大阪城中の強硬派は、薩邸焼討は江戸の治安のためにだけでなく、京都における討薩のロ火となる ものであるから、いそがねばならぬと考えていた。 桑名定敬、板倉勝静、松平豊前守の連署で、江戸幕閣にあて、次の手紙が送られている。 『兵力をもって薩邸草賊討減の策、すみやかに実施成らせらるべく候。 : : : 町奉行より薩邸に交渉す れば、相手は言を左右にして言いのがれるであろうが、証拠はすでに顕然、断乎攻撃すべし。 江戸近傍と市中に強賊横行して暴行に及んでいるのに、一人も召捕ることができないとは、市民の ・こさた 信頼を失い、御威光をも汚す、もってのほかの儀なり。固く申し達せよとの将軍家の御沙汰である。 なお、当地においてもすでに挙正除奸を上表しているから、貴地においてもすみやかに御討伐、・ 東西相応じ、薩藩をして落胆せしむれば、成功まちがいなしと御期待遊ばされている』 日付は十二月二十四日夜八時。この手紙が到着しない先に薩邸焼討は決行されたわけだ。 強硬派の勝利であった。大阪城は天守閣もゆらぐばかりにわきかえった。武力上京は、もはや何者 逆 のカでも制御できない。尾張慶勝と越前春嶽の調停も十日の菊だ。言葉の色は美しいが、間にあわぬ。 ちゅうりく 秘密裡に『薩賊誅戮』の上奏文が起草され、出兵の準備が始った。上京軍は伏見、鳥羽両街道から七 たじまのかみ 第 進軍する。指揮官は松平豊前守、竹中丹後守、塚原但馬守などが内定した。兵数およそ一万五千。 だれも勝利をうたがうものはなかった。 岩倉の立場も苦しかった。 そろ 流
第七章逆流 薩邸焼討の報告が大阪城に達したのは、十二月二十九日であった。大目付滝Ⅲ播磨守が軍艦と兵を ひきいて江戸から到着して、討伐と勝利の状況を詳報したのである。 東から吹いて来た火の嵐であった。大阪城中は燃えあがり、自重論も妥協論も一瞬に吹きとんでし まった。 固く恭順説をとって将士の沸騰をおさえていた徳川慶喜自身もついに心を決したかのように見えた。 かんけい 敵は薩摩である。朝廷ではない。薩摩こそあらゆる陰謀と奸計をほしいままにして勅命を曲げ、 なりあき 政権を横取りした「君側の奸」である。勤皇は薩摩の独占物ではない。尊王家水戸斉昭の子で、『大日 みつくにすえ 本史』の編者水戸光圀の裔である慶喜に勤皇の志なしとだれが言うか。大政は朝廷に奉還したのであ り、断じて薩摩に返還したのではない。すでに薩賊討減の火の手は江戸においてあがったのだ。もは ちゅうちょ や躊躇は無用であろう。 かな攴 武力討薩の論は、慶喜退京のその日から大阪城中で鼎の底の鉄火のように煮えたぎっていた。幕軍 一万五千は健在である。なんで薩長三千の兵を恐れることがあろう。 くわなさだたか あいずかたもり 先帝の御信任厚かった会津容保は嘆き、血気の青年武将桑名定敬は怒り狂った。定敬は「大阪市中 はりまのかみ 147 第七章逆流
「毛唐どもめー : それが今の幕府のやり口だ。しかし、相楽、討幕と攘夷の一戦が同時に行えれ ば、ここで死ぬのも本望だな」 「水原君、ここで死なれてはこまるな」 篠崎彦十郎が徴笑しながら、 「われわれは、すでに栃木と八王子の一挙で多くの惜しい同志を失った。これ以上の儀牲はさけたい と思っている」 「これはまた妙なことを言われる。われらの死場所はこの屋敷と覚悟していた。戦わずして逃げろと 申されるのか ? 」 「いや、戦って血路を開いていただきたい。つまり、死をいそがれるなと申しているのだ。江戸にお ける諸君の任務はおそらく今日で終る。ぜひ身命を保って京都にひきあげ、つづいて御奉公してもら わねばならぬ。それが西郷吉之助の望みであり、そのために品川沖に翔鳳丸を待機させてあるのだ」 「あなたはどうなさる ? 」 「私も関太郎も江戸留守居役だ。江戸を留守にするわけにはいかぬ」 「そんなことだろうと思っていた。 ・ : 篠崎さん、死をいそいでいるのはあなたではないか。あなた ~ たちを残して、われわれだけに退去せよというのは、薩藩士と浪士を差別するものだ。断じて承服し 125 第ハ章薩邸焼討
