第十四章春の嵐 正月二十三日。坂本竜馬は日のくれるのを待って、薩摩藩邸の裏門からしのび出た。伏見の寺田屋 に帰るためであった。寺田屋には同志の三吉慎蔵が待っている。それに、お竜も。 へつに何事も 途中から、何者かにつけられている気がして、何度も懐中の拳銃をにぎりしめたが、。 なく伏見の町に入ることができた。 竜馬は満足していた。気温も急に春めいて、梅もほころびそめたのか、夜風に香りがある。 ぎせき ( これで終った。すくなくとも大ビラミッドの基石だけはおくことができた。エジプトを占領した大 奈翁はビラミッドをながめただけだ。おれは人間の。ヒラミッドを日本にきずくのだ ) の 気のぬけたような気もした。犬と猿の長州と薩摩を握手させることが、こう簡単にできようとは思 わなかった。いや、簡単ではない。中岡慎太郎も自分も、その他の同志も、ここ数年来、苦労に苦労 をつみ重ねた。だが、できあがってしまうと、ひどく簡単だったような気がする。空虚だ。成功とは、四 十・ この空虚感のことか ? 第 寺田屋についたが、表戸はしまり、ひっそりとしていた。ほかに泊り客もないらしい。夜船の客を 送り出し、店じまいをしてしまったのか。そんな時刻だ。
「それも、もっとも ! 」 西郷は答えた。「鹿児島からは長崎行きの蒸気船がいつも出ている。あんたは行きたい時に、長崎ま わりで長州に行ける」 「そうですか。お言葉にしたがいましよう」 長崎にも太宰府にも用件がある。 : : : 西郷先 竜馬はさからわなかった。「そのほうが順序でしよう。 生、たぶん僕は鹿児島に着き次第、長崎にまわるかもしれません。その時には、お竜をたのみます」 「お竜さんを ? 」 「ついでがあったら、伏見の寺田屋に送りかえしていただけばいいのです」 「いそがしいお人た。 : : : 寺田屋に送りとどけることは引受けた。お竜さん、それでよろしいのだな」 。し結構です」 気軽で、気丈な返事であった。 37 第二章月琴
- 長男と末娘を勝海舟先生にひきうけていただき、お竜は寺田屋にあずけましたが、女将はお竜をこ とのほか気に入って、いろいろと一家を助けてくれたので、今はます心配はありません。ただ、お竜 とせごけ が僕の身を気づかって、どこへでもついてくるので、寺田屋のお登勢後家がさびしがっています。そ のうちにかえしてやるつもりですが : : : 」 「かえすことはなかろう」 「いや、僕とても、いつまでも女連れでとびまわっているわけにはいきません。僕と中岡に対する幕 吏の目がきびしくなってくるのがよくわかります」 へつに化粧はしていないのに、目もさめるほどの 月琴の音がやんで、お竜が甲板に上がってきた。。 美人で、背丈も五尺八寸の竜馬につりあってすらりとしている。 「お食事の用意ができましたが : お竜は晴れた空をふりあおいで、「ここに運びましようか。とても、 西郷は徴笑して、 「いま、坂本君とあんたの話をしていたところだ」 「まあ」 「いい話だった。食事は船室で坂本君といっしょにしよう。まだ話のつづきがありそうだ」 だが、船室におりて、お竜の給仕で昼飯をとりはじめると、坂本竜馬は話題を変えた。 「海舟先生はどうしておられますかね。気にかかります。 : : : 江戸に呼びかえされたら、切腹とまで は行くまいが、島流しくらいにはなりかねないと言っていましたが : : に しいお天気 : : : 」 29 第二章月 琴
