義志孝少年が息をきらせて駆け込んできた。 「先生 : : : 先生 ! 」 「なんだ、義志孝」 「大 : : : 大島から坊っちゃまが来られました」 「ユはにツ 「奥さまもお嬢さまも御一緒です」 思わず立上った吉之助の膝から削ったばかりの烏賊釣りの海老型が跳ねとんで土の上で踊った。 吉之助は黙って門ロの方に歩いて行った。門を出ない先に、乾いた道の上に人々に取巻かれた愛加 那の姿が見えた。生れたばかりの赤児を胸に抱いて歩いて来る。旅の疲れか苦労のせいか、八カ月前 か
ある日、新代官の山田平蔵が土持政照をつれて、挨拶に来た。 代官がわざわざ遠島人を訪ねて来るのは異例のことであり、しかも山田とはべつに親交のあるわけ 一ではなかったので、吉之助は相手の心を察しかねて、 「これは、わざわざごていねいなことで」 そう挨拶をかえすよりほかはなかった。 だが、山田平蔵は格子越しにではあったが、膝を正してかしこまり、あらたまった口調で重大そう に切り出した。 「実は、お側役様より特別な御伝言がありまして : : : 」 お側役というのなら大久保のことだろうと、吉之助は胸をとどろかし、膝を乗り出した。 「ほう、それは、まことに御苦労なことで」 「赴任の直前、わざわざ拙宅まで御足労になり、いろいろお話の末、大島三右衛門殿には、定めし辺 へき 僻の島で御不自由をなされていることと察するが、くれぐれもよろしく中し伝えてくれ。お前も島に 聞 ついたら、法の許すかぎり、便宜をはかるように : 「まほ、つ」 吉之助は不審げに首をかしげて代官の顔を見なおした。そんな他人行儀な伝言は大久保らしくもな 章 い。「なお、近ごろは京都並びに国許の形勢も変って来て、いずれは大島殿御赦免ということになる七 しろいろと行き違いもあり、大島殿は自分に対し かもしれぬ。これまでは自分と大島殿との間には、、 て不快な気持を抱かれているかとも思うが、これは自分の不明の致すところと近ごろになって気がっ
第八章氷 夏の色が次第に濃くなって行く。大島で三度、徳之島で一度 : : : 数えてみれば、この夏は罪人とし て流罪の島で迎える五度目の夏であった。沖は油凪ぎに凪ぎわたっているが、土民の丸木舟のほかに は船の姿は見えなかった。大島にいたころには、絶えす寄港する船が内地の噂や同志の消息を持って 来た。強い嵐が吹きすさんだ後には、 かならず予定以外の船が二、三隻も笠利湾や名瀬の港に逃げこ んで来るので、嵐の吹くのもまた楽しみであった。だが、この島の定期船は年に二度の砂糖船のほか になく、琉球航路からは遠く離れているので臨時の寄港船は全然なく、嵐が吹けば、ついお隣の徳之 島や大島との交通さえ途絶えてしまう。南は呂守島、東はアメリカ大陸につらなるという果てしもな い大海原は、終日対座していると「絶海の孤島」という言葉が今さらながらひしひしと身にせまった。 たつご ) 同志からのたよりは全然ない。大島の桂右衛門、木場伝内、竜郷村の藤長の手紙は二、三度受取っ た。桂は親切に慰めてくれ、木場は近く大阪に転任になると知らせて来、藤長は愛加那と菊次郎、菊 子の無事を伝えてくれたが、内地の消息については何事も書いてなかった。弟の吉次郎と叔父の椎原八 とちらも発信してから三カ月もたった古手紙 権兵衛の手紙が二度ほど徳之島から回送されて来たが、・ で、最近の事情はうかがい知る由もなかった。大久保や吉井が手紙を書かぬはすはないのだが、一度 、い 、い
