お・ほしめ 岩倉具定は具視の追放中にもかかわらず、先帝の特別の思召しで宮中に召出されていた。今は侍従 に昇進して、具視の忠実な連絡係になっている。 「今までのところ、万事、計画どおりに進んでいるではないか」 岩倉はつづけた。「全く、君はよくねばっこ。 ナこのねばりと切れ味は、常人のものではない。さすが の後藤象二郎も君に先手先手をとられて、目を白黒させている」 「あの男は、決してこのままでは引きさがりません」 「しかし、今日の勝負は君の勝ちだ」 「いや、あなたのお力です」 つい二時間ほど前、岩倉具視は在京五藩の重臣をこの私邸に召集した。集まったのは、 尾張尾崎八右衛門、丹羽淳太郎 越前中根雪江、酒井十之丞 台 薩摩岩下方平、大久保利通 土佐後藤象二郎、神山左多衛 しようをう わ ま 安芸辻将曹、桜井四郎 岩倉はまた正式には謹慎がとけず、召集の資格はないのであるが、あえて押し切った。最初の予定第 では中山忠能邸に集めることになっていたのを、後藤象二郎に動かされた忠能が召集を延期しようと
「さて、これから、どうしたらよいものか ? 」 「長州兵を入城させて、城の警備をまかせるよりほかはありませんな」 「とんでもない。城は貴藩と越前藩に引渡せという上様の御命令です」 結局、長州軍の隊長だけを城内に入れ、兵士は城門の外に待たせておくことに話がきまった。 佐々木二郎四郎と名乗る若い隊長が三名の護衛をつれて、城門を入って来た。佐々木はいかにも戦 火をくぐりぬけて来たばかりの先鋒隊長らしく、全身から火薬のにおいと殺気を発散させていた。出 迎えた者の中に尾張藩の使者がいるのを見て、いくらか表情をやわらげたが、幕臣の妻木に対するあ らわな敵意と軽蔑はかくそうとしなかった。 妻木はできるだけ丁重に佐々木を本丸の天井の間に迎え入れ、尾張藩の使者に立会ってもらって交 渉に移った。 「この城は慶喜公の御指示により、すでに尾張、越前の二藩に引渡しずみである。この上、長州軍の 進撃は無用でござろう」 「わが軍の進撃は勅命に従っただけでござる」 なにゆえ 「恭順の城に向って、何故に発砲なされたか ? 」 「この城が空城になっているとは、思いもかけぬことであった。しかし、現に幕臣たる貴殿がお残り になっているではないか。すでに尾越両藩に引渡されたのなら、なぜ退去なさらぬ ? 」 223 第十章城
大阪城はすでに九日の朝から燃えつづけていた。もし焼けていなかったら、西郷吉之助は征討大将 軍の本営をこの城にすすめるつもりであったが、やむを得ず、東本願寺別院に入ったのである。 たれが、何のために、今は焼く必要もないこの壮麗な城に火を放ったのか、吉之助自身にもわから なかった。あわてた長州の先鋒隊が砲弾を打ちこんだという者、変装して潜入した薩摩の密偵が焼き 弾を仕かけたという者、やけになった会津軍が地雷火を伏せて立去ったのが爆発したという者、暴民 の放火だという者ーー各人各説の情報が耳に入って来たが、いずれも戦場の風聞で、焼けと命令した 者は、少なくとも征討軍本営の中には一人もいなかった。 よりのり 慶喜脱出後の城を管理していたのは、目付の妻木頼矩であった。彼の残した手記によれば、九日の 朝八時ころ、城外東北の方向に破裂弾らしい砲声が二発ほど聞えた。妻木はすぐに斥候の兵を出し、 城中に宿泊していた尾張藩の使者を起した。慶喜は大阪城は尾張と越前の両藩に引渡すべしと言いの こして立去ったので、まず尾張藩の使者三名が到着して引渡しの下交渉をはじめていたのである。 「困ったことになりそうですな」 妻木は言った。「いずれ砲撃したのは薩摩か長州の兵でしようが : 入り候儀に御座候間、さだめて信吾などより、勘当を申しつけられ申すべく、残念このことに御座候』 のみやぐら 吉之助が、この陽気な手紙を書き終ったころ、大阪城の方向に大爆音がとどろき、壮麗な物見櫓が 火を発して炎上しはじめた。これも予想しない事件であった。 221 第十章城
