禄負けの形である。 竜馬は肩をすくめてみせて、 「狸かもしれぬが、中岡のようなしゃちこばった男をなだめるためには、ほかに言いようがない。そ れでも中岡は怒って皮肉を言った。竜馬、君はさすがに才子だ、とな。この一言は痛かった。おれに 対する絶縁状にひとしい。それ以来、中岡はおれを避けている」 「竜馬、本音をはいたらどうだ。君は大政奉還を討幕の手段だと思っている。この後藤象二郎をも手 段だと思っているのだろう」 「ギへか、なー . 」 竜馬はすこし青ざめて、「大政奉還策には、おれは心魂をうちこんだ。自分の信じないことを人にす すめられるか」 「そんなものかな」 こんな話になると、君千代とぼん太には何のことだかわからない。所在なさそうに酒の徳利を両手と で抱いて、盃のあくのを待っている。 章 「武力討幕論は単純すぎる」 五 第 竜馬は苦しそうにつづけた。 「強行すれば、内乱になる。日本の内乱を喜ぶのは外国だけだ。おれにはフランス公使とイギリス公行
「おい、竜馬」 後藤象二郎は急に真顔になって、盃をおき、「今日は中岡慎太郎も来るはずではなかったのか」 「どうだか。あいつは近ごろ、おれを避けるようになった」 「ばかなことを ! 」 「その盃をもらおう」 竜馬はものうげに身をおこして、「君とっきあうようになったおかげで、おれは中岡慎太郎という親 友を失った。あいつは、君の大政奉還論に反対だ」 「おい、冗談もやすみやすみ言え。火元はおまえだ。僕をおだてて大政奉還論者にしたのは、竜馬、 おまえの方だ」 「おだてるもおだてられるもない。大政奉還は天下の公論だ」 竜馬は後藤のさした盃をにがそうに乾して、「しかし、中岡に言わせれば、おれは君の捕虜になった虎 と のだそうだ。そうかもしれぬ。君は武市半平太の宣告文を読み上げた男だ」 「それを言うな ! 」 後藤は土佐勤皇派の正面の敵であった吉田東洋の甥である。勤皇派の首領武市に切腹の判決文を読章 み聞かせたのは後藤であった。武市派に多少とも同情するものは、彼を第二の吉田東洋として憎悪し第 ている。武市とは特に縁の深い坂本竜馬が、何をどうまちがえたのか、後藤と行動を共にしているの
だけで、もとの座敷にひきかえした。 竜馬は床柱を背負って、あぐらをかき、 「はつはつは、むだ骨を折ったな。薩摩の芋侍ども、はりきってござる」 「竜馬、笑ってすむことか」 「この上は、おぬしの手腕と力量次第だ。鎌倉以来七百年、武門に帰した大権を返上させる大事業が すらすらと運ぶはずはない」 ひと 「他人事のように言うな」 「おい、象二郎、これからは慶喜を相手の真剣勝負だ。二条城に乗りこんだら、生きて帰れると思う 「また、そのような : : : おぬし、大げさすぎるそ」 「万一、慶喜が建白を受入れなかったら、腹を切れ。 ・この大機会を逸したら、その罪、天下に容 るべからす。おぬしが二条城中に死んだと聞いたら、おれは海援隊の同志をひきい、慶喜参内の途中 を擁して必す刺す。薩長二藩との盟約にそむき、しかも奉還のことに失敗したら、坂本竜馬、生きて虎 と いることはできぬ。象二郎、地獄でお目にかかろう」 章 五
だろう。この前はうまく逃げられたが・ 「この前だけではない。大久保は来るが、西郷はさつばり顔を見せぬ。あいつはおれを避けているの 「はつはつはつ、両雄ならび立たすか」 「おい、竜馬、それはお世辞のつもりか」 「なににせよ、君の評判はたいしたものだ。西郷が薩摩の虎なら、君は土佐の竜た。中岡慎太郎も君・ をほめていた。西郷という男は一日十里歩くと言ったら、十里歩く。後藤象二郎という男は一日十五 . 里歩くと言って、十一里歩く」 「。よか、なー」 「大風呂敷だが、仕事はできる。君の方が一日一里だけ多く歩くという意味だ。 ど ) ろう 仲居が行灯に火を入れて行った。中庭のタ闇の中に遠州灯籠が白く浮きあがっている。 坂本竜馬はごろりと横になって頬杖をつき、暗い欄間のあたりに目を遊ばせた。はだけた胸から、虜 と 六連発の拳銃がずり落ちそうになったのを手にとって、 「おい、ぼん太、おまえにあすける」 舞妓は恐れげもなく受けとり、 五 「あら、君千代ねえさんのと同じたわ」 竜馬は興味なさそうに、 あんどん : ほめられたと思
