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検索対象: 西郷隆盛 第11巻
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1. 西郷隆盛 第11巻

ふ、つに・ 「さて、それは : : : 私などにはくわしいことはわかりませぬが、だいたいのところ、京都の事情はわ が藩に不利になって来たように思えます」 「不利とい ) と ? 」 「長州の力がぐんと出て来ました」 「ま一よ、つ . 」 たけちはんべいた 「長州の久坂とか高杉など松下村塾系の激派が土佐の武市半平太の一派と結んで、さかんに斬ってま わっているということです。井伊大老の腹心長野主膳の相棒であった島田左近、目明し文吉、京都町 奉行与カ渡辺金三郎などことごとく斬られてしまいました。もっとも、この天誅にはわが藩の壮士も ・こ、ぶ加わっていたとの噂ですが、くわしいことは私にはわかりません」 「長野主膳はどうなった ? 」 「これは昨年の八月ごろ、宇都木六之丞などと共に処刑されたということです。井伊大老自身も追罰 聞 を受け、彦根藩は所領十万石を削られました。それと同時に、わが藩の先公斉彬様には、従三位権中 納言を追贈されました」 「ほう、それは : : : まずます有難いことと申さねばならぬ。だが、それと長州の勢力が伸びたという 七 こととどういう関係があるかな」 「そこが私にもよく納得が行かぬのでありますが、なんでも久光公が勅使大原三位卿を奉じて江戸に さだひろ 下っている間に、長州は当主定広公を奉じて京都に乗込み、わが藩の方針に片っ端から反対し、久光 なりあきら

2. 西郷隆盛 第11巻

郷隆盛歳 ) 3 ・ 4 将軍家茂着京、二条城に宿泊。そのころ対英関係危機の情 報に、江戸・横浜市民動揺する 【世相】足利 3 ・ 7 家茂、慶喜らを随えて参内、政務御委任の恩命を拝謝す 尊氏の木像斬 3 ・Ⅱ天皇、賀茂下上社に行幸、 4 月Ⅱ日、石清水行幸。それそ 首され、首をれ攘夷を祈願する 0 さらされる。 家茂、 5 月川日をもって攘夷期限とする旨を奉答 各地に一撥。 ・間英仏米普蘭の各国使臣、国交断絶するならば自衛行動に出 幕府の和学者るべき旨を幕府に通告する。同日、長州藩、攘夷の期限になっ 塙次郎暗殺。 たとして、田ノ浦に停泊中の米国商船を砲撃 新選組近藤勇 ・長州藩士・井上聞多 ( 馨 ) 、伊藤俊輔、野村弥吉 ( 勝 ) ら、英 ら、芹沢鴨等船に乗じ、海外留学に出発する を襲殺。 5 ・長州藩、下関海峡に仮泊中の仏軍艦を砲撃。同日、下関 渋沢栄一らの通行中の蘭艦を砲撃。 6 月 1 日、米艦と下関に交戦、大敗す 横浜居留地焼 6 ・ 4 蘭国総領事ポルスプルッグ着任す 打ち計画発覚 6 ・ 7 長州藩士・高杉晋作、奇兵隊を編成 する。 英国代理公使ニール、 7 雙の艦隊を従えて薩藩にのぞみ、 両国橋にラク生麦事件の賠償条件を示し、幻時間以内に回答を強要。翌日、 ダの見世物。 薩藩、幕吏立会いで交渉する旨を回答。 7 月 2 日、薩英戦争起 7 月シュレスウィッ プリキ製品は る。英旗艦長ら戦死し、英艦隊逃走するが、薩藩の被害も甚大ヒ・ホルスタイン間題 じめて売出さ 7 ・長州藩守兵、下関来航の幕艦朝陽丸を砲撃 紛滸 れる。 8 ・ 4 長州藩、農商の銃隊調練を挙行 8 月仏、カンポジャを 1 月米大統領リンカ 1 ン、奴隷解放宣言 223

