「いや、土佐藩の政策に敬意を表して、贈物をさし上げたいのです。ありあわせの物で、失礼かと思 いますが、後藤さん、受取ってくれますか」 「が受取る筋はない。土佐藩の政策はすべて容堂御老公の胸から出ている」 「では、御老公にさしあげたい」 「妥協ですか、それとも買収ですか」 「純粋な好意と敬意からです」 「それならば、喜んでお取次しよう」 三人は笑った。不そろいな笑い声であった。 あとは、日本の茶をのみながらの雑談になった。 話題は山内容堂の名で新政府に提案されるはすの新憲法のこと、集議院と元老院という名の両院制 度のことに及んだ。後藤象二郎は土佐藩の提案が完全に通るものと自信しているようであった。薩摩 は彼の腹中にあると言うのは、薩摩の武力討幕案に妥協したと見せかけて、実は平和的な改革案を押 と し通すという意味だ。すでに有力な中立派の大藩や徳川慶喜自身の了解を得ているらしい口ぶりであ実 と っこ。 ( この男は自信家で空想家なのだ ) 若いサトーは腹の中で批評した。 ( どの国の革命も武力なしで実行された先例はない。 十 ークス公使が聞いたら大笑いするだろう ) 本たけが例外だと楽観しているようたが、パ 最後に後藤は言った。 この男は日
対する侮辱だと教えてやれ。われわれを動物あっかいにする間抜けで不潔な動物どもめ。 ・町奉行 に厳談して、今日中に撤去させろ。妥協はゆるさぬそ」 サトーは町奉行に会って、「商業の自由」と治外法権について一席講義せねばならなかった。相手が 理解したかどうか疑問であったが、矢来はその夜のうちに撤去された。 京都から二人の老中と一人の若年寄がやって来て、 ークス公使に会いたいと言った。公使はサト ーに代理を命じた。面会の申しこみが大阪城に出頭せよという命令の形になっていたので、公使はっ むじを曲げたのである。 サトーが会ってみると、この三人は慶喜の命令で、政権奉還についてイギリスの了解を得るために やって来たのだと言った。 「将軍は以前から政権をミカドに返還する意志をもっていました。それ以外に日本統一の道はありま せん。将軍の聡明な処置と平和的改革案は朝廷はもとより、諸藩の絶大な支持を得ました。イギリス もまたフランスと同様、将軍を援助していたたきたい」 サトーはその言葉を信しなかった。しかし、自分の意見はのべす、老中と若年寄を適当にあしらっ て、会見を切りあげた。 翌日、サトーはパ ークス公使に会って、老中たちとの会談の模様を報告した。そして、自分の意見 と状勢分析をつけ加えることを忘れなかった。 0 、
「だから、わしは殿の御座船は春日丸にせよと言うたのに」 「私も同感ですが、手おくれですね。なあに、あと三日もしたら、三田尻に着くでしよう」 家老はぐったりと椅子に腰をおろして、 「吉之助、そんなことで間にあうかな」 「三日はかかりますまい。無事に瀬戸内に入れば、あとは一日行程です」 「長州は待ちかねていることであろう : せつかくの艦隊がばらばらに三田尻に着いたのでは、薩 摩の面目にもかかわる」 「私は出発にあたって、もし嵐になったら、一路三田尻に進め、僚艦の安否は気づかうなと申しわた しておきました」 「無事に着けるかな」 「船は天候まかせですが、まず大丈夫でしよう」 老家老はいくらか安心したようである。だが、閉ざした目を開かず、 「殿様の御出馬を願ったのは、早まったかもしれん。わしは薩摩七十七万石よりも天朝と日本国の方天 が大切と力説して、久光公のお許しを取りつけたのだが、年甲斐もない思慮不足、高言がすぎたよう な気がして来た」 吉之助は首をふって、 「いえ、まことにお見事であったと感服いたしております」 かつらひさたけ 島津伊勢は高齢にもかかわらず、桂久武とともに家老座の中の積極派であった。俗論をおさえて、 157 第九章荒