「それは存じませんでした」 容堂は自分の博識を示し得たことに満足して、 「永井は海軍奉行や外国掛をやったから、イギリスやアメリカの事情にもくわしい。パルレメントや コンステチューションの知識くらいは持っているだろう。永井だけではない。佐賀藩士某々も大政返 上を慶喜公に進言したと聞いた。心あたりはないか ? 」 そえじまたねおみえとうしんべい おおくましげのぶ 「佐賀藩士で長崎や京都に出没しているのは副島臣、江藤新平、大隈重信 : : : 」 「そこらあたりかな。象二郎、大政奉還は必ずしもおまえの発案ではないようだな」 「なおさら結構でございます。広く同意見が行きわたっておりますれば、それこそ天下の公論と申す もの : : : 」 「まごまごしていると、他藩に先をこされるか。 : 象二郎、坂本竜馬の意見はどうだ ? 」 「は↓の ? 」 「竜馬は脱藩の身でありながら、余に手紙をよこした。持参したのは佐々木高行だ」 山内容堂はおもしろそうに笑って、「象二郎、とぼけてもだめだ。おまえが竜馬と行動を共にしてい ることは、余にもわかっている」 「おそれいります」 「余がかって公武合体をとなえたのも、他意はない。つまりは政令の帰一、国家の統一が目的であっ た。今となっては、慶喜公御自身も征夷大将軍などという空位には未練はあるまい。名を捨てて実を とる。アメリカの制度によれば、慶喜公にはプレシデントオ ( 大統領 ) か公議会議長の位こそふさわ
・徳川慶喜、征夷大将軍職の辞職を請う。 ・ 9 この年の 1 月Ⅱ日、特他として渡欧していた徳川昭武、 ロンドン・ウインザー宮殿で英国女王ビクトリアに謁見する。 1 . -0 1 ・ 1 坂本竜馬と中岡慎太郎、暗殺さる。この日、二人は京都 河原町通りの近江屋新助方の二階にいたが、夜九時ごろ「十津 川の者」と称する者に殺された。竜馬はその場で死亡、慎太郎 も数日して死んだ。坂本竜馬、歳、中岡慎太郎、歳。下手 人についてはいろいろの説があるが、京都見廻組与頭佐々木唯 三郎以下七名だといわれる。 Ⅱ・横浜の外国人居留地取締規則を制定する。 Ⅱ・伊藤博文、兵庫でアーネスト・サトーと会見、討幕の避 くべからざることを告げ、大阪開市・兵庫開港の延期を要求す る。 Ⅱ・幕府、ロシアと改税約書に調印する。 1 . 9 長州藩兵、摂津打出浜に上陸する。 1 ワ】 西周、列藩会議の趣旨、および組織、権限に関する意見 を起草する。 Ⅱ・ ? 浪士および幕府歩兵隊など、江戸市中を横行し、略奪を 254
坂本竜馬は吉之助の方に向きなおった。 「西郷さん、あんたは大政奉還策には必ずしも反対でないと聞いたが」 「反対はせぬ。われわれとかかわりなく、建白をなさるがよい」 吉之助は突きはなして、「坂本、君は薩摩を長州と結びつけてくれた。今度は土佐と結びつけてくれ るものと楽しみにしていたら、どうやら二条城の方に向いてしまったようだ」 坂本竜馬は顔をふせた。 後藤象二郎がとりなし顔に、 「しかし、建白書はすでに摂政と老中の手もとに提出してある。確答があるまで、挙兵は待っていた だけまい力」 吉之助は何も言わぬ。大久保が代って答えた。 「その御相談に も応じかねる」 「どうして、また ? 」 「なまじいに建白などなされるので、事がもつれて、大事のさまたげになる。 「だから、なおさら、挙兵討幕をいそぐ必要がある」 氷の板をたたいたような冷たい返事であった。 と 章 : これが西郷の意見第
