のぞきこむ一同の目にうつった下駄の文字は「薩賊会奸』とはっきり読めた。 「僕はこの九カ月間、会津と薩摩を足下にふみにじって歩き通しました。あの日の恨みを一日たりと 1 も忘れることができなかったのです。しかし、ごらんください」 品川ははだしのまま庭にとびおり、下駄を庭石の上にならべ、「このとおりです」 手斧をふりあげて、一撃、二撃。下駄はまっふたつにわれてはねとんだ。 やや長い、冫黙かつついた。 品川弥二郎は手斧をすてて、座敷に上がり、桂の前に両手をつき、 「先生。坂本、中岡、土方君の熱誠と努力を買ってやって下さい。ぼくはもう新しい下駄には、あの 四つの文字は書きこみません。われわれの敵はまず幕府、次は、その背後にある西洋列強です。坂本 君は船中で西郷氏にそのことを説いたにちがいない」 坂本竜馬はうなすいたが、 「しかし、そのことは、西郷さんはすでに知っていた。勝海舟先生と全く同意見だ」 「ああ、海舟先生は君の師匠たったな」 品川は言った。「君はいつごろ西郷をつれてくるのだ ? 」 「もう鹿児島を出発しているころだ。おそくとも、あと十日はかかるまい。大久保が先に京都に行っ ている。薩摩の藩論も一決した。西郷は大久保を助けるために上京をいそいでいる。その途中、下関 に立寄るという。いま桂さんが会って下されば、話は即座にきまるのた」 野村靖がとびこんで来た。
直で、御家老大島友之允様の信頼も深いから、この人に頼め。幾松さんの着物も先生の大小も、そこ にあすけてあると申されました」 桂は首をふって、 「まだ武士の姿にかえるのは早い。これ以上、対馬藩にめいわくをかけたくないし、なるべく自分で 便船をさがして出発しよう」 「いけません」 直蔵は声をひそめて、「実は、私もあとをつけられているのです」 甚助が腰をうかせて、 「幕吏か ? 」 直蔵は答えた。 「そうだよ。伏見あたりからつけられた。はしめは一人だったが、大阪で三人になった。きっと、こ の宿にふみこんで来る。早く対馬屋敷に逃げこんだほうが無事だ」 「奴ら、どこにいる ? 」 「橋ぎわでうろうろしていたが : 「よし、そいつらはおれにまかせろ。何とかくいとめる。おまえはそのあいだに、先生を対馬屋敷に 御案内しろ」 85 第六章燕
「そ、そんな : 「いや、本気だ。坂本竜馬はお竜さんといっしょに薩摩屋敷に世話になっている。おまえも西郷先生 にあまえに行ってもいいのじゃないかな」 桐野はどなった。 「まだ早い ! 」 「どうして ? 品川弥二郎も昨日長州にかえったが、すぐに上京して薩摩屋敷の世話になると言って いた。中岡慎太郎もいすれ現れるだろう。京都には仕事が多いそ ! 」 「いや、おれは長州に行く ! 」 「何のために ? 」 浜崎屋がそばから、 る 「桐野さんは幕軍との戦争は必す起ると見ているのですよ」 ゅ 「それは西郷先生も言っていた」 草 村田がいうと、桐野が叫んだ。 章 「だから、長州に行く。おれは奇兵隊の客員だ」 五 桐野の顔に失われた剣気があらわれてきた。「幕軍と決戦して勝っか負けるか いや、長州の勝利第 をこの目で見るまでは西郷さんのところには帰らぬ。おれは武士だ。坂本や中岡や品川のように樽酒 接触のことは : れて・
: と一一一口うと ? 」 「なに、ちょっとしたことです。長州はグラバー商会からミネー銃と軍艦を買いたがっている。とこ ろが、長崎奉行の目がきびしくて、グラ。 ハーが売ってくれない」 「なるほど」 「長州はこの件について、薩摩の名儀を借してもらいたい、 西郷は事もなげに答えた。 「お安い御用だ。いつでもお使いなさい」 「そ、そんなに簡単に : : : 」 「長崎には小松帯刀が行っている。小松なら、坂本さんも話がしやすい。グラベ ーとも親しいし、万 事うまく行くであろう」 あっけないほど簡単に話はきまってしまった。西郷はこのことについては、それ以上何も言わなか カ / 「ところで、坂本さん、あんたの師匠の勝海舟先生が京都に出て来ておられるが、お会いに よっこ、よ 「いや、初耳です。海舟先生は謹慎中のはす : : : 」 「それが許されて出てきた。私はまだだが、うちの家老の岩下方平はお目にかかった。相変らず、お もしろいことを言っているらしい。ちょうど、 岩下君の部屋に行って話を聞こう」 る」 と言っていますが : : : 」 116
