大砲の発達によって、野戦法が変ってきた。現在の薩摩の調練法は時代おくれになっている ( 練兵 の法を改正し、大砲隊の充実をはからねばならない。 海軍力が絶対不足だ。外国汽船二、三隻とミンへール銃を至急購入する必要がある。そのためには、 長崎では間にあわないから、上海あたりまで責任ある人物を急派しなければならない。鹿児島の製鉄 所にオランダ人技師二名ほど雇って大砲の鋳造も試みたい。 西郷と話し合ったこれらの新方策を大久保は藩内の頑固派と戦いながら押しすすめている。だが、 将軍の進発と長州再征がこのように早くなったのでは、予想されていたこととは一一一口え、やつばりあわ てざるを得ない。 情勢の急変にそなえるために、いちど鹿児島に帰って来いという手紙が大久保から西郷のところへ 来た。四月二十二日、西郷は京都を出発した。途中、大阪に一泊し、筑前の月形洗蔵にあてて手紙を 圭百いた 『幕府が筑前と薩摩の提携を妨げ、薩摩を孤立させようとする奸策はどうやら成功したようで、残念 でならぬ。 ・ : 幕府はいよいよ長州再征の決意をきめたという風評だ。今度は幕府一手で討っと公言 しているらしい。もちろん、わが藩はどのように出発を催促されても、私戦に兵を差し出す道理はな く、断乎拒絶に決定しておる。この際、筑前との提携を断たれたことは、かえすがえすも残念、胸中 お察しくたさい。やむを得ぬ急用で鹿児島に帰ることになったので、残念ながら、筑前には立寄れな 藤井良節にこの手紙を持参させる。充分に今後の対策を御相談願いたい』 192
ることになった。 大阪から鹿児島までの船旅はすくなくとも十日はかかる。坂本龍馬はその船中で薩長連合策を西郷 吉之助に進言し、なんとしても彼を説得しようと決心していた。 △大鵬の巻終 > 194
坂本龍馬が鹿児島に来たのは、次のような事情による。 昨年の十月、勝海舟は江戸に呼びかえされ、神戸海軍練習所は閉鎖された。幕府の学校でありなが ら、諸藩の激派の青年たちを集め、禁門戦争後も長州の学生を除籍せす、西洋毛布を大量に購入して 防寒用として支給するなど不埓な振舞いがあったというのが理由であった。 勝海舟は閉鎖を見越していたので、神戸をたっとき、塾頭坂本龍馬の保護を薩摩の家老小松帯刀に たのんだ。坂本はそのころ、土佐藩の同志とともに海運事業を計画し、横浜に行って外国汽船を借入 れる手はずまでつけていたのだが、土佐藩の政状が急変して、藩に帰れば殺されるし、神戸にもおれ ないという窮境に立っていた。 小松帯刀は西郷に相談した。西郷は即座にひきうけた。 「勝海舟先生の高弟だ。大切にしなければならぬ」 坂本龍馬はしばらく大阪の薩摩屋敷にひそんでいたが、そこも危うくなったので小松帯刀が鹿児島 に連れて帰ったのた。 おおばんがしら 「あれは島妻だ。呼びよせるわけにはいくまい。あんたは大番頭に昇進することに内定している。正 妻が必要だ」 「その話はやめろ。おまえは一日も早く京都に行け。幕府の先手をうたねばならぬ。そのほかのこと は考えるな ! 」 165 第十章南の春
軍賦役大山格之助綱良が大砲三門と兵一個小隊をひきいて太宰府に到着したのは、それから三日の 副隊長は黒田清綱、二十六歳、小柄で、色が黒く、風采こそあがらぬが、いかにも薩摩隼 後だ 人らしい精悍な青年である。 「さあ、これでよかろう」 西郷は笑って、吉井幸輔に言 0 た。「薩摩の暴れ者が二人そろえば、幕府の大目付や小目付の十人や 一一十人、追 0 ばらうのは朝飯前だ。太宰府のことはこの二人にまかせて、おまえはすぐに京都に行け。 おれは久留米に行って藩政府に活を人れ、それから鹿児島にかえ 0 て上京の用意をする。大久保に決 して弱腰になるなと言っておいてくれ」 西郷と吉井がそれそれ鹿児島と京都に出発してしまうと、大山綱良と黒田清綱は西郷の残した命令 の実行に着手した ( まず、黒田が腕 0 ぶしの強そうな壮士五、六名をひきつれて大目付小林甚六郎の宿舎におしかけて 「さようでございま亠丿」 「ちょっとした騒ぎと中したな」 「たいした騒ぎではございませぬ。ただ黙認していただけば、筑前藩には御迷惑はかけませぬ」 「よかろう。いまの余にはほかに芸はないが、見て見ぬふりをすることくらいならできる。何をやる いや、それも聞くまい。やってみるがよい」 っ , もりカ ? はや 180
