見る - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第11巻
179件見つかりました。

1. 西郷隆盛 第11巻

第五章春 ガジュマル 正月がすぎると、島はもう春であ 0 た。牢屋の裏手の榕樹の繁みで、目白や鶯が終日鳴きしきった。 格子越しに見晴らす海には光り輝く凪がつづいた。山の斜面には白百合の花が絣模様のように咲いた。 あだんそてつ 海岸には阿旦と蘇鉄が孔雀の新芽をひろげて、むせつぼい若芽の匂いが空気をみたした。 吉之助の肉体の中にも、若芽のようなものが ~ 朋えはじめた。新牢の「御殿暮し」はたしかにききめ があった。清潔で居心地のいい部屋、政照の心づくし、政照の母の心をこめた料理。福山清蔵、高田 いたわ 平次郎、操担裁、沖利有など島の友人たちの心おきない訪問に労られ、慰められて、身体はめきめき と回復し、気持にもゆとりが出来、天地の精気に通ずるものが五体の隅々から蘇えって来たように思 われた。 「政照さん、お蔭でもう殺されても死なんほど丈夫になり申した」 ある日、政照の顔を見ると、みごとに肥った腕をたたきながら、吉之助はそんなことを言い出した。 「遠島人で何もお礼はできぬから、ひとっ相撲でもとって、元気なところを見ていただこうか。誰か 強い相手はいませんかな」 「あっはつは、強いのはいないこともありませんが : : まだ無理でしよう」 なぎ

2. 西郷隆盛 第11巻

例外なしに人間の屑で、島の賤民にも劣る連中が多かった。だが、こんどの遠島人だけはべつであっ た。どこがちがうのか、自分にもはっきりとわからぬ。巨眼巨驅の異相にも驚かされたが、ただそれ だけではない。 最初に舟牢の中に端坐している小山のような姿を見た時は異常な衝動を受け、それから、一里の道 を和泊まで帰って来る間の、気取らず、こだわらず、豪傑ぶらぬ態度にさらに一層心を惹かれた。 「あなたは、あの遠島人を御存じのようだが : と言葉 あの晩、彼は思いきって附役の福山清蔵に尋ねて見た。だが、福山は、いや少しばかり : をにごして、話を避けた。 政照は、その翌日から監視役の役柄を利用して、必要以上にしばしば囲い牢に出かけて、この不思 冫オしつ行ってみても、遠島人は端然と荒蓆の上に正座していた。瞑 議な遠島人を観察することこしこ。、 じだらく 想していない時は、読書していた。読書していない時は、紙をひろげて習字していた。自堕落に膝を くずしたり、寝転んだりしている姿は一度も発見できなかった。 牢番に対しても、何一つ要求しない。一椀の湯、一杯の水も自分の方から欲しいとは言い出さぬ。 食事は毎朝一回、牢番が炊いてあてがうのを、昼も夜もその冷飯に湯をかけて食べる。副食物は塩と 野菜である。魚をしいとも肉を欲しいとも言わぬ。与えられたものだけを黙 0 て食べる。許されて いるはずの煙草も契まぬ。代官屋敷に預けてある荷物の中には、ちゃんと煙草と煙草道具が入ってい るのを政照はたしかに見たのだが。 ある日、政照は家にあり合せた樫の木の拍子木を持って、囲い牢に出かけて行った。 ひょうしぎ

3. 西郷隆盛 第11巻

「実は今日もわしは、、 しつものとおり朝早く家を出たのじゃが、途中の山の中で、なんというか、こ : ぼうっとあたりに霧が立ちこめたようになってな、どこをどう歩いているのか、まるでわから なくなった。空では陽がきらきらと輝いている。それでいて、道にも林にも霧がかかっているような 気がするのじゃ。はじめは決して悪い気持ではなかった。花につつまれた桃源境を歩いているような 気持でな。 : ところが行けども行けども同じ景色じゃ。どこまでも山で、さつばり下り坂にはなら ぬ。そのうちに腹がへってきた。ひどく腹がへったところをみると正午をとっくに過ぎたらしい。わ うかっ ずか一里の道を四時間も歩いている勘定じゃ。こりや、 いかんそと思ったな。迂濶に歩きつづけて行 ったら、崖から海に落されるか。糞溜の中にもぐらされてしまう。こりやたまらんそと、わしはその 場に坐りこんだ。坐ったら、どうじゃ、今度はまわりの景色がぐるぐるまわり始めるじゃないか。ま すますいかんそ、とわしはそのまま土の上にうつ伏したが、そのうちに : : どうやら眠ってしまった らしい」 吉之助は思わず噴き出した。 生 「眠りましたか、あっはつよ、、、 冫し力にも酔眠先生だ」 先 「どのくらい眠ったかしらぬが、ふと目がさめてみると、陽は西山にかたむいて、おまけにわしの頭眠 の上に若い女が立っていた」 章 「 , ズ、が ? 」 第 「わしは跳ね起きて、こりや狐めとどなりつけたら、女はギャッと叫んで尻餅をついたが、べつに尻 尾は出さなかった。よくよく見ると和泊の大工の女房が柴刈りに来た姿であったので、わしはあらた くそだめ