「桂先生、山口の藩庁から緊急の呼出しです。行きますかて」 桂は苦笑して、 「すこし早すぎるようだな、野村」 「藩庁としては、先生の力をかりるよりほかに方法がなくなったのです。重役たちは困りはてていま 「はつはつは、おれは呼出されて切腹を命しられるのかと思った」 もちろん冗談である。 だが、桂小五郎は志士浪士の間では長州の重鎮として声望が高いが、久坂玄瑞と同じく医者の家に 生れて、家格は低い。まだ一度も藩政の要路に立ったことも、重役たちの正式の相談をうけたことも ない。桂の苦笑と冗談にはその意味があった。 ちょっと考えた後、桂は答えた。 「いそぐこともなかろう。 いずれ出頭すると藩庁の使者には答えておけ」 「そ、そんなことは・ 「せめて今夜は、ゆっくり下関の酒を飲みたい。坂本、土方の両君、つきあってくれるだろうな」 「もちろんです」 坂本は答えた。「たた、西郷との会談のことは ? 」 「まだ十日ほどあると言ったな。私は西郷も薩摩もきらいだ。また信用はせぬ。だが、君たちの話を 聞いているうちに、会うたけは会わねはならぬような気がしてきた」 101 第六章
スミ子にもな。 : : : 甚助はのこってくれるのか ? 」 桂は答えた。「喜七さんにはお礼の手紙を書こう。 「はあ、兄貴は先生のそばをはなれたくないと言っています。生れつき喧嘩と戦争が好きらしいから、 奇兵隊にでも入れて幕軍と戦わせてやってください。父の家業は私がつぐことにいたします」 甚助が入って来た。 「先生、土佐の坂本竜馬とかいうかたが玄関にまいっておりますが : : : 」 一同は顔を見合せた。 大村益次郎がたすねた。 「おひとりか ? 」 「いや、同じく土佐の土方様と御同道で : : : 」 桂はしばらく考えていたが、 「今日は会えぬと伝えてくれ。明日の晩、会う。こっちから迎えに行くまで待つように言ってもらお 「へえ ? 」 「ここでは、だめだ。こんなにお尋ね者ばかり集っては、藩庁も気がつく。諸隊の連中もおしかけて ・だが、坂本君はおれがここにいることをどうし くるかもしれぬ。おれは城越町の境屋に引越す。 て : 「はい、野村様から、聞いたとかで : : : 」 「野村靖か。ますます、いかん。あいつ、悪気はないが、ロにしめ金のない男だ。 : : : 甚助 ! 」 ひじかた
たを守ることはできん」 「守ってもらいに来たのじゃない」 竜馬は平然と答えた。「西郷さんと桂小五郎氏に会いに来ただけだ」 「お二人とも京都だと言ったじゃないか」 「では京都に行こう。だが、木場さん、桂氏が入京してもう十日以上にもなるね。何か聞かなかった か、二人の会談について」 「いや、何も」 「僕にかくすことはないぜ。二人の会見を取持ったのは僕だ。君にしても、西郷さんとは島流し以来 の弟子で、同志じゃないか」 「しかし、何も聞かぬ。黒田が一度だけ帰って来たが、何も言わずにすぐに上京した。京都では、毎 日、仲よく飲んでいるそうだから、もう話はついたのではないか」 「それなら安心だが : : : しかし、なんだか気になるな。よし、行って来よう」 : とんでもない ! 」 「京都へか ? 「いや、大阪城代の大久保越中守に会ってくる」 「ばかな、あれは幕吏だ」 「海舟先生も幕吏だが、おれの師匠。大久保越中守はその海舟先生の同志だ。心配はないさ」 「しかし、この藩邸の外に出る時は、薩摩藩士として行け。鑑札もお貸ししよう」 「越中守には、その手は通らん。鑑札と証明書は京都に行く時に頼むぜ。御小納戸役五百石くらいの 206
