ゃぶれたらまたはれ 廊下をふみならし、踊りながら、西郷信吾がとびこんで来た。部屋にはいっても、まだふらふらと 踊りつづけている。 吉之助は目を見はって、 「信吾、なんの真似だ ? 」 「これで助かったんだよ、兄さん」 べたりと畳に尻をおとして、肩で息をつき、「岩倉邸を出たとたんに、見廻組か新選組にちがいない 五人組にあとをつけられて、もうだめかとあきらめかけたところへ、踊りの連中が寺町通をやってき たんだ。おれも大久保さんもそいつにまぎれこんで : : : ああ、エイジャナイカ、エイジャナイカ」 ばかなやつだ。 : 大久保はどうした ? 」 「まだ踊るつもりか。 「ここにいる」 大久保利通が静かにはいってきた。乱れた様子は見せす、吉之助の前にすわったが、さすがに青ざ めていた。目だけが熱病人めいて怪しく光っている。 「ごくろうだったな」 吉之助が言った。「おまえも踊ったのか」 大久保はそれには答えず、信吾と巌の顔をにらむように見て、 「席をはずしてもらおう。重大な話だ」 229 第十二章丹
行なう。 ・ 2 西郷隆盛・大久保利通、後藤象二郎を訪ね、王制復古を 2 1 月オーストリア日 発令する計画に同意を得る。 ンガリー帝国成立 貶・ 7 中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・岩倉具視・大 久保利通ら、後藤象二郎と折衝し、王制復古の期日を 9 日と定 める。 ・ 7 兵庫開港・大阪開市 255
「中山卿はひそかに使いの者を岩倉邸に送りましたが、岩倉卿もうかつには出歩けませぬ」 大久保はつづけた。「岩倉卿は代理として末子八千丸殿を中山邸につかわしました。八千丸殿はま あげまき だ総角の少年であります。中山卿は少年の肌着の背に密勅と宣旨を縫いこみ、寺町の岩倉邸に送りか えしました。剣の刃をわたるとはこのことでございましよう」 「岩倉邸も警戒もまた厳重であったと察するが」 「もちろんのことでございます。ただし、岩倉卿は入京を許されていたというものの、月に一回、一 日 晩だけに制限されていましたので、卿の在宅は所司代も新選組も知らなかったようでございます。岩 倉卿は私と長州の広沢真臣を呼び、勅書を賜りました」 の 「それからが大変でございます」 小松帯刀がひきと 0 て、「いかにして密勅を京都から運び出すか。西郷も大久保も幕吏につきまとわ章 れていますので、うかつには動けませぬ。私は近衛忠房邸に参上し、思いきり、西郷と大久保の悪口 を申しました」 大久保利通が答えた。 せんし 「中山卿も岩倉卿も必死、命がけでございました。討幕の密勅と同時に、毛利父子赦免の宣旨も発せ られましたが、中山卿はこれを薩長両藩士に伝達することができませぬ。形勢を察してか、新選組の 隊士どもが、昼夜を問わず、中山邸を警戒していたからでございます」
これから出発するのでは、入京は十日すぎになる」 大久保は持前の冷静さを取りもどしたようだ。声が低くなり、両眼が人をおびやかす凄気に似た光 を発しはじめた。これが本来の大久保利通である。 「土佐はもはや敵と思わねばならぬ。容堂の入京はおそいほどいし」 大久保は断言した。「今、後藤象二郎がかげで何をやっているか、君にも察しがつくだろう。彼は徳 川慶喜側近くの永井尚志と結び、宮中の二条関白、朝彦親王と通じて、越前と尾張の切りくすしにか 御老 かっている。それのみか、中山忠能卿、正親町三条卿を脅迫している。お公卿さんたちは弱い。 : 一日のばせば、一日だけ形勢はわれ 体の中山卿と元来臆病な正親町卿は早くも腰くだけの形だ。 われに不利になる。後藤はそれをねらっているのだ。その手に乗ってなるものか ! 」 「どうする ? 」 「容堂と土佐一千の藩兵が到着する前に事を決するのだ。明日になったら、二人で後藤をおどかしに 行こ、つ」 「おどかす ? 」 「目下のところ、土佐藩邸には百名の兵もいない。後藤は丸裸も同然だ。即時出兵を要求したら、あ わてることたろう」 大久保は冷たく笑って、「もちろん、ただのおどかしではない。後藤の弁舌に土佐の武力がともなわ二 ない先に、ぜひ大号令は渙発されなければならぬ」 「待て、大久保。おれは土佐の藩兵が必ずわれわれの敵となるとは思っていない。兵士の中には、板 239 第十章丹