4. 西郷隆盛 第11巻

摩屋敷にたどりついた時には、タ立も晴れたが、着物と袴の返り血も、あらかた消えていた。 みちつね こうすけ すぶ濡れ姿でお長屋にとびこむと、重役の吉井幸輔が若い三島弥兵衛通庸を相手に芋焼耐をのんで いるところであった。弥兵衛は伏見寺田屋の事件で斬られそこねた激派の青年の一人だが、今は許さ れて、禁裡警護の兵隊になって上京している。今夜は非番らしい 「やあ、お帰り。 : これはひどく濡れたな」 若い弥兵衛は何も気がっかないようであったが、吉井幸輔は見のがさなかった。 、桐野、きさま、またやらかしたな。相手は何者だ ? 」 桐野は答えず、次の間に入って、乾いた絣の筒袖に手早く着かえ、乱れた髪をなぜっけながら、朱 鞘の大刀をわしづかみにして、吉井の前にひきかえしてきた。 「何の話ですか、御重役 ? 」 「はつはつは、と。ほけてもだめだ」 身なりをかまわぬので有名な吉井幸輔は汗くさいかたびらの上から、二の腕をぼりぼりとかきなが骸 ら、「はつはつは、おれの目をごまかせると思うておるのか。袴のよごれは血のあとだった。ずすと 血 しい奴だ。 ・ : まあ、一杯やれ。骨まで濡れては、夏でも風邪を引く」 章 「酒はだめです」 しらふ 十 「うん、おまえは下戸だったな。素面で人が斬れるんだから、なるほど人斬り半次郎だ」 第 吉井幸輔はさっと蒼ざめた後輩の顔をジロリと流し目をくれて、「こら、桐野 ! 取締りのきびしい 藩邸で、おまえだけが自由な外出が許されているというのは、西郷の特別なはからいだ。おまえには かすり

5. 西郷隆盛 第11巻

「そうですか」 「そうですかは心細い。ひとつ日本の今様の調子に訳してごらんに入れようかな。気に入った漢詩を 今様風に訳するのはわしの道楽でな。訳を聞けば、お前さんもこの詩の心がわかるかもしれぬ」 そう言って、居住いを正し、突如として、雪篷老人は吟じはじめた。かすれてはいるが凛として、 しかも楽しげな声の調子であった。 「さまよえば林も暮れぬ 佗しさに独りくむ酒 りゅうじよ 飛ぶ蜂に柳絮は乱れ 蟻のぼる梨も枯れ枯れ 隠者めくこの身そうたて 才もなくただ山に棲む よそめ 世の栄えを他所目に見るも 身の性のったなさの故」 吉之助が熱心に耳を傾けている姿を見て、雪篷は同じ文句を二度くりかえして、 「どうじゃな」 と一一 = ロった。、こ、。 ナしふ得意気な目の色であった。 「そうですか。この杜甫の詩がそんな歌になりますか」 半ばは感心し、半ば疑わしげに、吉之助はつぶやいた。 いまよう 89 第六章睡眠先生

6. 西郷隆盛 第11巻

( 幽栖却って天涯の客たるに似たり、なにによりてか夜来われをして思わしむ。誰か知らん愁情 もっとも切なる処、膝前遊戯嬰児を夢む ) 雪篷は今までとはまるで別人のような毅然とした態度になり、底光りのする目で詩稿を黙読してい たが、やがて言った。 「ふふん、きわどいところを白状したな。この詩の調子では、ほんとうに大島に残した子供らの夢を 見たらしいな」 「ときどき見ます。昨夜も見ました」 「それはいし 、ことじゃ」 だいぶ前に、大島の藤長に宛てた手紙にも『菊次郎などの儀は始終御丁寧になされて下さる由、 よいよ有難く御礼申上候。徳之島へ罷り越し候節は拙者を見知り中さず、他人の塩梅にて相別れ申し 候。此度は重き遠島故か、齢を取り候故か、いささか気弱くまかりなり、子のこと思い出されて、な かなか忍び難く候。御推察下さるべく候。全体気楽なる生れつきと自分に相考え居り候処、おかしな ものに御座候』と書いた。詩にもその心をあらわしたのである。 「何も恥ずかしがることはない」 と、雪篷は言った。「それが人情の自然だ。わが子のことも思わぬ奴が廟堂に立っと、権勢亡者にな ~ って、民百姓をめつける」 「は亠の」 97 第ハ章睡眠先生

