看護の女官たちも楽観していたのが、二十四日、病状急変、二十五日の夜半、崩御あらせられた。 さちのみやむつひと 宮廷は厳重に喪を秘し、二十七日に皇子祐宮睦仁親王 ( のちの明治天皇 ) の御践祚を内定した上、十 二月二十九日、崩御の旨を発表した。 もちろん崩御のことは、宮中のさまざまな筋を通じて、外部にもれた。近衛家を通じて、薩摩の家 老岩下方平と大久保に、また侍従岩倉具定を通じて幽居中の岩倉具視の耳に入った。 さきに将軍家茂が大阪城で薨去し、いままた天皇の崩御を聞く。慶応二年は幕府と朝廷の双方に死 をわけて暮れたのである。 西郷吉之助は吉井の知らせをうけて、小松帯刀とともにただちに上京した。二十九日の正午ころ、京 都藩邸に着いたが、奥の一間でただ茫然と腕組みをしている大久保市蔵の姿を見出しただけであった。 れんけっ ばいしん 朝廷に対しては、西郷も大久保も陪臣の陪臣であって、いかに恋闕の心にもえていても、参内して おくやみを申上げることはできない。宮中の今後のことにも口をはさめる身分ではなかった。 「たいへんなことになったな」 「全く、思いがけないことであった」 それだけが言葉であった。 午後もおそくなって、近衛家につかえて岩倉具視との連絡にあたっている薩摩人、井上石見がやっ て来た。 「岩倉卿は、これで頼みの綱も切れはてたと言っています。この天皇にこそと一身をかけ、一切の希 ぎこり 望を托していたのも、すべてが画餅に帰した、この上は世を捨てて木樵か百姓になるよりほかはない せんそ いわみ
日本の中の異人種かもしれぬ。言葉も江戸人や長崎人とはまるでちがっている。西郷と名乗るこの大 男はしきりに幕府を攻撃するが、いったい彼は何を狙っているのか ? ) ークスはシーポルトを通じて答えた。 通訳が終ると、 「そのようなことは、日本内部の問題である。われわれは幕府を日本の事実上の政府と認めて条約を 結んだのだ。そのために生じた国内のごたごたは、外国人の知ったことではない」 西郷吉之助ははねかえした。 「日本歴史を読めば、すぐにわかることだが、幕府は決して日本の正統の政府ではない。京都の朝廷 からただ軍事権を委任されているだけで、外交のことを決する資格も権限もない」 「そうは思わぬ。現に安政条約は幕府の大老によって署名調印されている」 「いや、それは幕府が朝廷を無視し、強制したのだ。日本人はこの不忠と不義をゆるさぬ。大老井伊 かもんのかみ 掃部頭はその故に首を失ったのである」 「それも日本の国内問題だ。政治は実力ある政府によって行われる。京都の朝廷はただの飾り物では ないか。われわれは幕府が承認すれば、条約は有効と認める。朝廷の許可などは問題にしない」 「とんでもないことを申す人だ。あなたは日本の歴史と日本人の心を知らぬ」 「自分は日本歴史を勉強に来たのではない。外交を行いに来たのだ。京都に朝廷が存在していること は認めるが、実質上の支配者は江戸幕府で、その支配はすでに三百年つづいていると聞いた」 「あなたの言う幕府の実力なるものは、すでに崩壊しはじめている」 「そのような兆候は認められぬ。わが大英帝国はどこまでも実力者を相手とする。目下のところ幕府 ? 5 第二章礼
