んで、船長と話をしていた。 船長の名は有川弥九郎。勝海舟の海軍練習所の出身だと言い、塾頭坂本竜馬の名はよく知っていた が、根っからの船乗りで、いくら伊藤が水を向けても、政治の話には全く興味を示さなかった。かく しているのではなく、ほんとに知らないようであった。 薩英戦争には従軍したが、開戦と同時にいきなり船を焼かれたので、海軍術の腕だめしはできなか った。桜島砲台に転戦し、イギリス旗艦に十発以上の命中弾をお見舞いしたというのが自慢であった。 伊藤俊輔は、イギリス密航の時、海軍術 ( ネービーの学問 ) を習いたいと言ったつもりだったのを、 船長が航海術 ( ネービゲーション ) と聞きちがえ、甲板洗いと皿洗いだけをさせられてロンドンにほうり 出された話をして、有川を笑わせた。 「おれはそれほどでもないが、薩摩人と長州人が憎みあっているのは、お互いさまでしよう」 有川は話題を変えた。「しかし、近ごろは、すこし風向きが変ってきたようにも思えるね。だれの指 金かしらぬが、胡蝶丸船長としてのおれに長州人をのせ、長州の武器を運べという命令が出たという のも、その証拠ではないかね、まあ、お互いに気長にやることだよ」 渦 愚にして直、好人物の船乗りであった。 三田尻に人港してみると、ユニオン号の姿はなく、その代りに、家老の山田宇右衛門が海軍局員の章 八 第 正木正一郎をしたがえてはしけを乗りつけてきた。
「これはまた話が急だ」 竜馬は笑って、「戦争はまだやったことはないんだ。だが、軍艦の指揮くらいはできるでしよう。ど こを攻めるのです ? 」 「小笠原長行が小倉城に大軍を結集中だ。幕府の車船も多少いる。これを至急たたかぬことには、今 後の戦局に影響する。高杉晋作が丙寅、癸亥、丙辰の三艦をひきいて田の浦と門司を急襲する。君は 乙丑丸と庚中丸を指揮して参加してもらいたい」 どこで死ぬかわからぬものだなあ」 死はその後二年を待たず、竜馬を襲うのであるが、べつにそれを予感した言葉ではなかった。 竜馬は小松と西郷に相談し、糧米だけでなく、桜島丸も長州にかえしてやるべきだと主張して、そ の承認を得た 六月二日、鹿児島を発し、五島列島に寄り、塩屋崎にワイル・ニフ号の遭難同志の碑を建て、長崎 でお竜をおろして三吉慎蔵に世話をたのみ、六月十六日、下関に入港して桂小五郎に会った。 いっちゅうまる 桜島丸を長州の専有とすると聞いて桂は喜び、乙丑丸と改名して海軍局にひきわたすことにした。 「ところで、坂本君」 桂は言った。「戦争は始まったそ。幕府の海軍は去る六月七日、大島郡を砲撃し、芸州ロ、石州ロで は陸戦が行われている。手伝っていただけるかな」 258
もらおう」 「大阪湾の外国連合艦隊は、今度は長州には来ないよ」 「来られてたまるものか。おれの相手は幕府の海軍だ」 高杉は大笑して、「陸軍はおれがやる。大村と山県、それから、ここにいる少年たちもやる」 と、伊藤と品川をふりかえった。 坂本は皮肉に、 「早い手まわしだね。将軍進発は早くとも、二、三カ月先だろう」 「なおさら結構。ュニオン号の船籍問題で薩摩とちょっとごたついたが、それも、ここで飲んでいる ーに話してもらいたい あいだに、どうやらかたづいた。君にたのむ、もう一度長崎に行ってグラ・ハ 薩摩の軍艦を五、六隻借りてくるのも一案だ」 「借りる必要はない」 坂本竜馬ははねかえした。「西郷は長州とともに戦うと言った。この言葉にいつわりはない。 たが、そのためには、ます桂氏か君自身が上京して、西郷と大久保に会うことが必要だ」 「はつはつは、おれが行ったら、ぶちこわしだ。桂をやれ、桂を。そんな話には、あいつが適任だ」残 章 事もなげに高杉晋作は笑いとばした。 十 第 「桂先生は出てくれそうにない」
