「だが、桂はまだ西郷を知らぬ。蛤御門の敗戦も、三家老四参謀の死刑も、五卿を太宰府に移したの も、西郷の裏切りだと思っている」 「そ、そんなことはない ! 」 「そう、僕も裏切りだとは思っていない。西郷らしい必死の策略だ。その策略のおかげで長州の犠牲 はすくなかった。再起の望みもできた」 坂本竜馬は井上聞多を相手に飲んでいて、会話には加わらない。黒田はいやでも高杉の言葉に耳を かたむけざるを得なかった。 「政府員の中でも、前原一誠や大村益次郎にはよくわかっている。ここにいる井上も、それから伊藤 俊輔も僕と同意見で、桂の上京を望んでいる。しかし、今も言ったとおり、桂は西郷を知らぬ。だか ら、頑固屋連に、西郷のほうから長州にやってくるのが礼儀だと言われると、そうかと思う」 「西郷は自分で来たいと言いました」 黒田は弁明した。「だが、すでに幕兵が長州の四つの国境をかためているので、入国できない。西郷 は顔を知られすぎました」 「西郷とは先の征長戦争中に、この大阪屋で会った。薩摩人にとっては馬関海峡が三途の川だと言わ れていたその最中に、単身海峡をわたって乗りこんで来た。そんな男が桂を京都に呼び出して殺すは ずがない」 191 第十二章冬
西郷はうなすいて、 「そこまで考えているつもりだ。坂本君、あんたが私を桂小五郎と高杉晋作に会わせてくれるという のなら、もちろん、よろこんで会う」 竜馬は椅子からとび上った。おどりまわりたいのをやっとおさえたようである。 「では、西郷さん、この船を小倉につけて、僕をおろしてくれますね」 西郷は首をふった。 「それは無理だ。まだいそぐことはない。ただ会っても、何の役にもたたぬ。会う以上は、準備がい る。手みやげも用意せねばならぬ」 「あなたに今、長州に行けと言っているのではありません。僕が先に行って、会見の露はらいをし二 「坂本君、 くりかえすようだが、自分の家の台所の掃除もできぬ先に、人の家のことに口を出すこと きです ! 」 西郷吉之助はテーブルの上に茶碗をすべらせた。お竜が番茶をつぐ。西郷はそれをゆっくりと飲み ほして、 「牽制などでは間にあわぬ。やる以上は、幕府を打ち倒す覚悟がいる」 「えつ、あなたは、そこまで : : : 」 35 第章月 琴
あれは薩摩の船ですね」 南西の微風に帆をはためかせながら、丸に十字の船印をひるがえした千石船が島かげにかくれて行 くところであった。 西郷は早くから気がついていたらしく、即座に答えた。 いぶすき 「指宿の浜崎屋太平治の持船だ」 「浜崎屋なら知っています。長崎のグラ。 ( ー屋敷で何度も会いました。町人にしては腹のできた、お もしろい男です」 と言って、急に思い出したように、「西郷さん、たしか浜崎屋は下関で持船を撃沈されたことがあり ましたね、長州兵に。 ・ : それも、つい最近 : : : 」 西郷はうなずいた。 坂本は声をはげまして、 「いけませんね、薩摩と長州が船の沈め合いをしているようでは。 作に会いませんか。僕と中岡慎太郎が御案内します」 西郷は答えない。坂本竜馬はかまわずにつづけた。 ゆくえ 「桂小五郎にもぜひ会っていただきたい。桂氏は蛤御門以来、行衛しれずということになっています が、どうも僕の勘では、もう長州に帰「ているような気がします。何と言っても、長州の二本の柱は ・ : どうです、西郷さん、高杉晋琴 25 第二章月
