: わが藩内にも俗論はある。久光公という大難物もいる。長州を仇敵と思いこんでいる はでぎぬ。 ものもあり、薩長連合、討幕などと言ったら、その場で目をまわして、ひっくりかえる連中も決して : 私は一刻も早く鹿児島に着き、大久保と相談して、藩論の一定に全力をあげねば すくなくない。 ならぬ」 「お恥しい話だが、ここでわれわれが道草をくっていると、幕府の長州再征のために出兵せよなどと 藩論が逆転してしまうおそれも十分にあるのだ」 「あんたを小倉におろすひまはない。あんたがこのまま長州に行っても、何の手みやげもない。 あんたにはます鹿児島まで行っていただく。藩論一決のためには、あんたの意見と雄弁が役に立つ。 いや、藩論については、あんたの助力は願わぬつもりたが、長州行きは藩論決定の後でなければ、意 味がない」 : よくわかります」 「それは : 「鹿児島の実状を見れば、あんたもおのすから悟るところがあろう。その上で、またあんた独特の奇 策が生れぬともかぎらぬ」 「そうかもしれません。しかし、薩摩のことは、あなたと大久保氏におまかせしておけば安心です。 あなたの胸中には、すでに不動の信念と大策があると、僕は見てとりました。僕はあくまで薩長連合 これもまた一刻もゆるがせにできぬことでしよう」 の露ばらいに専心したい。
「よくわかりました。さっそく出発しましよう」 「港までいっしょに行こう。私は胡蝶丸で吉井と村田を鹿児島につれて帰ることになっている」 「えつ、僕はまた鹿児島まで行くのですか。ひどいまわり道だ」 「いや、君は三田尻港でも上の関でも、都合のいいところでおろす。それから先のことは、万事、君 にまかせる」 坂本竜馬は笑って、 「万事まかせられては、荷が重いな」 大久保も笑いながら、 「僕も京都のことは一切まかせられた。肩の骨が折れそうだ」 「なるほど、そうですか。僕もことわれませんね」 九月二十六日、西郷は吉井幸輔と村田新八をつれて大阪を出帆し、十月四日、鹿児島についた。 坂本竜馬はその途中三田尻で下船したが、港は大混乱で、港役人のだれにたすねても、桂と高杉の残 居場所を知っているものはなかった。 まず山口に行ってみるつもりで宮市の町まで来たとき、運よく小田村素太郎に行きあった。 小田村は俗論派の政府によって切腹させられた海軍局総裁松島剛造の実弟で、勝海舟の兵庫海軍練 習所にいたこともあり、坂本にとっては後輩の一人だ。藩庁の命により三田尻出張の帰り道であった 暑
「それも、もっとも ! 」 西郷は答えた。「鹿児島からは長崎行きの蒸気船がいつも出ている。あんたは行きたい時に、長崎ま わりで長州に行ける」 「そうですか。お言葉にしたがいましよう」 長崎にも太宰府にも用件がある。 : : : 西郷先 竜馬はさからわなかった。「そのほうが順序でしよう。 生、たぶん僕は鹿児島に着き次第、長崎にまわるかもしれません。その時には、お竜をたのみます」 「お竜さんを ? 」 「ついでがあったら、伏見の寺田屋に送りかえしていただけばいいのです」 「いそがしいお人た。 : : : 寺田屋に送りとどけることは引受けた。お竜さん、それでよろしいのだな」 。し結構です」 気軽で、気丈な返事であった。 37 第二章月琴
井上は桂にはぞんざいな口をきく。家柄も桂よりも高く、齢もほとんどちがわない。 「いや、グラ バーは自分はどこまでも商人だから、政治を利用して金をもうけるだけだ、軍艦も武器 も利益の多い方に売る、と言った」 「ふうん」 「しかし、幕府がたの諸藩はちかごろだんだん払いがわるくなって来た、フランスは幕府に腰入れし て、だいぶつぎこんでいるようだが、相手がつぶれたら、元も子もなくなる、フランス人はイギリス 人よりも商売が下手だ、と笑っていた」 「ところが、長州と薩摩をくらべれば、今までのところ、薩摩のほうが景気がいし ができる、と一一一一口う」 「それは藩論が統一しているからだ。