と話がきまった。木場伝内もひきとめなかった。三人は薩摩船にのって淀川をさかの・ほった。 八軒屋の船着場についたとき、幕吏の一隊が乗りこんで来た。木場伝内のくれた薩摩藩の鑑札が物 をいって、竜馬の拳銃も池内蔵太のミンへール銃も発見をまぬがれ、三吉慎蔵の手槍も見のがされ 三人は無事に伏見につき、船宿寺田屋に入ることができた。竜馬の顔を見ると、お竜がとび出して 来て、叫び声をあげた。久しぶりの再会である。 女将のお登勢が笑いながら、からかった。 「まあまあ、まるで小娘みたい。お竜さん、それでも武士の妻ですか」 お竜はまっ赤になったが、やがて恨みつぼく目を上げて、 「おかみさん、あたしたち、まだ式をあげていません。竜馬さんは、いつでもあたしをおきざりに、 どこかに行ってしまうのです」 翌日、坂本竜馬は三吉慎蔵を寺田屋にのこし、池内蔵太とともに間道を通って京都に潜入し、どう やら無事に二本松の薩摩藩邸にたどりつくことができた。 不安で不隠な空 藩邸には、西郷も小松もいなかった。だれにたすねても、行く先は知らぬという。 気である。やっとさがし出した黒田清隆は長屋の隅で酔いつぶれていた。 たたきおこすと、血走った目でにらみつけて、 210
第九章大阪湾 そのころ、坂本竜馬は大阪土佐堀の薩摩蔵屋敷に身をひそめていた。危馬と中岡慎太郎の暗躍は、 京都所司代と守護職に偵知され、人相書もまわされて、伏見の寺田屋も安全なかくれ家ではなくなっ 寺田屋のお登勢と娘分のお竜が親身にかばってくれるが、伏見町奉行の追求がきびしく、とてもか くれきれない。新選組と会津見廻組らしい覆面の剣客の襲撃も何度かうけたので、西郷吉之助のすす めで、ひとまず大阪まで落ちのびたのである。 やがて大久保市蔵が上京して来た。西郷は大久保と入れかわりに大阪に下ってきた。京都にいると、湾 薩摩と長州の接近の気配を早くも察した会津、桑名、一橋などの重役が、人れかわり立ちかわり、御阪 機嫌をとりむすびに来る。中には何千両という大金を手土産がわりに持ってくる者ももり、そんな応大 待は西郷には全く苦手なので、すべてを大久保にまかせ、吉井幸軸とともに大阪で帰国の便船を待っ章 ことにしたのだ。 第 もちろんただの帰国ではない。危機は切迫している。将軍家茂は大阪城の兵力を増強し、京都では 一橋慶喜を中心に、長州討伐の謀議が着々と進められている。
「三千、五千の大兵ともなれば、兵樶が莫大でしよう」 「坂本ん、また何か考え出したな」 「西郷さん、長州の米を買うのです。幕軍と戦うための兵糧を長州にたのんだら、薩摩人に対する不 信も猜疑も吹っとんでしまう」 西郷はうなずいて、 「相変らず知恵者だな、坂本さん」 中岡慎太郎が膝を乗出した。 「その使者には僕が立ちます。坂本はもうすこし西郷さんのそばにいろ。海舟先生にも会いたかろう し、伏見の寺田屋にはお竜さんも待っているそ」 119 第七章西風
「おぬしをのこしては行けぬ」 「血を流しながら歩けるものか」 「痛むか ? 」 : とにかく行け。腹を切るのは、捕つ手に見 「かすり傷だが、人目につく。おれは、ここで待つ。 つかった時で間にあう」 夜があけはじめていた。三吉は材木小屋をはい出し、川原におりて、手足と着物の血痕を洗い、袴 はぬぎ捨てた。枯草のあいだにおちていた草鞋をはいて、小刀たけを帯にさし、旅の町人めいた姿に なって、土手道を歩いて行った。 薩摩屋敷は遠くなかった。小門をたたいて名前をつげると、大山彦八が待ちかまえていて、慎蔵を ひきすりこんだ。 : ・坂本 「寺田屋のお竜がかけつけて来て教えてくれた。いま、探しに行こうとしていたところだ。 はどうした ? 」 「材木置場にいる、水車小屋のとなりの : : : 」 「傷は ? 」 「右手をちょいと : : あの置場なら、船のほうが早い」 「よし、すぐに行く。君は動くな。 大山は兵をひきつれ、小船に薩摩の藩旗をおし立てて川を下った。 竜馬は救出された。 234
