品川はほっとした顔色で、「港の近くの家というと : 若い通訳生は赤くなって、 「いえ、対馬藩御用の船宿です。あの毛唐人は今まで伊藤さんといっしょに飲んでいたそうですが、 もし品川さんが詰所に来たら教えろと言われて、ここにやってきたと申しています」 「ますます、わからん」 「はあ、なにしろひどく酔っぱらっていますので : : : 」 「いや、高杉さんと伊藤が逃げたわけがわからん。 待っていてくれ」 「ここでか ? 」 眉をつりあげた桐野利秋を、品川はなだめるように、 : 伊藤俊輔というロンドン帰 「向うの豊前屋で一服していてくれ。話がわかったら、迎えに行く。 りは、実はおれにも気にくわん。おぬしといっしょに行ったら、いきなり斬り合いになるかもしれん からな」 伊藤俊輔は船宿の海につづく裏庭にある離れの部屋にかくれていた。危険がせまったら、船着場か ら海に逃げる用心かもしれぬ。 : とにかく伊藤に会ってくる。桐野、おぬし、 : ははあ、伊藤のことた。色町の女郎屋だろ
、、 0 第八章渦潮 高杉晋作は愛人のおうのをつれ、伊藤俊輔に迎えられて下関に帰ってきた。だが、藩庁の呼び出し には応ぜず、稲荷町のおうのの家にもぐって、朝から酒びたりになっている。 おうのは気がきでない。 「あなた、これでいいのですか、ほんとうに」 「政事は男のやることだ。女はロを出すな」 「はい、政事にはロを出しません。たた、そんなにお飲みになっては、あなたのからだが心配で : : : 」 「まだ、おれの出る幕じゃない。 うつかり首を出したら、ちょん切られてしまう。おまえと飲んでい たほうが安全だ」 「おれが出ると、平地に乱がおこる。ここのところは桂にまかせておくにかぎる。あいつは慎重な男 : 酒が冷えた。かえて来い」 そこへ伊藤俊輔がとびこんで来た。血相が変っていた。 いきのかみ 「たいへんだ。老中小笠原壱岐守が広島まで出ばってきて、桂小五郎、高杉晋作以下十二名を指名し 120
つまり、あなたのお帰りを待っていたのです」 桂は血ののぼった伊藤の顔をつくづくとながめ 「妙なことを言いだしたな、おぬし」 伊藤俊輔は覚悟をきめたようである。若い獣の ように目をかがやかせて、 「長州の敵は薩摩ではありません。いや、幕府で もないかもしれぬ。敵は英仏蘭米ーー。特にイギリ スです。傑はロンドンに行って、そのことを感じ、 下関で外国応接掛をやっているあいだに、さらに はっきりとわかりました」 大村益次郎がひとりごとのようにつぶやいた。 「おれはフランスのほうが悪質だと思う、幕府に 市 ~ のロツンユド ) 。、 月栗上野介一派もフランスに頼 りっている」 「それは事実です。しかし : : : 」 伊藤がつづけた。「ヨーロツ。ハにおけるフランス て、
伊藤俊輔はあわてて、 「そ、そんな意味で言ったのではありません。先生が御無事に帰って下さったことは神明の加護 : ひとり長州のためのみならす、皇国の将来のため、これほどむ強いことはありません」 「神明の加護か」 桂は苦笑して、直蔵をふりかえり、二人にひきあわせて、「その神明はここにいる。甚助、直蔵御兄 弟、父上喜七殿、妹スミ子 : : : 出石町の広戸一族のおかげで、どうやら生きのびることができた。し かも広戸甚助君は大阪で私の身替りとなり、幕吏に捕えられたらしい。果して無事でいるかどうか 「いや、先生、その広戸甚助君はもう下関に着いています」 伊藤俊輔の明い声であった。「いま、品川弥二郎がここにつれて来ます」 桂は直蔵と顔を見合せた。二人とも、しばらく言うべき言葉を見つけかねているようであったが、 やがて直蔵が大声を出した。 「先生、私が言ったとおりでしよう。兄貴はちょっとやそっとで死ぬやつではありません ! 」 桂はうなすいたが、ひとりごとのように、 「人の命というものは不思議なものだ。捨てようと思っても捨てられず、生きのびたいと思っても、 いつどこで消えてしまうかもしれぬ。久坂玄瑞、入江九一 : : : おしい同志たちを殺した。 : : : 生の中
第四章雌伏 野村靖が品川にたずねた。 たじま - しかし、桂さんがどうして但馬に ? : 但馬のどこだ ? 」 「出石という町だ」 品川は答えて、「伊藤、おぬしはもう対馬にも朝鮮にもわたる必要はない。幾松さんが広戸甚助とい っしょに但馬まで先生を迎えに行くことになった」 伊藤が答えぬ前に、野村靖が黄色い声をはりあげた。 「よく生きておられたものだな。天は長州を見捨てたまわぬそ。さあ、祝盃だ」 伏 「野村、声が高い」 大村益次郎がたしなめた。「おれと伊藤は潜伏中だということを忘れてもらいたくない」 「祝盃をあげよう、みんなで桂先生に手紙を書こう」 章 伊藤俊輔がとりなすように言った。「桂先生が帰れば、高杉さんもきっと帰ってくる。そうなれば、四 長州正義党万々才たー ・ : しかし、藩庁や諸隊の連中には、また極秘だ。野村、おたがいに気をつ けよ、つ」
