中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之までが青ざめた顔を伏せて沈黙している。ときどき大久保 の方をぬすみ見るが、近づいて声をかけようとはしなかった。頼りと思う三条実美はまだ姿を見せぬ。 彼らまで臆病風にさそわれているとは思いたくないが、慶喜の急反撃をみちびき出したのは自分た ちの責任であるかのように感じて、気落ちし、焦燥しているのは明らかであった。 その他の公卿たちの態度はいかにもよそよそしい。大久保と視線が合うと、厄病神を見たかのよう ちょうしよう に顔をそむける。諸藩の参与たちは明らかに嘲笑的であった。口にこそ出さぬが、「薩摩の横車もこ れでおしまいだ。武力だけが解決策ではないそ」とでもいいたげな目の色であった。土佐の後藤象二 郎はちょっとだけ顔を出したが、尾張と芸州の参与と何事か密談し、大久保の方に徴笑してみせて退 出した。「これで勝負あったな」という意味の笑いであろう。 大久保は岩下をふりかえって、 「岩倉卿と三条卿に手紙を書こう。あの二人に出てもらわぬことには、会議の結果は開かぬ先にわか っている。みんな旗を立て、伏見まで慶喜さまの御到着をお迎えに行けということになる」 「岩倉卿からは、先刻連絡があった」 なかねゆき・ズ 岩下は答えた。「自宅で越前の参与中根雪江と懇談中とのことた」 「その懇談があぶない。越前は土佐と同腹だ。辞官も納地も取消して慶喜を参内させ、要職につけよ うと企てている。もしそんなことになったら : : : 」 大久保は言葉を切って、顔をふせた。もしそんなことになったら、これまでの苦心が水の泡になる だけでなく、薩摩は朝敵あっかいされる。 163 第八章鳥羽伏見
信吾は言った。「僕と小兵衛は鳥羽に行きます。吉次郎兄は病気で動けないので、二階でくやしがっ ています」 小兵衛が言った。 「かねて兄さんに言われたとおり、生きて帰らぬつもりです」 吉之助は微笑して、 「その覚悟で行くのだな。鳥羽、伏見が突破されたら、西郷一族の責任だと思え。まあ、気をつけて 行って来い」 大久保利通は岩下方平とともに、朝から宮中に詰めていた。 正月二日に始った会議は、何の対策も打ち出せず、深夜に及んで散会し、三日は早朝から再開され るはずになっていたが、定刻が来ても集まるものはすくなかった。宮家と公卿たちはひととおり顔を そろえたが、尾張慶勝、松平春嶽、山内容堂、島津忠義は家臣を代理に出して藩邸にひきこもってい る。会議の鍵をにぎっている岩倉具視も姿をあらわさない。 主役のそろわぬ芝居で、幕があがらぬ。公卿たちは明らかに臆病風にとりつかれていた。いつもは ほうれん 元気な若手の公卿まで、「この上は一刻も早く鳳輦を山陰道に移し奉るよりほかはない」とか、「至急 鎮撫使を出して徳川慶喜の怒りを静めなければ」などとささやきかわしている。慶喜の御機嫌をとれ というのだ。戦わぬ先の敗北気分であった。
六番隊と日砲隊をひきいて鳥羽方面を救援してくれ。本営は東寺だ」 「それだけで間にあうかな」 「それだけしか出せぬのだ」 伊地知は隻眼を怪しく光らせて、「敵は京都の中にもいる。長州以外の諸藩は敵方にまわらぬまでも 味方にはなってくれまい」 「何とか開戦を避ける方法はよ、 吉井幸輔が言った。「慶喜の真意がわからぬ。これほど早く反撃して来ようとは思わなかった」 伊地知が答えた。 「うまく、先手を取られてしまった。伏見でくいとめることができれば幸いたが、 は、宮門までひきしりそき、敵に発砲させる手がある」 「それはならぬ ! 」 吉之助が重い声でいった。「御所を兵火にさらして、なんのための宮門警護だ ! 」 見 「それもそうだな。よし、なんとかして鳥羽、伏見の両街道で食いとめよう」 伏 出動命令が発せられ、部隊は出発しはじめた。兵力の半分は御所のまわりに残しておかねばならぬ羽 ので、苦戦が予想される。軍賦役と隊長たちの表情はくらかった。 日も高くなったころ、吉之助が相国寺門前の下宿に帰って来ると、軍装した信吾と小兵衛が待って 第 「兄さん、行ってまいります」 / し、刀」 : 場合によって