「戦争好きの連中ばかりですよ」 尾張の使者は答えた。「薩摩は、最初からわが藩公の御方針にことごとく楯突いております。平穏に 明渡されたのでは、城を乗取った気になれないのでしよう」 むだ 「無駄なことです。城内には一門の大砲も残っていません。上様御恭順のことは京都に通告ずみだと 思いましたが : 「前線の兵までは、徹底していないのでしよう。 困りましたな」 「何とか早く知らせる方法はないでしようか ? : ああ、だめだ。まにあいません ! 」 城門の外にある歩兵小屋が燃えはじめたという急報が入って来た。幸いに、城内には影響はないが、 火勢は強いらしい。煙をくぐって斥候がとび帰って来て、長州の藩旗をかかげた二、三百名の部隊が 城門近く押しよせたと報告した。 「無用のことだ、無用の戦争だ ! 」 妻木は色を失っていた。「いずれにせよ、発砲だけはやめさせなければ : 尾張の使者が言った。 「白旗をかかげたら、いかがでしよう ? 」 「そんなものは用意してありません」 「おっくりになったら、よろしいでしよう」 むち 妻木は馬の鞭に白布を結びつけ、部下に命じて大手門の上で打ち振らせた。長州兵は進撃をやめ、 発砲も中止した。 たてつ 222
第三章小御所会議 ふくおかたかちか 山内容堂は朝から酒盃をはなさなかった。参政の福岡孝悌がいくらすすめても動こうとしない。 「余は病気だ。大病人だ。徳川慶喜も病人だから参内せぬ。余も参内は絶対におことわりだ。こら、 福岡、何をもっともらしい顔をしている。飲め ! 」 つぼ 「殿、尾張と越前はすでに出兵いたしました。わが藩の出兵がおくれれば、岩倉卿と大久保の思う壺。 薩摩のひとり舞台と存じます」 「勝手に踊らせておけ。余は薩摩のつくった田舎芝居の舞台では踊らぬ。象二郎を呼べ。大風呂敷め、 どこへ行った ? 」 「宮中でございます。尾張、越前、芸州の三侯は昨夜より泊りこみで、御老公の御出馬をお待ちかね議 所 「ふふふ、この雪空に、ご苦労なことだ。宮中では、うまい酒も飲めまい。かぜをひかぬようにと申 章 しったえておけ」 第 「殿、あまりおすごしになっては 「はつはつは、酒歴四十年の余に対して何を申す。飲め、飲め、おまえもかぜをひきたいのか」
「慶喜公は尾越両藩を通じて朝廷にお返しする御意志・である。ここに御奏聞状の写しがある。ごらん 原・しュ / 」し」 「拝見いたそう」 佐々木は奏聞書を一読して、「いかにも御趣旨はわかったが、おそらくこれはまた朝廷にはとどいて いないの . ではないか」 「京都への道路がふさがっているとすれば、それも考えられます「しかし、朝廷より御返事のあるま では、城を引渡すことはできませぬ」 「すでに尾越両藩に引渡したと言いながら、まだそのようなことを申されるのか。この上は、武力を もってちょうだいいたすよりほかはない」 尾張の使者が中に入って、 「いやいや、御貴殿には城の警備をお願いしたい。そのうち、必ず朝廷から外るべぎ御指図があるに ちがいない」 そのとき、原因不明の火が城内の三方から起った。天井の間に近い石の間も燃えはじめた。 佐々木二郎四郎は血相を変えて、 「つまらぬ小細工をなさる御人だ。われわれを誘い入れたのは焼き殺すつもりだったのか ! 」 「とんでもないー 焼き殺されるのは、こっちでござる。 : これでは相談どころではない。 一刻も早 く立ちのくことが肝要でござる」 火勢は激しく、本丸の部屋々々は早くも煙におおわれはじめていた。妻木は佐々木の一行と尾張藩 し 224
うごうきようへ 薩長の兵は決死の精兵、幕軍は烏合の驕兵。勝算はわが方にあります。勝てば徳川八百万石は朝廷の 領地となる。それに土佐二十三万石を加えてちょうだいする。山内容堂の脱落はむしろ祝すべきでし : 三条卿、あなたは山内家とは特に縁故が深い。御意見をうかがいたいものです」 三条実美は苦しそうに答えた。 「討幕のことについて、私に異存のあるはずはない。そのためにのみ、同志とともに長い苦労をつづ けて来たのだ。ただ、今日の容堂の態度は意外であった。はたして本心かどうか、今一度、本人に問 : 帰国のことだけは何とかし いただしてみたい。 : おそらく容堂は私の屋敷で休憩中であろう。 きんけっ て思いとどまらせたい。彼に禁鬮守護の志がないとは、どうしても考えられぬ」 大久保利通がひきとって、 「ぜひ引きとめていただきたい。土佐がそむけば、尾張も越前もそむく」 「それでもかまわぬ ! 」 と叫んだ者があったが、大久保は強く首をふって、 見 「越前と尾張に第一線に出てくれとは申しませぬ。宮門だけを守ってくれたら、われわれは安心して 伏 出撃できます。 : : : 先ほど、伏見より急使がありましたが、戦局は必ずしも不利ではないようです。羽 もし多少とも有利だとわかれば、諸藩の動向もおのずから定まるでしよう。三条卿、いましばらく土 章 佐の老公をひきとめていただきたいものです」