の奴らに、会津武士の骨の硬さを思い知らせてやる ! 」 槍隊の第二回の突撃は、さらに不運であった。火災の光を背にして、銃火の中にとび出して行った のだ。その上、敵陣には援兵が来たらしく、飛来する銃弾の数も二倍になっていた。柵門をとび出し よだげんじ たものは、カナ 、こつばしからなぎ倒されて、組頭依田源治が戦死した。 老奉行林権助もいつのまにか負傷していた。流が右の額をかすめ、流れ落ちる血で目をあけるこ とができなくなった。だれかに馬からひきすりおろされ、柵門に立てかけた畳のかげに押しすえられ 「引くな、一歩も ! 」 声はまだたしかであったが、血まみれの姿は味方の目にも手負いの老将の死物狂いとしか見えなか おたけ った。会津武士の一徹の生涯をこの一瞬にかけた必死のーー悲壮の名に価する奮闘であり、雄叫びで あったのだが : 戦争にも運と悲運がある。いや、戦争なればこそ、運がはたらく。この時、薩軍の破裂弾の一発が、 奉行所の玄関わきにつみあげた火薬箱に命中した。爆音と爆風の中で、老奉行のからだが横飛びに吹 っとんだ。会津藩の悲運であった。 西郷吉之助は東寺の本営にいた。相国寺から馬をとばして来たのである。 薩軍の総指揮官として、藩主島津忠義に従って藩邸の総本営にいなければならないのであるが、次 18 ] 第八章鳥羽伏見
第一章まわり舞台 * * * * 9 第ニ章出陣 第三章小御所会議 第四章雨の大阪城 * 8 第五章隆火 * * * * 第六章薩邸焼討 第七章逆流 * きんき を旗の卷 * * * * 目次 -4
た郎 大 士雪 之大 正議 。た 久 保 ち小 い助 し千 が保 を決 は止 は 笑 苦郷 撃変 わ 屋智 、図 す 謀カ 、が ぇ薩薩あ 、た は帰 ば摩摩れ刻っ 、を 、千 か弟 ふ所 そ武 を運 ち思 れ庭 、結命む 将け 助れ の赤 か今 慶発 た夜 各砲 、利 げき い銀 雪中 な色 の幕 中猶 、反 尸変 に介 。を 行砲 、刻 っ隊 。を 。出 冷数 静刻 者気 大問千牲 久題秋者 い備 い張 あ恨 兀部 つ事 之者 て州 伝す は川 第二章 43 之 助 は 笑 し お い 西 お ま ん 今 日 は 大 ら し く な も と お つ 大 将 は 物 に 騒 ざ て た ヨご 井 し、 つ も の と ぼ 顔 で 出 に っ て み る と 大 久 保 通 と 井 幸 が 待 っ て な 保 の 顔 も 緊 張 倉 久 の と 決 断 が 実 ぶ ・雪 と と も 7 肖 え 冫よ て る か の で た カ : か り ま ち 同 じ が 日 の 薩 摩 ・を , に待軍 つ ℃ る の お く れ が の と る 岩 に っ て 突 し も く 橋 の 連 △ の て猛追 撃 う け 多 の 犠 出 し 。