第十一章胡蝶 元治元年二月二十二日の朝。土持政照は伊延の港に飛脚船がついたから、港まで出張せよという上 けんえき 司の命令を受けた。鹿児島に天然痘が流行しているので、乗組員を検疫しなければならなかったのだ。 馬をいそがせて、越山の尾根道にさしかかったとき、行く手の道を、書状箱を携えて急ぎ足に近づ いて来る舟子らしい若者に行きあった。政照は馬上から声をかけた。 「在番所への書面らしいが、何か急用でも起ったのか」 「はあ、なんでも大島ちゅう人の御赦免状が入っているとかのことで」 と、舟子は答えた。政照は半ば夢中で馬からとび降りた。 「待て ! お前の船は御赦免船か。ただの飛脚船ではなかったのか」 「はあ、ただの飛脚船であります。御赦免船は蒸気船の胡蝶丸で、あとからまいります。山川港まで は一緒でしたが、途中で大島に寄ったので、私どもの方が先になりました。それでも、蒸気船のこと だから、今日中にも追いついて来るでしよう」 「そうか、有難い ! 」 政照は自分のことのように礼を言い、舟子を木蔭に待たせて、腰の矢立を抜き、話の模様と喜びの 150
雨は斜風を帯びて敗紗を叩く 子規は血に泣いて寃を訴えてかまびすし 今宵吟誦す離騒の賦 南竄の愁懐百倍加わる すると、ある日のこと、不思議な訪問客があった。 雨も晴れ、風も凪いで、若葉のむせるような香気がかるい眠気を誘う午後、吉之助が黄色い表紙の 「杜詩鏡銓」を膝において、思いを空に遊ばせていると、明り障子に人影が映って、囲いの外から呼び かけられた。 「大島さん、大島先生 : : : 起きておられるか、それとも寝ておられるかな」 ひどく甲高くて、そのくせ、若いとも老人ともっかぬ、聞きなれぬ声であった。 「どなたです。その障子をあけてお上り下さい」 の 0 そり入 0 て来たのは、山田の山子が動き出して来たかと疑いたいに まろぼろな老人であった。 たば 油気のない半白の髪の毛を藁屑で結んでうしろに束ね、ワカメのような着物に縄の帯、齢の頃は五十 前後か、だが服装に似合わず老ぼれた感じはなく、痩せた頬にはまだぼっと赤味がさしていて目に善 八らしいなごやかな光があった。 「どなたでしたかな」 吉之助はかさねてたずねた。
の重大な失態であります」 「な、なんだ、今ごろになって、急にそんなことを言い出して : : : 」 : 戸もなく、壁もなく、雨は打込み放 「いえ、私も今になって、やっと気がついたのであります。 題、厠の臭気は強く、豚小屋も同然、このままでは大島先 : : : 三右衛門は、この冬を越さずに死んで しまいます。藩命には殺せとは書いてなかったと存じます。大島殿は遠島人ながら、御当藩には重要 な人物と聞き及んでいます。もし露天同様の牢屋で殺したとあっては、後でどのような難題が降りか からぬとも限りませぬ。附役の福山、高田御両氏も同意見でございます」 意識した詭弁ではあったが、代官はあわてた。 「なるほど、そ : : : それは気がっかんことじゃった。囲いに入れる遠島人というのは、わしもはじめ てのことでな」 しかがでございましよう、今からでも間に合うと思いますが、新しく囲いを作っては」 「うん、それもそうじゃが、今から作るというても : : : 」 牢 「差出がましいようですが、費用の方は私が持ちまして、藩の御命令通りの囲いを作ったら、と思い ますが」 新 「そりや、 しい考えじゃ」 代官ははじめて笑顔を見せて、「というても、全部の費用をお前に持たせるわけにはゆくまい。とに四 第 かく囲いを作ってくれれば、後で藩の費用で買上げるということにしようか」 いや、明日からでも取りかかります」 「はつ、ありがとうございます。さっそく今日 :
