「大村がどうかしましたか ? 」 「吉井幸輔の手紙によると、京都で軍防局判事とかいう役に任ぜられて近く江戸に下るそうだ。長州 軍の指揮は、今後、この人の手にまかせられるとか」 「へえ、あの福助に ! 」 「福助 ? 」 「なぜ福助という仇名が出たか、会えばわかります」 山県は笑いながら、「頭でつかちのおもしろい顔をしているが、西洋流の軍略家としては、わが藩の 大先輩です。門人も多いし、軍防局判事とかには適任でしよう。しかし、総指揮官になれる器かどう 「佐賀藩の江藤新平という男は ? 」 「そんなのは知りませんね」 「土佐の小笠原唯八と組んで、江戸の偵察に来ていた。たいへんな激派だが、三条卿ゃあんたの親分 の木戸さんが目をかけているらしい」 「それは初耳です。佐賀藩の連中が急に乗出して来たことは聞いていますが : ほらとうげ 「洞が峠の鍋島侯が腰をあげたというのも、時勢だな。天朝の御威光がひろがった証拠として喜んで 章 よかろ、つ」 第 「佐賀藩はアームストロング砲を持っているそうですな」 「そのせいか、江藤新平という男の鼻息も荒かった。江戸の官軍は腐敗堕落して役に立たぬ、京都か新
「みんな元気たな」 海舟は兵隊たちを見て笑い、自分の胸を指さして、「いずれ今明日中には決着がつく。次第によって は、諸君の銃口にかかることになるかもしれぬ。よくこの胸をおぼえておくことたね」 西郷が言った。 「まことに御無礼をいたしました」 「いやいや、おかげで助かった」 海舟は馬丁のさし出す手綱をうけとりながら、「西郷さん、歌を思い出したよ。 みくに る人もあわれなり、おなじ皇国の人と思えば。 : 武田耕雲斎たったね」 海舟はひらりと馬にまたがる。西郷は軍服の腰を折って深々と頭をさげた。 渡辺清が横浜から馬をとばして駈けつけて来たのは、その日の日暮前であった。 「西郷先生、どうもいけません。 ークスはわれわれの話をてんで受付けようとも致しません」 「ほう、何と言ったかな」 「万国公法がどうだとか、局外中立が何だとか、いろいろ中しましたが、要するに、日本はまだ無政 府たから、イギリスは官軍と幕府のいすれにも味方しない。 : もし江戸城を攻撃するならば、これ を不法の戦争と認め、イギリス、フランスをはじめとする外国連合軍は官軍をたたくかもしれぬとい う意味のことを申しました。野戦病院の件ももちろんことわられました」 : うつ人もうたる
ためにも、至急上京せねばなりません」 「西郷さん、そりゃあまた御苦労な : いや、まことにありがたいことだ。どうお礼を申上げたらい し力」 「ただ一つ不思議なことは、鳥羽伏見以来、・勝つはすのない官軍が勝っております。負けるはすのな い幕軍が一歩ずつ負けて行く。これはどういうことでしようか」 海舟はすばりと答えた。 「それは皇威というものだよ。」 「勝先生、あなたもそう思われますか」 「もちろんのこと ! 何百年ぶりかに皇威が輝きはじめた。 干渉も食いとめることができる」 「わかりました。江戸のことは先生におまかせして、私は京都に : : : 」 「おっと、ちょいと待ってもらいたいね」 海舟は大けさに両手をふって、 「明日の総攻撃はどうなるのだ ? 攻撃の手筈はすでにきまっていると聞いた。江戸のことはまかせ ると言われても、うつかり引受けられないじゃないか、西郷さん」 「いや、これは、 : まるで忘れておりました」 吉之助は笑って、隣室に呼びかけた。「おい、村田と桐野、そこにいるなら、ちょいと来てもら おう」 : ここで無理さえしなければ、外国の 98