第八章鳥羽伏見 正月三日の夜明け、西郷吉之助は相国寺門前の下宿で目をさましていた。 昨夜はほとんど寝ていない。 この下宿は早くから借りていて、弟たちと大山巌、村田新八、桐野利 じゅらく 秋などに住まわせておいたのであるが、長州軍の入洛以来、藩邸の長屋がふさがってしまったので、 吉之助も引き移った。大きな二階建ての町家で、部屋数も多かった。 二階には長い風邪をこじらせた吉次郎が寝ていた。看護は末弟の小兵衛がひきうけている。信吾と 巌は乾御門の警備のために出動して、昨夜から帰って来ない。 あわただしい馬蹄のひびきが聞え、何者かが門内に馬を乗り入れて来た。玄関に出て見ると、伏見 出張中の軍賦役坂元簾四郎であった。幕軍上京の模様を急報して、指示をあおぐために駈けつけて来 たのである。 吉之助は坂元をつれ、相国寺境内の霜をふんで藩邸の伊地知正治と吉井幸輔に会いに行った。伊地 知も吉井も昨夜からほとんど寝ていないと言って、血走った目をしばたたいてみせた。 伊地知の決断は早かった。 、くさ 「苦しい戦になるそ。取敢えず、小銃三番、四番隊と日砲隊を伏見にまわそう。吉井、おまえは五番、 きゅうはうたい 160
船着場のあたりが火事場のように明るい。深夜にもかかわらず、幕軍はなお続々と到着している模 様であった。 159 第七章逆流
島津式部への報告をすました中原猶介が、大砲陣地にひきかえすために藩邸の門を出ると、土佐の 山田喜久馬があとを追って来た。 「このたびは、いろいろと御迷惑をかけて、まことに申しわけない」 「何のことを申されているのだ ? 」 「後藤象二郎のことです。会津、桑名を思い上がらせて、武力上京にふみ切らせたのは、後藤が大阪 : 全くそのとおりで、小笠原唯八と板垣退助 方と通謀したせいだと薩長の諸君は怒っておられる。 は国許に追いもどされて上京を許されず、在京の土佐勤皇党は頭首をうばわれた形で、手も足も出ま せん。つまり、われわれの意気地のなさが後藤一派の抬頭と暗躍をゆるして、この事態をもたらした のであります」 「私はただの大砲係だ。そのような政治の裏話はどうも : : : 」 「いえ、あなたは薩藩では西郷吉之助に次ぐ人物だと聞いています。あなたを通じて、西郷殿のお耳 たけちはんべいた : 土佐にも武市半平太以来の勤皇の道統があります。わが に入れることができたら幸いなのです。 伏見隊はその道統をつぐものです」 「これは結構なお話だな」 「谷干城は昨日土佐に帰りました。板垣らの訓練した兵士をひきつれて上京するためであります」 「ま一は , っ・」 、と思っていますが、いずれにせよ、わが伏見隊は藩論の如何を問わす、切 「間にあってくれればいし 腹を覚悟で決戦するつもりでおります」 158
岩下方平、吉井幸輔などと手わけして、岩倉邸、中山邸をはじめ、公卿屋敷と諸藩の藩邸をかけまわ っていた。年賀に托した偵察であった。岩倉具視が山内容堂と後藤象二郎の影響をうけて軟化し、慶 喜上京を支持している様子が見える。大久保はこの数日間、岩倉の説得に全力をあげていた。 酒宴の席に顔を出したが、大久保は坐ろうとはせず、 「西郷、ちょっと」 声も目の色もつめたかった。吉之助を別室につれて行って、 「江戸から飛脚便がとどいた。三田屋敷が焼かれたぞ。高輪も佐土原屋敷もやられたらしい」 吉之助は静かにたずねた。 「いつのことだ ? 」 「暮の二十五日。篠崎彦十郎と関太郎は戦死。約百名が逮捕され、その他は脱出したようだが、生死 のほどはわからぬ。翔鳳丸の消息も不明 : : : 」 吉之助はしばらく瞑目していたが、やがて目を開いて、坐りなおし、 「大久保、万事は決したな。慶喜は必ず上京する。今夜中に手配せぬことには、まにあわぬそ ! 」 薩摩軍の主力は野津兄弟に指揮されて鳥羽街道を守るために進発していた。伏見方面は長州軍と土 佐軍にまかせることになっていたが、合せて二百名たらずの小兵力である上に、土佐藩は容堂と後藤 象二郎の動きを見ればわかるとおり、いざとなれば幕府方に寝返るおそれがある。 めいもく 4