敵の野望をうち破るために、わが策略をめぐらすべき時でございます」 「なんだ、その策士面は ! 」 「御忍耐のほど、伏して願いあけます。まだ決して手おくれではございませぬ。 ・ : 薩摩は武力をか さに横車を押していますが、この横車は通りませぬ。もし薩摩の計画どおり王政復古の号令が発せら れましたならば、親藩譜代の大名は必す異議を申し立て、二条城の兵は暴発し、京都は動乱の巷。上 しんきん は宸襟をなやまし奉り、下は万民を塗炭の苦におとしいれることは必定。そのような地獄の出現を望 んでいる者は、一部の激徒、馬鹿か狂人ばかりでございます。 : : ・私といたしましては、殿の御入京 を待って一撃を加える所存で、大久保と岩倉の策謀に乗るがごとく見せて、満を持していた次第 : : : 」 : 飲め」 「この大風呂敷めー 「いただきます」 しゅんがく よしかっ 「越前の春嶽と尾張の慶勝は何をしている ? 」 よしのぶ 「十分に連絡をとっております。春嶽公を通じて、二条城の慶喜公にも御老公の真意はお伝えしてあ ります。ぬかりはございませぬ。 : : : 御老公の入京は、薩摩をのそく諸藩にとりましては、まさに大 かんうんげい 旱の雲霓 : : : 」 「また大げさなことを申す。こら、福岡、なぜ飲まぬ。おまえには意見はないのか ? 」 「はつ、後藤の申すとおり越前、尾張をはじめ、在京諸藩は決して薩摩に同調しているわけではござ いません。ただ、新帝をめぐる宮中の形勢に不明な点があり、この際、薩摩と正面から争う者は、朝 敵の汚名をうけて : : : すなわち大久保と岩倉の術中におちいるおそれがありますので、殿の御到着を とたん ちまた
1 0 方が、あっかいやすいかと存じます」 「馬の話か」 「馬のようなものでございます。大久保は泡をふいており ました」 「はつはつは、おもしろいことを申す」 「そのほうがよさそうだな」 あいづち そばから春嶽が合槌をうってくれた。「これ以上手綱を かんば ひきしめては、悍馬ははねかえる。われわれが二条城と何 か密約したのではないかと、 いたくない腹をさぐられるお それもある」 「岩倉の言い分を通せと申すのか。徳川家を廃絶して、そ れでもいいのか ? 」 議 「廃絶などできるはすはない」 会 春嶽はなだめた。「辞官納地のことだけだ。しかも、今日所 の会議できまったことが、そのまま実行されるわけでもな 。慶喜公には私と尾張侯が会い、適当に善後策を講じる」章 第 「そんなことなら、もう御前会議に出る必要はない」 容堂は目をつぶり、上体をふらっかせて、「眠くなった。 あお
名声に価する教養と識見もあり、南海の太守としての実力をも兼ねそなえているので、家臣にあやっ られることを極度にきらう。酔うと、つむじの曲げ方が特にひどくなる。 「象二郎、おまえは薩摩の芋どもに朝敵とよばれることを恐れているのか。薩敵は朝敵ではないそ。 : もちろん、余は幕府無用論だ。あんなものは、五大洲 薩摩のために御所の門を守る義理はない。 には通用せぬ。大政奉還は余のかねてからの持論であったから、おまえらに命じて実行させたのだ。 おまえらにあやつられたのではない」 後藤象二郎は抵抗しなかった。 「お言葉のとおりでございます」 「幕府は無用だが、島津幕府や毛利幕府はさらに無用だ。 恨みはない。幕府はほろびても、徳川家は残さねばならぬ」 「御音 ~ にござりまする」 会津、桑 「薩摩と長州がいかに強兵を誇っても、総勢四千 : : : 五千は越えまい。越前、尾張、紀州、 名に土佐を加えたら、少なくとも三万の兵が動く。薩摩が横車を押すなら、長州もろとも、西の海に さらりと払いすててみせる。山内容堂を甘く見るな ! 」 「おそれいりました」 「余は眠くなった。眠る ! 」 「は↓の」 「明日の会議には出甯せぬ」 : わが土佐藩は徳川家に恩義こそあれ、