「ます町奉行所に行こう。奉行はおとなしい紳士だ。大英帝国の官吏には喜んで協力してくれるよ」 天保山の波止場は兵士たちであふれていた。雑多な様式の小銃をかつぎ、ものものしい日本刀を腰 にさした雑多な軍隊である。ポートから上陸する通訳官と海兵隊をにらな目にあらわな敵意があった。 以前の平和な商業都市の面影は全くなくなっていた。 サトーとミッドフォードは海兵隊に守られて、市街の中央部にある町奉行所を訪問した。奉行はサ ーの要求をこころよくいれてーー少なくとも表面だけは丁重な態度で、いくつかの候補地を案内し てくれた。 大阪城のすぐうしろにある大きな武家屋敷が、サトーの気に入った。城に付属している建物らしか った。この春、パークス公使が徳川慶喜を訪問した時には、老中首席の板倉勝静が住んでいたという。 建物も調度もほとんど荒れていず、庭も広く、兵舎の増築可能な空き地もあった。城に近いから、将 軍や老中たちと会見の際、ロッシュ公使の機先を制するのにも便利だ。パークス公使は喜ぶにちがい ここにきめて、サトーは町奉行に改築と増築のことを頼んだ。奉行は快諾した。外国人の要求とあ らば、いやでも快諾したふりをしなければならぬ苦しい立場である。 まだ日没までには時間があった。 「さて、お次ぎは何だい ? 」
「彼らは政権返還を平和的改革案たと言っていますが、実は薩摩と長州に押しまくられたというのが 真相でしよう。慶喜は現状のままでは将軍の地位を維持できないことを知り、ずるい手を打ったので す。公卿の無能を知っているので、一応政権返上の形式をとり、諸藩の会議を召集し、その支持によ って再び将軍の地位と権威を回復しようと企てているにちがいありません。しかし、果して芝居は慶 喜の筋書どおりにはこぶかどうか・ 「ふん、君の報告はそれだけか」 おけおちくごのかみ 「今朝ほど早く、外国奉行の槽野筑後守がやって来て、彦根、備前、芸州の三藩主が兵をひきいて京 都に行ったと知らせてくれました。彼は京都で何がおころうとしているのか想像もっかぬと申しまし 「君には想像がつくのか」 「私の見るところでは、右の諸藩の政治意見は分裂し、対立しております。彦根は最も忠実で有力な 幕府派ですが、備前と芸州はミカド派で薩摩と長州の友人です。彼らは慶喜の召集に応じて上京した のかもしれまんが、リ 歹藩会議は必す分裂するでしよう。すでに分裂しています」 「チャンスたな」 ークス公使は豹のように笑った。「ナポレオン三世は没落するそ」 「え、慶喜のことですか」 ハリにいるナポレオンだ。彼の政府はぐらついている。フランスは東洋からも日本からも手 ・をひくことになろう」 0 、 179 第十章大阪の町
まりがあり、しかもかなり正確な英語をしゃべる奇妙な男であった。 あとでわかったことだが、この男はイギリスに留学して、ヨーロッハ諸国をほとんどもれなく旅行 していた。本名は中井弘、桜州と号して漢詩などもっくる。もともと薩摩藩士で、若いころ脱藩して 江戸に出たが、すぐに捕えられて鹿児島に送りかえされたのを、再び脱藩して土佐に逃げた。後藤象 二郎の伯父吉田東洋がその才能を愛して、ひそかにイギリスに留学させた。後に出版された『西航日 誌』を見れば、この放浪癖もあるらしい詩人肌のサムライがいかに熱情をかたむけて西洋と世界の知 識の吸収につとめたかがわかる。 