「僕は帰る。京都のことは薩摩にまかせよう。薩摩が天下のため、皇国のためにつくしてくれれば、 それて繻構。たとえ長州はほろんでも、薩摩が回天の偉業を実現してくれれば、日本のために大幸で ある」 「よくわかった。今回のことは薩摩が悪い、西郷がまちがっている。僕はこれから西郷に会って来ま 「待て、坂本君。もう手おくれだ」 「いや、僕はあなたにも待ってもらいたい。あと一日や二日、帰国をのばしても同じことだ。西郷の・ 真意をつきとめてくる。それまで、あんたの出発を許しません ! 」 坂本竜馬は薩摩藩邸にとんで帰った。お花畑から相国寺は近い。御所の中を通るのも同然だから、 竜馬は警戒を忘れ、所司代か奉行所の手先らしい男があとをつけていることに気がっかなかった。 池内蔵太にたすねると、西郷は外出から帰ってきて、私室にこもっているという。竜馬は案内なし にとびこんで行った。 「おお、坂本さん」 西郷は言った。「よく来てくれた。あんたの上京を待っていたのだ。あんたがいなくては、この話は まとまらん」 竜馬は怒りをかくさずに答えた。 「調子のいいことを言わないでください。し 、ま、僕は桂氏に会ってきた。話をぶちこわしたのは、酉
それから十日ほどすぎた正月の十八日、坂本竜馬が長州から潜行して、大阪の薩藩邸に着いた。神 みよししんそう 戸までは長府藩の同志一一一吉慎蔵といっしょだったが、大阪は危険と見て、三吉を神戸にのこし、一人三 でのりこんできたのだ。 ぎばでんない 守居役の木場伝内はおどろいて、 、。ムひとりのカではとてもあん 「無鉄砲にもほどがある。いま大阪には小松家老も西郷さんもいなし禾 初対面である。 だが、西郷はこだわらなかった。ゆったりと腰をあげて、 小松、大久保、吉井、それから桂久武も首を 「では、京都までお供いたします。二本松の藩邸には、 長くして待っております」 日ののぼらない先に出発した。竹田街道には、ほとんど人通りがなかった。要所要所に薩摩の兵が 伏せられていて、それが人通りをくいとめているようにも感じられた。 雲は相変らず低い。風もつめたかった。二度ほど、幕吏らしい連中に出会ったが、西郷の姿を見る と先方から道をさけた。 京都の町が見えはじめた時、桂は西郷に言った。 「まるで薩摩御用の街道を歩いているようですな」 西郷は苦笑しただけで何も答えなかった。 閃 5 第十阜陰
桂小五郎と高杉晋作です」 西郷はしばらく考えこんでいたが、やがて、ゆっくりと答えた。 「また早すぎる」 「なぜ ? 」 「自分の家の台所の整理もできぬ先に、桂、高杉さんに会っても、大きな口はたたけ申さぬ」 坂本竜馬は沈黙した。気押されたのだ。西郷の言葉はいつも短かいが、ふしぎな重味がある。 下の船室の方から月琴の音が聞えて来た。この場にふさわしくない いや、ちょうどいい合の手 であった。 西郷は巨眼を細めて、 りよ。っ 「お竜さんだな」 「あいつ、またいたずらをしています。昼飯の手伝いでもすればいいのに 「いや、だんだん上手になる。私は政治の話よりも、あの音のほうが好きた」 さつまびわ 「しかし、月琴や薩摩琵琶では、天下のことは : 西郷は聞えぬふりで、 「あんたはいい相手を見つけた。これを艶福というのかな」 「そんな浮いた仲ではないつもりです」 「立派な相手だと言ったのた。遠慮することはなかろう」 竜馬は苦笑し、かすかに赤くなって、
「三千、五千の大兵ともなれば、兵樶が莫大でしよう」 「坂本ん、また何か考え出したな」 「西郷さん、長州の米を買うのです。幕軍と戦うための兵糧を長州にたのんだら、薩摩人に対する不 信も猜疑も吹っとんでしまう」 西郷はうなずいて、 「相変らず知恵者だな、坂本さん」 中岡慎太郎が膝を乗出した。 「その使者には僕が立ちます。坂本はもうすこし西郷さんのそばにいろ。海舟先生にも会いたかろう し、伏見の寺田屋にはお竜さんも待っているそ」 119 第七章西風