ら、万難を排して建てなおさねばならぬ。薩摩や長州の下風に立っことは、意地でもできない。現に 京都にいる会津容保も、その兄弟の桑名定敬も激烈な主戦論者だ。宮中にも支持者は多い。一橋慶喜 は日和見の態度をとっているように見えるが、彼とても薩摩に主導権をわたしたいとは夢にも思って ないはすだ。 将軍自身がフランス式訓練の精兵をひきいて京都に乗りこみ、大阪城に拠ったら、慶喜の腰もきま 長州、薩摩派の公卿の反対などは風の中の花のように散り果ててしまうだろう。 阿部正外の硬論が勝ち、やがて、江戸城中の意見は、長州再征と将軍親征に一決した。 情報は早くも京都に伝わった。西郷の耳にも入り、鹿児島の大久保にも急報された。 大久保が三月の終りに島津久光に付添って鹿児島に帰ったのは、久光を抑えながら藩内の意見を統 一するためであったが、次の京都出兵の準備工作という重大な目的があった。もちろん、この出兵は白 関 幕府の反撃にそなえるための出兵である。 蛤御門でも、長州征討でも、薩摩軍は主役を演じて、延二万人に近い兵を動かしている。戦争には老 勝ったが、軍制の欠点も明らかになった。城下兵よりも、諸郷の兵を多く動員したために、装備はま章 ちまちで軍装もわるく、古道具屋から借りてきたのか、それとも大阪あたりで浮浪者をかき集めてき十 たのかと笑われた。軍資金の不足にもなやまされた。 経済政策の根本的たてなおしを考えなければ、次の決戦にそなえることはできない。
「どうしろとおっしやるのですか ? 」 じぎでし 「あんたにならできそうだ。あんたは島津斉彬公の直弟子だからな。私も斉彬公にはお目にかかった でんしゅうかんりん ことがある。安政五年、お亡くなりになる数カ月前の話だが、幕府の伝習艦成臨丸に乗って薩南の山 いぶすき 川港まで行った。斉彬公は指宿の温泉で御静養中だったが、自ら馬に乗って山川港まで来られて、熱 心に軍艦を見物なされた。その時、この次に来る時には鹿児島まで来い、集成館を見せてやると仰せ られたので、私はわざと予定をかえて長崎からの帰りに、もう一度成臨丸を鹿児島までまわした。そ の時は、磯の御別邸に船の幹部のほかにオランダ人技師まで招待されて、いろいろな製作所を全部見 せてくださった。オランダ技師たちもひそかに舌を巻いたほどの見事な設備であった」 海舟はその時の感銘をくわしくくりかえし、斉彬の急逝を措しみ、最後につけ加えた。「私は薩英 戦争を必ずしも薩摩の負けとは思っていない。お世辞じゃない。まず五分五分の戦闘であり、世界海 戦史に照して厳正な審判をすれば、旗艦が碇綱を切って逃げ出したというのは、勝敗如何にかかわら ず屈辱的だ。イギリスも内心恥ずかしがっているよ。町を焼いただけで、陸戦隊も上げずに逃げて行 ったのだからな。中すまでもなく、これも斉彬公の先見と西洋軍備の大胆な採用の効果だ。 でだが、私は今度の下関戦争でも、必ずしも長州が敗けたとは思っていない。陸戦隊は上げられたが、 外国連合軍は長州を占領することはできなかった。もしできたら、彼らは占領したはずだ。シンガポ 章 ール、香港の先例がある。だが、日本はインドや支那とはちょいとちがうことを彼らは知っているの七 だ。うつかり占領などしたら、彼らの東洋艦隊の全兵力をあげても占領地を維持できないことを、薩 摩と長州の実力が思い知らせたということにもなる。イギリス公使と司令長官は薩摩戦争と長州攻撃
大阪を出帆して広島に向う船の中で、吉井幸輔が笑いながら言った。 「西郷、おまえはまたしても憎まれ役をひきうけた。この調子ではまた国もとに呼びかえされて島流 しだな」 西郷は笑わずに答えた。 「もう島流しはこりごりだ」 「おまえは京都にも薩摩にも敵をつくってしまった。征長総督に可愛がられすぎた。悪く言えば、尾 張慶勝公を自家薬籠中のものにしてしまった。一橋慶喜が何と言っているか知っているか ? 」 「知らぬ」 「総督の英気いたって薄く、酒に酔うかわりに芋に酔っている。芋の名は西郷 ! 」 「馬鹿な ! 」 「おまえを憎むものの目には、そう見えるのだ。鹿児島でも悪評しきりらしい。西郷がまたしても独 断専行の癖を出した。長く京都においては、何を仕出かすかわからん、早く国許に呼びかえせとい でいる奴がいる」 「つまらんことを言う奴らだ」 「西郷、頭が高すぎるというわけだな」 「おまえもそう思っているのか ? 」 づ 131 第八章錦帯橋