を見て、中岡慎太郎が腹にすえかねるのも無理はない。 「中岡は近ごろ、ますます武力討幕論にかたむいて行く」 坂本は言った。「おれが君に近づけば、それだけ中岡は板垣退助に近づく。板垣は大久保、西郷、岩 : おれと中岡のあいだは、いやでも遠くならざるを得ない」 倉の筋につながっている。 「そんなものかな」 「とぼけるな。い くら呼んでも中岡がこの席に来ないことを、君は知っているはすだ」 「はつはつは、竜馬、とぼけているのは、君のほうだ」 後藤は肩をゆすって、「君は中岡に言ったそうではないか。武力討幕は必至だ、こっちから手を出さ とな」 なくとも、幕府は必ず兵を動かす、たとえ慶喜は承知しても会津、桑名がだまっていない、 「そのとおりだろう」 「容堂御老公や後藤象二郎がいかに平和的な王政復古を夢想しても、戦争はおこる、それまで待て、 とな」 「ああ、言ったかもしれん」 「この狸め ! 」 後藤象二郎は腹をゆすって笑った。六尺豊かな大男だ。三十一歳の精気が全身にあふれている。剣 にも達しているので、目に油断がない。山内容堂の眼鏡にかなって、百五十石の馬廻役から七百石の 大身にすすみ、いずれは家老と噂されている。坂本竜馬は三十四歳で、後藤の持たぬ妖気に似たもの を全身にただよわせているが、長年の浪士生活が身についたせいか、後藤に対すると、おのすから真
「後藤はその翌日、おれの宿にやって来て、上京のおくれた理由をくどくどと弁明した。長崎のイギ リス水兵殺しの一件でパークス公使が高知に乗りこんで来たので動けなかったのだと言う。それはと んだ災難、上京がおくれたことは致し方ないが、兵隊は何百人っれて来たのか、とたずねると、一兵 もひきつれぬ丸腰上京だと答えて、平然としていた」 「出兵できないのなら、できないでいい。だが、あれほど固く約東しておきながら、違約を恥じる気 配もない。しかも、後藤は責任を山内容堂に転嫁した。大政奉還を慶喜にすすめるためには兵力はい らぬ、強制がましいことは一切やめて、弁論で説得せよと容堂に言われたので、丸腰で出て来ました と一一 = ロう。 ・武士なら腹を切るべきところだ。しかし、後藤はうまいことを言って逃げた。大政奉還 は第一手段で、挙兵は第二手段だ、と : 「わからんな。どういう意味だ ? 」 「大政奉還策が失敗したら、挙兵にふみ切る、しかし、今はだめだ、土佐の兵制は旧式で役に立たぬ、 坂本竜馬に命じて、新式の銃砲と軍艦の購入を手配しているから、しばらく待ってくれ、と言った。虎 待つも待たぬもない。てんで、やる気はないのだ。あの才子は弁論と演舌で天下のことが動くと思っと ている」 大久保は苦笑して、 五 「その点は坂本竜馬も似ている。同じ土佐人でも中岡慎太郎とはだいぶちがう」 「いや、坂本はそんな男ではない」
使の牙をむき出し、よだれをたらした不気味な笑顔が目に見える」 「おれはお先まっくらな浪士意見には食傷した。百人や二百人の浪士と共に事を起して自減するより も、土佐二十四万石を背負って動こうと考えなおした。これが本音だ。おれ自身が自減するのはかま わぬが、日本を破減させてはならぬ。大業成就のためには、同志、親友と訣別しても致しかたないと きゅうてき 思った。多年の仇敵たる君の軍門に降ったのもそのためだ」 「大げさなことを言う男だ」 「君ほどの大風呂敷はひろげぬそ」 竜馬は生来の陽気さをとりもどしたようであった。屈託のない笑い声を立てて、「ライフル銃一千 梃は長崎から高知に直送しておいた。あとの二百梃は海援隊と陸援隊にわける。おれは目下のところ 平和論者だが、しかし武器なしの丸腰で、薩摩に押しまくられるのは御免だ」 この六月に上京した時には、後藤と坂本は薩摩の武力を背景とする大久保と西郷に押しまくられ、 押し切られた形であった。 二人が山内容堂に呼ばれて長崎から京都に着いた時には、四藩会議は崩壊し、容堂はすでにいなか った。島津久光と正面衝突して、病気を口実に帰国してしまったのだ。 坂本竜馬は後藤をはげまし、船中で熟議した大政奉還論をひっさげて、在京の諸侯、諸藩の有志、 これと思う公卿のあいだを遊説してまわったが、どこにも薩摩の手がまわっていて、反響らしいもの はほとんどなかった。 けっぺっ