「坂本君、この話はやめよう。とにかく私は薩摩にかえる。久光公にもお目にかからねばならぬ。匿 嘩はしたくない。 : 君も薩摩に行こう」 「え、僕が ? 」 : 君を京都にのこしておくわけにはいかぬ。伏見町奉行の人相書 「そう、お竜さんもいっしょだ。 がまわっているそ」 竜馬は苦笑して、 「ああ、それは僕も見ました。相当な悪党面にかかれていましたね」 くにおみ 「私も月照上人、平野国臣といっしょに、極悪の謀叛人として人相書をまわされたことがある。本人 ・君に対しては伏見奉行たけ には似ても似つかない悪党面に見えたが、人の目には本人に見える。 でなく、守護職も所司代も意地になっている。しばらく身をかくしたほうがいし : 坂本君、君は 寺田屋の事件以来、急に健康がおとろえたような気はせぬか ? 」 る 「傷のせいです。実は動脈がやられ、すこし化膿しはじめたようで : : : 」 ゅ 「薩摩には温泉が多い。日当山、潮漬などの温泉は人外境のおもむきがある。新婚夫婦には適当だな」萌 「健康も大切だが、早くあとつぎをつくっておくことも大切た。幸いに、暮軍はまた当分、動きそう五 にない。君は大阪ではやっている落首を御存知か ? 」 第 ひなたやましおびたし
小松は手許金を取りよせて坂本にわたし、「だが、これは三途の川の渡し銭ではない。西郷は君には ぜひ薩摩の海軍を頼みたいと言っていた。命だけは大切にしてもらいたいものだ」 竜馬は薩摩の御用船に乗って、夜の淀川をさかのぼり、翌朝、伏見の船宿寺田屋に入ることができ 「まあまあ、ようこそ御無事で」 女将のお登勢も愛人のお竜も心から再会を喜んで、竜馬のために、裏階段に近い二階座敷を特に用 意してくれた。 「近ごろは町奉行さまの目がうるそうて、薩摩御用の宿といっても安心できません。なあ、お竜さん」 「はい、夜中でも、捕つ手が家のまわりをうろっきます。もしもの時には裏階段から物置に出れば、 裏小路に出れます。どうそ、お気をつけになって」 竜馬は笑って、 「小松帯刀殿にもそう言われたが、これ以上、気のつけようもないな。命というものよ、 ーいくら大切 にしようと思っても、なくなる時にはなくなるし、もうだめたと思っても、案外な逃げ道が見つかる。 生の中に死があり、死の中に生があると思うよりほかはない、と桂小五郎氏も述懐していた。 竜、久しぶりだったな。ますます美しくなったそ」 「そんなのんきなことばかり : 「今夜は飲んで、ゆっくりと寝よう」 うれしゅうございます」 6
「思えば、長いっきあいです。あれがまだ子供のころから : : : 」 ゃながわせいがんうめだうんびんらいみきさふろ ) 「たしか、お竜さんの父上は、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎諸氏の同志だったと聞いたが : ・ 「そうです。京都の町医者で楢崎将作。 : : : 勤皇道楽が昻して、安政の大獄で、雲浜、三樹三郎諸先 生とともに捕えられ、六角の獄中で病死しました」 「僕は江戸への往来の途中、京都を通るたびに、楢崎家の世話になったものです。楢崎には二男三女 があり、お竜はその長女ですが、つまり、まだ十五、六の前髪のころから知っていたわけです」 「医者は一代と申しますが、楢崎獄死の後は、一家はたちまち生活に窮しました。残ったのは借金だ け。幕吏の干渉もうるさい。家屋敷、家財道具もたちまち売りつくして、一家は離散、母と子供たち は丹波の親戚に身をかくし、また京都にまいもどり、縁故をたよって、ある寺に身をよせたりしてい ましたが、お竜はそのころから、さる御大家の仲働きになり、一家を養っていました。また十七、八 のころでした」 とせ 「伏見の寺田屋にお竜さんを世話したのは、あんただと女将のお登勢から聞いたが : 「それは、もっと後の話です。その前に、お竜も母親もひどい苦労をしています。あれの気の強さも、 その苦、」 労の中から生れたものたと思っています。しかし、そんな話は : 「いや、ぜひ聞かせてもらいたいな」 月琴の音に耳をかたむけながら、西郷は言った。「坂本さん、政事談たけが男の話じゃない」 27 第二章月