さんけい なりあきら 賀茂の社に参詣し、はるかに斉彬公の霊を拝した。つづいて、大久保利通、岩下方平とともに藩主島 津忠義にしたがって、御所の朝賀の式に参列して、御簾の中の新帝のお姿を拝し、その帰りを三条実 美邸にまわった。 三条実美は暮の二十七日に九州から帰って来たばかりである。西郷信吾と大山巌が春日丸に乗組ん で、太宰府まで迎えに行った。 かえらじと思い定めし家路にも かえるは君のめぐみなりけり り・ゅ要ノみ、よノ 入洛参内は五年ぶりであった。追放と流寓のあいだに、 この青年公卿も三十一歳の壮齢に成長して 潔癖な三条実美はかねて岩倉具視の老獪をにくみ、奸物として敵視していたので、二人の仲を懸念 する者もあったが、四十三歳の岩倉は、帰京の翌日、進んで三条邸を訪ねて、実美の無事入京を祝 0 流 ひがしくみちとみ さねおみ た。同じ席に、正親町実愛、東久世通橲、西郷吉之助のほかに、長州から随行して来た広沢真臣と井 もんた 逆 上聞多もいて、この和解を喜んだ。 時局の切迫は、すべてのこだわりを洗い流して、二人の仇敵を握手させたのだ。人物の不足になや章 第 んでいた朝廷は、三条以下五卿の帰還によって大きく補強されたわけである。 三条邸の年賀を終って藩邸にかえって来た吉之助は、待ちかまえていた諸隊の若い隊長から屠蘇の じゅらく みす
「この御英彳あってこそ、あつばれ将軍家である」 「憎むべき薩賊どもを、長州その他の藩賊ともども一撃のもとにみな殺しにしてくれるそ」 鉄砲を城中の中庭に持ち出して掃除する者、槍を武器庫から取出して御廊下でふりまわす者。大言 と壮語の声は老中若年寄の座敷からも聞えて、重役部屋がまるで書生部屋のようになってしまった。 めんえっ 外国係の書記生、福地源一郎 ( 桜痴 ) は、これを狂態と見て、平山図書頭に面謁を乞い 「大兵をひきいて上京することは、最も拙劣な策である。どこまでも大阪城を固守して、軍艦をもっ て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西之宮から街道にそって胸壁を築き、淀川の通運を止め、守口と ひらかた 枚方を確保すれば、京都の薩長兵は手も足も出せず、戦わずして逃走するにちがいない」 と進言したが、平山は笑って答えた。 「おまえだけに話すが、京都には内応を約東した有力な藩がいる。わが先鋒隊が伏見に進出して砲撃 を開始すれば、薩賊は内より破れて敗走する。心配は無用だ」 内応の藩とは土佐藩のことであろうと福地は思った。そう言えば、先日、後藤象二郎の使者が大阪 城にきて、老中たちと何事か密談して帰って行った。 かんたん 慶応四年正月元旦。比叡おろしが吹きすさんで、御所の屋根の霜の色もひとしお牙えわたって見え 西郷吉之助は早朝に起きて、吉次郎、信吾、小兵衛の弟たちをひきつれ、賀茂の渡しをわたって下 150
大阪城中の強硬派は、薩邸焼討は江戸の治安のためにだけでなく、京都における討薩のロ火となる ものであるから、いそがねばならぬと考えていた。 桑名定敬、板倉勝静、松平豊前守の連署で、江戸幕閣にあて、次の手紙が送られている。 『兵力をもって薩邸草賊討減の策、すみやかに実施成らせらるべく候。 : : : 町奉行より薩邸に交渉す れば、相手は言を左右にして言いのがれるであろうが、証拠はすでに顕然、断乎攻撃すべし。 江戸近傍と市中に強賊横行して暴行に及んでいるのに、一人も召捕ることができないとは、市民の ・こさた 信頼を失い、御威光をも汚す、もってのほかの儀なり。固く申し達せよとの将軍家の御沙汰である。 なお、当地においてもすでに挙正除奸を上表しているから、貴地においてもすみやかに御討伐、・ 東西相応じ、薩藩をして落胆せしむれば、成功まちがいなしと御期待遊ばされている』 日付は十二月二十四日夜八時。この手紙が到着しない先に薩邸焼討は決行されたわけだ。 強硬派の勝利であった。大阪城は天守閣もゆらぐばかりにわきかえった。武力上京は、もはや何者 逆 のカでも制御できない。尾張慶勝と越前春嶽の調停も十日の菊だ。言葉の色は美しいが、間にあわぬ。 ちゅうりく 秘密裡に『薩賊誅戮』の上奏文が起草され、出兵の準備が始った。上京軍は伏見、鳥羽両街道から七 たじまのかみ 第 進軍する。指揮官は松平豊前守、竹中丹後守、塚原但馬守などが内定した。兵数およそ一万五千。 だれも勝利をうたがうものはなかった。 岩倉の立場も苦しかった。 そろ 流