公使館の中に住んでいた時よりも数倍の訪問客であった。サトーの計画は図にあたったわけだ。訪 問客が多くなれば、それだけ情報も集まる。 彼らの言葉のはしから察しても、政変の気配が濃厚であった。将軍慶喜は京都にとどまり、薩摩と ばんかい えちぜん 長州を向うにまわし、土佐や越前を仲介に立てて、形勢の挽回をはかっている。まず京都で何事かお こり、やがて江戸に波及して来るであろう。 ークス公使はしきりに幕府の高官たちと接触していた。サトーはそのたびごとに呼び出され、通 訳と公文書の翻訳のため朝の九時から夜の九時まで、ぶつつづけに働かされる日もあった。 そのうちに、おもしろい友人もできた。幕府の外国語学校開成所の教授で『洋学便覧』の著者柳河 しゅんそう 春三もその一人であった。彼は政治のことにはほとんど興味を示さなかったが、江戸の下町の生活に ついては豊富な知識をもっていた。聞けば何でも教えてくれたし、わからぬことはすぐに調べてくれ さんきゅうてい サトーはこの柳河春三を案内役にして、ときどき夜の冒険を試みた。新橋の三汲亭で歌舞伎役者の なかむらまたそう 中村又蔵とタ飯を食べたり、霊岸島の大黒屋で名物のウナギを試食したり、はじめはその程度のこと盗 であったが、そのうちにだんだん大胆になり、柳橋まで押しわたって、芸者を呼び、三味線をひかせ、 日本酒の味と陽気な会話を楽しむようになった。もちろん、行きも帰りも密閉した駕籠で、忠実な二怪 章 人の護衛が駕籠の左右を守ってくれた。 りゅうそうじなみえもん 第 江戸を荒しまわる竜造寺浪右衛門という怪盗の話を聞いたのも、そんな席でのことであった。 0 、 ゃながわ
益満休之助が笑いながら、 「賛成だね。おれも町は焼きたくないよ。江戸は おもしろい町だ」 「腐れはてた町た」 伊牟田がはねかえした。「役にもたたぬ旗本と 大名どもの屋敷ばかりがごちやごちゃとならんで いる。都は京都一つでたくさんだ」 「江戸の町民には罪はない。焼くのは城と旗本屋 敷だけにしてもらいたいね」 「つけた火には旗本と庶民の区別はつかぬそ」 伊牟田は唇をまげて、「八百八町、焼け野原に してしまう覚悟がなければ、この仕事はできぬ」 「君たちにお願いする」 吉之助が声をおとして、「焼くよりも焼かれる覚 悟で行ってもらいたい」 小島四郎がたすねた。 「西郷先生、それは、どういう意味ですか ? 」 「江戸を焼くと言ったのは言葉だ。諸君も私も板
「カミソリのような男です」 「カミソリ ? 」 「鋭くて冷たくて、よく切れます。こわい男ですよ。 : 後藤象二郎も手をやいています。押され気味です かね」 「とにかく、後藤さんに会いましよう。支度をしてき ます」 ークス公使の部 サトーは中井を応接室に待たせ、 ーの報告を聞き終らぬうちに、 屋に行った。公使はサト 「よろしい。すぐに行け。僕の見るところでは、土佐 と薩摩の方針には距離がある。対立していると言って も いい。後藤という男も曲者だ。彼が京都で、大久保 とかいう薩摩の曲者に対抗して何をやろうとしている のか、泥をはかせることだな」 し「努力してみます」 「イカラス号の殺害事件を忘れるな。土佐がイギリス 一の要求を無視するつもりなら、いつでも非常手段をと ) ・ ~ 」 ) " ・ると言っておけ」 円 2
イスキーをぬいた 話は西郷のことからはじまった。 「紀州藩士の話では、西郷と大久保は意見が過激すぎ イるので、むりやりに送還されたそうだが・ 「もしそうなら、私が送還されなかったのは不思議で すな」 「はつはつは、吉井さん、あんたが過激派とは知らな かった」 「紀州や会津の目から見れば、薩摩人はみな過激派で すな」 「西郷帰国の目的は ? ・私にもだいたい想像はっ いているつもりだが」 「あと二、三日したら、いやでもはっきりするでしょ いや、あんたにかくすことはなかった。西郷は薩 イヤ“ス公硬館只摩の兵三千と長州、芸州の連合軍をひきいて大阪に上 陸し、京都に進撃します」 サトーの 「なるほど」 「西郷はもう神戸まで来ています。もちろん、ご存知 0 9 4
第六章枯れ葵 ペッドに入ったばかりのところを、アーネスト・サトーはゆりおこされた。 「公使閣下がお召しでございます」 ランプのそばに、日本人秘書の野口が立っていた。彼もまた寝床からはい出して来たらしい。しぶ い目つきをしていた。 「もう朝か、ノグチ ? 」 「いえ、ジャスト・ミッドナイトでございます」 サトーは半身をおこして、サイド・テー・フルの上の置時計を見た。十二時をちょっとまわっていた。 「何の事件だ ? 」 「さあ、わかりません。モーアランド少尉殿はただ急用とだけ申されました」 「待たせておけ。パジャマでは出かけられぬ」 きっと京都で何かおこったにちがいない とサトーは推察した。パ ークス公使は朝廷と幕府の関係 について神経質になっている。新しい情報が入ると、真夜中でも通訳官をたたきおこす。 手早く着換えをすまして、玄関に出た。モーアランド少尉が、提灯をさげた二人の別手組隊員をひ あおい ちょうちん
