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検索対象: 西郷隆盛 第11巻
187件見つかりました。

1. 西郷隆盛 第11巻

召還命令が来るか、いっ帰れるか、帰ったらあれもやろうこれもやろうと心はいら立つばかり、それ をまぎらわそうとして、狩りにふけり、釣りにおぼれ、上べはのんきそうに見えても、一日として心 の落ちつくことはなかった。詩は志なりというが、述べようとする志がいら立ち、ふらついているの で、いくらっとめてみてもついに一篇の詩もできなかった。 へつに詩を作ろうとっとめたわけではない。だが だが、今度はなんだか出来そうな気がして来た。。 囲いの中に独座して、国から持って来た本を求なるところもなく読みふけっている間に、なにか透明 な岩清水のようなものが胸にたまって来た。その胸の清水を、そのまま静かに吐露すれば詩になりそ うな気がして来た。 島の与人の家柄である操家の一族が蔵書家であることを聞いて、「文選」「古文真実」「杜詩鏡銓」「漢 詩作法」などを借り受けて読んでみた。大島の時とちがって、作品も作法も、なにかひしひしと胸に ひびくものがあった。 訪れる人のない静かな暇をえらんで、筆を噛み、平仄を気にしながら、。ほっりぼつりと文字をなら べてみた。起承転結と約東を守り、「作法」をたよりにも合せ、どうやら形をととのえて、さて読み かえしてみると、なんだかおかしい。詩は一篇もできない先に、反古の山だけがいくつもできた。 何十篇か作っては捨てた中で、先ごろ、土持政照に与えた詩と、この「雨は斜風を帯び」という偶 くらか気に入ったので浄書して、壁に貼っておいた。支那本国の発音は知らぬから、脚 ~ 成だけが、い 韻は合わせたつもりでも、読むのにはやはり日本流にひっくりかえして読むよりほかはなかった。 いん きやく 83 第ハ章睡眠先生

2. 西郷隆盛 第11巻

第八章氷 夏の色が次第に濃くなって行く。大島で三度、徳之島で一度 : : : 数えてみれば、この夏は罪人とし て流罪の島で迎える五度目の夏であった。沖は油凪ぎに凪ぎわたっているが、土民の丸木舟のほかに は船の姿は見えなかった。大島にいたころには、絶えす寄港する船が内地の噂や同志の消息を持って 来た。強い嵐が吹きすさんだ後には、 かならず予定以外の船が二、三隻も笠利湾や名瀬の港に逃げこ んで来るので、嵐の吹くのもまた楽しみであった。だが、この島の定期船は年に二度の砂糖船のほか になく、琉球航路からは遠く離れているので臨時の寄港船は全然なく、嵐が吹けば、ついお隣の徳之 島や大島との交通さえ途絶えてしまう。南は呂守島、東はアメリカ大陸につらなるという果てしもな い大海原は、終日対座していると「絶海の孤島」という言葉が今さらながらひしひしと身にせまった。 たつご ) 同志からのたよりは全然ない。大島の桂右衛門、木場伝内、竜郷村の藤長の手紙は二、三度受取っ た。桂は親切に慰めてくれ、木場は近く大阪に転任になると知らせて来、藤長は愛加那と菊次郎、菊 子の無事を伝えてくれたが、内地の消息については何事も書いてなかった。弟の吉次郎と叔父の椎原八 とちらも発信してから三カ月もたった古手紙 権兵衛の手紙が二度ほど徳之島から回送されて来たが、・ で、最近の事情はうかがい知る由もなかった。大久保や吉井が手紙を書かぬはすはないのだが、一度 、い 、い

