桐野は平野屋の手前で立ちどまり、品川が追いつくのを待ち、声をおとして、 「ここだ ! 」 早くしろ。さとられてはまずい」 素早く路地の中に身をひそめた。「品川、 また隠密狩りだ。桐野はこの宿にそれらしい男がひそんでいると言って、品川をさそい出した。気 はすすまないが、幕府の隠密がいると言われては、ほおっておくわけにはいかぬ。 品川は言われるままに路地に入って来たが、天水桶のかげに猛犬のようにうずくまって目を光らせ ている桐野を見ると、 「なんだ、この宿なら、おれは昨日も来た。土佐の中岡慎太郎が太宰府から来て泊っている」 「えつ、中岡が ? 」 「あいつ、まめにとびまわる男だ。おぬし、まさか中岡を隠密とまちがえたのではなかろうな」 「しつ、声が高い」 桐野はうなった。「中岡なら京都以来、何度も会っている。まちがえるものか。おれが目をつけたの は、裏二階に三日前からかくれている怪しい奴だ。港から上ってきて、この宿に入ったきり、昼間は 一度も姿を見せぬ。夜はどこかに出かける様子だが : 「おぬし、そいつの顔を見たのか ? 」 「いや、後姿だけだ。風態は商人だが、挙動が怪しい。武芸者めいた歩きかたをする」 「よかろう」 品川弥二郎は言った。「その隠密は、おぬしにまかせた。おれはついでだから中岡に会ってくる。な
「こだわる。但馬の塩屋は対馬の家老 : : : 何といったか・ 「大島友之允」 「その大島殿のお伴をしてきたのではなかったのか ? 」 「いや、そんな気配はなかった。ただひどく先をいそいでいた」 いくまっ 「ロロⅡ、 思い出したそ。さっきの二階の女は大島殿の奥方じゃない。桂小五郎先生の幾松だ」 「なにを、ばかな : 品川弥二郎は笑ってみせたが、さすがに顔色を変えた。 祇園芸者の幾松は桂小五郎の愛人ーーというよりも、すでに妻である。若い品川弥二郎には同じ紙 ぼんとちょう 園に政千代、桐野利秋には先斗町の照香がいたが、桂と幾松の仲はもう惚れたはれたの色事ではない。 そんな生臭さはとっくの昔に越えていることを桂に身近かな仲間は知っている。 はまぐり′」もん たかっかさ 蛤御門の敗戦の後、鷹司関白邸から姿を消した桂小五郎がます身をかくしたのは幾松の屋形であっ たという噂は品川の耳にも入っていた。だが、その後の二人の消息はたれも知らぬ。その幾松が対馬 藩の家老とともに湯田にやってきたとすれば : 「あっ、ちがう ! 」 すまん ! 」 桐野がだしぬけに叫んた。「幾松さんじゃない。おれの思いすごしだった。品川、 河原屋の二階廊下に、着換えをすませ、化粧をととのえた女が、大島友之允によりそうようにして 立っていた。座敷の障子もあけはなされているが、そのほかに人のいる様子もない。 品川は盃をとりあげて、
品川はほっとした顔色で、「港の近くの家というと : 若い通訳生は赤くなって、 「いえ、対馬藩御用の船宿です。あの毛唐人は今まで伊藤さんといっしょに飲んでいたそうですが、 もし品川さんが詰所に来たら教えろと言われて、ここにやってきたと申しています」 「ますます、わからん」 「はあ、なにしろひどく酔っぱらっていますので : : : 」 「いや、高杉さんと伊藤が逃げたわけがわからん。 待っていてくれ」 「ここでか ? 」 眉をつりあげた桐野利秋を、品川はなだめるように、 : 伊藤俊輔というロンドン帰 「向うの豊前屋で一服していてくれ。話がわかったら、迎えに行く。 りは、実はおれにも気にくわん。おぬしといっしょに行ったら、いきなり斬り合いになるかもしれん からな」 伊藤俊輔は船宿の海につづく裏庭にある離れの部屋にかくれていた。危険がせまったら、船着場か ら海に逃げる用心かもしれぬ。 : とにかく伊藤に会ってくる。桐野、おぬし、 : ははあ、伊藤のことた。色町の女郎屋だろ
