板垣退助 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第18巻
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1. 西郷隆盛 第18巻

「おお、そこまで決心してくれたか」 「御名代と兵隊上京だけなら、春三月に必す間に合せます。 : : : 実は本日九時より城山の馬場におい て、四個大隊と大砲四座の練兵を行ないます。御一覧願いたいと存じます」 岩倉は山県と顔を見合せて、うなずき合った。吉之助はそうは言わなかったが、これは久光に対す る大示威運動にちがいない。 兵隊たちには何を贈ろうか」 「さそ盛んな練兵であろうな。喜んで拝見させていただこう。 山県が、 「酒十石、数の子五石、スルメ二百東 : : : 」 「これはこれは・ 「なに、目録だけで結構。あとは西郷君がよろしく取りはからってくれるでしよう」 吉之助も笑って、 「恩賜の酒と数の子、ありがたくちょうだいいたしました。兵隊一同に代り、厚く御礼中上げます」 館 と頭を下げ、やがて坐りなおして、 「さて、上京のことになりますが、私は勅使御一行のお供をして、ます長州に行き、さらに木戸とと もに土佐に赴いて板垣退助に会うことにきめました」 吉之助自身が板垣退助を引き出すために、土佐まで行くというのは、岩倉具視には初耳であった。九 第 山県はこのことは機密事だと吉之助に言われて、まだ岩倉の耳には入れていなかったのだ。 「板垣は土佐にひきこもって、フランス士官や元幕軍の隊長だった男まで雇って兵を練っているそう

2. 西郷隆盛 第18巻

第十章御親兵 王家の衰弱人をして驚かしむ 憂憤身を捐っ千百の兵 忠義凝って成る腸鉄石 楹となり礎となりて堅城を築け これは明治四年三月、薩藩の銃隊四大隊、砲兵四隊が御親兵となって上京する時、西郷吉之助が将 士をはげました詩である。 朝廷の衰弱、新政府の無力は想像以上である。拱手傍観していては、明日にも倒れる。この実情を 憂い憤って奮起した百千の兵が身を捨てて皇城守護に当る。憂国勤皇の志は凝って鉄石の如し、日本 の柱となり基石となって堅城を築け。 これより先、この年の正月に、吉之助は岩倉勅使とともに、ます長州に赴いて木戸孝允を説き、木 戸、大久保を伴って土佐を訪れた。板垣退助の出馬をうながすためであった。 板垣は土佐藩の大参事として藩政と軍制の改革に熱中していた。潔癖な板垣は中央政府の無方針と す 226

3. 西郷隆盛 第18巻

館 翌朝の六時前、まだ夜も明けぬ時刻に、城中からの使者が迎賓館に来て、久光の手紙をおいて行った。 岩倉はまだ寝床の中にいたが、開いてみると、″来春の出府のことはお請け申した。別封の請書、 自ら持参すべきであるが、病中、使者を以って差出し候〃というそっけない内容であった。 九 岩倉は、酔いつぶれて控えの間に寝ている山県有朋を侍臣に起させて、手紙を示し、 「こりゃあ、まるで届け捨てだ。勅使に対する答書とは思えぬ。こんな時刻に、玄関に投げこんたも 「西郷はそのような男ではございません」 「ということがわかったので、わしは喜んでいるのだ。三条卿もきっと喜ぶ。世間の噂はあてになら ぬものだな。世間では、わしと三条は犬と猿の仲だということになっている。わしは薩摩派で、三条 は長州派だときめている。そう見えるかな」 「見えた時もございました」 「それで、長州派はわしを除き、薩摩派は三条を除かねば、天下の事は行なわれぬと言っている」 「今は、そのようなことはございませぬ」 「土佐の大参事板垣一派も長州に同調して、岩倉打倒を唱えていると聞いた」 「板垣退助は西郷にもおとらぬ無私公平の武人であります。そのようなことは決して : : : 」 「余もそうにらんでいるそ。西郷が動けば、板垣も必ず動く。だから、安心して余は飲んでいる。 ーそれにしても、おそいな。西郷はまだか」