3. 西郷隆盛 第11巻

の重大な失態であります」 「な、なんだ、今ごろになって、急にそんなことを言い出して : : : 」 : 戸もなく、壁もなく、雨は打込み放 「いえ、私も今になって、やっと気がついたのであります。 題、厠の臭気は強く、豚小屋も同然、このままでは大島先 : : : 三右衛門は、この冬を越さずに死んで しまいます。藩命には殺せとは書いてなかったと存じます。大島殿は遠島人ながら、御当藩には重要 な人物と聞き及んでいます。もし露天同様の牢屋で殺したとあっては、後でどのような難題が降りか からぬとも限りませぬ。附役の福山、高田御両氏も同意見でございます」 意識した詭弁ではあったが、代官はあわてた。 「なるほど、そ : : : それは気がっかんことじゃった。囲いに入れる遠島人というのは、わしもはじめ てのことでな」 しかがでございましよう、今からでも間に合うと思いますが、新しく囲いを作っては」 「うん、それもそうじゃが、今から作るというても : : : 」 牢 「差出がましいようですが、費用の方は私が持ちまして、藩の御命令通りの囲いを作ったら、と思い ますが」 新 「そりや、 しい考えじゃ」 代官ははじめて笑顔を見せて、「というても、全部の費用をお前に持たせるわけにはゆくまい。とに四 第 かく囲いを作ってくれれば、後で藩の費用で買上げるということにしようか」 いや、明日からでも取りかかります」 「はつ、ありがとうございます。さっそく今日 :

4. 西郷隆盛 第11巻

幕府。夜間の 8 ・尊攘派一掃のク 1 デター。薩摩・会津両藩、朝廷内の反長保護国とする 単独無灯の通藩勢力を擁して長州藩の京都警衛を解除、国事参政、同寄人廃独、フランクフルト国 止、大和行幸延期。同日、攘夷親征を中止。翌四日、親長派の民会議 行禁止。 清、曽国藩、季鴻章、 公卿三条実美ら、親兵を率い長州に西下 ( 七卿落ち ) ゴルドンの奪戦により 8 ・天誅組、大和五条桜井の東営を天ノ川辻に移動、同 % 日、 太平軍の勢威おとろえ 高取城を攻撃し、敗走する る ・ 3 島津久光、入京する 0 . り 1 1 平野国臣、沢宣嘉ら、但馬生野に挙兵 ( 日、捕われる ) 貶・長州藩奇兵隊、田ノ浦停泊中の幕船長崎丸を撃沈 4 英総領饕オ 1 ルコック帰任 ロ一八六四年 1 ・ ( 文久 4 年・ 2 2 ・ ? 西郷隆盛、許されて沖永良部島より帰藩 月日改元し 2 ・Ⅱ幕府、長州藩主・毛利慶親を糺問し、征討師発向を準備 元治元年・西 2 ・ 慕府、松平慶永を京都守護職に任命 郷隆盛歳 ) 3 ・仏公使レオン・ロッシュ着任 3 ・ % 水戸藩士・武田耕雲斎ら、筑波山に拠る ( 水戸天狗党 ) 【世相】江戸 3 ・横浜鎖港談判使節・池田長発ら仏国皇帝ナポレオン 3 世に 本所の示教稲掲見、幕書を捧呈する 荷繁昌す。 3 ・西郷隆盛、上京する 5 ・池田長発ら、仏外相とパリ約定に調印 ( 7 月日、廃棄宣言 ) 6 ・ 5 京都三条の池田屋に密会中の長藩士ら、新選組に襲わる 224

5. 西郷隆盛 第11巻

たたき切ってやります」 そんな男である。国にいる時から暴れ者でとおっていたが、文久二年の春、島津久光の手勢の雑兵 の一人に加えられて京都に出てくると、水を得た魚のようにその本領を発揮しはじめた。 久光の方針で、薩摩の藩士はみだりに他藩の者と交際することを禁じられていたが、桐野利秋は平 気で禁令を無視した。諸藩の浪士たちはもとより、薩摩とは敵対関係の長州藩士たちともっきあって、 聞きかじった激烈な尊王討幕論をふりまわして、藩邸の重役たちの眉をひそめさせるようになった。 西郷吉之助が久光の怒りにふれて南島に流され、さらに久光の命令によって、有馬新七を主領とす る急進派の藩士たちが寺田屋で殺されてしまった後は、桐野は薩摩藩を見かぎってしまったかのよう に、ほとんど藩邸にかえらず、脱藩同様の態度をとった。浪士たちの計画した暗殺や斬奸にも一度な らず参加して、しばしば危難の底をくぐりぬけて、次第に彼らの信頼を得るようになった。粗暴すぎ るところはあるが、純粋で、率直で、向う見ずな猪のような剽悍な行動性を珍重されている。 薩摩屋敷の重役のあいだでは、彼を国許に送還せよという声が高くなったが、若い家老の小松帯刀声 が反対して、お庭方に任命した。お庭方というのは実は情報係または密偵である。浪士の動向と諸藩 の内情をさぐるためには彼のような男が必要である。薩摩を警戒して近づけない長州藩士も桐野だけ砲 は同志と認めているので、密偵として適役であった。 しかし、桐野としてはお庭方の役割に甘んじていなかった。天下の志士をもって自認し、いずれは十 薩摩藩の中に正論をまきおこし、長州と薩摩を結ぶ橋になろうと心に期していたようだ。だから、そ れだけ、島から帰ってきた西郷に期待するところが大きかったわけだが、その西郷が三カ月待っても