「うん、しかし、まさか朝鮮まではな」 「伊藤は朝鮮からロンドンに逃げるつもりだったのですよ」 品川はひとりではしゃぎながら、「だが、もうその必要はない。桂さんが帰ってくれば、そのうちに 高杉さんも必ず帰る。高杉が大阪から城崎温泉のほうに出かけたというのも、実は桂さんをさがしに 行ったのではなかったかな。 : この二人がそろえば、諸隊も鎮静するし、藩政府のごたごたもおさ まり、藩論は一定する。あとは挙藩一致、幕軍を迎え討つだけのことだ」 大村益次郎はニコリともせずに、不機嫌につぶやいた。 「そうなってもらいたいものだ」 品川は気にもかけず、 「さあ、みんなで桂先生に帰国をすすめる手紙を書こう。それを幾松ねえさんに持たせて、広戸甚助 といっしょに但馬に行ってもらう。 いや、象かーー・象をも しい使者じゃないか。女の髪は牛をも つなぐ。慎重居士の桂先生も必ずひきずられて帰ってくる」 だれも答えなかった。 品川はつづけた。 「桂さんは実は帰りたくてうずうずしているんだ。いくら長州の藩情がもたついていても、但馬にい るよりも危険はすくない。われわれが生きているかぎり、桂さんを殺すなどというまねはさせぬ。 : さお、伊藤、手紙の文案をつくれ。おぬし、筆まめだ」 第四章雌伏
母屋の二階の手すり越しに、二人の年増女が肩をならべて港の方をながめていた。どっちも美人だ。 ほそおもて ひとりは小柄で愛嬌のある丸顔、もうひとりは細面で、すらりとして色が白く、どこかあかぬけて素 人ばなれしている。 「湯田で桐野が見たのは、やつばり幾松さんだったのだな」 品川がつぶやいた。「おれが見たのは、大島友之允殿の御妻女たったのか」 このひとりごとの意味は伊藤には通しなかった。 「おれはその幾松さんとかを知らぬが、どっちのほうだ ? 」 「背の高い、色白のほうだ。京の水でみがきこまれている」 「ふうん、おぬし、京美人にもてたそうだな。言いかわした女もいるそうじゃないか。名前は何と言 : 大島殿は対馬藩の御家老だ。それが幾松をつれて帰国 「よけいなことだ。それどころじゃない。 するというのは : 品川はあごに手をあてて、「さては桂小五郎は対馬にかくれておられたのか ! 」 おどろいたのは伊藤のほうであった。眉をつりあげて、 「なに、桂先生が対馬に ? 」 「そうとしか考えられぬ」 「やつ。はり御無事たったのだな」 「まだ、とにけるつもりか。おぬしが対馬にわたるのは、桂先生に会いに行くのたらう」
: 初耳だた」 一」大院君 「日本で言えば法皇か上皇のようなものらしいです。朝鮮の慣例では、大院君というのは死後におく られる称号だとのことですが、彼は生きながら大院君と自称しているそうです」 「ふうん、相当な人物らしいな」 「フランスもアメリカも、この人物には手をやいているそうです。海舟先生の話によると、ロッシュ 公使は小栗上野介をはじめとする幕閣のフランス派を煽動して、日本に朝鮮を攻めさせようと計画し ているそうですが : : : 」 「いかん、いかん。そんな手に乗ったら、たいへんなことになる」 アンナン : フランスは安南征服を企てて、朝鮮の攪乱をねらっている。う 「海舟先生もそう言われました。 つかりフランスのお先棒をかついだら、次は日本が占領されてしまうと : 「これを防ぎ得るものは雄藩連合あるのみ。雄藩が協力して軍艦を製造し、もらろん外国から買って もよし、やがてこれを統合して一大連合艦隊をつくる。今のアジアには単独で西洋に対抗できる国は 為政者の視野はせまい。わすかに独立の名目を保って どの国も、国力はおとろえ、兵は弱く、 いるのは、わが日本と清国と朝鮮のみーーたが、このままでは、この三国も西洋列強の餌食となって しまうことは火を見るより明らかです」 2