木戸は肩で息をついた。 「サトーさん、それを聞いて安心しました。僕の盃をうけてください」 、飲みます。いくらでも飲みますよ。愉快ですね、今晩は ! 」 酔ったサトーは芸者に三味線を註文して、日本語の歌をうたいはじめた。都々逸であった。 三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい 木戸と伊藤は顔を見合せた。だが、その都々逸の作者の高杉晋作が死んだことはロに出さなかった。 外国人との話題にするのには、あまりに重く、あまりに生々しい思い出であった。 それには気のつかぬサトーは、歌い終ると急に真顔になって、 「ひとつだけ、みなさんのためになる話、いたします。たいへん、まじめな笑い話です。イギリスに は″お婆さんの理屈〃という言葉があります。これは立派な議論を口に出しながら、実行しないこと を申します。 : つい最近、京都で四藩会議というのありましたね。薩摩、土佐、越前、宇和島の御 老公、集まりましたね。たいへん立派な天下の公論正論を朝廷と将軍さんに献上 : : : 献白しましたね。 けれども、だれも最後まで努力せず、実行せす、みんなばらばらになって国にかえってしまいました。 おかしいですね。まったく、男らしくない。お婆さんの、いや、おじいさんの四人の御老公の鯉屈で すよ。はつはつは とどいっ 216
よしみをもって、内々に申しあげるが、至急、三条実美を呼びかえして、幼帝の補佐役に任ぜよと言 った。何という大それたこと。おそれ多くも先帝陛下は三条という青公卿を、はっきりと逆賊とお呼 びになった。これを新帝の補佐役とは、不逞不忠、無責任きわまる浪士意見だ」 「あなた御自身の意見をお聞きしたい」 「余の意見は尊王佐幕ーーそれ以外にはない。幕府を強めれば、朝廷も強くなる」 「結構でしよう。その意味なら、わたしも同感。幕府を倒そうなどとは夢にも思っていません」 「奸物どもは兵庫開港問題を寄貨として、府の失態を数えあげ、一挙に討幕まで持って行くつもり だ。その手には乗らぬ ! 」 「いかにも」 「そもそも四藩会議というのが、奸人の奸策ーーー・ごろっき公卿と脱藩浪士と結んだ薩長野心家どもの 陰謀だ。久光はデク人形にすぎぬ」 公 「薩長は四藩会議をあやつり、朝廷と幕府のあいだに楔をうちこもうとしている。将軍慶喜公も御用 心が肝要。四藩に誘導されず、むしろ誘導して自ら発言すべきだ。朝廷と幕府は対立すべきものでは貶 ない。将軍は自ら摂政邸に乗りこみ、朝廷の重要公卿とわれら四藩の藩主も同席の上、ともに会談す老 章 るのが常態であり、上策である」 第 「まことにごもっともな御意見ーー酔中の御放言とは思えぬ」 「何のこれしきの酒。余にとっては、酒は長養の霊薬 : : : 」 くさび
汰やみとなった。まことに残念この上もない」 「それはイギリスにとっても残念なことだ」 ークスは真顔で答えた。「ところで、朝廷との直接交渉となると、これまで幕府と取りきめた条約 はどうなるのか ? 」 「その時は、朝廷より有力な五、六藩の藩主に命じて、外交のことに専任させる。もちろん兵庫港の 関税は朝廷におさめることになるが、そうなってはじめて万国普通の条約であり、信義の交わりも人 現する。これまでのように、途中で幕吏が賄賂をむさぼるようなこともなくなり、外国にとっても好 都合であり、日本にとっても外交の本道がひらけることと信じます」 「至極もっともな議論、よくわかった。しかし、この問題は外国からせき立てては、押しつけがまし く、不服の人々も出て来るであろう。ゆっくりと手続きをふみたいと思うから、そちらも機会を見て ' よろしく御協力を願う」 「承知いたしました」 「しかし、西郷さん」 ークス公使ははじめて徴笑した。「一国に二人君主がいるというのは、外国では例を見ない。 れ、国王はただ一人ということこ 冫いたさねばなりませんね」 章 吉之助は頭をさげた。 「そのことは、全くお恥すかしい。日本人として、外国人に対し、とんと不面目のことで頭が上がら第 ぬ。一日も早く一君万民の国体をうちたてたいものです」 0 、