帰朝した時には、吉田東洋はすでに暗殺されていたが、中井弘は西洋新知識の顧問として山内容堂 と後藤象二郎に重宝がられた。後藤といっしょに、何度も長崎に出かけている。今度もイギリス公使 館への密使には最適任と認められて江戸に派遣されたらしい 中井は山内容堂が将軍慶喜に提出した大政奉還文書を全部持参していた。後藤象二郎の手紙は、自 分の運動の成功を誇って、 「これで日本は無用の内乱を回避し、国内の統一を完成して、文明への道を直進することができるで使 あろう」 と結んであった。 章 「たいへん楽観的な手紙ですね」 七 サトーは言った。「後藤さんの意見では、将軍は新政府の首脳となり、その地位は保証され、同時に第 必要な改革は全部行われることになっていますが、そううまくいきますかね。薩摩や長州の急進派が
酔ったふりで調子をあわせておれば、言葉のすきまから必要な情報がこぼれおちてくる。 その上、勝海舟にはおしゃべりのくせがある。しゃべっているうちに自分の言葉と知恵に酔って、 とめどなく話をひろげていく。益満休之助も、薩摩人としてはよくしゃべる方だ。江戸育ちのせいか もしれぬ。サトーを警戒していることは明らかだったが、ときどき海舟の軽ロや悪口に調子を合せる ので、三田屋敷の内部の事情もある程度までは聞き出すことができた。 サトーは公使館に帰ると、海舟屋敷での会談のあらましを報告して、自分の意見をつけ加えた。 「勝海舟の言葉は、はなはだあいまいでしたが、彼も内乱は必至と見ているようです。ただし、武力 衝突の主動者は薩長側ではなく、幕府内部の主戦論者だと申しました」 「あいつは古ギッネだ。油断のならぬアナグマだ」 ークス公使はどなった。「そんな出まかせの外交辞令を、君は信用するのか」 「いや、つまり、あの男は内乱回避論者なのです。幕府側が自重して手を出さなければ、内乱は回避 できないまでも延期できると信じているようです。彼はロッシ = と手をにぎった主戦派と対立してい ると思える節があります。ロッシュは慶喜に対して : : : 」 ロッシュ、 「ロッシュ、 ロッシ = ! その名前は聞きあきた。もっと気のきいた報告はできないのか。 日本には古ギッネは人間をだますという間抜け伝説がある。君は日本人並みの間抜けだ ! 」 ークス公使は外国奉行石川河内守にタバコ盆を投げつけたことがある。サトーはインキ壺くらい は投げつけられそうな気がした。 「慶喜は必すしもロッシ = の術中におちいっているわけではない、と海舟は申しました」 112
薩摩との連絡方法は大阪で西郷吉之助と打合せてあった。江戸留守居役の篠崎彦十郎か柴山良介に 会えば、正確な情報が手に入ることになっている。 サトーはその夜のうちに篠崎あての日本語の手紙を書いた。署名は「薩道懇之助」。この日本名には 「薩摩と親しくする」という意味がふくまれている。 翌朝早く、秘書の野口に持たせて、三田の藩邸にとどけさせると、篠崎彦十郎はすぐに「高屋敷」 にやって来た。従者のほかに、サトーとは初対面の益満休之助という若い武士をつれていた。 サトーは二人を品川の海を見晴らす二階の客間に迎え入れた。 篠崎は益満をサ トーに引合せて、 「秘書のような仕事をしてもらっております。薩摩生れだが、江戸で育って、特に下町の事情は江戸 人よりも詳しい。遊びのほうも達人ですから、その方の御用の節は遠慮なくお使い下さい」 と笑った。 篠崎はサトーの遊び好きをよく知っていた。武芸にも学問にも達して、態度も言葉も重々しい中年 の武士であるが、留守居役という外交係をつとめているだけあって、人をそらさぬ適度な笑談ロもき 益満休之助のほうは、篠崎よりひとまわりほど若い。江戸育ちと言われて見れば、なるほど武骨で 通っている薩摩人の固さはないようだ。目つきは鋭いが、都会風というか、どこか投げやりな態度は、障 幕府の柳河春三とその仲間たちに似ていた。紋付と袴をつけてかしこまっているが、それをぬがせた第 ら、おもしろい遊び相手かもしれぬ。