後藤の舌は、二条城ばかりか、御所の奥にまでとどいたらしい。討幕派の同志と信じていた正親町三 条卿を巻きこみ、ついに新帝の外祖父たる中山忠能卿まで動かした。この筋が動揺したのでは、新帝 とのつながりは断たれてしまう。さすがの大久保利通も少なからずあわて、岩倉具視をはげまして形 ・はんかい 勢の挽回に寝食をわすれている。今夜も、大久保は岩倉卿とどこかで会っているはずたが : 廊下で人の気配がした。重くて荒々しい若侍の足音だ。 「信吾か ? 」 大久保の家に連絡に出した弟の信吾だと思ったのだ。 「巌です」 声も体格もよく似た従弟の大山巌であった。砲兵士官の軍装のまま、敷居ぎわに両手をついて、 「もうお寝みかと思いましたが」 吉之助は首をかしげて、 「もうそんな時刻か」 「いえ、まだ九時ですが」 「おまえこそ寝たらどうだ。明日の調練は早いそ」 「寝ようと思っていたら、また伊地知さんがとびこんできて、たたきおこされたのです」 あばたのある、まんまるな顔が真っ赤に上気していた。 223 第十二章丹楓
「酒どころではない」 大久保利通がはねかえした。 「八日に延期したのだから、至急、計画変更の対策を立てねばならぬ。これで失礼する」 後藤象二郎はニャリと笑って、 「岩倉邸にまいられるのだな」 「方々をまわらねばならぬ。さあ、西郷、行こう」 後藤は福岡とともに玄関まで送って出て、 「岩倉卿との会談の結果はお知らせ下さるだろうな。話が逆転して、土佐は除け者などということに なったら、一大事だ」 「いずれにせよ、今晩中に報告いたそう」 大久保と西郷は出て行 0 た。門の外には大山巌にひきいられた完全武装の銃隊が待 0 ていた。 「どうする ? 」 吉之助は答えた。 「ハ付と、 ) 」 「これで、きまった」 後藤は手をたたいて、「さあ、福岡、酒だ、酒だ。王政復古の大号令渙発の前祝いだ ! 」
矛盾しない。両藩は二つの異る道を歩いているように見えるが、目的は同じ王政復古だ。時間をおけ ば、同じ一つの道であったことがわかるだろう」 「果して一つの道であるかどうか。僕は大政奉還論は公武合体の変形であり、結果として幕府の延命 策に利用されるばかりだと見ている」 大久保は断言した。 坂本竜馬が乗り出して、 「そうはっきりと割り切れるかな。日本に内乱をおこすことなく王政復古を実現し得たら、これに越 したことはない。長崎で長州の桂小五郎、伊藤俊輔の両君に会ったが、僕の意見に同感してくれた」 大久保は冷たく笑って、 「ただ同感するだけなら、お安い御用た。われわれも同感する」 「これは、きびしい。僕としても、二条城の将軍が土佐の提案を受入れるかどうかという点について は自信がない。もしことわったら、その時こそ、土佐も堂々と慶喜の罪を鳴らして挙兵にふみ切るこ とができるのだ」 「ずいぶん、まわり道をなさるお人だ。坂本君、薩摩と長州を結びつけてくれたのは君ではなかった 「しかし、その後の状勢を見ると、薩摩と長州が独走すれば、フランスの思う壺にはまるだけた。ナ ポレオン三世は資金と武器だけでなく、陸、海軍を幕府に貸そうと言っている」 大久保利通はきらりと目を光らせて、 力」
