到な演出をうけているにちがいない。つまり口移しだ。自分の意見も判断も持たぬ。その証拠には、 直接議論すれば、久光は春嶽や容堂に言いまかされて賛成する。だが、翌日はまたそれと正反対の意 見を持ってくる。歌舞伎芝居で言えば、家柄だけ高い大根役者が、楽屋で教えられたセリフを棒読み するだけで、自分の芸も工夫もない。 容堂には、大根役者の見えすいた芸当が我慢できなかった。「二条城への登城の義務はない」と同し 七リフをくりかえす久光にいきなりとびかかって襟首をつかんだ。畳の上をずるするとひきずりなが ら、 「これでも不承知か ! 不承知なら、このまま引きずって二条城におもむくそ ! 」 きせる 久光は手にした煙管で容堂の手をはげしくたたいて、 「うぬ、かりそめにも親戚上座たるこの久光を : : : 」 「親威なればこそ、こうしてやるのだ」 「離せ、離さぬか ! 」 容堂は久光をつきとばして、 「さあ、離した。 : 登城せぬというなら、もっと痛い目に合わせてやろうか」 ろうき 「待て ! 事情によっては、登城もしようが、いかに酒の上とはいえ、この浪藉は : : : もし私の家臣 たちが聞いたら、ただではすまぬそ」 「おお、家来たちに聞かせてやれ。なんなら、余がかわって広告してやろうか ? 」 127 第十章老公と老公
第十章老公と老公 徳川慶喜は二条城の奥書院で、原市之進の報告をうけた。 ふくしん ふところがたな 原はまだ一橋のころからの慶喜の腹心で、懐刀ともいうべき人物であゑ今は新将軍慶喜の「見 る目、かぐ鼻」の役目を演じて、渦巻く政局の底をくぐり、縦横に泳ぎまわって、親幕派の公卿大名 たちからは、「当代無比の切れ者」と重宝がられ、反対派からは「原の諸家入説、すこぶる陰険」と憎 悪されている。まき散らした黄白の量ははかり知れぬという噂も必ずしも的はずれではない。たしか に慶喜にとっては頼もしく、その敵にとっては油断のならぬ権臣であり、謀臣であった。 「河原町の土佐屋敷で、おもしろい一幕がございました」 おおすみのかみ 原市之進は唇の隅で微笑しながら報告した。「土州侯が大隅守久光の襟首をつかんでひきすりまわ と し、つき倒したという大芝居 : : : 」 「ほう、これはまた : 慶喜は端正な表情をくずさず、「容堂老公、御大酔の巻か」 「もちろん酒は入っておりましたが、非は久光のほうにあります。あの田舎大名は上様の二条城招待第 を承諾しておきながら、昨日になって、ことわったのでございます」
りよ ) 第七章諒 吉之助はずっと大阪の蔵屋敷に滞在していた。 徳川慶喜は二条城と大阪城を根城とし、原市之進を伴ってしきりに暗躍をつづけていゑ将軍職を ひきうけて以来、この貴公子はまるで生れ変ったようだ。もはや浪人大名の一橋慶喜ではない。その なりあき 本心はわからぬが、敵意をもって見る者の目には、陰謀家の名の高かった水戸斉昭の血がそのままよ みがえったかのような活躍ぶりである。薩摩の計画はすべて裏をかかれ、押しまくられている。京都 は大久保、大阪は西郷が受持ち、小松と吉井が連絡にあたっているのだが、とても対抗できない。 のままでは、薩摩も長州も、厄落しの文句ではないが、さらりと西の海にはらい捨てられてしまいそ 吉之助は、慶喜に対して、はじめてはげしい憎悪を感じた。前将軍家茂の生きていたころは、慶喜 は幕閣の老中たちや大奥にきらわれて、冷飯をくわされていたので、むしろ同情の目で見ていたのだ が、今は、慶喜こそ幕府そのものだ。病弱な家茂とくらべれば、まさに知恵と力をかねそなえた大将 軍である。彼を倒さねば、こっちが押しつぶされてしまう。 慶喜と原の辣腕によって、吉之助は大阪に釘づけにされた形で、上京するひまもなかった。だが、 らつわん あん いえもち