叫郷は首をふって、 「いかに幕閣が無知無謀でも、あれほどの人物を : : : きっと大切にされていることであろう」 「いや、そうも一一一一口えません。海舟先生が神戸海軍練習所を首になったのは、薩摩のみか長州の青年ま で入学を許し、禁門戦争後も退学させす、かえって優遇し、まるで諸藩の激派の養成所みたいなもの にしたというのが理由でした」 西郷は笑って、 「それには、坂本君、塾頭としてのあんたの責任もあるのではないかな」 「あるかもしれません」 竜馬は頭をかいてみせて、「しかし、僕はどこまでも海舟先生の方針にしたがっただけです。先生は あの海軍練習所に、薩摩、長州、土佐、越前、宇和島、佐賀をはじめ、諸雄藩の青年を集め、雄藩連 合の基礎をつくり、幕府の海軍ではなく、日本海軍を創成するつもりたったのです」 西郷はうなすいたが、何も言わなかった。 竜馬はつづけた。 おぐりこうずけのすけ 「それでは幕府のためにならぬので海舟先生は首になり、今は小栗上野介が所長になっていますが あの男は危険です。フランスのロッシュ公使と手をにぎって策謀しているが、全く何をやり出すかわ からぬ。今の幕閣の中では、最も油断のできない人物です」
「勝先生のおられたころの海軍練習所は楽しかったなあ。幕府親藩も譜代も外様も、海舟先生の眼 中にはなかった。なあ、お竜、おまえもお・ほえているたろうが、あのころの練習所には長州の杜小五 郎氏もたびたび遊びに来られた」 お竜はうなすいて、「対馬の御家老大島友之允さまとごいっしょに : 西郷はちょっと顔色を動かして、 「桂さんは海舟先生と何を話された ? 」 竜馬が答えた。 「もちろん、海軍創設のことです」 「長州海軍の : 「とんでもない。 日本海軍の創建です。海舟先生も桂さんも、幕府の立場や長州の利益などは全く超琴 越しています。 : 対馬の大島さんのいる時には、朝鮮のことがいつも問題になって : : : 」 「なに、朝饉 ? 」 月 「晴れた日には、対馬から朝鮮が見えるそうです。朝鮮では李太王の父大院君というのが実権をにぎ 章 : この人物は半島の猛虎とよばれている一種の傑物だそうですが、対馬を属領視し、日本を二 軽蔑しているばかりか、固く鎖国主義をとり、キリスト教徒を虐殺し、フランス艦隊を砲撃し、これ 3 を撃退したとかで、今や得意と権勢の絶頂にあるそうです、 とざま
しるカ・ 「海軍局の連中が生意気にユニオン号を検査した上で購入するなどと言ったら、グラ・ハ 薩摩に売ってしまうそ」 「それはさせぬ」 「もし、やったら、どうする」 「おれは辞職する」 「へえ、本気か ? 」 井上は桂の顔を見つめた。 桂はふところをたたいて、 「辞表はここに用意している。おれは三田尻についたら、す 0 に藩庁に行き、重役どもと談判し、海 軍局をおさえさせる。もし聞かねば、外事掛などやめて、一兵士として、幕軍と決戦する」 「海軍なしで勝てると思っているのか ? 」 「たとえ長州は減んでも、勤皇の大義は残る」 「何度も聞いたセリフだな」 「井上、皮肉はよせ。男子、死を決すれば磐石も動く。不肖桂小五郎、大義に殉ずる覚悟はついてい 「それも聞いたような文句だ」 そのころ、蝶丸の伊藤俊輔は、半日航程ほどおくれてユニオン号を追いながら、操舵室に入りこ る」 は て 136