な敗軍攻 退 し た ち ま ち 所 ぇ は 御 に 向 っ て す る 立 場 し、 ま る ち よ う ど 四 年 を前で 長 林 門 喜 に も カ ば た だ に 丘 を く り 出 し て に御城 九 つ の 門 固 め る と が 、き転 る は守徳 た 日 不火 し や が 秋 の い で あ っ た 条 の 軍 が 動 き 出 せ ば 形 勢 は 逆 す る 慶 だ 出 の 、図 , を 彳寺 ば り あ る 信 丘 衛 の 兄 も に て 出 た 思 の す と も オ よ 地 、知軍 の 指 を う け て れ 之そ郎 別部塚 れ署平 の原幹 の て大十 も の 準 を 了 た ヨご ロ い次伊 し た は す で に り 鈴 、木 五 篠 、原 国鬯 見 太 を は じ め と る 将 ち は の 庭 ま で あ ふ て し、 馬 の な カ : 聞 ん る 武 ぶ る は 助 に 染 は な て し、 た が は の ち に ・つ て い た 寒 と に 武 る る
「はつはつは、御両君。これが福沢という学者天狗のくせだ。僕は気にしない。僕は学者ではないが とんしょ 庄内武士の魂は持っている。薩邸の浪士どもにわが藩の屯所に鉄砲を打ちこまれては、そのままでは ひきさがれぬ。 : 福沢君、いまに見ているがよい。薩摩屋敷は、我ら庄内藩士の手で焼きはらう。 攻撃の陣頭には、不肖加宮藤三が立つ」 「よく咆 ~ 、ニワトリは卵を生まぬということわざがヨーロッパにはある。失礼 4 丿る」 福沢諭吉は出て行ってしまった。 薩摩屋敷ならぬ江戸城二の丸が怪火によって炎上したのは、その晩の夜明け方であった。 築地の桂川屋敷で、学者たちのヒョットコ踊りがつづいているころーーといっても、これには、た だの馬鹿騒ぎではかたづけられぬにがい味がある。そんな御時勢なのだ。彼らの胸底にも、福沢論告 と同じ怒りと憂いが重くよどんでいた。 おらんだじ 伊達や道楽で西洋学に志したのではない。桂川甫周も『和蘭字彙』の出版には命をかけた。柳河春 けいも ) 三の「洋学便覧』、神田孝平の『経済小学』も、この国の将来に貢献する啓蒙書として、識者のあいだ まっさっ では高く評価されている。だが、京都を中心にまきおこった逆流は、彼らの「文明への意志」を抹殺 しかねない勢いである。しかも、幕府は全くの無為無策、打つ手を知らぬ有様だ。将軍慶喜の態度そ五 第 のものからして不可解きわまる。徹底恭順か武力討薩か、道は二つしかないはずなのに、大兵を大阪 城にとどめたまま、いまだに右とも左ともきめかねている。 火
すでに十時をすぎていた。西郷吉之助の指揮する薩軍が建礼、建春、宜秋の諸門を固め、岩倉具視絽 が衣冠東帯の正装で六年ぶりに参内したという報告は福岡孝悌の手もとにとどいていた。もはや一刻 の猶予もできない。土佐藩の警衛部署は宜秋鬥、南門、蛤御門、その他ということになっている。薩 軍はその中の宜秋門を占領した。やがて長州軍が入京すれ、は、蛤御門を固めるかもしれぬ。大酔した 容堂の相手をしていては、土佐藩は御所の警衛からしめ出されてしまう。 「殿、しばらくお暇を : ・・ : 」 「なに、なんと申した ? 」 「後藤象二郎と打合せのため : : : 」 「飲めー : どうやら眠くなって来たぞ。 : : : 飲めと言うたら飲むのだ ! 」 早くも酔いつぶれた容堂を侍女と小姓にまかせ、福岡孝悌は妙法院をとび出し、河原町藩邸に馬を たにたてき 乗りつけて、谷干城のひきいる大隊に即時出動を命した。独断であるが、致し方ない。後藤象二郎の 方針は、越前、尾張と協力して、二条城の慶喜のために参内の道を開くことである。後藤を助けるた めには、薩摩を牽制する兵力の急派が何よりも必要であった。 させん ふたたび妙法院にひきかえしてみると、山内容堂は目をさまして、お気に入りの参政寺村左膳を相 手に盃をかたむけていた。 「福岡か。長い小便たったな」 「はつ、おそれいります。河原町まで一走りしてまいりました」 「妙法院の抹香くさい便所では、おまえの物には間にあわぬか。 まっこ。 , : 象二郎はどうした ? 」
