くさかげんすい た坂本龍馬を知り、彼につれられて勝海舟をたずねた。また、長州の久坂玄瑞とも親しくなって、 っしょに佐久間象山をたずねたこともある。彼の若い攘夷論は、この大先輩の開国論によって大きな ナ彼のこのような経歴については、桐野利秋はまだ何も知らぬ。 衝撃をうけた。どが、 / 中岡は京都では学習院講師中沼了三の塾に籍をおいていた。この塾には、薩摩藩からも西郷信吾、 すみよし 川村純義、鈴木武五郎などの激派の青年たちが通っていたが、桐野利秋もそこで中岡と知り合ったの だ。よく酒ものみ、服装などにはまるで無頓着な豪傑顔をしているが、芯の強い、頭の切れる、弁舌 も立っ油断のならぬ人物だと、桐野は内心この男を警戒していた。 中岡慎太郎は桐野と照香の姿を見くらべて、ニャリと笑い 「お楽しみのところを、お邪魔だったかな」 「なに、かまわぬ。まあ、すわれ」 桐野は答えた。「相手がいなくなって困っていたところだ。酒があまっている。飲んでくれるか」 中岡はすわって盃をうけた。照香が酌をする。 桐野はたずねた。 「きみはおれのあとをつけてきたのか ? 」 「ちがう。実は山城屋という町人をつけたのだ。あいつは薩摩の密貿易の片棒をかついだ形跡がある と聞いたので : : : 」 「斬る気だったのか ? 」 「いや、おれは斬らん。きみとはちがう。ただ薩摩の密貿易の実状を知りたかったのでな」 さくましよう・」ん 17 第一章川
高杉晋作さんにも、ちゃんとおそばにつきそっている美しい人がいると聞きました。わたしだけを京 都にかえすというのは、もう御用がなくなったからでしよ」 桐野利秋は盃がわりに茶碗をさしつけて、 「照香、ついでもらおう。おれもおまえをかえしたくない。だが、浜崎屋のいうとおり、こんな時勢 だ。別れたくないものも別れなければならぬ」 「あたしは、いや ! 」 桐野は茶碗の酒をのみほして、 「にがい酒だ。 ・ : 薩摩脱藩の桐野利秋が女連れでは、同志への体面もある。その上、戦場はいよい よ長州に移る。おれも奇兵隊の客分になった上は、長州勤皇党の先鋒となって戦わねばならぬ。薩摩 が攻めてくれば、薩摩と戦う。西郷が来れば、西郷と刺しちがえて死ぬ覚悟だ」 「あたしも死にます。京都にかえるくらいなら、死んだ方がましです」 「おまえに死なれてはこまる」 「うそばかり。もう御用はないんでしよ。あたしが美しくないからなんでしよう」 帯 浜崎屋太平治が腹をゆすって笑った。 「はつはつは、照香、痴話喧嘩だな。久しぶりで色つぼい口説を聞いて、わるい気持ではないが、桐 章 野さんがおまえを京都にかえれというのは、おまえが可愛いからだ。もう二十日以上も湯田と岩国で八 遊んだのだから、しばらく桐野さんを自由にさせてあげることだな」 「では、なぜあたしを長州までつれて来たの ? 桐野さんにあわせたの ? あえば別れられないと知
夜が明けてみると、本陣宝寺のまわりにはいかめしい木柵の砦ができ、「筑後国宝大明神」の大幟が ひるがえっていた。天王山には十数カ所の藁ぶきの陣屋が立ちならび、登山口には青竹の矢来が組ま れ、八幡宮の神官さえ、割符なしには通行をゆるされなかった。 日がくれると、山頂に巨大な篝火がたかれ、兵士たちの喚声が谷にこだました。諸隊の名称は「忠 勇」「八幡」「義勇」「宣徳」「尚義」などで、日本全国から集ってきた浪士によって編成され、その志 気は篝火よりさかんであった。 桐野利秋がただひとり、この警戒厳重な、殺気にみちた宝寺本陣に乗りくんできたのは、六月二十 六日の夕刻であった。 山門を警備している兵士の前で、彼は堂々と名乗った。 「薩州脱藩桐野半次郎利秋、八幡隊隊長品川弥二郎殿にお目にかかりたい」 警備の兵士たちは薩州と聞いただけで目を吊上げ、武器をかざして桐野をとりまいた。 「会津と薩摩には用はない。帰れ、帰れ ! 」 「犬め、尻つぼを出せ。たたき斬ってやる ! 」 「八幡隊に品川などという隊長はいないそ」 口々にののしるのを、桐野は大口をあけて笑いとばした。 「何という変名をつかっているかも知らぬが、あえばわかる。隊長にあわせてもらおう」 おおのぼり