3. 西郷隆盛 第11巻

「実は今日もわしは、、 しつものとおり朝早く家を出たのじゃが、途中の山の中で、なんというか、こ : ぼうっとあたりに霧が立ちこめたようになってな、どこをどう歩いているのか、まるでわから なくなった。空では陽がきらきらと輝いている。それでいて、道にも林にも霧がかかっているような 気がするのじゃ。はじめは決して悪い気持ではなかった。花につつまれた桃源境を歩いているような 気持でな。 : ところが行けども行けども同じ景色じゃ。どこまでも山で、さつばり下り坂にはなら ぬ。そのうちに腹がへってきた。ひどく腹がへったところをみると正午をとっくに過ぎたらしい。わ うかっ ずか一里の道を四時間も歩いている勘定じゃ。こりや、 いかんそと思ったな。迂濶に歩きつづけて行 ったら、崖から海に落されるか。糞溜の中にもぐらされてしまう。こりやたまらんそと、わしはその 場に坐りこんだ。坐ったら、どうじゃ、今度はまわりの景色がぐるぐるまわり始めるじゃないか。ま すますいかんそ、とわしはそのまま土の上にうつ伏したが、そのうちに : : どうやら眠ってしまった らしい」 吉之助は思わず噴き出した。 生 「眠りましたか、あっはつよ、、、 冫し力にも酔眠先生だ」 先 「どのくらい眠ったかしらぬが、ふと目がさめてみると、陽は西山にかたむいて、おまけにわしの頭眠 の上に若い女が立っていた」 章 「 , ズ、が ? 」 第 「わしは跳ね起きて、こりや狐めとどなりつけたら、女はギャッと叫んで尻餅をついたが、べつに尻 尾は出さなかった。よくよく見ると和泊の大工の女房が柴刈りに来た姿であったので、わしはあらた くそだめ

4. 西郷隆盛 第11巻

第五章春 ガジュマル 正月がすぎると、島はもう春であ 0 た。牢屋の裏手の榕樹の繁みで、目白や鶯が終日鳴きしきった。 格子越しに見晴らす海には光り輝く凪がつづいた。山の斜面には白百合の花が絣模様のように咲いた。 あだんそてつ 海岸には阿旦と蘇鉄が孔雀の新芽をひろげて、むせつぼい若芽の匂いが空気をみたした。 吉之助の肉体の中にも、若芽のようなものが ~ 朋えはじめた。新牢の「御殿暮し」はたしかにききめ があった。清潔で居心地のいい部屋、政照の心づくし、政照の母の心をこめた料理。福山清蔵、高田 いたわ 平次郎、操担裁、沖利有など島の友人たちの心おきない訪問に労られ、慰められて、身体はめきめき と回復し、気持にもゆとりが出来、天地の精気に通ずるものが五体の隅々から蘇えって来たように思 われた。 「政照さん、お蔭でもう殺されても死なんほど丈夫になり申した」 ある日、政照の顔を見ると、みごとに肥った腕をたたきながら、吉之助はそんなことを言い出した。 「遠島人で何もお礼はできぬから、ひとっ相撲でもとって、元気なところを見ていただこうか。誰か 強い相手はいませんかな」 「あっはつは、強いのはいないこともありませんが : : まだ無理でしよう」 なぎ

5. 西郷隆盛 第11巻

「旦那さま、お帰りなさいませ」 「ああ、お前もよく来た、よく来た」 吉之助は答えた。「道中無事で何よりのことだ。どれ : : : 」 と、宮謙の膝の上から菊次郎を抱き取ると、父親の顔を忘れた子供は身体を弓のようにそらして、 わっと泣き出した。 「ま、ま これはどうしたことだ」 、。ははあ、無理もないこと 吉之助は菊次郎の頬をなでて、宮謙の方にかえし、「いや、無理もなし みな笑った。笑うよりほかに道のない場合であった。だが、笑いはやはり笑いであって、一座の空 気はなずかる子供を中心にして、一瞬に和みはじめた。 「ほっほっほ。子供は : : : 何といっても、子供は無邪気で : : : 」 という仲為の言葉をきっかけに愛加那が膝の上の赤児を差出して、 「旦那様、この子でございます。先月の七日に生れまして : : : 」 「おお、どれどれ、これは可愛い顔をしているそ。久しぶりに小便のにおいをかがせて貰うか」 と、膝に抱き取って、「うん、なるほど、女の子だ。お前によく似ている」 「はい : 竜郷では、旦那さまによく似ていると申しておりまする」 「いや、お前に似ているぞ。 : 名前は何とつけた ? 」 キクソレと申します」 なご