「この御英彳あってこそ、あつばれ将軍家である」 「憎むべき薩賊どもを、長州その他の藩賊ともども一撃のもとにみな殺しにしてくれるそ」 鉄砲を城中の中庭に持ち出して掃除する者、槍を武器庫から取出して御廊下でふりまわす者。大言 と壮語の声は老中若年寄の座敷からも聞えて、重役部屋がまるで書生部屋のようになってしまった。 めんえっ 外国係の書記生、福地源一郎 ( 桜痴 ) は、これを狂態と見て、平山図書頭に面謁を乞い 「大兵をひきいて上京することは、最も拙劣な策である。どこまでも大阪城を固守して、軍艦をもっ て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西之宮から街道にそって胸壁を築き、淀川の通運を止め、守口と ひらかた 枚方を確保すれば、京都の薩長兵は手も足も出せず、戦わずして逃走するにちがいない」 と進言したが、平山は笑って答えた。 「おまえだけに話すが、京都には内応を約東した有力な藩がいる。わが先鋒隊が伏見に進出して砲撃 を開始すれば、薩賊は内より破れて敗走する。心配は無用だ」 内応の藩とは土佐藩のことであろうと福地は思った。そう言えば、先日、後藤象二郎の使者が大阪 城にきて、老中たちと何事か密談して帰って行った。 かんたん 慶応四年正月元旦。比叡おろしが吹きすさんで、御所の屋根の霜の色もひとしお牙えわたって見え 西郷吉之助は早朝に起きて、吉次郎、信吾、小兵衛の弟たちをひきつれ、賀茂の渡しをわたって下 150
をうろついている薩摩人を一人斬るごとに金十五両を与える」と藩士に密命して、慶喜をおどろかし絽 なおむね た。温厚と老成をうたわれていた老中首席板倉勝静と若年寄永井尚志さえも、病臥中の慶喜の部屋に おしかけて来て、城中沸騰の実状を報告して、 「もし武力討薩をお許しにならないならば、おそれ多けれど、彼らは公を刺し奉っても脱走しかねな い勢いでございます」 ただの威嚇ではなかった。 「まさか余を殺すようなことはしなかったろうが、脱走突出は必ず起ったにちがいない」 と慶喜は後に述懐している。 若年寄平山図書頭、大目付戸川伊豆守、目付榎本武揚なども即時討薩論で、すでにこの月の中旬に 『挙正退奸状』を起草して慶喜に署名させ、戸川伊豆守が携えて上京している。 ちょうおん 『臣慶喜、不肖の身をもって、深き寵恩をこうむり、 ・ : 苦心焦慮 : : : 宇内の形勢を熟察し、 : 政 ごさた 権を奉還いたせしところ、 ・ : あにはからんや、臣慶喜に何の御沙汰なきのみならず、列藩の会議も きゅうけっ けんせき 開かず、 二の藩が武装して宮闕に侵入、 ・先帝によって譴責をこうむった公卿数名を抜擢 きようがく し、陪臣の輩、みだりに玉座近く徘徊いたし、数千年来の朝典をけがし、 : 実に驚愕の至りに存じ そろ 奉り候』 在京の山内容堂、越前春嶽、尾張慶勝はこの上表を見て大いにおどろき、戸川をなだめ、いずれ必 ず慶喜の入京を取りはからうと説得して、『挙正退奸状』は岩倉具視にあずけることにした。 岩倉はこれを西郷と大久保にも見せず、にぎりつぶした。もし公表したら、ただちに兵乱となる。 えのもとたけあき びようが ばってき