海舟 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第19巻
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1. 西郷隆盛 第19巻

友人である西郷隆盛への当然な影響が考えられる。 しかし、海舟の″日韓支三国同盟論〃も、昭和の石原莞爾の″東亜連盟論〃と同じく、韓国と支那 、ド難はまぬがれない。韓国にとっては侵略の脅威 の立場から見れば、日本中心の武力強圧論だとしうリ であり、当時の強国大清帝国の目には、小国日本の思い上がったひとり相撲と映ったにちがいない。 勝海舟の対韓意見は徳川慶喜と幕閣を動かした。老中水野和泉守は海舟に、軍艦二隻をひきいて朝 鮮近海を巡航し韓国事情を探索せよと命じた。元治元年三月のことであった。海舟は喜んで下関まで 出かけたが、その時、京都では禁門戦争が起り、横浜では英米仏蘭連合艦隊の長州攻撃の準備が始ま って、形勢が急変したために、江戸に呼びかえされて、彼の大計画は挫折してしまった。 元治元年は、朝鮮史で有名な大院君が摂政となった年だ。この頑固な英傑は武備を整えて、鎖国政 策を強化し、外人排斥とキリスト教撲滅を強行した。フランス軍艦を砲撃し、アメリカ海兵隊と戦い どちらも撃退することができたので、意気大いにあがり、″洋夷の前に平伏した〃日本の弱腰を嘲笑 していた。 フランス公使ロッシュは徳川慶喜に説き、フランスとアメリカとともに韓国の開国に協力せよとす すめた。 慶喜は外国奉行平山図書頭に軍艦一隻と陸兵二個大隊をつけて韓国に派遣することを決定した。卩 ッシ = 公使は″近くフランスと韓国の戦争が始まるから、幕府はこの機会に乗じて大いに威信を国外 154

2. 西郷隆盛 第19巻

海舟は益満を薩摩の密偵と知りつっその奇才を愛して、かねてから出入りを許していたのである。 妻の佐和之介も海舟の屋敷にひきとられていて、出獄した益満と再会することができた。 やがて、西郷吉之助が征東総督大参謀として江戸に迫ってきた。海舟は慶喜の助命と江戸を戦火か ら守るために、山岡鉄舟に益満をつけて、駿府の総督本営に派遣した。西郷は海舟の提案を受入れた。 無事に使命を果した益満に吉之助が、 「どうた、おまえはゆっくりしてゆけ。その後の話もいろいろ聞かせてもらいたい」 と言うと、益満は、 「そうはまいりませぬ。山岡は海舟先生からの預り物だから送りとどけねばならぬし、その上、江戸 には佐和之介という可愛い女房が待っています」 と笑い、東海道をひきかえして行った。 明治元年五月、いよいよ明日は上野彰義隊攻撃という晩に、益満は血相をかえて吉之助の部屋にと びこんできた。 「先生、あなたはよくも伊牟田尚平と相楽総三を斬らせましたね」 「何のことだ ? 」 「伊牟田は江州で、相楽は信州諏訪で斬られた。斬ったのは岩倉具視の息子どもが総督をやっている 東山道征討軍だ。押込み強盗、偽官軍の名で、斬首の上さらし首。 : 殺すなら、なぜ去年の薩邸焼 討の時に殺してくれなかったのか ! 」 吉之助の知らないことであった。相楽や伊牟田が偽官軍とは考えられないことである。

3. 西郷隆盛 第19巻

「対馬は英、露、仏諸国の垂涎するところ。今日の急務は対馬侯宗氏をしてその封土を返上せしめ、 これを幕府の直轄となして、良港を開き、貿易の地とすることである。そうすれば、我が国と朝鮮支 那との航海往来は頻繁となり、自然に海軍の拡張も可能となる』 また、文久三年四月の『海舟日記』には、 「今朝、桂小五郎 ( 木戸 ) 、対馬藩大島友之允同道にて来る。朝鮮の議を論す。 我が策は、当今アジア州中、ヨーロッパ人に抵抗しうる者なし。これみな規模狭小、彼が遠大の策 に及ばざるが故なり。いま我が邦より船艦を出し、ひろくアジア各国の主に説き、縦横連衡、共に海 軍を盛大にし、有無を通じ、学術を研究せすんば、彼が蹂躙をのがるべからす。まず最初、隣国朝鮮 よりこれを説き、後支那に及ばんとす』 君は大いに朝廷を説け、自分は幕府を説く、と海舟は木戸孝允をはげました。 文久から元治の頃の海舟は幕府の海軍奉行であり、神戸に海軍練習所を開き、ひろく諸藩の青年を 集めていた。坂本竜馬がその塾頭であったことは有名な話だ。 『海舟秘録』には、次のような一節もある。 『文久の初め、攘夷の論、はなはだ盛んにして、摂海 ( 大阪湾 ) 守備の説、また囂々たり。 余、建議して日く、よろしくその規模を大にし、海軍を皇張し、営所を兵庫、対馬に設け、その一 を朝鮮に置き、ついに支那に及ぼし、三国合縦連衡して、西洋諸国に抗すべし』 今で言えば″東亜連盟論〃である。この思想の源流をさぐれば、佐藤信淵の『宇内混同秘策』に行 きあたり、藤田東湖、島津斉彬などの名も浮かんでくる。斉彬、東湖の直接の弟子であり、勝海舟の すい・せん ごうごう 153 第七章桜島山