第三章海峡 品川弥二郎と桐野利秋が下関の町に入って、まず気づいたのは、町の空気がひどくおだやかでない ことであった。まるで戦争でも起ったような不穏な気配である。 ゴき合う諸隊の隊士たちの目が血走っ 銃声が聞えるわけでもなく、硝煙のにおいもしないのだが、彳 ている。抜き身の槍を杖にして四つ辻に立ちはだかり、あたりをにらみまわしている連中もある。町 家の半ばは表戸をおろして、ひっそりと静まりかえり、通行人の姿もすくない。その白昼の沈黙が虹 気味であった。 桐野は品川をふりかえって、 「何がおこったのかな」 「わからん」 品川は答えた。「ます高杉さんをさがすことだ。その前に、大村益次郎と伊藤俊輔に会おう。外国応 接掛の詰所に行けば、様子がわかるたろう」 港に近い詰所もほとんどがらあきであった。下役人が二人、土間のテー。フルを前に不安そうな顔 をならべているだけで、ほかにたれもいる気配はない
役目を自ら買って出て、必要以上の狂暴性を発揮するのも、そのせいかもしれぬ。 品川弥二郎は桐野をひさご屋の座敷にのこして、河原屋に乗りこんで行ったが、やがてひきかえし てきて、 「桐野、おぬしの目がねちがいだ。あれは隠密ではない」 「何者だ ? 」 「但馬から来た塩売りの商人」 「と自称して、高杉晋作に会いたいなどとぬかしている。但馬の塩屋がなぜ高杉をさがす ? 」 「戦争には塩がいる」 よ。はつはつは」 品川はとぼけ顔で、「それだけのことではないか / 桐野の目が不気味に光った。 「おぬし、おれにかくしているな。何者た、そいつの正体は ? 」 「よし、言わねば、おれが糾命してくる」 大刀をつかんで立上がる桐野を、品川は笑いとばした。 「あわてても、間にあわぬ。相手は早駕籠ですっとんだ。もう山口あたりか、明日は下関から対馬に 行く。対馬藩御用の塩商人だ」 「ごまかすなー ・ : 下関、対馬まででも追いかけて、ひっとらえてみせるそ」 てるか 「はつはつは、桐野、おぬし、照香美人を京都に帰して以来、気が立ちすぎて : : : ますます手におえ
「うん、しかし、まさか朝鮮まではな」 「伊藤は朝鮮からロンドンに逃げるつもりだったのですよ」 品川はひとりではしゃぎながら、「だが、もうその必要はない。桂さんが帰ってくれば、そのうちに 高杉さんも必ず帰る。高杉が大阪から城崎温泉のほうに出かけたというのも、実は桂さんをさがしに 行ったのではなかったかな。 : この二人がそろえば、諸隊も鎮静するし、藩政府のごたごたもおさ まり、藩論は一定する。あとは挙藩一致、幕軍を迎え討つだけのことだ」 大村益次郎はニコリともせずに、不機嫌につぶやいた。 「そうなってもらいたいものだ」 品川は気にもかけず、 「さあ、みんなで桂先生に帰国をすすめる手紙を書こう。それを幾松ねえさんに持たせて、広戸甚助 といっしょに但馬に行ってもらう。 いや、象かーー・象をも しい使者じゃないか。女の髪は牛をも つなぐ。慎重居士の桂先生も必ずひきずられて帰ってくる」 だれも答えなかった。 品川はつづけた。 「桂さんは実は帰りたくてうずうずしているんだ。いくら長州の藩情がもたついていても、但馬にい るよりも危険はすくない。われわれが生きているかぎり、桂さんを殺すなどというまねはさせぬ。 : さお、伊藤、手紙の文案をつくれ。おぬし、筆まめだ」 第四章雌伏
河原屋の二階の裏廊下に湯上り姿の女が立っていた。 若くはないが、美しい。この土地の女ではない。遠目で顔かたちは定かでないが、姿に都の香りー ぽんとちょう ーとでも言いたいものがただよっていた。桐野利秋はこの温泉でわかれた先斗町芸者の照香を思い出 し、同時に、どこかで見たような : : と思った。 品川弥二郎はいまいましそうに鼻をならして、 「ふふん、隠密を斬ったあとは、女か。すこし道楽がすぎるそ、桐野」 「ちがう。あの女、おぬし、どこかで見たと思わぬか」 品川は興味なさそうに青田越しにちらりと目を走らせただけで、 「女なら、湯田にはいくらでもいる。ほしければ、呼べよ。遠慮はいらぬ」 「いや、よく見ろ。この土地の女ではない。たしかに見た、京都のどこかで : : : 」 「なにつ ? 」 品川が目をあげた時には、二階の女の姿は消えていた。それといれちがいに、小ぶとりの恰幅のい 、袴はつけていないが、紋服を着て、身仕舞いも正しい中年の武士が障子のかげからあらわれた。 食後らしく、ロにくわえた爪揚子を手すりごしに青田の方にすて、珍しげにあたりの景色をながめて 「どこかの御大身らしいが」