五月十四日の午後、四人の「老公」はうちそろって二条城に登城した。 そば 慶喜は白書院に席をもうけ、四人を側近く召しよせて、 「このたび、わざわざ上京のこと大儀に存ずる。なお天下のため十分に尽力されたい。さだめて意見 ふくそう もあることと思うが、腹蔵なくうけたまわりたいものだ」 松平春嶽が一同を代表して、 「特別の意見というほどのものもございませぬが、目下の急務は兵庫開港と長州処分の二つでござい ます。まずこの問題について昨年以来の経過をお示し願いたい。つぎに、過日、大阪城にて各国公使 を接見なされし時、開港の予約をなされた由、これなる大隅 ( 久光 ) 、伊予 ( 宗城 ) の両人が英人通弁官 アーネスト・ サトーなる者より聞いたとのこと、その実否如何についてもおうかがい奉りたい」 慶喜は答えた。 「しからば、昨年以来の実況のあらましを申上げよう」 まず将軍宣下のことから始めて、先帝孝明天皇から兵庫開港の勅許をいただくつもりであったとこ ろ、思いがけぬ崩御によって手はずが狂ったこと、また外国公使に開港の予約を与えた前後の事情を くわしく話して、 「開港は何人の目で見ても避けがたい。開港と決したからには、いろいろと準備がいる。安政条約に よる兵庫開港の期日は本年十二月七日だ。それより少くとも六カ月前、即ち来月中には天下に布告せ 130
容堂を斬ると放言したものもいるという。どうだ、ひとっ斬られてやろうか。ふつふつふ」 苦しそうに口をゆがめて笑い、急に思い出したように、 むねなり 「越前の春嶽御隠居も怪しい。薩摩におどかされておよび腰だ。大久保市蔵が伊達宗城を説き、小松 帯刀が春嶽の尻をたたいたことは、すでに周知の事実だ。 ・ : よし、この容堂があらためて春嶽を説 教してやる。尻でも頭でもたたいてやる。呼べ、春嶽を迎えに行け ! 」 越前の藩邸は加茂川の向う岸にあって、さほど遠くない。福岡孝悌が迎えに行くと、松平春嶽は、 いくらか迷惑そうに顔をしかめたが、ことわる筋はないと思ったらしく、駕籠をとばして土佐藩邸に やって来た。春嶽もまた容堂と久光の衝突、また二条城での久光、慶喜の明らかな対立を気にかけて 容堂は春嶽の顔を見ると、いきなりどなった。 「朝幕のあいだに、憎むべき奸物どもが策動して、離間をはかっている。聡明な春嶽公はもちろんお 気づきのことであろうが : 公 どなりながらも、酒盃をはなさず、「おたがいに戒心しなければならぬな、大蔵大輔殿」 老 と 「奸物とは大隅守のことか ? 」 公 老 「ちがう。大奸はまず岩倉具視。小奸は彼の手先の二十二人の貧乏公卿ども。さらには太宰府の三条 実美の一裳これを取巻く薩摩の芋侍、長州の陰謀家ども、加うるにわが土佐藩の脱藩組 : : : ここに章 いる参政の福岡、大目附小笠原唯八もちと怪しい。春嶽どの、貴藩士の中にも怪しいのがおりそうだ第 おおくらだゅう
国に招かれ 8 ・ 2 慶喜、仏国公使に兵器・軍艦購入に尽力してくれるよう る。福沢論吉要請。同八日、征長出陣のため参内したが、十一日、小倉城の 『西洋事情初陥落、その他の報告を聞き、出陣を中止 篇』アーネス 8 ・慶喜、参内し、解兵ならびに善後策を議すため、諸侯の ト・サトー『英召集勅命を再願し、聴許さる 国策論」出版。 8 ・幕府、将軍家茂の衷を発表。翌二十一日、朝廷、将軍家 英人ワーグマ茂の衷をもって、しばらく征長停兵の勅命を幕府に降下 ン、横浜で『フ 9 ・ 4 征長先鋒総督徳川茂承、広島を出発し、東上。征長軍撤 ・イース 兵を開始する ト』 ( 週刊英字間・ 西郷隆盛、小松帯刀とともに王政復古を実現するため鹿 新聞 ) 創刊。 児島を出発 ・ 2 幕府、岩倉具視に対する警戒を厳重にするよう命令 ・ 5 幕府、旗本を銃隊に編入し、筒袖羽織・陣股引を兵服と 制定する Ⅱ・西郷隆盛、英公使通訳官アーネスト・ サトーと会見す る Ⅱ・幕府、徳川昭武をフランス博覧会に派遣、ならびにフラ ンスに留学させることに内定 1 . 9 1 ワ 長州藩使節桂小五郎ら、薩藩主島律久光父子に面謁し、 両藩の親善に努力する ・ 5 勅使を二条城にさしむけ、徳川慶喜に新将軍の宣下 11 11 220
出迎えた一行の中には土佐の田中と長州の品川がいた。薩長土がここに集っている。「老公」たちは にらみ合っても、藩士たちはひそかに手をにぎり合っている。 四藩会議は山内容堂の脱落によって、事実上、崩壊した。脱落というよりも反撃であった。容堂は おおいも ちょうめん 久光を「大芋」、宗城を「長面」と呼んで、彼らの「策略」を憎んだ。筱らの背後に岩倉具視がおり、 西郷、大久保、小松がおり、ひそかに長州と手を結んで討幕を計画していることを知っていた。 容堂としては我慢できないことだ。貧乏公卿や脱藩浪士、まして自分自身の家来のあやつり人形に なることは、土佐二十万二千石の老公の意地と誇りがゆるさない。 