4. 西郷隆盛 第18巻

なぜ東京から兵を引上げてしまったのですか。土佐の板垣も兵をひきいて国に帰ってしまった。現在 東京に残っているのは長州の兵たけだ」 「引上げたのではない。交替兵を出すのに手間どっているだけだ」 「世間はそう言ってはおりません」 「世間の噂をいちいち気にすることはなかろう。わが藩は諸藩と協力して必ず御親兵を差出す。今日 も岩倉卿にそのことを申上げておいた」 「たださし出すだけでは用をなさぬ。徹底的に軍制改革をほどこした最新式の精兵が必要です。私の 考えでは、日本古来の兵制を参考にすることはもちろんだが、まずフランスの兵制にならって国軍の 基礎を確立すべきです。現在のところ、諸藩は大阪に兵を集めて再訓練しているが、オランダ式、イ ギリス式、フランス式とごちやごちやで、これじゃあ国軍として役に立ちません」 吉之助はうなずいて、 「諸藩の雑軍をよせ集めても、どうにもなるまい。現在、新式の強兵を擁しているのは、長州と土佐 と薩摩だ。ます、この三藩の兵を朝廷に献納して、国の基礎を固めるよりほかはなかろう」 「ほほう、土佐も動きますか」 「板垣退助は立派な男た。私はまず長州に行き、木戸さんと相談した上で、土佐の板垣に会いに行く つもりだ。しかし、山県さん、これはたいへんな仕事だから、事が成就するまでは、水ももらさぬ機 密事にしておかねばならぬ」 「な。せ秘密冫 こするのですか」 208

5. 西郷隆盛 第18巻

木戸、西郷、大久保、山県らが土佐から来た板垣退助を迎えて、神戸から汽船ニュ ーヨーク号に乗り、 横浜を経て東京に入ったのは二月の初めであった。岩倉具視は陸路をとったので、四、五日おくれた。 大久保は岩倉の着京を待って、猛然と活動を開始した。鉄は熱いうちに打たねばならぬ。西郷も木 戸も板垣も、それそれ癖のある人物だ。その上に、これまでの薩長土三藩のいきさつやいざこざが重 なっているので、やっとのことで東京に引出したものの、ぐずぐずしていると、いつまたばらばらに なってしまうかもしれぬ。 岩倉もまた同じ思いであった。入京の途中、東海道三島の駅からわざわざ飛脚を差立てて、 『六日着京の予定であるから、その晩か翌朝、拙宅まで御来駕願いたい』という手紙を届けておきな がら、七日の早朝、自分の方から大久保の家にやって来た。寝込みを襲ったのである。 「どうだ、三人の豪傑たちの折合いはうまくいっているか。それとも : : : 」 大久保は苦笑して、 「着京早々喧嘩を始めるほど子供ではありません。しかし、木戸は頭痛やら歯痛やらで、横浜で二日 ほど寝こみました」 徒の徹底的弾圧を主張していたそうだな。犯人はその方向から来たにちがいない」 「東京の治安悪化は幕末よりひどいことが、これでわかったろう。今度はこっちが狙われる番だが」 「取締りと弾圧だけで治まるものかどうか。その点を、おたがい冫 こよく考えねばなるまい」 230

6. 西郷隆盛 第18巻

三条実美邸で開かれた会談には、ます岩倉具視、薩摩からは西郷と大久保、長州からは木戸と杉孫 七郎、土佐からは板垣退助が出席した。 集まるまでには、いろいろとお互いに疑心暗鬼の趣がないではなかったが、顔を合せてみれば、と もに維新の戦火をくぐってきた同志である。 私心を絶って国家に尽す心は各々の胸底に養われている。″国家〃とはもともと藩主をいただく諸 藩を意味していたが、今は彼らの胸中で天皇親政の日本国家にまで拡大成長している。日本の安泰と 発展のためには、旧藩の利害の外に立たねばならぬことが、少なくともこの日の会談に集まった者に は、説明なしに理解されていた。 とは言え、藩を廃止することは容易ならぬ大事業だ。すでに幕府は倒れ、版籍奉還も行なわれて藩 主は藩知事となったが、これは徳川家から与えられた御朱印を朝廷に返上したというだけで、藩知事 は依然として藩主であり、領地と兵力を擁して、財政も中央政府から独立している。 特に、維新の原動力になった雄藩がそうなのだから、話が厄介た。島津家をいただく薩摩藩、毛利 家をいただく長州藩、山内家をいただく土佐藩がその典型である。西郷も大久保も、木戸も板垣も旧 来るかどうか」 「ふふ、木戸はそなたにも苦手か。よろしい、余が木戸の家に馬車を乗りつけて同行しよう。まさか、 いやとは一一一一口えまい」 232