めに何度も傷ついたが、薩摩は無傷のままで天下を狙っている」 「慶喜が最も苦しんでいるのは、外国の問題だろう。フランスの援助を全面的にうけ入れたら、日本 をほろぼすことになる。しかし、薩摩と長州がイギリスを味方につけた上は、フランスに頼らざるを 得ない」 「イギリスが薩摩の味方になりましたか ? 」 「いや、イギリスはパクチを打っているだけだ。フランスが幕府にかけるのなら、イギリスは長州と 薩摩にかける。このほうが勝ち馬だと目をつけた。勝ち馬と見てくれたのは結構だが、しかし、薩摩一 も長州もイギリスに買われて、イギリスの馬になってはならぬ」 「慶喜もフランスの馬になりたいとは決して思っていない。しかし、幕臣の中にはフランスかぶれも やっき いる。幕府大切の一心から、フランスの馬になっても、長州と薩摩をたたこうと躍起になっているも・ のもある。この連中はあぶない。慶喜はおそらく、そのことを知って苦労しているのだ」 吉之助は立上がって囲炉裏ばたをはなれ、縁側に出た。 斜めな月が稲田と川をへだてた国司岳の奇巌を照らし出していた。 いにし 「伝右衛門さん、あんたに講釈するのはおこがましいが、日本の古えには、朝廷の権威はこの薩摩の 辺土にも及び、国司が任命され、征夷大将軍は朝廷の忠実な手足にすぎない時代があった。鎌倉以来 1 : これ以上待てない。待てば 1 武家が権力を私し、朝廷はあれどもなきお姿で、五百年がすぎた。 わたくし
「いやいや、決して差支えない。薩摩の意見は今や天下の公論である。私の申したことは、決してこ の場の思いっきではない。幕府の耳に入っても、すこしもかまわぬ」 「貴公の名前を出しても ? 」 「かまいませぬ。薩摩大目附西郷吉之助がしかとそのように申したと、お伝えください」 吉之助は今日の会見のために、大目附に任ぜられていた。小松帯刀が久光を説き、西郷をかりに家 とう午可を取って来たが、吉之助はことわった。そのような 一三目目 老に任し、島津姓を名乗らせてもいし ものがしら 小細工は公使をあざむくものであり、かえって会談のさまたげとなる。すでに軍賦役兼大物頭である から、大目附が昇進の順序だ。大目附で十分であると言って、故斉彬公御下賜の紋服を着て会見にの そんたのである。 「それほどに決心しているのなら、木筋の話ができる」 ークスは言った。「そこで、おたすねするが、昨年、四カ国の連合艦隊が兵庫に入港した際、京都 から朝廷の勅使が来るという話を聞いた。あれは何のつもりであったのか ? 」 「あの時は、薩摩の兵士を勅使のお供として外艦に乗りこませ、開港期日延期の交渉をし、そのあい だに諸侯を京都に集め、外交権を暮府から切りはなし、朝廷との直接交渉にするつもりでした」 「どうして、その政策がくすれたのか ? 」 「朝廷が幕府の外交権を取上げるならば、将軍は辞職のほかはないとおどかしたので、勅使派遣は沙
すいこう 坂本竜馬が文案をつくり、後藤象二郎と福岡孝悌が推敲した文章である。「大綱」には長い解説がっ き、次のような具体策をつけ加えてある。 一、議事院を設立すること。 一、議事院は上下両院に分ち、議事官は上、公卿より、下、陪臣庶民に至るまで正義純粋の者を選 挙すること。 一、将軍職を廃し、政権を朝廷に帰すべし。 一、外国との交際は、兵庫港に朝廷の諸太夫を集め、道理明白な新条約を結び、誠実に商業を行う 9 一、朝廷の制度を一新改革して、地球上に恥じざる国本を建てしむ。 武力討幕は謳っていない。土佐側は、王政復古には異議はないが、できれば平和裡に維新を行うこ とを望み、薩摩側は朝権回復が主眼で、議院制度もそれに役立つなら賛成するが、幕府を諸侯の列に さげるためには、武力の行使はさけ得ないという意見が支配していた。相違点にはふれず、共通点た けをあげたのがこの盟約書だ。そこが桐野のような男には食いたりないのだろう。 「勝海舟に見せたら、何というだろう」 吉之助は思った。「坂本竜馬め、おれの意見を盗んだなと笑うかもしれぬ。上下にわかれた議事院と いうのは、アメリカやイギリスに原型があるそうだ。共和政治か。武力を用いずに、そこまで行けた ら結構なことだが : 168