しった 彼は若い将軍慶喜の立場に同情した。二条摂政、中川宮朝彦親王と結び、松平春嶽を叱咜して、四 藩会議をまっ二つに割ってしまった。久光の主導する会合には病気と称していっさい出席せず、しか も、慶喜の招待には応じて、二条城に馬上で登営した。不思議な病人だ。原市之進にもしばしば会っ ている。八方に腹心の家臣を派遣して情報も集めた。薩摩の討幕論が土佐藩士に影響しはじめたと見 ひめん ると、その首領と見なされる大目付小笠原唯八を罷免して、土佐に追いかえした。 だが、さすがの容堂の手も、岩倉と三条をとり巻く坂本屯馬、中岡慎太郎、田中、土方、楠木など日 の脱藩者までにはとどかなかった。江戸には板垣退助がおり、京都には谷干城、毛利恭助、佐々木高 行などが残って、ひそかに薩摩、長州と通じ、参政福岡孝悌もまたこれに同調していることは知らな かった。いや、知 0 てはいたが、大藩の実力者という自信におぼれて、彼らの力を過小評価していた。二 「老公」と呼ばれても、山内容堂はまだ若かった ここで、慶応三年における容堂をはじめ、重要人物の年齢を数えておこう。
四人の「賢公」たちは、四月の終りまでに、それそれ京都藩邸に到着したが、二条城には顔を出さ なかった。原市之進が探ってみると、土佐の容堂、越前の春嶽、宇和島の宗城は登城に賛成だが、薩 げん 摩の久光だけが言を左右にして腰をあげないのだという。もたもたしているうちに、五月も十日をす ぎてしまった。容堂はがまんできなくなり、十二月に三侯を河原町の藩邸にまねいて小宴をひらき、 その席上で久光を説いた。 おおすみおじど 「大隅の叔父御、何も意地をはることはなかろう。将軍は待ちかねている。ただ顔を見せてやればい いのだ」 久光は開きなおって、 「余は将軍家に招かれて上京したのではない。御所ならばいざ知らす、二条城へ登城して慶喜の前に . はいつくばる義務はない」 「ほほう、これははげしいな、薩摩の叔父御」 久光は容堂の叔父にあたり、親戚の序列では久光が上位だ。しかし、容堂はかねてから久光の田含 大名ぶりを軽蔑していた。 前藩主の斉彬はたしかに賢明であり、雄図も蔵していて、自然に頭が下ったが、久光という妾腹の・ 「実力者」は、その足元にも及ばぬと容堂は思っている。薩摩の片隅で育ったくせに、中央経営につい て人並みの野心を持っていることが、むしろ滑稽である。何をまちがえたのか、当代「賢侯」の随一 とうぬぼれ、四藩会議の主導権をにぎっていると自信しているようだが、久光の意見は要するに大久 保、西郷、小松などの家来どもの入れ知恵にすぎない。おそらく久光は会議にのそむ前に、彼らの周 ↓ 20
しい偏頭痛におそわれる。連日の酒のせいであることは明らかで、侍医と侍臣は節酒と静養をすすめ たが、それを聞くような殿様ではない。 いさめれば、逆に逆にと出る。 二条城会議の翌日は、朝から酒盃をはなさず、酔いが苦痛を痳痺させると、参政福岡孝悌と京都留 守畳役毛利恭助を呼びつけて、あたり散らした。 ・ : ふん、この容堂をつんぼ座敷の馬 「怪しからん奴らだ。おまえらはいっ薩摩の家来になった ? ・ : 余は島津久光とはちがう。絶対に家来ども 鹿殿様あっかいにしたら許さぬそ。しやらくさい のあやつり人形にはならぬ。何もかもお見通しだ。おまえらが大目附小笠原唯八や谷干城、さては脱 藩組の坂本竜馬、中岡慎太郎らと気脈を通じ、薩摩の大久保、小松、西郷の徒とこそこそやっている ことは、みんなわかっているのだそ、馬鹿者どもめ ! 」 手がつけられなかった。 「余のそばにも寺村左膳や真辺栄三郎のごとき忠義な家来がいる。彼らに聞くがよい。薩摩屋敷の長 屋には、すでに長州藩士らしきものが潜伏している。うそと思うなら、自分でしらべてみよ」 容堂が京都にはりまわした情報網は広く、網目はこまかい。 ときどき家臣をどきりとさせるような ことを口に出す。 「久光がわれわれの前でしゃべる言葉は、すべて大久保市蔵と小松帯刀のロ移した。大久保は岩倉具 視と結び、中御門、大原などの不平公卿どもをあやつって、二条摂政をおどしつけている。あの大奸 : 西郷 物の貧乏公卿め ! 岩倉にあやつられる奴らは、朝廷の中のごろっきだ。公卿とは一一一口えぬ。 吉之助と吉井幸輔も岩倉と大久保の糸にあやつられて、小まめに動いている。薩藩士の中には、この まひ 134