おれは鹿児島に行って見てきた」 井上は薩摩での見聞を話した。桂はうなずいて、 ーにも見当がっかぬらし 「それにくらべると、長州は七花八裂だな。どこに中心があるのか、グラバ : 立ちおくれたな。と言っても、今さら薩摩の下風に立つわけにはいかぬ。おれも西郷や大久 保には、頭を下げる気はない」 「その気持は、長州人なら、だれも同じだ。しかし、大の虫を生かすために、 小の虫を殺さねばなら ぬ時が来たようだ」 「おぬし、鹿児島でだいぶ飲まされてきたな」 、安心して取引き 134
「援軍はまだ早すぎる。せめて糧米だけでもかえさねばならぬ、と西郷は言っている」 「なるほど、西郷さんらしいな」 「しかし、ただ送りかえしたのでは、長州はまた薩摩を疑うかもしれぬ。この使者は君よりほかにい と西郷は言った」 「行けと言われれば、行きますがね」 お竜がそばから不平そうに、 「あたし、また、おいてけぼりなの」 「長州につくころには、戦争がはじまっているかもしれぬ」 竜馬は言った。「おまえ、戦争の見物がしたいのか ? 」 「どうせ、長崎まわりでしよ。せめて長崎までつれて行ってちょうだい」 お竜は小娘のように身をゆすって、「長崎にはシナ人の月琴の先生がいるそうよ」 る ゅ 「なんた、そんなことか。お安い御用だ」 吉井とい 0 しょに鹿児島の小松帯刀邸にかえりつくと、竜馬にとって凶報が待っていた。桜島丸は萌 鹿児島への航海の途中、昨年の暮れ薩摩藩に買ってもらった帆船ワイル・エフ号の命名式をあげるた めに、長崎から曳航してきたが、その帆船が暴風のため別れ別れとなり、五月二日、五島列島沖で沈五 没、船長黒木をはじめ、多くの海援隊士を失い、犠牲者の中には京都で別れたばかりの同志池内蔵太 もいるという凶報であった。 竜馬はお竜に言った。
「長崎を留守にするわけにはいかぬ。ュニオン号がいっ帰って来ないともかぎらぬし : : : 」 「帰るものか。早くとも、あと二十日はかかる。おれはぜひ鹿児島を見て来たい」 伊藤は首をふって、 「実は、国許で桂先生と高杉さんがこまっているという噂を聞いた。家老の山田宇右衛門殿と藩庁と の交渉に手ぬかりがあって、今度のことは桂先生の独断専行だと文句をつける連中がでてきた」 「だれが何と言おうと、銃器と軍艦は絶対に必要だ。ちゃんと持って帰れば、文句などけしとんでし まう。 : とにかく、おれは薩摩に行ってくる。留守はたのむぜ」 小松帯刀といっしょの船で、井上は出かけてしまった。 その留守中、上海からの飛脚船が浜崎屋太平治の手紙を持って来た。銃器は手に入りそうだが、数 が多いので集めるのに手間がかかる。帰航は八月の末になるものと思ってくれと書いてあった。 桂小五郎からも手紙が来た。藩庁と海軍局員は銃器購入には異議はないが、ユニオン号購入には反 対している。この前長崎で買った船が全く実戦の役に立たなかったので、今度も井上、伊藤ごとき素 とんないかものをつかまされるかもしれぬ。なぜ専門家の海軍局員を派遣し 人にまかせておいては、。 なかったのか、というのが反対の理由であった。 間に立った家老の山田宇右衛門は気をくさらせて萩にひっこんでしまった。自分も逃げ出したいと ころだが、乗りかけた船、最後まで責任をとるから、予定を変えることなくがんばってくれ、と激励 してあった。 何と返事を書いていいか、伊藤がこまっているところへ、鹿児島の井上から手紙が来た。大いに歓 はぎ 128