品川弥二郎は、下役人に名前を告げ、大村か伊藤に会いたいと言った。不在だという返事であっ 「おれたちは大村と伊藤の手紙で呼び出されて来たのだ。決して怪しい者ではない」 品川は通訳見習生だという若い男に説明して、「二人とも不在というのはおかしいじゃないか。ま だ出勤していないのなら、宿の名と場所を教えてもらいたい」 「それもわからないのです」 若い通訳生はしょげかえって答えた。「ここ三日あまり、お二人とも出勤いたしません。大村さんは ゆくえ 萩に出張と届けが出ていますが、伊藤さんはさつばり行衞不明で : : : 」 「なに、行衞不明 ? 」 白鉢巻でゲーベル銃ど槍をかついだ五人連れの隊士が詰所を横目でにらみながら通りすぎて行った。 視線に殺気がある。 品川がたすねた。 「何だ、あいつらは ? 」 「長府から来た兵隊です。隊長は野々村何とかいう男ですが、下関開港に反対で、大村さんと伊藤さ いのうえぶんた んを狙っているのです。 : : : 私どもも、いっ斬られるかしれません。御承知でしようが、井上聞多さ んも斬られました」 : 知らぬ。どこで、何者に・ 「なに、井上が ? 「そこまでは、私どもにはわかりません」 はぎ 39 第三章海峡
品川は言った。「わが藩の重役ではない。京都あたりから奥方づれで御帰国の途中なら、都のにお いもしよう。気にするな、気にするな。おっと、来たぜ」 女中が酒肴をはこんできた。 「ねえさん、食い物もたのむ。そっちの先生が腹をすかして気を立てている」 品川は女中を追い出すように言って、手酌で飲みはじめた。 桐野は河原屋の裏二階から目をはなさない。女はあらわれないが、中年の武士はまだのこっていた。 品川は桐野の視線を追いながら、盃をおき、 「思い出したよ」 「よにつ ? 」 とものすけ 「あの人物は対馬藩の家老大島 : : : 友之允とか言ったな。長く京都留守居役もしていて、京美人の奥 方を持っているので、うらやましがられていた。 : ・わが藩と対馬藩は縁戚関係もある。帰国の途中、 藩庁に立寄り、この温泉でひとやすみというところだろう」 桐野は一応納得したようである。女中の運んできたイワシの煮付をつつきながら、飯をかきこみは じめたが、一ばいだけで箸をおき、 「おい、品丿 、さっきの但馬の塩屋は対馬藩の御用商人で、下関から対馬にわたると言ったな」 「ああ、そうだよ」 「その塩屋が、なぜ高杉晋作をさがす ? 」 「ふふ、まだこだわっているのか ? 」 15 第一章隠密狩り
かった。広戸甚助の話で但馬方面だとは察していたが、その後、甚助もあらわれないし、果して今も 但馬にいるかどうか不明である。甚助を探して、幾松を但馬に送るのも一法だが、それはかえって桂 の所在を幕吏に教える結果になるかも知れぬ。 といっても、幾松をこのまま京都においておくこともできない。見廻組小頭の面子をつぶしたとあ っては、。 とんな仕返しをうけるかもしれぬ。 大島は参政師ロと相談の上、ちょうど帰国の予定があったので、幾松を妻の知合いということにし て、長州までつれて行くことにした。もしかすると、桂小五郎は山口に帰っているかもしれない。 だが、この目算もはずれた。桂が帰国していないばかりか、長州の政情は混沌として、高杉晋作の 行衛さえもわからぬ。この上は、幾松を対馬までつれて行き、玄海の孤島にしばらくかくまっておく よりほかはない、と考えているところへ、思いがけなく広戸甚助が船宿にやってきたので、はじめて 桂の消息がわかった。そればかりか、品川弥二郎までがとびこんできたので、長州の藩情もわかり、 同志との連絡もついて、大島も愁眉をひらいた。 「さあ、これで桂さんを呼びかえすことができるぞ ! 」 品川は得意げに一座の顔を見まわして、「おい、伊藤、おぬしも朝鮮まで行かずにすんだ」 伊藤は微笑した。 大村益次郎は首をかしげ、 「品川君、それは何の話だ ? 」 「あなたも朝鮮あたりまで逃げ出すつもりだったのでしよう。 大村さん」 めんっ