4. 西郷隆盛 第19巻

「早く死んだ者は美しい。あんたの益満も : : : 」 ( しほんとにいさぎよい、男らしい男でございました」 「うらやましいことだ」 「海舟先生が益満のため碑を建ててやると言ってくたさいました。いま、碑文をお書きになっている そうで。今日は、そのこともお知らせ申上げようと思いまして : : : 」 「まことにありがたい。そこまでは気がっかなかった。というよりも私が書くべき碑文ではない。益 満も伊牟田も相楽も、この吉之助を怨んで死んだにちがいない」 吉井がどなった。 「西郷、やめろ。女々しすぎるそ ! 」 形ばかりの食事をすました佐和之介は両手をついて、 ・海舟先生のお屋敷におうかがいしたいと思いますので」 「勝手でございますが、私はこれで、 吉之助はあわてて、 まだ聞きたいことがある。益満の遣児のことだが、もし男の子なら : 「ちょっと待ってもらいたい 「どうなさいますの ? 」 「将来の教育のことを考えねばなるまい」 ] -37 第六章地下の同志

5. 西郷隆盛 第19巻

布くことに努めさせ、山県は陸軍大輔に、従道は陸軍少輔になった。 かくて西郷隆盛は何人にも公言することなく、山県を助けて徴兵令を実施させたのであるが、当時 の薩派軍人の中にも″徴兵令の元兇は山県であり、それに協力したのは従道である。曲者従道をたた き斬ってしまえ〃という論があったくらいである。 その後、西郷が弟子たちをひきいて薩摩に帰らなければならなかったのも、徴兵令が直接の原因で はなかったものの、徴兵令発布の際に彼らの中にまかれた大不平の種子をも考えに入れねばならぬ』 だが、これは後の話だ。 山県の訪問をうけた吉之助は静かにたすねた。 「どのくらいかかるかな」 「なに三カ月もかけたら、まわれるでしよう」 「いや、鎮台兵が役に立つようになるまでには ? 」 「そいつは、少なくとも二年でしような。このままじゃあ、とても台湾にも韓国にも兵は出せません」 「なるほど。勝海舟先生も先日見舞に来てくれて、海軍もまだ役には立たぬと申された」 山県は吉之助の顔を見つめて、 「西郷さん、あんたはどうしても韓国に出兵なさるおつもりか」 「ばかなことを。あんたや海舟先生の言葉のとおり今は陸軍も海軍も出そうと思っても出せぬ。出す 208

6. 西郷隆盛 第19巻

桂久武は心配になってきた。東京からの使者や電報はときどき県庁宛にくる。吉之助が参議の板垣能 退助、外務卿の副島種臣などと連絡をとっていることはわかるが、その内容は桂の耳にはとどかない ある日、桂は病気見舞と称して武村をたずねた。吉之助は裏庭に出て、息子の寅太郎を相手に角カ のまねをして遊んでいるところであった。妻の糸子は幼い午次郎を抱いて楽しそうに見物している。 桂は笑って、 「やあ、病気ひきこもり中かと思ったら、一家団欒の春か。いや、その方が結構」 吉之助も苦笑しながら、 「病気にしておこう。まだ当分、東京に帰れそうにない」 座敷に上がって、桂を迎え、 「御家老、御用は何だ」 「東京に帰れぬわけを聞きたいと思ってな。老公の上京がきまるまで居すわるつもりか」 「おれがいたら、老公の腰はかえって上がらぬ。勅使にまかせることにした」 「勅使 ? 」 「あんたもその方がいいと言ったじゃよ オいか。こんどは変った勅使が来るそ。幕臣海軍大輔勝海舟・ : 「たれの知恵か知らぬが、考えたものだ。薩摩人や長州人が来たのでは、とても動かん。海舟先生な ら動かせるかもしれん」

7. 西郷隆盛 第19巻

「あんたは海舟の来るまで待っというわけか」 「ちがう。おれは副島を待っているのた」 桂久武はおどろいて、 「外務卿がここに来るのか」 「おどろくことはない。副島は北京に行く。同治皇帝が結婚なさるので、そのお祝いに行くのだが、 それは表向きの口実だ。目的はほかにあることは、あんたにも察しがつくだろう」 「台湾問題だな」 「それもある。だが、朝鮮問題の方が重大だ。もし朝鮮に出兵したら、清国がどう出るか、これを確 かめておかねばならん」 「副島も出兵論か」 「板垣に負けぬ強硬論た。出兵論の火元は副島の方かもしれぬ」 「あんたも出兵論なのだな」 山 「まだ、きめてはおらん。あわててきめては、取りかえしのつかぬことになる」 島 「おれに、かくすつもりか」 「何もかくしてはおらん。おれは清国よりもロシアの出方を心配している。 : 副島は出発の前に、桜 おれと相談したいと言 0 て来たが、今から東京に帰 0 たのでは、間に合わぬ。おれはここで待 0 てい七 第 て、副島が軍艦を鹿児島にまわすことにきまった。もう横浜を出帆したころだ。一両日中に、竜驤艦 は前の浜に着くだろう」