フランス公使ロッシュはまだ幕府に望みをかけ、いろいろと援助の手をうっているようだが、これ は下手なバクチだ。今に元も子もすってしまうであろう。幕府が余命をつなぎとめるためには、将軍 職を奉還して、諸侯の列に下り、朝廷をいただく統一国家の一員となるよりほかに道はない ークス公使もこの巨大漢の熱弁には、すこしおどろいた。清国人を相手の時とは、どうも勝手が おど ちがう。この男には脅しはきかないようだ。 ・ : しかし、寺島の通訳が終ると、公使は冷静で嘲弄的 な目つきにかえって質問した。 「いろいろと珍しい話を聞いたが、そこまで貴公が断言するのは、いざとなった場合には薩摩は兵力 をもって幕府と戦う決意をもっていると解釈してもよろしいか」 吉之助は答えた。 「その通りである。朝廷への尊敬と天皇への忠誠心は外国人には理解できないほど深く日本人の胸底 に根をおろしている。徳川幕府は朝廷をおろそかにして三百年の泰平をほこっているが、もともとこ れは番頭が主人の家を横領したようなもので、いずれは必す馬脚をあらわし、罰をうける。今、その 時が来ているのだ。公使は今後幕府と直接交渉する機会が多いであろうが、この点を見落したら、 かに骨を折っても、すべて徒労である」 ークスはいくらか言葉の調子をやわらげて、 「今日の話は各国公使にも幕府の役人にも伝えたいと思うが、外国人にはうかがい知れぬ日本国内の章 機密にふれている。薩摩の責任者から聞いたといっては、いろいろと差しさわりもあろう。薩摩の名第 は出さぬほうがよろしいのであろうな」 0 、
このことには、ロンドン留学中の寺島宗則の努力が大いに力があった。もちろん、寺島自身は、そ れが外務大臣の内訓となって、 ークス公使の手にわたろうとは夢にも知らなかったのであるが。 寺島はロンドンで、国会議員で前閣僚のローレンス・オリファントと会った。オリファントは初代 駐日公使オールコックの書記官として長く横浜と江戸に滞在し、日本に対して深い知識と関心を持っ ちょう ていた。寺島はオリファントに、彼が日本を去ったのちの政情の変化ーー羃府衰亡の徴と勤皇派雄藩 の抬頭を説明し、イギリスがフランスよりも有利な立場に立っためには、幕府援助を中止し、京都朝 ・廷の下に統一国家を形成しようと努力しつつある薩摩と長州を後援すべきだと主張した。 オリファントは寺島を外務大臣カラレンドンに紹介した。カラレンドンは寺島の主張に興味を示し、 二回にわたって彼の話を聞いた。 寺島は諸外国は江戸の幕府と条約を結んでいるが、日本の真の主権者は京都の朝廷であり、その勅 許がないかぎり条約は無効にひとしいことをくりかえし力説した。たしかに幕府は現在、軍事上の実 権をにぎっているが、この権力は朝廷派の諸藩の抵抗によってぐらっきはじめている。浪人による西 洋人の殺傷事件やイギリス公使館の焼打ちなどは、排外主義に見えるが、実は幕府に対する勤皇派の 抵抗である。幕府は自分の利益のために諸藩の外国貿易を禁じているが、もしイギリスが自由な貿易 による利益をのそむならば、暮府の独占を打破することがまず必要だ。そのためには、政権の朝廷復 帰に努力しつつある勤皇派の諸藩を援助すべきである。もしフランスと同じ幕府援助政策をとるなら ば、安政条約は無効となり、イギリスは貿易の利益も失うであろう。 オリファントは議会で寺島の意見をくりかえし演説した。 0 、