も同然。ちと大人げないとは思わぬか。 と、大笑したという。 「隅におけぬのは海舟先生のほうだな」 中岡慎太郎が言った。「長州征伐をやれば、幕府に不利なことを見ぬいている。そこを見ぬいて、ま るく時局をおさめようとしているのだ」 「しかし : : : 」 坂本がひきとって、「もし勅命が下ったら、薩摩も最後まで出兵拒否というわけにはまいらぬであろ 「いや、幕府が兵力でおどして奪いとった勅命は幕命にすぎない」 岩下は答えた。「薩摩は幕命にはしたがわぬ。薩摩が動かねば、尾張、越前、宇和島も動かぬ。貴公 らの土佐はどうだね ? 」 「さて、それは : 「土佐にも動いてもらいたくない」 西郷が口をきった。「そのためには、薩摩は大兵を用意せねばならぬ。現在、京阪にいる兵力だけで はまにあわぬ。いずれ、大久保か私が兵隊をひきつれてくるために鹿児島に帰ることになる」 坂本竜馬が何を思いついたのか、キラリと目を光らせた。 「大兵というと三千ですか、五千ですか ? 」 「それは大久保にまかせてある」 : しかし、薩摩も全く隅におけぬ戦術家になったものだ」 118
「これてこの件は万決着な近く村田新八とⅡ それに持たせてやろう」 竜馬は言った。 「これから、どうするつもりです ? 」 「小松、吉井といっしょに鹿児島に帰る。大久保は先月末に出発した。出兵の準備た」 「国もとには久光公という大難物がいる」 「僕にはどう考えてもわからないのですが、あなたは久光公とどうしてそんなにそりが合わぬのです カ ? 」 る ゅ 西郷は苦しそうに、 「さあ、それは : : : 私にもわからん」 草 「性格の差ですかね」 「ちがうようだな。性格なら、私と大久保もちがう。君ともちがう。桂小五郎氏とは大いにちがって五 十 いる。だが、天下の大事についてはともに語り合えた。一致点も見い出せたが : 第 「あなたは久光公を田舎大名とけなしつけたそうですね」 「あれは私の暴言だ。久光公は聡明で寛大、雄図も胸に蔵している」 純義を答礼使として下関に送ることになっている。
中岡慎太郎はつづけた。 「おれはこれから薩摩に行く。どうだ、おぬしもいっしょに行かぬか ? 」 桐野は度胆をぬかれた形で、左手にさけた蝋鞘の大刀を取りおとしかけた。 「な、なんで、おぬしが薩摩に・ 「西郷さんをひつばり出しに行く」 「ど、どこに : : : ひき出すのだ ? 」 「この長州に」 「まかな」 「何がばかだ ? 」 「西郷が来るものか ! 」 「いやいや、この前の征長戦争のただ中にも乗りこんできた。今度もきっと来る」 中岡は断言して、「どうだ、桐野、おぬしもそろそろ薩摩に帰る時が来たのではないか」 「余計なお世話だ」 桐野は心の傷にふれられたように顏をしかめて、「おれは脱藩者だ。薩摩にかえれば斬られるだけの ことだ。わざわざ切られに帰る馬鹿があるか ! 」 「おれも坂本竜馬も脱藩者だ」 : だが今は脱 中岡は軽く肩をゆすって、「土佐に帰れば斬られる。幕吏につかまっても斬られる。 瀋者が働く時だ。坂本は西郷さんについて鹿児島に行ったはすだが、いずれ、おれといっしょに土佐 4
国の宿は冷えすぎた 「やつばり下界のほうが住みよいらしいな」 竜馬とお竜はその翌朝、山をくだって、日当山温泉にひきかえした。 吉井幸輔が鹿児島から来て、竜馬を待っていた。 「どうだ、休養はできたか ? 」 「ああ、おかげで傷もなおったようです。そこでまた仕事ですか ? 」 「実は長州から桜島丸が来た」 「えつ、 ュニオン号が ? 」 桜島丸は薩摩の名儀でグラ・ハーから買ったユニオン号だが、その帰属の問題で両藩のあいだにゴタ ゴタがおこっている。 竜馬の顔色を見て、吉井は笑った。 「ゴタゴタの話じゃない。長州から兵糧米を送りとどけて来たのた」 「それは結構 ! 」 「いや、結構とは言えぬ」 吉井は答えた。「幕軍が四境にせまっている長州にとっては、一粒の米も大切な時だ。長州の好意だ けをうけて、米は送りかえしたい」 「そんな手間のかかることをするよりも、米のかわりに援軍を送ってやったほうが、長州は喜ぶ。桂、 高杉君の信義と誠意にむくいることもできるのではありませんか ? 」 256