「出世は結構。だが、重役ともなれば、尻におもりがつく。腰に根もはえる。 普作は話せる。男子たるもの、長く権勢の座にすわるべからすと言った。 鼻がついたら、長崎に行く。おれの社中が待っている」 「海軍をつくるのか」 「いや、海軍よりもっと強いものをつくる」 「何だ ? 」 「外国相手の貿易商社だ」 「商人になるのか ? 」 「おい、三吉、幕府を倒せば、諸藩も倒れ、武士の仕事はなくなる。こんな刀も用はなくなる」 竜馬は大小を床の間に投げ出して、「富国強兵も、大海軍の創設も、高杉のいうとおり、五大州に腹 をつき出し、貿易事業を振興した上で : : : 」 「おいおい、おれはそんな法螺話は聞きたくない。もっと長薩盟約のことを話してくれ」 「それもそうだ。どこまで話したかな」 「まだ盟約の条項は一つも聞いていない」 ・「さあ、そいつは、同志といえども、もうすわけにはいかん」 「いやにもったいぶるじゃないか」 台なあに、君には話す。だ、たいの大綱たけをな」 : その点では、高杉 : おれは、この仕事に目 225 第十四章春の嵐
「よくわかりました。さっそく出発しましよう」 「港までいっしょに行こう。私は胡蝶丸で吉井と村田を鹿児島につれて帰ることになっている」 「えつ、僕はまた鹿児島まで行くのですか。ひどいまわり道だ」 「いや、君は三田尻港でも上の関でも、都合のいいところでおろす。それから先のことは、万事、君 にまかせる」 坂本竜馬は笑って、 「万事まかせられては、荷が重いな」 大久保も笑いながら、 「僕も京都のことは一切まかせられた。肩の骨が折れそうだ」 「なるほど、そうですか。僕もことわれませんね」 九月二十六日、西郷は吉井幸輔と村田新八をつれて大阪を出帆し、十月四日、鹿児島についた。 坂本竜馬はその途中三田尻で下船したが、港は大混乱で、港役人のだれにたすねても、桂と高杉の残 居場所を知っているものはなかった。 まず山口に行ってみるつもりで宮市の町まで来たとき、運よく小田村素太郎に行きあった。 小田村は俗論派の政府によって切腹させられた海軍局総裁松島剛造の実弟で、勝海舟の兵庫海軍練 習所にいたこともあり、坂本にとっては後輩の一人だ。藩庁の命により三田尻出張の帰り道であった 暑
「船印は薩摩、所有権は長州という話になっていたと思いますが」 「海軍局が承知せぬ。奴らは早く長州の船印をたてたいのた。無理もないが」 「坂本竜馬という土佐人がいます。この男を船長にして、船印は薩摩、所有主は長州にしておけばい いと思います。 : : : 坂本はまだ下関にいるでしようか ? 」 「さあ、それもわからぬ。とにかく、この急場は桂と井上とおまえの知恵にたよるほかはないのだ。 頼む ! 」 家老はもう一度白髪頭をさげた。 14 じ
「この船は大阪に直行します。下関にはひきかえしません。薩摩はまたそこまでは長州に親切ではあ りませんよ」 「では、積荷だけおろしてもらって : : : 」 「そうしましよう。早く荷役の手配をしてください」 正木海軍局員が不機嫌に言った。 「手配はできている。だが、伊藤、あのユニオン号はたたの蒸気船だった。砲艦にならんそ」 「正木、それを言うな」 山田がたしなめた。「言わぬという約東だった」 をし」 「さあ、伊藤、荷おろしのことは正木にまかせて、おまえは港にあがって一息いれてくれ。わしも行 港に近い小料理屋の奥座敷で、山田家老は伊藤を相手にぐちをこぼした。 「全く白髪がふえるよ。桂と井上は辞職するというし、グラ・ハ ーという男は海軍局員におとらず頑固 で、売るの売らぬと大さわぎだ。おまえはあの毛唐人と親しいそうた。何とかたのむよ」 伊藤は事務的にたずねた。 「ユニオン号の船籍は長州にしてかまわないのですね」 「その点も頭がいたい。 グラバーは直接長州に売るわけにはいかぬという。 し力」 ガン・ポート 伊 藤 考 は 139 第八章渦