8. 西郷隆盛 第19巻

朝鮮よりも樺太が先だと何度も進言したそうだ」 「しかし、樺太に出兵すれば、ロシアと直接衝突します。これは、朝鮮出兵よりも危険でしよう。賛 成できません」 とわたしはにらんでいる。西郷をひきとめたいのた」 「いやいや、黒田の本心は樺太出兵ではない、 「しかし、黒田は薩摩人の中でも、一番頑固で乱暴な奴です」 「たしかに酒癖は悪いようたな。黒田は酒を飲むと気ちがいのように暴れるし、おまえは陽気な女好 きになる。酒乱という点では似たようなものだ」 伊藤は頭をかきながら、 「酒や女の話ではないでしよう」 「いやいや、おまえの女好きはかねて噂に聞いていたが、この洋行中にしかと見とどけた。黒田とは 意気投合するだろう。会ってみろ」 「は↓め」 「薩摩人がすべて征韓派というわけではない、吉井友実、伊地知正治、松方正義、河村純義などは自 重派だと聞いた。西郷の弟従道まで、兄の韓国行きはなんとかして食いとめたいと思っているらしい 勝海舟もいるそ。黒田と手わけして、これらの連中に当ってみろ」 「そのうちに大久保も帰ってくる。三条にも頼んでおいたが、わたしも大久保に手紙を書こう。至急 帰京してもらわねばならぬ。西郷は三条に閣議の開催を督促しているようだが、わたしは大久保が帰 258

9. 西郷隆盛 第19巻

というのだったかな。冬のうちに新春が来るとは何事だという歌もあったそうだ」 オし。帰って来た以上は、どっちかに片をつけねばならぬが、この調子では 「おれも子供の使いじゃよ、 時間がかかりそうだな」 「あんたはいそがしい身の上だ。そうゆっくりもできまい」 「そう、板垣退助と相談して、朝鮮と満州探索のために人を派遣してある。鹿児島からは別府晋介と 池上四郎が行った。もうそろそろ帰って来るころだ」 桂久武はすわりなおして、 : 征韓論。あんたは朝鮮に兵を出すのか出さぬのか、ど 「そのことだ、おれが聞きたかったのは。 っちなのだ」 征韓論の主唱者は西郷隆盛たと信じている者が多い。主唱したのみか、自ら兵をひきいて韓国に乗一 りこもうとして、岩倉、木戸、大久保の一党に阻止され、憤然として野に下ったと説く者もある。ど ちらも俗説であって、事実から遠い 明治政府における最初の征韓論者は木戸孝允であった。対韓国問題は旧幕府から新政府に残された ″厄介な遺産〃であったから、征韓論の源流とも言うべき意見は幕臣の中にもあった。その代表者と して、勝海舟を挙げることができる。 勝海舟の意見は必すしも出兵論ではなかった。『海舟秘録』の中に次のような回想がのっている。 ↓ 52

10. 西郷隆盛 第19巻

助が悲憤するのは無理もない。 だが、その時には、出陣の時刻が迫っていた。薩軍は江戸城二重橋前に集合せよ、という伝令がと んでくる。 「益満、この話はしかと聞いた。必す黒白をつけるつもりだが、まだ戦争はつづいている。わが藩の 部署は上野黒門ロだ。おまえも出陣してくれるだろうな」 益満休之助は唇を曲げて答えた。 「ふふん、おれはいっそのこと彰義隊の方に加わろうかと思っていたところですよ。官軍の弾に当っ て死んだら、伊牟田と相楽に申しわけが立つ。あの二人が偽官軍なら、益満も偽官軍た。とても彰義 隊と戦う気にはなれませんね」 「どうするつもりだ ? 」 「さあ、いまさら海舟先生のところには帰れないし、下総へでも逃げますか。女房の佐和が下総の田 舎で赤ん坊を生みました。はつはつは、薩摩の隠密の偽江戸っ子も人並みに親父になるとは奇妙です ね。 : : : 赤ん坊の顔を見たら、坊主にでも化けて中仙道を歩きましよう。伊牟田と相楽が殺された事 情をつきとめなければ、死んでも死にきれない ! 」 益満は捨てぜりふを残して藩邸をとび出して行ったが、しかし、彰義隊攻撃には参加した。戦争が 終ったその翌日、吉之助は益満が瀕死の重傷をうけて本郷の旅宿に収容されていることを知った。負 傷の場所は湯島台の下あたりたという。自ら死場所を求めて銃弾のもとに身をさらしたのか。 「負傷者は至急、横浜病院に廻送せよ。益満には別に船を用意しなければ手おくれの恐れあり」とい 134