ただごとではなかった。山岡鉄太郎は、益満は江戸の町が焼けることを惜しんでいるのだと言った が、そんなものではない。勝海舟は死相と言ったそうだが、益満の表情に現れているのは、死相では ぞうお なく、絶望的な怒りであり、憎悪であった。 燃えるような目つきで、しばらく吉之助をにらみすえていたが、 「先生、あなたはよくもあの二人を見殺しにしましたね」 「よこっ ? 」 「そんな人だとは : : : そんな冷酷無残な人だと夢にも思わなかった ! 」 「益満、何のことを言っているのだ ? 」 「知らぬとおっしやる。そうですか、そんなものでしようかね」 益満はあぐらをかき、尻をまくりかねないふてくされた姿勢になって、「江州だか信州だか、どこか そこらあたりで、伊牟田尚平と相楽総三が斬られましたね」 「なに、あの二人が ? 」 「斬ったのは、幕軍しゃない。東山道総督府 : : : 総督も副総督も岩倉具視の息子で、参謀の中には薩 「おお、おまえ : 、・ : ど、どうしたというのだ ? 」 遊び人風に着流した着物がびしょ濡れになっているだけではない。髪は乱れ、皮膚は黒ずみ、血走 った目が死人のように、いや墓場から出て来た幽鬼の目のような不気味な光を発していた。 199 第十章霖雨
: と落涙なされた」 が、かえすがえすも口惜しい : だから、あんたのところに駈けつけた。あんたは開国党で、 「私のむは、この時きまったのだ。 : だが、今となっては攘夷 私は攘夷党であった。あんたを斬ると言ったのも、うそではなかった。 も開国もない。ないとわかったからこそ、私はここにやって来たのだ。にもかかわらず、あんたは本 心をかくしている ! 」 勝海舟はニコリと笑った。静かに自分の膝をなぜながら、 ・ : あんたの仇名 「山岡さん、私はあんたを見そこねていたようだ。世間の噂とはちがうお人だね。 むほん は謀叛鉄だ、あぶねえから近づけるなと忠告してくれた人は、二人や三人じゃなかった。神様じゃな いから、そう言われれば、そう思いこむね。実は、こわかったんだよ。しかし、これでわかった。安 すんぶ 心したよ。 : : : 駿府に行ってくれるのは、まことにありがたいが、東海道は官軍でいつば、だ。どん なふうに行くおつもりだね ? 」 虎 「官軍の兵隊どもにできることは、私を縛るか斬るか、二つに一つです」 山岡鉄太郎は答えた。鋭い目で海舟の顔を正面から見据えて、「私は腰の大小を渡し、縛るなら縛ら章 れ、もし斬るつもりなら、その前に私の趣意を一言だけ大総督の宮にお伝えせよと申します。私の言第 うことが悪ければ、総督はすぐに首を斬るだろう、善しと思われたら、会って話そうとおっしやるに じよう、
益満は嬉しそうであった。肩をおとして、ほっと息をつき、「おかけさまで、江戸は焼けずに残りま幻 「こいつ、自分の町のようなことを言う」 ークス公使に会いに 吉之助は微笑したが、「益満、たずねたいことがある。海舟はおれの留守中にパ 行かなかったか ? 」 : おっと、待ってくださ 「そうですね。アーネスト・サトーは何度か氷川町に顔を出しましたが、 二度ほど横浜方面に出かけたようですね。一度は海軍総督の大原俊実卿に会いに行ったのだと申 していました。大原卿が先生に帰順して朝廷に仕官しないかとすすめたのでことわりに行った、人を 見そこなうにも程がある、と先生は笑っていました。二度目はつい三日ほど前のことですが、これは ークスに会いに行ったのかもしれませんね。何かあったのですか、先生 ? 」 「いや、それだけのことだ」 吉之助は答えた。「内外多事、当分お会いできないが、くれぐれも御大切にと申し上げておいてく 0 、 休息のひまはなかった。吉之助は、益満をかえすと、すぐに海江田信義、木梨精一郎両参謀を部屋 に呼び、京都の決定を説明して、 「大総督府の到着を待っているわけにはいかぬ。その前に、橋本、柳原両卿を勅使として江戸城中に
「先生もお困りでしようが、私も弱っております」 西郷吉之助はつづけた。「長い東海道をはるばる江戸まで下って来て、一戦もせぬということになれ ひょうろう ば、兵隊どもはおさまりません。ひとつ、武器なり兵糧なり、お互いに足りんところは貸し合って、 ひろば 先生が徳川勢を指揮し、私が官兵を指揮し、なるべく町をはなれた広っ場で一合戦やって勝負をつけ ることにしましようか」 「あっはつは、それは名案。江戸の市民も助かるね。 : たが、西郷さん、その返事も明日まで待っ ていたたこう。今日は処分案とは関係のないことを一つだけ中上げる。静寛院の宮の御事だが、これ いるかは、西郷さん、あんたと私とちょっと地位をかえて下されば、わかるはずた」 「いかにも。・ : ・ : 御心中、お察し申します」 「しかし、あんたが参謀で来てくれると聞いて、実は大いに安心していた」 「こりゃあ、どうも。 : 先生にそこまで信用されたのでは、私は兵隊をまとめて箱根の向うに引き あげねばなりません」 西郷は首筋に右手をあてて、大声で笑った。 海舟も笑いながら、 「そう願えれば結構たが、せつかくここまでおいでになったのを、お引きとり下さいとは、 でも言えないね」 いくら私