と中岡慎太郎などが最初の岩倉村グルー。フとなった。 『叢裡鳴虫』と『皇国合同策』は藤井兄弟の手で小松帯刀と大久保利通にとどけられ、やがて島津久 光の目にふれて、久光を感動させた。岩倉具視の触手はついに薩摩の中心部にとどいた。 岩倉村の隠れ家の雨戸は、今日もしまっていた。今にも雪になりそうな空模様のせいではない。家 にこもっている時にも、留守を装って表戸も雨戸も内側から固くとざされる。その用心深さが、幾度 となく岩倉具視の命を救った。 野良着姿の西川与三が家の横手の雑木林からとび出して来て、表戸をたたいた。たたき方が合図に ひげ ふるあわせ なっている。戸は内側から細目に開かれ、綿のはみ出た古袷の上に破れた被布を着た岩倉具視が鬚の のびた顔だけ出した。 「与三、逃げた方がいいか ? 」 「へへ、大丈夫。新選組ではございません。薩摩の大久保様と : : : もう一人は顔は存じませぬが、こ月 と れも薩摩でございましよう。二人とも馬で : : : 」 花 岩倉は大久保から贈られた拳銃をふところにおさめて、 章 「雨戸をあけろ、与三」 第 「いえ、中御門様の御別荘の方にまいられました。ここは目をつけられています」 「そうだったな。 : : : すぐに出かける。与三、例の物を忘れるな」
こそ : : : 」 いや、もっと飲め。今夜はおれたちの壮行会だ。おれたちは江戸に行く。 「やめろ、伊牟田 ! 江戸八百八町をこの手でかきまわし、大政奉還は策士の小策にすぎないことを思い知らせてやる。 : というわけでしたね、西郷先生 ? 」 吉之助はうなずいた。 沈黙をつづけていた小島四郎が、こまねいた腕をほどいて、 「よくわかりました。喜んで江戸にまいります。もうひとつだけおうかがいしたい。先ほど、先生は 浪士の心は浪士だけが知っていると申されましたが、あれは ? 」 「さて、むずかしい御質問だ。 : 私も浪士のつもりでいた。・ : 力いつのまにか藩の重役などという 肩書がついて、腰から下におかしな根が生え、身動きがとれなくなった。ここらで腰のまわりの根を 切りはらい、もういちど浪士の心にかえらねば、天下の事は行われぬと思っているのだが : 「やあ、たいへんお待たせした」 おおくぼとしみち おかみに案内されて、大久保利通が入ってきた。 しきぶとん 大久保は吉之助の横の敷蒲団にゆったりとすわり、一座を見まわして、軽く頭を下げ、 「おくれて相すまぬ。もうお話はすんだようだな」 「すみました」
後藤は雄弁をふるった。 「政権奉還の後は、朝廷におかせられても、諸事御改革の上、再び将軍慶喜公を新政府の首席におく であろう。歴代の朝廷と徳川家の関係を見れば、そうなるのが当然で、大政奉還によって、将軍は大 義名分を正すと同時に、改めて天下の実権をにぎることができるのである」 また、 「もし幕府が、この大策の実行をためらうならば、野心ある雄藩は朝廷を動かし、討幕の勅命を取り つけるであろう。ひとたび勅命が下ったら、もう手おくれだ。幕府に忠誠なわが土佐藩でさえも勅命 に抗することはできない。その時になって、あわてても、ただ内戦のもとを開くだけである。東照神 ちんじ 君家康公の威霊に対し奉り、申しわけないと言っただけではすまぬ大椿事が起るであろう」 永井尚志はよくわかったと言い、近藤勇も重々しくうなずいた。 たかさぎいたろう 後藤はさらに敵の本陣である薩摩の内部にまで触手をのばした。久光の側近高崎猪太郎が大久保、 西郷の武断主義に不満をもっていると聞くと、ひそかに彼を説いて同調させ、さらに温厚な家老小松 帯刀の説伏を試みた。人の、 「まこと しい小松は後藤の雄弁と「大条理」には面と向って抗弁できない。 に結構な御意見」と言葉をにごすだけであった。西郷吉之助は「土佐がやりたければ、おやりになる がよかろう」とだけ言って、多くを語ろうとしなかった。 ただ、大久保利通だけが断乎として反対した。この男には、小松帯刀のような弱気なところや、西 郷吉之助のように漠として捕えにくいところがない。敵は大久保と岩倉具視だ。この二人の結び目を 突きくずせば、勝ちはこっちのものである。