が夜の世界なのだ。 だがそのうちに、桐野利秋はこの沈黙と静寂の底に常とはちがう遠い不気味なざわめきのようなも のがただよっていることに気がっき、はねおきて、雨戸をひきあけた。目もくらむ真夏の太陽の真下 を青すぎる加茂川の水が流れていた。その向うの土手の上を異様な行列が通過している。 男も女も、老人も子供も、背中にせおいきれぬ荷物をかつぎ、家財道具を山とつみあげた大八車や 手押車にとりつき、必死な足どりで川上の方向に移動していた。避難民だ。公卿の家族らしい派手な 衣裳と乗物の一団もまじっていた。 それだけではない。避難民の流れとは逆に、川下のほうに向って走る武装した兵士の一隊が見えた。 旗印は桑名藩。手槍をかざした騎兵隊のあとから銃隊がつづき、裏金の陣笠をかむ 0 た馬上の隊長は 抜刀している。剣光が夏の太陽をはねかえす。総勢百名あまり、京都所司代の緊急出動にちがいなか 桐野利秋は着物と袴をかかえて廊下を走り、湯殿にとびこみ、頭から冷水をあびて、女と酒の匂い を洗いおとした。まだ砲声も銃声も聞えないが、一夜のうちに状勢は急変したのだ。 座敷にかえ 0 てみると、照香がひとりで部屋の掃除をすませ、チャプ台の上をととのえていた。 「おい、おかみも仲居もいないのか ? 」 、みんな逃げ支度をしています。長州勢が伏見口まで押出してきました」 桐野はチャ・フ台の前にどっかりとすわり 「おれは腹がすいたそ」
「割符はお持ちか ? 」 「脱藩してかけつけてきたのだ。そんなものは持っていない」 「割符がなければ、通れぬ関所だ。帰れと言ったら、帰れ ! 」 「なにを雑兵ども ! 」 「こいつ、抜かしたな」 刀のつかに手をかけて押し問答しているところへ、山門の中から、白鉢巻に白の筒襦祥、緋色の陣 羽織を着た若侍が手槍をさげてあらわれた。 「なんだ、桐野か」 「おお、品川、やつばりいたな。おぬしにあいに来たのだ。はいっても、 害符のないものを入れるわけにはいかぬ。おれが外に出よう」 「いや、ここは本陣だ。リ 品川弥二郎は山門の外の腰かけ茶屋に桐野利秋をつれて行った。ここも隊士たちに占領されて、ご ったがえしていた。夕飯の支度がはじまっている。食糧が大量に買いこまれた様子で、附近の百姓や 商人たちが駄馬や荷車で、米、味噌、野菜、酒樽などをさかんにはこびこんでいた。 桐野が言った。 「いよいよ、やるのか」 「やるとも ! 」 品川は答えた。「ここまで来ては、あとにはひけぬ。薩摩の同志たちはどうした ? 」 「だめた。薩摩は動かぬ。藩邸にのこっていては、おれはおぬしたちと戦わなければならなくなる。 27 第二章篝火
「よこっ ? 「ほら、あの塀を越えてとびこんで来て : : : 」 「ほう、あの時の客か。照代もいたとは気がっかなかったな。こっちは逃げたい一心で、人の顔など 見る余裕はなかった」 桐野はすすめられるままに床柱をせおって坐り、あらためて山城屋に頭をさげた。 「先夜はたいへん : いや、おかげで助かり申した」 酒肴がはこばれて来た。仲居も今夜の客が血刀をさげてこの座敷をかけぬけて行ったあの晩の男だ ろうざや とは気がっかない様子だった。桐野の方も朱鞘の大刀は臘鞘に変え、髷も衣服もなるべく薩摩くさく ない目立たぬものに変えていた。 桐野は仲居がひきさがるのを待って、すわりなおした。 「さて、御用の筋をうけたまわろう」 山城屋は大げさに手をふって、 「筋もへちまもございませんよ。この照香があなたさまにぜひもういちどお目にかかりたいと手ばな しののろけみたいなことを中しますので、よしよし、きっとあわせてやると出まかせを言うていたら、 今夜ばったりおあいしたので、ひっこみがっかなくなった : : というだけの話。しいて中せば、御艶 福の筋でございましよう。照香はあなたの若武者ぶりがわすれられなかったそうで。へつへつへ、な んなら、私はいつでもひきさがります」 桐野利秋は真っ赤になった。まぶしそうな目つきで照香をふりかえって、