6. 西郷隆盛 第11巻

よしのぶ を動かす余裕はないようだ。一橋慶喜は攘夷を口にしているが、腹はその逆であることを、長州と浪 士たちは気がついたようだ。水戸は一橋慶喜にうまくごまかされている。慶喜という男はなかなかの 曲者で、決して油断はできない。 一、将軍家茂公は目下大阪城に滞在中。将軍が江戸に帰ったら、必ずイギリス、オランダ、フラン スの連合艦隊が長州攻撃のために進発するだろうと勝海舟が言っているそうだ。勝の意見では、長州 が破れたら、外国艦隊は大阪湾に侵入して開港を強要するだろうとのこと。勝海舟も近ごろはひどく 幕吏どもに憎まれているという噂である』 西郷はやつばり動いていたのだ。決して手をこまねいてすわっていたわけではない。彼の情報網は 八方にはりわたされていた。 『一、わが藩の評判はますます香しくない。悪評の大部分は幕吏から出ているようだ。わが藩が支那 シャンハイ 上海あたりに京都の茶をはこび出し、盛んに交易しているなどという噂をふりまいているが、これは 幕府側の謀略宣伝にちがいない』 この点は西郷の思いちがいだ。いや、大久保は藩の財政の秘密をまだそこまでは西郷にうちあけて 。生糸も茶も、例えば浜崎屋太平治などの手を通じて外国に出ている。その収入はイギリス商 社ジャーディン・マジソンの手を通じて買入れる新式の武器の支払いにあてられている。それどころ か、薩摩は軍資金を浮かすために天保銭の鋳造も行っているのだが、西郷は知らない。 二、自分としては、ここしばらくすべて手をひき、もつばら兵を訓練し、諸藩の動きを偵察しつつ、 静観の方針である。 いえもち 178

7. 西郷隆盛 第11巻

西郷はつづけた。彼がこんなにしゃべるのは珍しい このことを考えておられた。 「斉彬様は十年も前に、 ・ : 当時、越前の橋本左内は日露同盟論を唱え た。南下するロシアと手をにぎって、西から来るイギリスとフランスを押えようという奇策だが、こ れは前門の虎を追うために後門の狼を迎え入れるようなものだ : : : 斉彬様のお考えはもっと雄大で、 積極的であった。断乎たる出撃戦術だ。日本の内で戦わず、外で戦う。近畿、山陽、山陰の大名は支 那本土に上陸し、九州の諸藩は安南、マライ、ジャワ、インドに進撃し、東北奥羽の諸藩は満洲、蒙 古、シベリアを占領して : : : 」 「そ、そんなことが : 三島弥兵衛が叫んだ。信じられないと言いたげな声であった。 西郷はかまわずにつづけた。 「台湾島と広東福建省は、わが薩摩藩の手で占領し、英仏の東洋艦隊を台湾海峡で食いとめる。 しかし、今自分がこのような説を公然と唱えたら、島津斉彬は気が狂ったと世間は笑うだろう。それ も、むりはない。今、海外出撃の大号令がくだっても、オホーック海と南支那海の激浪を乗り切る軍 船を結集できる藩は一つもない。ただ、自分に十五年の歳月を借せ。薩摩を日本一の富強の国にし、 日本統一の主唱者たる実力を蓄えてみせる : : : 今は何事も忍耐だ。その日が来るまでは、朝廷や幕府 や、水戸や越前や土佐や長州を相手に気苦労の多い工作をつづけなければならぬ。眼前の政争に巻き こまれると、大局を見失う。何をするとぎも、何を語るときにも、この東洋の地図を胸の底にはりつ けておかねばならぬと申されたのだ」 190

8. 西郷隆盛 第11巻

いわくらともみ 公の公武一和の御大策に対し、攘夷即行論をもって朝廷を動かし、岩倉具視一派の公卿を側近から遠 ざけ : : : つまり、久光公の裏をかいて京都における実権を握ってしまったという次第らしいのであり ます」 山田平蔵のいうことは噂のかき集めのようなもので、はなはだ漠然としていたが、しかし、吉之助 にとっては初耳のことが多かった。 「つまり、久光公の御大策なるものは、長州その他の邪魔立てによって実現されなかったということ ・になるのか」 と、吉之助はかさねて聞きかえした。 「つまり、そ ういうことになるのかもしれませぬ。長州は安政の大獄以来の殉難者に対する大赦の勅 命を幕府に下すように取りはからいましたが、その中に有馬新七以下寺田屋事件殉難者の名が含まれ ております」 「寺田屋の諸士を大赦なされるというか」 吉之助はうれしそうにうなすいて、「それは当然のことだ」 いえ、それは、ちがいます」 と、山田は答えた。「寺田屋の事件は久光公直接の御命令に出たことでありますから、これを免し ては、久光公の面目が立たないことになります。つまり長州のわが藩に対する厭がらせであります。 よしなが 長州のやることは万事その調子で、わが藩が松平慶永公を京都に呼ぼうとすれば、長州は将軍自身上 洛せよというし、わが藩が開国鎖国の議論は後まわしにして、まず武備を充実せよといえば、長州は たいしゃ ゆる 108