薩摩藩邸に着くと、留守居役の木場伝内が愛想よく出迎えて、 「やあ、サトーさん、お久しぶりですな」 実は西郷に会いに来たのだというと、木場は気のどくそうに、 「まだ鹿児島です。近いうちに上京するという話もありますが : : : 」 「吉井さんは ? 」 「京都です。しかし、どうぞどうそ、お上がり下さい」 無理やりにサトーとミッドフォードと秘書の野口の三人を奥の部屋に案内して、茶と菓子を出した。 「おかしな話を聞いたのですが」 しばらく雑談したあとで、サトーはたすねてみた。「久光公が心臓病でおなくなりになったとか : 「とんでもない したし、だれがそんな根も葉もないことを。 : ははあ、紀州か会津の連中でし 「まあ、その方面ですね」 秘書の野口が集めてきた情報の一つであった。野口は会津藩士である。「ご無事なら、結構。たいへ ん、安心しました。しかし、久光公は御病気なのでしよう」 木場伝内は腹を立てたようだ。 きばでんない 170
たくない。人間、口先だけなら、いくらでも勇ましくなれる」 「伊牟田、それも言葉がすぎる」 大久保の声は冷たかった。「酔っているのなら仕方がないが、教えてやろう。岩倉卿も三条卿も近く 御赦免になる。宮中に召しかえされるのも時日の問題だ」 「へえ、そいつは耳寄りな話だが、両卿を呼びかえすだけの力と骨のあるお公卿さんが今の宮中にい るかね ? 」 「御赦免を取りはからったのは僕だ。われわれだ」 「ほほう、大久保さん、あんたも大した腕前になったものだ。 伊牟田は小路のほうから聞えてくるどよめきに耳をかたむけて、 「先斗町まで押しこんでくるとは景気がいい」 = イジャナイカ騒ぎであった。この秋の初めころから京都を中心に発生し、大阪に波及し、次第に 東海道を下って江戸に近づいて行く原因不明のお祭さわぎである。 ( ェイジャナイカ。 ェイジャナイカ。 クサイモノニ、紙ヲハレ。 ヤ、、フレタラ、マタハレ。 : ゃあ、また騒いでいるそ」
「私も、法律のこと、よく知りません」 サトーは、この奇妙な男に好意を感じはじめたので、正直に答えた。「専門外ですよ。議員になろう と思ったこともありません。こまりましたね」 「しかし : : : 」 「そう、調べれば、わかります。公使館には、法律の専門家もいます。 いますか」 「長くはおれません」 「土佐にかえるのですか」 「いや、大阪か京都で、後藤に会うことになっています」 「私、近いうちに大阪に行きます。会えますね。それまでに調べておきましよう」 「結構です。たいへん、ありがたい。ぜひお願いします」 中井はうれしそうに何度も頭をさげて、「サトーさん、今夜、おひまはありませんか。お近づきのし るしに一献さしあげたいのですが。 ・柳橋の水光亭がお気に召したそうですね」 サトーは赤くなった。 「それ、たれに聞きましたか」 「加宮藤三。横浜のイギリス一番館に遊びに来ていました。グ ーの店です。はつはつは、あの男、 西洋にも行かないくせに、まるで西洋人気取りで、 : おかしなやつですよ」 「たいへん、おもしろい人です」 : あなた、いつまで江戸に 124
第十一章虚と実と 後藤久二郎という名刺を持った小柄な武士が仮公使館をたずねてぎた。 秘書の野口は首をかしげたが、サトーはすぐに思い出した。江戸で会った後藤象二郎の使者で、イ ギリス帰りの中井弘ーーー酒の席のおもしろい男だ。 中井は後藤の伝言をもって来ていた。 「後藤は昨夜、土佐から到着しましたが、明日にも上京しなければならぬので、代りにごあいさつに まいりました」 「そんなにいそがしければ、私の方から会いに行きます。いろいろ話したいこと、あります」 「それは大歓迎ですが、しかし : : : 」 「しかし、どうしましたか ? 」 「実は薩摩の大久保が土佐までやって来ましてね。後藤は出兵を約東させられてしまいました。出兵 しないと一一一口えば、薩摩と長州だけでやりかねない勢いだったのでね。 : : : 大久保はもう京都に行って います。こっちも早く上京しないと、先手をとられます。将棋の先手ですよ」 「あなた、元薩摩藩士でしたね。大久保というのは、どんな人物ですか ? 」 191 第十一章虚と実と
急、長州にも伝達してもらいたい」 島津忠義と毛利敬親にあてた御沙汰書であった。忠能、実愛、経之の副書がある。 色を失った吉井幸輔は藩邸にひきあげて、伊地知正治だけに相談した。ほかの者に話せることでは 「やられたな」 伊地知は隻眼を光らせて、「慶喜と後藤にやられたのだ。。 とうやら、緒戦は薩摩の完敗た」 「軍師のおまえが弱音をはくか」 「いすれにせよ、この御沙汰書は国もとには送れない」 「しかし、勅書たそ」 「今から送っても間にあわぬ。藩公の御上京を待って伝達申しあげるよりほかはない」 「しかし、その前に、わが藩邸が焼きはらわれたら : : : 」 「慶喜も会津も、それほどばかではなかろう。ただ、万一の用意はしておかねばならぬ」 そのような事情が吉井を京都に釘づけにした。アーネスト・サトーの手紙をもらっても、会いに行 く余裕はなかった。 ークス公使はキング提督の旗艦に乗り、十一月十日午後、大阪に到着した。サト 五日以上早かった。 0 、 ーの予想よりも 176