6. 西郷隆盛 第11巻

「よこ、ク′ヾ、 髯力のびたからでしようよ」 事もなげに答えたが、言葉の調子にも弱りが見える。 「先生、どうそ無理をなさらぬように・ きも がしんしようたん 「ああ、しかし政照さん。昔の志士や勇士は臥薪嘗胆というて、本当に薪の上に寝、胆を嘗めて志を 鍛えたという。 それにくらべれば、私の場合は何でもない。まだまだ苦しみがたり申さぬ」 「先生、それは昔の話で、今は時代もちがいますし : : : 」 「ちがうかな。私はこれからが大変な時代だと思っている。外国も攻めて来るだろうし、国内の大動 乱も起る。日本はもっと苦しみます。それに備えて今のうちに修業をしておかぬと、身体も心もなま くらになって、いざという時の役にはたたん。役に立たぬ身心もって生きのびては、昔の人に対して も相済まぬというものです」 そう言って、快活そうに笑ってみせた。 しかし、さらに日が経つにつれて吉之助の身体はますます衰えていった。ひげに埋った顔はまった く血の気がなくなり、頬の丸味は失われ、眼窩は落ちく・ほみ、瞳の光は失せて、昔の豪快雄偉な面影 はもうどこを探してもなかった。 政照は、自分の身まで日に日に痩せ細るような気がした。このままにしておいたら、この人は遠か らず牢死してしまう。「粗食するものは死顔が変らぬ」といった不吉な予言が実現するにちがいない。 59 第四章新牢

7. 西郷隆盛 第11巻

摩屋敷にたどりついた時には、タ立も晴れたが、着物と袴の返り血も、あらかた消えていた。 みちつね こうすけ すぶ濡れ姿でお長屋にとびこむと、重役の吉井幸輔が若い三島弥兵衛通庸を相手に芋焼耐をのんで いるところであった。弥兵衛は伏見寺田屋の事件で斬られそこねた激派の青年の一人だが、今は許さ れて、禁裡警護の兵隊になって上京している。今夜は非番らしい 「やあ、お帰り。 : これはひどく濡れたな」 若い弥兵衛は何も気がっかないようであったが、吉井幸輔は見のがさなかった。 、桐野、きさま、またやらかしたな。相手は何者だ ? 」 桐野は答えず、次の間に入って、乾いた絣の筒袖に手早く着かえ、乱れた髪をなぜっけながら、朱 鞘の大刀をわしづかみにして、吉井の前にひきかえしてきた。 「何の話ですか、御重役 ? 」 「はつはつは、と。ほけてもだめだ」 身なりをかまわぬので有名な吉井幸輔は汗くさいかたびらの上から、二の腕をぼりぼりとかきなが骸 ら、「はつはつは、おれの目をごまかせると思うておるのか。袴のよごれは血のあとだった。ずすと 血 しい奴だ。 ・ : まあ、一杯やれ。骨まで濡れては、夏でも風邪を引く」 章 「酒はだめです」 しらふ 十 「うん、おまえは下戸だったな。素面で人が斬れるんだから、なるほど人斬り半次郎だ」 第 吉井幸輔はさっと蒼ざめた後輩の顔をジロリと流し目をくれて、「こら、桐野 ! 取締りのきびしい 藩邸で、おまえだけが自由な外出が許されているというのは、西郷の特別なはからいだ。おまえには かすり

