中岡が言った。 「貴公、われわれをからかいに米たのか ? 」 伊藤は得意そうにそりかえって、 「その逆だ。助け舟を持って来た」 坂本と中岡は思わず顔を見合せる。 伊藤俊輔はつづけた。 「実は、高杉さんが帰って来る」 「おつ、それは : 坂本竜馬が腰をうかせて、「すぐに会わせてくれ ! 」 「あわてるな。まだ途中だよ。ここに着くまでには四、五日はかかるだろう。なにしろづれの旅だ からな」 伊藤はのんきそうに笑ったが、すわりなおして声をひそめ、「おれのいう助け舟とは高杉さんのこと : 坂本さん、あんたは長 ではない。貴公らは一日も早く京都にのぼって西郷に会ってもらいたい。 崎のグラく ーの店に新式のミネー銃が三千挺ほどあると言っていたね」 坂本は首をひねって、 「それがどうした ? 」 112 、
井上と坂本の話には耳をかしたくない様子であった。 桂には桂の意地があることはわかっているが、坂本竜馬はあきらめなかった。ここでひきさがって は、多年の苦心が水の泡だ。京都と太宰府のあいだを往復して三条実美卿と岩倉具視を結びつけるこ とに必死になっている中岡慎太郎、田中顕助はじめ土佐脱藩の同志たちにも合せる顔がなくなる。三 条と岩倉は、長州と薩摩がそうであるように、いわば犬猿の仲だ。だが、この犬と猿を結びつけなけ れば、討幕のための新局面は打開できない。おのれ一個の意地や面目の問題ではない。日本そのもの の運命にかかわる大事業だ。 坂本の熱意を感じたのか、井上も口を合せて熱心に桂の出馬を懇請した。 だが、桂は動かなかった。 「あの黒田という芋侍は無礼きわまる。薩摩に従えとはなにごとだ。おどしに来たのか、喧嘩に来た のか ? 」 よほど黒田の態度と言葉が気に入らなかったようだ。 ・ : 坂本君、僕にも 「あんな奴を使者に立てる西郷という男を信用しろというのか。ばかばかしい。 君の主張と大策はよくわかるよ。だが、黒田の言うことは無礼であるだけでなく、全くちぐはぐで、 何を言っているのかさつばりわからん」 「あいつは口下手なのです」 坂本は言った。「僕は西郷から直接たのまれて来たのだから、僕の言葉を信じてください。黒田もっ まり同じことを言っているのだが : 圭月 193 第十二章冬
「三千、五千の大兵ともなれば、兵樶が莫大でしよう」 「坂本ん、また何か考え出したな」 「西郷さん、長州の米を買うのです。幕軍と戦うための兵糧を長州にたのんだら、薩摩人に対する不 信も猜疑も吹っとんでしまう」 西郷はうなずいて、 「相変らず知恵者だな、坂本さん」 中岡慎太郎が膝を乗出した。 「その使者には僕が立ちます。坂本はもうすこし西郷さんのそばにいろ。海舟先生にも会いたかろう し、伏見の寺田屋にはお竜さんも待っているそ」 119 第七章西風
「桂先生、すでに昨夜、伊藤俊輔が申上げたとおり、坂本君の同志中岡慎太郎君が薩摩に行っていま す。西郷をひき出して、あなたと高杉晋作さんに会わせようというのです。 : : : 坂本君は中岡君と入 れちがいに西郷の旨をうけて下関にやって来たのですが : : : 」 坂本がひきとって、 「太宰府で薩摩と筑前の同志たちと会い、中岡の伝言を聞きました。中岡は西郷吉之助をつれて、ま もなく下関にやって来ます」 桂小五郎は鋭く坂本をにらみつけて、 「無用のことだ。君も中岡君も、なんでそのような、さし出がましい : : : 余計なことをする ? 」 坂本竜馬はたじろがなかった。桂の言葉をかねて予期していたように、 たけちはんべいたすいざん 「雄藩連合による討幕は、わが師武市半平太瑞山先生の持論であります。