7. 西郷隆盛 第11巻

て来てくれたのた ( 木場の手紙には、『大兄が大島を出発したのはつい昨日のように思っていたのに、ふたたび遠島とは まったくもって驚き入った次第である。如何なる事情があったかは知らぬが、自分らの見るところで は、大兄に失策があったとは考えられぬ。おそらく幕府の追求がきびしかったせいか、さもなければ 藩内の因循家どもが奸計を弄して、大兄をおとしいれたのであろう。幕府の目からかくすためなら、 住みなれて、妻子もおり、友人もいる大島に渡海させればよかろうものを、殊さらに徳之島に流した ところを見ると、やはり藩の内争の犠牲になったものとしか思えない。いずれにしろ、事件の真相を 知らしてもらいたい。事情次第では、われわれにも覚悟がある』という意味のことを記してあった。 島に来て初めて受取った同志の手紙である。同じ憤りと同じ憂いにみちみちた筆つきで、心から自 分の現在の身の上を案じてくれるのは涙の出るほどありがたかったが、同時に、忘れよう、忘れたい とっとめていた胸底の鬱憤に吐け口をあたえた形になり、心の均整がたちまち破れてしまった。喧嘩 に負けて、涙をかくし、歯を喰いしばって家に帰って来た子供が、母や兄弟のやさしい慰めの言葉を 聞いて、われを忘れてわっと泣き出す、あの気持である。 もちろん、吉之助は子供ではない。わっと泣き出したい気持になったというのは誇張であるが、「天 を恨まず、人をとがめぬ」心境の中に自分を埋没して、世を忘れ、世に忘れられて暮したいと願う心 すやき が素焼の壺のように壊れはててしまったことは事実であった。 えんざい 答えようか、答えまいかと迷う気持も長続きせず、わが冤罪を人に訴えたい心が先に立って、弁明 の返事をしたためた。 光 11 第一章月

8. 西郷隆盛 第11巻

ス艦隊の砲撃を受けているかもしれぬ」 「しかし : : : 鹿児島には斉彬公以来の防備がある というお話でしたが : 「斉彬公の御遺策を正しく実行しておれば、狭い 錦江湾のことだから、桜島の裏側で外国艦隊を褒 いとめるくらいの防備は充分にでき上っているは 一すだが、久光公は防備のことは何一つ実行しなか った。大策大策と目を釣上げ、天下の事は俺一人 と思い上って、足許をかためることはさつばりな されなかった。生麦でイギリス人を斬ったという 一のも、しかとした用意と自信に即したことではな かったろう。まったく不意の事件に、有村俊斎や 奈良原繁というようなとびあがり者が夢中で刀を じゃくき ふりまわして取りかえしのつかぬ結果を惹起した と見るよりほかはあるまい ・ : そこを幕府につ 章 けこまれた。生麦事件の直後、イギリスはただち八 に全東洋艦隊の糾合を開始したというから、上海 や香港の艦船はとっくの昔に横浜に回航している

9. 西郷隆盛 第11巻

「政照さん、お恥ずかしい話だが、いまはな、大島にいる子供たちのことを思い出していたところで す。それに、鬼界ヶ島に流されている村田新八という : ・ : 齢もあんたと同じくらいの男のことも思い 出して : : : 」 「は亠の」 「凡夫の浅ましさ、夕暮になるといろいろと未練がましい考えが湧き起って、居ても立ってもおられ : あんたが来てくれたので助かり中した」 ぬ気持になることがある。 答える言葉が見つからず政照が黙っていると、吉之助は徴笑して、 「くだらぬ愚痴をこぼし中した。あんたの顔を見たら、つい心が弱くなって : : : はつはつは、許して 下さい」 しいえ、許せなどとは勿体ない」 政照は吉之助がそのような心中の秘事まで打ち明けてくれるようになったことが嬉しくてならなか った。「先生、差出がましいようですけれど、ときどき外をお歩きになってはいかがでしようか。せめ て入浴の日なりとも : : : 」 「お許しが出ないのに外を歩いたりしては、人に迷惑をかけるばかりです。結局、こうして坐ってい る方が気が楽です」 「それでも、お身体は大切にしていただかないと : 「ありがとう。あんたの気持はよくわかっています」 「またお痩せになったようで : : : 」 ぼんふ

10. 西郷隆盛 第11巻

めて道をきき、やっと村までたどりつくことができた。女が教えてくれた道筋が間違っていなかった ところを見ると、やつばり狐ではなかったらしいわい」 「あっはつは、これは近ごろ珍しい話だ」 「笑いごとじゃないそ。わしの身になってみろ」 「いやいや、酔眠先生、夜中ならともかく、白昼狐に化かされるとは、よほどの達人でなければでき うかっ わざ ない業です。どうでしよう。今日から酔眠をあらためて迂濶先生と号することにしては」 「ふうん。なるほど、迂濶か、なるほど」 雪篷老人は首筋をなでて、ニコニコと笑った。「迂濶先生も悪くないな。ありがたくちょうだい致す ことにしょ ) つ。 天性迂濶ということになれば、一言もない。わしの負けじゃ。この話は打切ろう。 ・ : さて、どうじゃな、その後、詩は出来たかな」 「一篇だけ、作るには作りましたが : 「それは感心、詩においてはわしがほんとうの先生じゃ。迂濶ではないぞ。ひとっ拝見と行こう」 吉之助がややきまり悪けに手箱の底から取出した詩稿は次のようなものであった。 幽栖却似客天涯 縁底夜来令我思 誰識愁情尤切処 膝前遊戯夢嬰児