先に口を切ったのは齢上の坂本竜馬であった。「京都に急用ができたというのは本当か。西郷が下 関にくれば、薩摩が長州に頭を下げた形になる。それにこたわったのではないのか ? 」 「西郷はそんなけちな男じゃない」 中岡は言った。「おれは佐賀の関で大久保の手紙を読んだ。たしかに西郷としては、下関に来るより も、京都の大勢挽回が急務だと考えたのだ」 「桂氏には、それも通しなかったな。なにしろ二十日近くも待ったのだ。怒るのも無理はない」 「坂本、何か名案はないか」 「こっちから聞きたいことだ」 「ここで、われわれがあきらめたら、実も蓋もない。桂氏はまだしばらく山口に帰らぬだろう。もう 一度、口説きに行くか」 「だめだめ、西郷自身をひきずってくるよりほかには方法はないさ」 そこへ意外な人物がとびこんできた。高杉をさがすために讃岐にわたったはずの伊藤俊輔であった。風 「おぬしら、とうとう御大を怒らせたそうだな」 何がうれしいのか、伊藤はニコニコと笑って、「無理もない。桂先生は真重だ。しかも、最初から薩西 摩の誠意をうたがっていた。実は、太宰府の三条卿にひそかに手紙をかいて、薩摩の真意をたすねた章 ほどだ。 : : : 幸いに三条卿の返事は、薩摩は最近藩論を転換し、勤皇討幕の旗加を明らかにした。特 に西郷吉之助という男は信煩できるということだったので、桂先生は無理をして待っていた。その西 郷が約東を破った。動からんね ふた
そんそせっしよう 「樽俎接衝・ : ・ : 」 つまり、奥座敷や宴席でこそこそやることは、おれには不得手だ。武士には戦場とい 「何でもいい。 うものがある。幕軍を壊減しないかぎり、薩長盟約も言葉だけ、紙の上のたわごとにすぎん」 「そうとは言いきれん」 「いや。おれはそう思う。幸いに長州が勝利して、おれも生きのこったら、高杉晋作や山県狂介とと もに堂々と上京する。それまでは、西郷さんにも会いたくない」 村田が何か言おうとするのを、浜崎屋がおしとどめて、 「これが桐野さんという人ですよ。どうしても戦争をしたいとおっしやる。わたしゃ照香がひきとめ ても聞くどころではない。幸い、わたしの持船が明日あたり出帆しますから、三田尻か下関まで送り とどけることにきめました。西郷さんには、そうお伝え下さい。照香もいっしょだから、今度はいく らかおとなしいでしようよ」 「仕様のない男だなあ」 「なにをこいっ ! 」 桐野はいきりたったが、さすがに立ちあがらず、「西郷さんに言ってくれ。桐野は最後まで勤皇討幕 の志士として戦う。それだけだ ! 」 西郷吉之助は慶応二年三月四日、薩摩の船三邦丸で、坂本童馬夫婦をつれて帰国の途についた。 248
竜馬はお竜をふりかえ 0 て、すこし赤くなりながら、吉之助に言った。「おかげで、傷は伏見でだい たいなおったが」 西郷は笑顔で、 「では、看護人も伏見に送りかえそうかな」 「はつはつは、それは御親切がすぎます」 竜馬も笑い、西郷も笑った。 その数日後、竜馬はまだ不自由な手で土佐にいる姉に長い手紙を書いた。その中に、次のような一 節があった。 『今年、正月二十三日の夜の難にあいし時も、この竜女があればこそ、竜馬の命は助かりたり。京の 屋敷に引取りて後は、小松、西郷などにも正妻と知らせ候。このよし、兄上にも御申しつかわさるべ く候』 西郷と小松も、竜馬がお竜を正妻にすることを心からよろこび、吉井幸輔をはじめ藩邸の有志を集 めて、二人のために祝宴を開いた。 「思えば長い仲だったのです」 竜馬は述懐した。「はじめて、これを見たのは、十五か十六のときで : : : 」 「はつはつは、そのおのろけなら、何度も聞いた」 小松帯刀が言った。「しかし、何度聞いてもいい話だ。聞ぎましよう」 「そう言われると、話せなくなります。な二しろ、小娘の時から気の強い奴で、いよいよ正妻と 0 237 第十四章春の嵐