中岡が言った。 「貴公、われわれをからかいに米たのか ? 」 伊藤は得意そうにそりかえって、 「その逆だ。助け舟を持って来た」 坂本と中岡は思わず顔を見合せる。 伊藤俊輔はつづけた。 「実は、高杉さんが帰って来る」 「おつ、それは : 坂本竜馬が腰をうかせて、「すぐに会わせてくれ ! 」 「あわてるな。まだ途中だよ。ここに着くまでには四、五日はかかるだろう。なにしろづれの旅だ からな」 伊藤はのんきそうに笑ったが、すわりなおして声をひそめ、「おれのいう助け舟とは高杉さんのこと : 坂本さん、あんたは長 ではない。貴公らは一日も早く京都にのぼって西郷に会ってもらいたい。 崎のグラく ーの店に新式のミネー銃が三千挺ほどあると言っていたね」 坂本は首をひねって、 「それがどうした ? 」 112 、
独断専行であった。最後の責任は自分がとる。ここまで来たら、薩摩は長州を援助するという西郷 の言葉を信じるよりほかはなかった。 井上聞多と伊藤俊輔が、花山春輔、春山花輔と変名して長崎に向ったのは、慶応元年七月十七日で あった。 ひじかたひさもと 二人は途中、太宰府に立寄り、土方久元の紹介状をもらい、同じ土佐脱藩の楠本文吉を案内役とし て、ひそかに長崎に入り、小松帯刀を訪ねた。 小松は、すでに西郷から手紙を受取っていたようだ。こころよく両人を迎えて、藩邸の中にかくま った。長州奉行の警戒は厳重である。これまでの長州の使者たちが失敗したのは、旅費の豊かさにま かせて丸山あたりで派手に遊びすぎたせいだ。今度は十分につつしんでもらいたいと言った。 「耳がいたいな」 伊藤俊輔は頭をかいた。「なにしろ、高杉さんのお供では、いやでも派手にならざるをえないのです。 ・ : 今度は、酒も藩邸の中だけで飲みましよう」 ーとの連絡にあたらせた。 小松帯刀は坂本社中 ( 海援隊 ) の上杉宗次郎をえらんで、グラバ シャンハイ クラハーから、ミネー銃一千挺は自分の手もとにあるが、それで不足なら上海から取寄せるという 返事が来た。 「とても一千挺ではたりぬ。少くとも五千はいる」 124
「まことに御苦労であった」 律気な山田家老は伊藤俊輔に白髪頭をさげた。「桂、井上両君にもめいわくをかけたが・おまえにも あやまらねばならぬ」 「両君の話で海軍局の誤解もとけ、ユニオン号はさっそく買取ることになった。もちろん、代金は藩 庁から出す」 「ユニオン号はどこにいるのですか ? 」 「途中で会わなかったのか ? 積荷をあげて、下関に回航してもらった。この船もそうしてもらいたい」 「手間のかかる話ですね」 「おまえたちの苦労は、藩庁の重役たちにはよくわかっている。このことが無事に解決すれば、おま えを士分に昇進させることにきまった」 「今すぐというわけにはいかぬが : 伊藤の身分は足軽に毛のはえた士御雇である。今さら何だと言ってやりたかったが、昇進と言われ るとわるい気持もしないのがおかしく、伊藤は腹の中で苦笑した。 「桂小五郎は山口に行っている」 家老はつづけた。「正式に藩公の命令を取りつけて下関に直行する。おまえも下関にひきかえし、井 上といっしょにグラ、、ハーと交渉してもらいたい」 おやとい 138
日がたって行った。 どこにも出かけずに、藩邸の奥にとじこもっている二人の退屈顔を見て、小松帯刀が笑いながら、 「そろそろ、丸山にでも御案内いたそうかな。今夜あたり・ 「高杉さんなら喜んで行くでしようが、僕は御遠慮しましよう」 ノーにも言われたが、長崎奉行の目が光っている。うつかり酒 伊藤俊輔は神妙そうに答えた。「グラく ものめません。あとで藩庁に文句をつけられたら、桂さんの立場がなくなるし : : : 」 「伊藤、神妙面をしてもだめだそ」 井上聞多が冷やかした。「おぬしが、二度も丸山に夜討ちをかけたことは、 「こいつめ ! 」 小松帯刀は陽気に肩をゆすって、 「御両人の退屈しているのは、よくわかっている。たしかに長崎は危険だから、鹿児島に遊びに来ら れぬか。幸い、イギリスから購入した船を国もとまで廻航することになっている。それに乗って、私渦 といっしょに行かれぬか。いろいろと見てもらいたいもの、会ってもらいたい人がある。長州と薩摩章 八 の将来のため、ちょうどいい機会だ」 第 「行きましよう」 井上は即座に答えたが、伊藤は考えこんで、 小松殿も御存知だ」
「余計なことだ ! 薩摩人は信用できぬ。特に西郷という男は : 「しかし、先生」 伊藤俊輔が膝をすすめて、「長州と薩摩がいつまでもにらみ合っていては、回天の大業は達成でき いすれ雄藩連合して討幕の軍をおこ というのが坂本と中岡の持論です。それに土佐も加わり、 桂小五郎は伊藤をにらみつけて、 「おまえは蛤御門の合戦には出陣しなかったな」 「囚州の裏切りと薩摩の策略によって、長州は破れた。多くの同志を失い、おれも危く殺されるとこ : しかも、薩摩の西郷は征長軍の大参謀となり、三家老と四参謀の首を斬った。この恨 ろたった。 み、この屈辱は、イギリスにいたおまえにはわからぬ」 そのちょっと前に、品川弥二郎が広戸甚助をつれて廊下にあらわれたが、桂の語勢のはけしさにお びえて障子のそばにすわりこんでいた。 桂は目ざとく見つけて、 : おまえも坂本、中岡の薩長連合策に同論か ? 」 「弥二郎たな、こっちに来い 品川は桂の前におそるおそるすわり、苦しそうに答えた。