8. 西郷隆盛 第11巻

吉之助の健康は日に日に回復して行った。風呂にも入り、髯もそり、よく眠り、よく食べた。三度 の食事は政照の母の心をこめた手料理であった。三日たたぬ間に起き上って、庭を歩きまわり、政照 がすすめれば小川のほとりの散歩にも出た。福山と高田が訪ねて来ると喜んであ、 し問われるままに 江戸や京都の状態について元気よく語った。十日目には、湯上りの腕をまくってみせて、 「政照さん、お蔭でもうこんなに肥り中した」 と、子供のように喜んだ。 そこへ出て来た政照の母に向って、 ちからわざ 「お母さん、ひとっ私の力業をごらんに入れましよう」 こうし と言い、庭の松の木の根元にある仔牛ほどの庭石を、えいと持上げて、ゆるりとそこらをひとまわ りして来て、「お蔭様で、どうやらもとの人間にもどりました」と頭を下げた。 しわす 新しい囲いは予定よりも十日もおくれて、師走の半ば過ぎに出来上った。南向き、二間半の真四角 な小屋であったが、入念な建て方で日当りも風通しも中し分なく、牢格子はあっても形ばかり、厠は 別棟になっていて、ちゃんとした普通人の住宅であった。 いよいよ囲いに引き移る日、吉之助は政照の手を握って言った。 「これはこれは、遠島人には贅沢すぎる。まるで殿様暮しじゃ」 「ははははは、遠島人の殿様ですか」 「殿様だよ、まったく。そうそう政照さん、代官所に預けてある櫃の中に火鉢が一つ入っている。お 手数だが、届けさせて下さらんか」 ひっ かわや

9. 西郷隆盛 第11巻

て来てくれたのた ( 木場の手紙には、『大兄が大島を出発したのはつい昨日のように思っていたのに、ふたたび遠島とは まったくもって驚き入った次第である。如何なる事情があったかは知らぬが、自分らの見るところで は、大兄に失策があったとは考えられぬ。おそらく幕府の追求がきびしかったせいか、さもなければ 藩内の因循家どもが奸計を弄して、大兄をおとしいれたのであろう。幕府の目からかくすためなら、 住みなれて、妻子もおり、友人もいる大島に渡海させればよかろうものを、殊さらに徳之島に流した ところを見ると、やはり藩の内争の犠牲になったものとしか思えない。いずれにしろ、事件の真相を 知らしてもらいたい。事情次第では、われわれにも覚悟がある』という意味のことを記してあった。 島に来て初めて受取った同志の手紙である。同じ憤りと同じ憂いにみちみちた筆つきで、心から自 分の現在の身の上を案じてくれるのは涙の出るほどありがたかったが、同時に、忘れよう、忘れたい とっとめていた胸底の鬱憤に吐け口をあたえた形になり、心の均整がたちまち破れてしまった。喧嘩 に負けて、涙をかくし、歯を喰いしばって家に帰って来た子供が、母や兄弟のやさしい慰めの言葉を 聞いて、われを忘れてわっと泣き出す、あの気持である。 もちろん、吉之助は子供ではない。わっと泣き出したい気持になったというのは誇張であるが、「天 を恨まず、人をとがめぬ」心境の中に自分を埋没して、世を忘れ、世に忘れられて暮したいと願う心 すやき が素焼の壺のように壊れはててしまったことは事実であった。 えんざい 答えようか、答えまいかと迷う気持も長続きせず、わが冤罪を人に訴えたい心が先に立って、弁明 の返事をしたためた。 光 11 第一章月

10. 西郷隆盛 第11巻

血相をかえてとびこんで来た二人の若侍を、西郷吉之助はジロリとにらみつけた。大きな目だ。顔 じゅうが目に見える。巨眼の底に、黒雲の中で一閃する夏の夜の稲妻に似た光があった。遠い雷に似 た重い声で、ただ一言だけ言った。 「すわれ ! 」 三島弥兵衛は主人の声に反応する小犬のように、べたりとその堺に膝をついた。だが、朱鞘の大刀 をわしづかみにした桐野半次郎はすわらなかった。巨眼の主をにらみかえす彼の釣りあがった目もま た火を吹いていた。 西郷は桐野の反抗を無視した。 「もっと、こっちへ来い ! 」 三島は言われたとおりに膝がしらで西郷の前ににじりよった。桐野はつっ立ったまま動かない。た だ、とびこんできた時の危険な闘志をくじかれて、戸まどった表情が険しい顔をいくらかやわらげた。 きざみ きせる 西郷は銀の煙管に薩摩刻をつめ、煙草盆をひきよせて、ゆっくりと一服してから、ぼんと灰吹きを 鳥らしこ。 「桐野 ! 」 「はっ 思わず膝をついてしまった。 西郷は煙の中から桐野を見据えて、 「おまえ、いくつになった ? 」 180