だが、悲しいかな、わが土 佐藩は俗論党の支配するところとなり、武市先生はじめ正論派はことごとくしりぞけられてしまいま した。武市先生は入獄中でありますが、おそらく斬られるでしよう。 雄藩連合は先生の御遺策になる かもしれません。 : この志をつぐものは、脱藩によって逮捕投獄をまぬかれたわれわれの任務だと 信しています」 雄弁である。三十歳になったばかりの竜馬の精気が全身から発して桂にせまる。 「わが土佐藩には、残念ながら、ここ当分、ル 義藩勤皇の望みはない。したがって、雄藩連合に加入の 97 第六章燕
「とんでもない。僕はあなたに、これを機会に上京して、西郷、大久保と会談してもらいたいと考え ているのです」 「全く、とんでもないことを考える人だな。僕はとにかく山口の藩庁に行って、広沢真臣、前原一誠 と相談してくる。決答はその上のことだ」 : 高杉晋作君はどこにいますか ? 」 「よろしい、待ちましよう。 いなり 「相変らず稲荷町の大阪屋で、おうのを相手に酔っぱらっている」 桂は眉をよせて答えた。「会えば、君とは話が合うだろう。ただ、坂本君、幕府は新選組と会津見廻 組の腕ききを潜入させている形跡がある。近藤勇と伊東甲子太郎を入国させようという永井尚志の要 求は拒絶したが、秘密にもぐりこんだ奴らは防げない。特に港と稲荷町附近はあぶないぞ。坂本君、 君と中岡君は狙われている。人相書がまわっているそうじゃないか。気をつけてもらいたいな」 桂が山口に出発したあとで、坂本は高杉晋作をたすねた。 高杉は妓楼大阪屋の広間で、伊藤俊輔と品川弥二郎を左右にしたがえて盃をかたむけていた。酌を おんな しているのはおうのである。ほかに若い妓たちもいた。 「やあ、好漢、ついにあらわれたな」 坂本の顔を見るなり、高杉は言った。盃をさしつけて、「さあ、行こう ! 」 坂本は盃をうけたが、ロはつけす、 「すこし風流がすぎはしないか、高杉君」 「風流どころか、こっちは戦争を待っているのだ。い よいよはじまったら、君には海軍をひきうけて 168
中岡慎太郎が豊後佐賀の関でやとったいう小舟に乗って、情然と下関港についたのは、閏五月も終 りに近づいた二十一日の午後であった。西郷はいない。中岡ひとりだ。悄然という言葉を絵でかいた ような気落ちした姿であった。 毎日のように港を見はっていた坂本竜馬が中岡を出迎えた。手短かに事情を聞いて、 「こいつは大変なことになったそ」 物に動ぜぬ男も顔色を変えた。「百日の説法、屁一つとはこのことだ。とにかく、桂さんに会って、 二人であやまるよりほかはない」 果して、桂小五郎は激怒した。中岡の陳謝にも坂本の弁明にも耳をかそうとしなかった。 「こんなことだと思っていた。貴公らもよくおぼえておけ。これが薩摩人の約東というものたー : かくなる上は、長州独力で事を行うよりほかはない。太宰府の五卿も薩摩にまかせておいては、何 をされるかわからぬ。 : 坂本、中岡の両君、これでもまた西郷吉之助という男を信用するか。全く 御苦労であったな」 憤然と席をけって立ってしまった。 中岡と坂本は境屋の奥屋敷にとりのこされて、ただ顔を見合せるばかり、しばらく言葉も出なかっ しュ / 、し どういうことになるのかな」 うる )