7. 西郷隆盛 第18巻

に縄をつけてひつばって行く、と言って大声で笑った。 兵士たちが寝静まった寺の阿弥陀堂の片隅で、二人さし向いの酒をくみかわしながら ' ハブの住な南の島にも行ったな。何年 「おれは、いつもおまえを迎えに行く役にばかりまわされる。 前の話か。あの時には、おまえ、喜んで浜辺で踊りまわったが : 二度目の島流しが赦免になった時のことを言っているのだ。吉之助は苦笑して、 「つまらんことを思い出したな。今度は島流しとはちがう。おれは当分ここを動くわけにはいかん。 動かぬつもりた」 「長州に気がねすることはない。もっとおれたちのことを考えてくれ。わが藩兵の死傷はひどいもん だ。半数ぐらいは損害をうけた。おまえの二人の弟もどこかで戦っているはずたが、まだ連絡もっか ぬ有様だ。つまりわが軍もまたばらばらなのだ。このままでは、とても会津には攻めこめぬ」 「会津は土佐の板垣退助にまかせておけ。薩摩だけが功名をひとり占めしてはならぬ」 「こいつ、坊主頭になったと思っておれにまで説教する気か」 「薩摩の兵が強いのは結構だが、出しやばりすぎると無理がおこる。会津方面に向った桐野利秋も功風 山 をあせって、板垣と衝突するのではないかと、おれにはその方が心配だ」 の 「心配なら、出て来い。おまえが本営にすわっていてくれるだけで四方がまるくおさまる」 「おれは今度は大総督府の大参謀じゃない。鹿児島から出て来た援軍の部将にすぎん。位はおまえの章 第 方が上だ。おれはおのれの分を守って、おとなしくしているのだ」 「位が上だとか下だとか、つまらんことを言っておる場合ではないそ」

8. 西郷隆盛 第18巻

「板垣退助の軍は、三春、白川、二本松を攻めて、一進一退ながら、着実に会津に向って進みつつあ るようです。新発田方面は私が何とかやってみましよう。黒田君さえ協力してくれれば、まさか長岡 : ・秋田では、わが藩の桂太郎の軍が戦っています。あんたに桂を の二の舞ということもなかろう。 助けていただけば、これも薩長協力ですな」 「秋田にはとりあえす村田新八を行かせることにしました。一小隊くらいの兵はつれて行ける。春日 : 秋田口の薩藩参謀は大山綱良だが、使者の話では、あいつ、この四月いらい、 艦もまわします。 夜も眠れす、五、六貫もやせたという」 山県は自分のほっぺたをなぜてみせて、 こらんのとおり : 「私もやせました。。 「なに、あんたは昔から骨と皮ばかりだった」 「今だから白状しますが、私の奇兵隊は初め十三番隊まであったのが、六番隊になってしまった。百 人近かった小隊が多くて三十人、ひどいのは十人以下になりました。これでは小隊とはいえない。合 体させて整理しているうちに、半分以下にやせてしまったのです。大砲隊も四門を三門ずつに切り下 げて : : : 」 「ほう、それほどまで : : : 」 「長岡の妙見峠では、河井継之助の夜襲をうけて、本陣に斬りこまれました。まるで川中島の上杉謙 信、こっちは武田信玄ではないが、肩先に一刀をうけた気持でした。石内という町では、本陣近くに 大砲を打ちこまれ、放火はされるし、斬り込み隊はやってくるし、西園寺公望卿は寝巻のまま、川を