留守居役の木場伝内から、西郷吉之助が昨日着阪したが、短時間ならお会いする、御都合よろしか ったら、御足労を乞うという連絡があった。 サトーは駕籠をとばして、土佐堀の薩摩屋敷にかけつけた。十一月二十二日の午後であった。 屋敷の門内は、雑多な服装の兵士であふれていた。約半数はシナ服とも西洋服ともっかぬ「洋式軍 かっちゅう 装」をしていたが、その他は旧来の武士の姿で、中にはものものしい甲胄を着こんでいる者もいた。 まげ 髪の形もまだ古いをつけた者が多かった。 木場伝内が玄関に出迎えて、西郷の居間に案内してくれた。サトーはちょっとおどろいた。同し部 屋にモンブラン伯爵がいて、イギリス帰りの寺島宗則とフランス帰りの岩下方平を通訳にして、西郷 としきりに何か話しこんでいるところであったからだ。 フランスのどこかに城と領地を持っている貴族であ サトーはモンブランの正確な経歴は知らない。 と ることたけは事実らしいが、日本での行動には国際的山師と評するよりほかはない暗い影がっきまと実 ン一 少なくともイギリス人の目にそう見えた。 っている。 ーの友人で、海岸通の サトーが初めて横浜に来たころには、モンブランはイギリス一番館のグラバ 「黒ん坊酒場」などでい 0 しょに飲んでいたが、まもなく不仲にな 0 た。何か金銭上のトラブルがあ一 0 たらしく、グラバーは今でも彼のことをよく言わない。その後、「妖僧」カシ = ンを通して 0 ッシ = 第 。いかにも貴族らしい堂々た 公使に接近していたようだが、これとも喧嘩別れになった。モイフランよ
公使館の中に住んでいた時よりも数倍の訪問客であった。サトーの計画は図にあたったわけだ。訪 問客が多くなれば、それだけ情報も集まる。 彼らの言葉のはしから察しても、政変の気配が濃厚であった。将軍慶喜は京都にとどまり、薩摩と ばんかい えちぜん 長州を向うにまわし、土佐や越前を仲介に立てて、形勢の挽回をはかっている。まず京都で何事かお こり、やがて江戸に波及して来るであろう。 ークス公使はしきりに幕府の高官たちと接触していた。サトーはそのたびごとに呼び出され、通 訳と公文書の翻訳のため朝の九時から夜の九時まで、ぶつつづけに働かされる日もあった。 そのうちに、おもしろい友人もできた。幕府の外国語学校開成所の教授で『洋学便覧』の著者柳河 しゅんそう 春三もその一人であった。彼は政治のことにはほとんど興味を示さなかったが、江戸の下町の生活に ついては豊富な知識をもっていた。聞けば何でも教えてくれたし、わからぬことはすぐに調べてくれ さんきゅうてい サトーはこの柳河春三を案内役にして、ときどき夜の冒険を試みた。新橋の三汲亭で歌舞伎役者の なかむらまたそう 中村又蔵とタ飯を食べたり、霊岸島の大黒屋で名物のウナギを試食したり、はじめはその程度のこと盗 であったが、そのうちにだんだん大胆になり、柳橋まで押しわたって、芸者を呼び、三味線をひかせ、 日本酒の味と陽気な会話を楽しむようになった。もちろん、行きも帰りも密閉した駕籠で、忠実な二怪 章 人の護衛が駕籠の左右を守ってくれた。 りゅうそうじなみえもん 第 江戸を荒しまわる竜造寺浪右衛門という怪盗の話を聞いたのも、そんな席でのことであった。 0 、 ゃながわ