「へえ」 「さっそく幾松に言って、引越しの支度をさせてくれ。大村も伊藤も早く身をかくすがよい れから、品Ⅱ、 おまえはこの宿に残れ。おれは境屋にうつるが、表向きはここに滞在ということにし ておこう。藩庁の役人と諸隊の暴れ者に気をつけろ」 : しかし、坂本君にはほんとにお会いになるのですか ? 」 「会う」 「それで安心しました」 品川はひとりでうなすきながら、「甚助、きみには引越しの云いをたのむ。坂本君には僕が応待す る。明晩は、僕が迎えに行って、境屋に案内しよう。それで、 ℃いのですね、桂さん ? 」 「よろしい。会って、話だけは聞かねばなるまい」 翌日、まだ日の暮れぬうちに、品川弥二郎は坂本竜馬と上方喃左衛門 ( 久元 ) を案内して、境屋に やってきた。 二人とも旅姿のままで、疲労した顔色と、やや垢じみた服装に、 いかにも諸国回遊の浪士らしいに おいがした。 だが、坂本竜馬は服装などには無頓着な男である。五尺八寸の長身の胸をはって廊下をふみ鳴らし、 切れの長い近視性の目を細めながら、座敷に入ってきた。人おじしない点は若い土方も同様で、あった 95 第六章
黒田はうれしそうであった。 坂本竜馬が言った。 「僕が露はらいをしよう。さっそく長州にひきかえします」 「それもよかろう。あんたは身軽だ」 西郷が言った。「黒田が出発するまでには、、、、 る松大久保ともよく相談して : : : 」 黒田は不安そうに、 「そんなことをしていては、間にあわなくなる」 「いや、幕軍ものんびりしたものだ。長幕戦争が起るのは、早くて来年の春であろう。あわてること はない。ます坂本さんに先発してもらおう。桐野はどうするかな ? 」 「もし病気がなおっていたら、 っしょに長州に行ってもらいましよう」 坂本は答えた。「桐野君は今は長州人も同様で、信用されています。おまけに隠密狩りの名人で : : : 」 「ほほう、まだ人斬りのくせはなおらぬか ? 」 「なおりそうにありませんね、当分」 「困った奴た」 「いや、この時勢には役に立ちます。なにしろ、長州は隠密の巣で、幕府は新選組の使い手を潜入さ せたという噂さえあります」 「しかし、桐野は大病していると聞いたが」 「よこ、 ただの食あたりだ」 184
「船印は薩摩、所有権は長州という話になっていたと思いますが」 「海軍局が承知せぬ。奴らは早く長州の船印をたてたいのた。無理もないが」 「坂本竜馬という土佐人がいます。この男を船長にして、船印は薩摩、所有主は長州にしておけばい いと思います。 : : : 坂本はまだ下関にいるでしようか ? 」 「さあ、それもわからぬ。とにかく、この急場は桂と井上とおまえの知恵にたよるほかはないのだ。 頼む ! 」 家老はもう一度白髪頭をさげた。 14 じ
ても無愛想でもなかった」たたひどく無ロで自分はほとんど何も言わず、ナトーとシーポルトに 対する有川と坂本の質問と返答を無関心に聞き流しているように見えた。酒も少量だけ飲んた。会話 の途中で、サトーはその男の片腕に刀傷があり、足にも負傷しているのに気がっき、高名な武将の一 人かとも想像した ) この島津左仲が西郷吉之助隆盛という重要人物であることをサトーが知ったのは、ずっと後のこと である 坂本竜馬を兵庫偵察に派遣したのも、胡蝶丸を大阪に呼んだのも、有川弥九郎に命じて必要以上の 腰の低さでサトーとシーポルトを歓待させたのも、すべてこの西郷であった。 ークス公 彼は連合艦隊の実勢力と大阪湾侵入の目的探索にあらゆる手をつくした。その主導者がパ 使であり、その目的は必すしも幕府援助ではなく、安政条約と兵庫開港の勅許であることがわかると、 やや安心し、同時に薩摩の反幕闘争のため、いい機会だと思った。 西郷吉之助は、その夜のうちに胡蝶丸で大阪にひきかえし、坂本竜馬をつれて、大久保と相談する ために京都に急行した。