豊瑞丸は予定の日に、品川から出帆したが、初島の沖あたりで雨まじりの南風にたたかれて伊東の 港に逃げこんだ。 「これだから、船旅はいやなのだ」 はんせん 山県有朋はこ。ほした。「蒸気船のくせに、こう風に弱くては帆船と変りはない」 吉之助は笑って、 「陸を行っても川止めというものがある。あきらめてもらいましよう。この港には温泉がある。あん たもひと浴びして来るがよい」 「いや、僕はたくさんです」 福田侠平は村田新八を誘って上陸していた。山県は吉原のことがあるので、気がとがめて同行しな かった。西郷は何も言わぬが、やつばり煙たいのである。 「では、船の中で、あんたと飲もう。久しぶりだ」 「長府以来ですな。飲みましよう」 「ところで、いつ出発なさる ? 」 「明日に , も」 「明後二十九日までお待ちなさい。品川からわが藩の豊瑞丸が出ることになっている。大阪までいっ しょに ( 打こう」 ほうずいまる 152
あったとして、二万両を渡したら、彰義隊の軍資金になるだけだ。その腹が山鉄には読めない。 江田さん、山鉄は明日にも登城して二万両よこせというでしようが、渡してはいけませんね」 そで 「渡したくとも、ない袖はふれぬ。こっちが借りたいくらいだ」 吉之助が口を切った。 「益満、このことは海舟先生に報告したろうな。先生は何と申された ? 」 「はあ、どっちもどっちだ、と笑いましたが、しかし笑ってもおれぬ、悪僧と馬鹿侍の勝負だが、ゆ すりたかりの悪僧に味方するわけにはいかん、西郷さんは山岡ほど馬鹿ではないから、何とか手を打 ってくれるだろうと中されました」 「海江田、おまえは覚王院をただの悪僧と思うか ? 」 「一筋縄ではいかぬ坊主でしようね」 「徳川家を思う至誠においては、勝、山岡におとらぬ人物ではなかろうか。坊主ながら、武士の意地 めんば と気概をもっている。そこらの旗本とはちがう。鬼鉄の山岡を腰ぬけの蜂侍だと面罵したのはおもし ろい」 義 「また感心する。わるいくせだな。彰義隊の処分はどうするつもりです ? 」 「海江田、おまえは山岡に会ってもらおう」 吉之助は言った。「山岡を通じて、覚王院を大総督府に呼び出せ。もし必要なら、おれが覚王院に会九 第 「無駄なことだ。出てくるものですか、あの坊主が」
ら新鋭の兵をひきつれて来て、彰義隊をみな殺しにしてみせると息まいていた」 「いったい江藤というやつは、戦争を知っているのですか ? 」 「さあ、佐賀藩が戦争した話は聞いたことがないが、どこか不気味な男でな。何をやり出すかわから ぬ。その江藤が大村益次郎と手をつないで、京都で盛んに討伐論を唱えているという。三条卿も木戸 さんもだいぶ動かされているそうだから、厄介なことになりそうだ」 「木戸に会ったら、あなたの意のあるところをよく話しておきましよう。しかし、西郷さん、僕も討 伐論だということは知っておいていただきたい。奇兵隊の出撃はすでに決定していますから、大阪に 着いたら、すぐに越後ロに行くことになるでしよう」 「私は戦争に反対しているのではない。必要な戦争は万死をおかして決行しなければならぬ。奇兵隊 の健闘を祈っている」 そして、思い出したように、 「吉井の手紙によれば、越後ロには薩摩の兵も出る。私の弟の吉次郎と小兵衛も行くそうだ。本人た ちも喜んでいるそうで、まことにありがたいことだと思っている」 「ほう、弟御が二人とも ? 」 「もう一人いるが、これは海軍の方だ」 「信吾君ですね」 おおやまいわお 「従弟の大山巌は伊地知、板垣の軍の砲兵隊長で、だいぶ手柄も立てたようだ」 「吉次郎君は何番隊長ですか ? 」 158