代官の黒葛原源助は庭に打水をさせ、浴衣のくつろいだ姿で縁側に腰かけていたが、禎用喜が差出 す「遠島命令書」を見ると、眉をしかめて、 「こりや厄介な預り物だぞ。囲いに入れろと書いてある。ふうん、よほどの暴れ者とみえる」 なり 「いえ、決して暴れるような人柄ではございませぬ。装は相撲取のように大きいが、至って静かで 「ふうん、暴れもせぬのに囲いに入れよとは : : : つまり、大変な罪人だということになる。大島 : 三右衛門か。名前からして悪人らしい」 「私はくわしくは存じませぬが、大島というのは変名で、城下ではよほどの人物だったと中します。 徳之島の代官様も、なるべくていねいに扱ってくれと中されまして : : : 」 禎用喜は自分のことのように弁護した。「航海中は自由にするようにと私はすすめたのであります が、舟牢に坐ったまま動きませぬ。港に入っても、牢から出ようとはいたしませぬ」 「ふうん」 「どうか、代官様の特別なお取計いで、囲いの出来まするまでは、陸に上げて、楽にさせてやっては部 良 永 「おいおい、その言葉は差出がましいそ。こりや、とても俺の一存で取り計えることじゃない。囲い 章 のできるまでは、舟牢の中に入れておくがよい」 第 「囲いはまだ 「出来ておらんよ。囲いに入れるような重罪人を扱うのは俺もはじめてじゃ。さてさて厄介なことに
( 幽栖却って天涯の客たるに似たり、なにによりてか夜来われをして思わしむ。誰か知らん愁情 もっとも切なる処、膝前遊戯嬰児を夢む ) 雪篷は今までとはまるで別人のような毅然とした態度になり、底光りのする目で詩稿を黙読してい たが、やがて言った。 「ふふん、きわどいところを白状したな。この詩の調子では、ほんとうに大島に残した子供らの夢を 見たらしいな」 「ときどき見ます。昨夜も見ました」 「それはいし 、ことじゃ」 だいぶ前に、大島の藤長に宛てた手紙にも『菊次郎などの儀は始終御丁寧になされて下さる由、 よいよ有難く御礼申上候。徳之島へ罷り越し候節は拙者を見知り中さず、他人の塩梅にて相別れ申し 候。此度は重き遠島故か、齢を取り候故か、いささか気弱くまかりなり、子のこと思い出されて、な かなか忍び難く候。御推察下さるべく候。全体気楽なる生れつきと自分に相考え居り候処、おかしな ものに御座候』と書いた。詩にもその心をあらわしたのである。 「何も恥ずかしがることはない」 と、雪篷は言った。「それが人情の自然だ。わが子のことも思わぬ奴が廟堂に立っと、権勢亡者にな ~ って、民百姓をめつける」 「は亠の」 97 第ハ章睡眠先生
代官は藩命を楯にして、見て見ぬふりをしている。福山も心配であるが、どうすることもできない らしい。他の同僚に至っては重罪人が牢死するのは当り前だと言いたげな冷淡な顔つきであった。 政照はたとえどんな罰を受けてもいいから、この人を助けようと決心した。母のつるに相談して、 栄養になる料理を作ってもらい、自分で囲いに運んで行き、吉之助が食べ終るまでは動かなかった。 下女に命じて、汚れた衣服を洗濯させた。腐れかかった蓆は新しいのと取り換えた。琉球焼の火鉢と 土瓶をはこんで行って、いつでも茶を飲めるようにした。独断で入浴日を月二回にし、浴後には無理 につれ出して川辺の小径を散歩させた。だが、それくらいのことでは、衰えきった囚人の健康を取り もどすことはできなかった。 ある日、土持政照は何事か決心した顔色で、代官の黒葛原にあいに行った。 「お願いの筋があって参上いたしました」 代官は政照のただならぬ顔色を見て、いぶかしげに尋ねた。 「何事だな ? 」 「大島三右衛門のことにつきまして : : : 」 「大島がどうした ? 何か間違いでも起ったか」 「御命令書には囲いの中に入れるようにと書いてあったと存じます」 「その通り、ちゃんと入れてあるではないか」 「御承知の通り、囲いとは家の中に仕切りをして設ける座敷牢のことでございます。しかるに、 天島を入れてあるのは、露天の牢であって囲いではありませぬ。これは明らかに藩命違反で当代官所 むしろ