9. 西郷隆盛 第18巻

それそれ恩賞があった。 それらの金を合せて、武村の新居も買い求めた。新居といっても、ある重役の別荘で、百姓家に毛 のはえた程度の古屋敷にすぎなかったが、敷地が広く、山林もついているので、これまでの下荒田町 や上の園の旧宅にくらべれば、大邸宅だ。 それで十分であった。ほかに参政としての俸禄もある。吉次郎の妻と遺児をふくめた家族の全部と この上に、 家僕の熊吉夫婦、詩人兼居候の川口雪蓬までここに集めて、当分の衣食住に不足はない 何が二千石、何が正三位であろうか。 賞典禄は他の功臣たちにもおしなべて下賜された。大久保、木戸、広沢真臣は千八百石、大村益次 郎は千五百石、吉井幸輔、伊地知正治、板垣退助、小松帯刀、後藤象二郎、岩下方平はそれそれ千石、 その他の隊長級の賞典まで合せれば莫大な額に達する。朝廷は徳川八百万石を居ながらにして手に入 れたのだから、このくらいの褒賞は朝飯前だなどとのんきなことを言っている者もあるが、とんでも ない。吉之助の聞き及んでいるかぎりでも、新政府の財政は全くその日暮し、俗に言う火の車であった。 東北の軍費だけでも一千余万両、これを補う紙幣の発行は二千万両以上に及んでいる。その上、出位 兵した諸藩が私鋳した贋金の類は横浜と神戸にあふれていて、外国公使から責められれば、いずれは 新政府が支払わなければならない。皇室の費用、太政官の日常経費まで関西の豪商たちから借入れて 章 一時をしのいでいる有様だ。貨幣問題や国家財政の細部にわたることは、吉之助にはわからない。し こおりかた 第 かし、青年のころには郡方の下役として租税の徴集にもあたり、その後も薩摩藩の経済の表裏を眺め てきているので、財政の根本義は上に立つ者が率先して無用の経費を節し、産業の振興と民生の安定

10. 西郷隆盛 第18巻

今年は正月の伏見鳥羽から、五月の上野彰義隊まで、戦乱にあけて戦乱に暮れ、しかもまだ戦争は 2 つづいている。彰義隊の抗戦は一日で鎮圧することができたが、戦火は東と北に燃えひろがった。江 戸城を手におさめ、関東諸州の残敵を追い散らしてしまえば、会津藩は孤立し、東北地方はおのすか ら平定すると思ったのは、大きな見込みちがいであった。敵をあなどりすぎた、甘い考えであった。 会津を中心とする奥羽同盟と、長岡、米沢、庄内を主力とする北陸諸藩の結東は固く、守勢にまわ っているのは官軍の方である。この勢いでは、徳川幕府が東北の地で息を吹きかえすという最悪の事 態もおこりかねない。 西郷吉之助が薩軍の一部をひきつれ、藩主島津忠義を奉じて京都から鹿児島に帰って来たのも、凱 旋とはほど遠いものであった。うちつづく戦争に疲労しきって、使いものにならなくなった兵隊を国 もとに送りとどけ、それに代る新鋭の部隊を編成して再出陣するためであった。強力な援軍なしには 打開できない戦況である。 しかし、出陣の準備ははかどらなかった。まず新兵の訓練から始めなければならない。洋式新兵の 主力は銃隊であるが、すでに調練の終ったものは、すべて援軍として送り出されていた。参謀と将校 も不足していた。伊地知正治、大山綱良、桐野利秋、大山巌は土佐の板垣退助とともに会津方面に、 黒田清隆、吉井幸輔、村田新八は長州の山県有朋、前原一誠とともに越後方面に出陣している。砲術 家の中原猶介も砲兵隊をひきいて関東から越後方面に転進したという。 まるで無から始める調練であるから、時間と手間がかかった。六月の中旬から始めて、七月も末の 今日までかかって、どうやら目鼻だけはついたものの、すべての責任を一身にひきうけた西郷吉之助