9. 西郷隆盛 第11巻

現在、横浜で生糸を外国人に売ることのできるのは薩摩藩だけであった。幕府は攘夷の世論に押さ れて、横浜鎖港を声明することを余儀なくされ、生糸の民間取引きを禁止したので、ここ数カ月間、 横浜の生糸の入荷は途絶してしまった。薩摩はこの情勢を逆利用した。大久保利通がうまく立廻って 幕閣を動かし、薩摩藩だけは例外であることを認めさせた。「丸に十字」の紋章のついた生糸だけは公 然と神奈川の関所を通過する。他藩の商人たちも、多額の歩合をおさめて、薩摩の保護をうけた。い わば「公然の密貿易」である。 薩英戦争以前は、通商条約の保護者は幕府であり、薩摩はその破壊者であるという「 卩象をあたえて いたが、今はその逆である。横浜の外国商社のあいだでは、薩摩の「進歩主義」は評判がいい牛に イギリス人とのあいだには、薩英戦争のおかげで、「撲りあいの後の友情」とでも言うべき親愛感が発 生していた。極東では、最大の商社ジャーディン・マジソンの支配人グラーも薩摩を代表する商人 浜崎屋太平治には愛想がよかった。 薩摩の密貿易の伝統は長い。島津家代々の藩主は、琉球を通して、明、清、呂宋、カンポジャと貿 易して藩の財政をささえた。密貿易の基地は薩南の坊の津、山川、指宿の諸港であるが、太平治は指 宿の豪商の家に生れて八代目だ。 五代目の太左衛門は寛政年間の全国長者番付に三井、鴻池とならんで名をつらねた九州第一の富商 であった。藩主島津家に金穀別荘等を献上した功により、三十三反帆の大船建造の許可を得ている。 七代目で家業は一時おとろえたが、八代目太平治は十四歳の時、琉球に密航して唐物を買い これ らを大阪方面で売りさばき、その後は船を家として南北に活躍し、見事に家運を盛りかえした。当時 ルソン 194

10. 西郷隆盛 第11巻

『当月十一日付の御懇札、同二十三日朝、相とどき、ありがたく拝読仕候。実になっかしく、繰返し 巻返し候。私かく相成り候なりゆきは、決して申上げざる考えに御座候えども、如何ような御疑惑も 計りがたく、御安心もなりかね候ことと、よんどころなく、委細申上候間、御一読後は丙丁童子に御 与え下さるべく候』 読んだら焼き捨ててくれという意味であった。 うんでい 『大島に居たころ考えていたこととは雲泥の相違で、鹿児島の城下は群小勢力が割拠し、闘争し、ま ったく手のつけようもない有様であった。しばらく静かに観察していたところ、藩の現状はまさに少 年国柄を弄すといった姿で、事々物々すべてなやみな事ばかり、藩政府はもちろん、諸官一同、疑迷 困惑して、為すところを知らず、志は善意であっても、実際の処置にはうとく、本人は君子のつもり であっても、行うことははなはだ下劣下賤で、俗人にさえ笑われることばかりだ。 いわゆる誠忠派と自称している連中は、今まで低い地位に屈していた者が、急に伸びたので、ぼっ と上気してしまい、一口に言えば、世の中に酔って逆上してしまった有様。口に勤皇とさえ唱えれば、 それだけで忠良な者だと自惚れてしまい、しからば現在どこから着手すれば勤皇になるのかと、その 道筋を問いつめると、まったく訳もわからず、藩内の状勢の大体さえも判断がっかず、日本全体の大 わきま 勢もまったく知らず、幕府の形勢も存ぜず、諸藩の事情もさらに弁えず、しかも天下の事に尽そうと いうのは、実にめくら蛇におじずで、手のつけようもない次第である』 という書出しで、大島を出発してから、ふたたび遠島に処せられるまでの事情を細大洩らさず、半 たなかかわちのすけ 紙二十数枚にわたって書きしたため、森山新蔵の自殺と田中河内介父子殺害の事にも言及して、