西郷は大久保に言った。 これから先はおまえの舞台だ」 「至急、京都にのぼってもらいたい。 西郷の言葉は、大久保には説明なしに通じる。西郷は京都から広島から小倉から、三日あげずに手 紙を書いて、政情の刻々の変動を詳細に報告しておいた。 うカうかして 「まず、福岡に立ちょって、藩庁に五卿の対遇について談じこんでおいてもらいたい。 いると、幕府に引渡されるおそれがある。幕府は長州に勝ったと思いこんでいるから、毛利父子と五 卿を江戸によび出し、思いのままに処分しようとたくらんでいる。まず長州をつぶして、次にわが薩 摩を料理しようと考えているのだ」 大久保はうなずいて、 「そういうことになりそうだな」 「総督の尾張前大納言はだいたいおれの言うとおりに動いてくれたが、幕府の老中どもは、おれのカ ではどうにもならぬ。幕府は一橋の禁裏守衛総督、会津の守護職、桑名の所司代を一挙に免職し、老 中の阿部と本庄に大兵をつけて上京させるという噂がある。もしそうなったら、あぶない。彼らは思 ならぬ。 鹿児島に帰った西郷吉之助が大久保利通と相談したのは、何よりもますこの反撃に対する対策であ 162
第十章南の春 年があけて、年号も慶応とあらたまった。 正月十五日、西郷吉之助は鹿児島に着いた。一年ぶりの帰国であった。 弟の吉次郎と妹たちはもとより、大久保利通をはじめとする在藩の同志たちは無事な帰国を心から 喜んでくれた。気づかわれていた久光を中心とする反西郷の気勢もほとんど鎮静していた。一足先に 帰国した同志の家老小松帯刀が禁門戦争以来の西郷の功績を宣伝し、彼の独断専行も危急の際のやむ を得ない処置であった事情を説明して、火消しの役をつとめてくれたからだ。 ただよし 島津久光は藩主忠義とともに西郷を城中に引見し、功を賞し、拝刀一腰を下賜した。いずれ禄高も 上がることだろう。 いささか鼻も高くなった。一つの戦争に勝利し、一つの戦争を未発にくいとめて、かたむきかけた 薩摩の名声を再び天下に重からしめたのだ。このくらいの歓迎と恩賞はまあ当然だろう。 だが、故郷に錦を飾ったなどという気持にはなれない。そんなのんきな状勢ではなかった。 三条実美卿以下の五卿は無事に長府から小倉に移されて、征討軍は解散を声明したが、この解散が 無理押しであったことは、誰よりも西郷自身が知っている。 160
岩国は錦帯橋で有名な町だ。日本三橋の一つ、高さ三十六尺、幅十八尺、五つのアーチが見事な曲 線を描いて全長五百尺、木造の橋としては世界に類のない美しい橋だ。 「帰らなくてもいいのだ。おまえにはまだしばらく京都と大阪でがんばってもらわねばならぬ」 「鹿児島の敵はどうする ? 」 「それは大久保にまかせておけ。おれも大久保に手紙を書いておいた」 「何と書いた ? 」 「西郷召還説のあることは承知しているが、中央の状勢は西郷を一日も手離すことができぬ。長州の 処分が終っても、外国艦隊は必す大阪湾に浸入してくる。幕府には外国応接の実力がないから、その 際は西郷にふんばってもらって朝廷の名で開港のことを決定しなければならぬ。もし、これが成功し たら、やがては政権が朝廷に帰一する基になるのだから、いま西郷をかえすわけにはいかぬと、小松 と書いてやった。そのとおりだろう、 帯刀はじめ在京の重役一同決議したから、左様承知ありたい、 ↓つ、が ) ) カ ? 」 「そう言ってくれるのはありがたいが : 「今、おまえに国にかえられたら、せつかくおれたちが島まで迎えに行ったかいがなくなる」 「いや、おれは帰る ! この仕事がすみ次第 : : : 」 「頑固な奴だな。まったく久光公といい勝負だ」 133 第八章錦帯橋