第一章 風 桐野半次郎利秋は、三条河原にそった暗い縄手道をあてどもなく歩いていた。 夜風はいくらかうごきはじめていたが、まだ昼間の暑さは消えず、掛茶屋の出ている河原は、タ涼 みの人影でにぎわいはじめていた。 みまわりぐみ 大橋をわたってくる物々しい火事装東の一隊が見えた。見廻組だ。桐野は素早く柳のかげに身をか へつにとがめ立てもせ くして、立小便をはじめた。見廻組は胡散くさそうにその後姿をにらんだが、・ ず、川下のほうに立去って行った。 桐野はまたぶらぶらと歩きはじめた。変に首筋のあたりがうすら寒い 「これでいよいよ、おれも本物の浪士か」 桐野は自嘲した。理由は何であれ、脱藩は脱藩だ。薩摩との縁は切れた。切らなくてはならぬ。西 郷は必要以上の旅費と手当を出してくれて、帰りたくなければ帰らなくともよいと言ったが、その言 葉の裏には長州に潜人して密偵になれという意味がふくまれている。高所に立って大局を見ろと言い、章 東洋諸国の運命と日本の将来を考えろとも言った。大いに結構だが、だからと言って、昨日までの同第 志たちを裏切ることは絶対にでぎない。信義と仁義に反する。 なわマ
西郷は何度もくりかえした。 「山県さん、長州のことは長州人におまかせする。五卿のことはわれわれにまかせてください」 山県は言った。 「しかし、五卿がいやだと言ったら、どうなさる ? 」 「おそらくいやだとは申されまい。われわれの意のあるところは筑前の月形君を通じてすでに三条卿 にお伝えしてある。諸隊がさわぎ立てさえしなければ、喜んで九州にお移りになるでしよう。長州が 一時の恥をしのんで、後日の大発を待っことは、諸藩の有志の一致した希望なのです」 会談が終ったのは深夜であった。 山県狂介は本営の功山寺にひきあげた。品川弥二郎は寺の門前で山県と別れ、その山手にある長福 寺という山寺の石段をのぼった。彼のひきいる御楯隊の宿舎である。 道も凍り、星も凍っていた。起きているのは山門の前の歩哨だけで、隊士たちはみな寝静まってい た。庫裡の雨戸から焚火の火がもれていたので入ってみると、桐野利秋がいろりにそだをさしくべな がら、渋茶をすすっていた。 「やあ、桐野、いっ来たのだ ? 」 桐野はそれには答えず、暗い目つきでたずねた。 「西郷にあったそうだな」 156
「どこへも行きません。ここで死にます」 「そう来なくてはいかん。奇兵隊には奇兵隊の死場所がある ! 」 山県は握り飯を食べている兵士たちの姿を見まわして、「梅干に沢庵か。不景気だな・よし、景気を つけてやろう」 こも 部下を前田村の本営に走らせて、菰かぶりの清酒五樽をとりよせた。兵士たちは歓声をあげた。山 県は槍をふるって酒樽の鏡をたたきわり、大声でどなった。 さかな 「さあ、戦勝の前祝いだ。飲め飲め ! 陣中、肴の用意はないが、あの十八隻の黒船が酒の肴だ ! 」 この即興は人気に投じた、兵士たちの戦意は酔いとともに高まってきたように見えた。山県自身も のみ、そうして酔った。 いい気持になって胸壁にのぼり、連合艦隊をにらみつけて詩を吟じた。兵士たちのあいだからも歌 声がおこった。 山県は胸壁の上から降りようとして、三十ポンド加農砲の砲架のかげにうすくまっている桐野利秋 を発見して、目を見張った。桐野は酔っていなかった。 山県は桐野の胸元に槍の穂先をつきつけて、 「こら、薩摩人。図々しい奴だ。何しに来た ? 」 「おれは天下の浪士だ。奇兵隊に入れてもらいに来た」 「嘘をつけ。おまえを長州にしのびこませたのは西郷の差金だ。ちゃんとわかっている」 桐野は首をふった。 カノン
いえ、新選組が玄関に : 「どうしましよう、お役人が : 桐野利秋は動じなかった。 「ふふ、新選組か。よし、おれにまかせろ」 大刀をわしづかみにして立上り、ゆっくりと玄関に出て行った。 こじあけられた格子戸を背にして、山形袖の火事装東に身をかためた三人の壮漢が立ちはだかり、 その前に真っ青になった仲居が両手をついてふるえていた。 「やあ、、つこ、、 しナしなにごとでごわすか ? 」 桐野は薩摩言葉でどなった。「新選組の隊士とお見うけするが、おいどんは薩摩藩士桐野半次郎利 秋。藩邸出入りの商人と一献やっておるところでごわすが、御用の筋があるなら、うけたまわり申そ かんど要ノ 隊長らしい壮漢が龕燈の光をさしつけて、 「たしかに薩藩士でござろうな」 い。おうたがいなら、よろこんで藩邸ま 「はつはつは、薩摩と長州の見わけのつかぬ諸君ではあるま で御同道いたそう」 「いや、それには及びませぬ。たしかに薩藩士とお見うけする。われらが探索いたしているのは長州 人と浪士です。いろいろと怪しきものがこのあたりには立ちまわっている。御自重ください」 一礼して新選組の壮漢たちは立去って行った。 「おかみ、表戸をしめろ。ついでに、塩もまいておけ」 45 第三章橋