えることができなかった。やっと同志の結束を固めて、これから大いに働こうとはりきった途端に、 : これでは結局、われわれは何もしなかったに等しい。これからも、何もする 御襲封の布告です。 ことはないのかと思えて、変な気持なのです」 「はつはつは、お ~ 間らしいことを いう。その気持もわかるよ。せつかくふりあげた拳のやりどころが ひにくたん なく、つまり脾肉の嘆というところか。しかし、力を用うることなしに、目的が達せられたのは、何 力を用うれば、それだけ犠牲者も出る」 よりのことと喜ぶべきだろう。 「御襲封も決して天から降って来たというわけではあるまい。くわしい事情はまだわからぬが、やは 、。ド令こ斃れた先輩同志の赤誠がはじめて天に通じたとも りながい努力がむくいられたにちがいなしョロ冫 いえる。命をかけて筑前に脱走した同志たちの努力も実を結んだのであろう。われわれが国許におい て、ひそかに同志を糾合したことも、江戸の情勢に何かの影響を及ぼさなかったとは断言できぬ」 「そうでしようカ ? 」 「あまり考え過ぎない方がよかろう。たとえ、われわれの努力と無関係であったとしても、御襲封は おや、来たよ たしかに実現したのだ。なんとしても嬉しい。喜ぶべきときには、虚心に喜ぼう。 : : : 谷間の坂道をのぼって来る人影は長沼嘉平と大久保市蔵であった。 やがて、庭先にあらわれた二人はなぜかむつつりとして物もいわなかった。 「どうした、有馬翁は御同道ではなかったのか ? 」
「知らぬとはおかしい。お帰りになっているのでしよう」 「筑前にお目々をなおしに行っているの」 えんま 「それそれ、そんなうそをつくと、閻魔様に舌をぬかれます。 : : : 奥の座敷の雨戸を閉めて、それを お母様が番をして : : : 」 「ちがうわ」てつ子は、からかうように首をふった。「奥のお座敷には、お母様のよいお着物がたく さん入っているのよ。泥棒に取られてはいけないから、番をしているの。さようなら、小父さん、ま た飴をもってきてね」 ばたばたとかけ出して行く後姿を、藤右衛門はあきれ顔で見送っていた。 今日も雨が煙っている。 いつものように、お咲が麻苧をつむいでいると、娘のてつ子が走って来て、玄関に誰か知らない小 父さんが来ているといっこ。 「どんな人だえ ? 」 「相撲取りのようにふとって、目がお皿のように大きいの。鹿児島から来たそうよ」 鹿児島という言葉が、お咲をはっとさせた。捕手にちがいないと思った。 良人に知らせるために大きな咳ばらいをして立上り、玄関に出てみると、てつ子のいうとおり、肥 った目の大きい若侍が立っていた。 124
鐘楼の鐘が鳴りはじめた。 暮れるに早い初冬の日である。タ闇は鐘の音に乗って渦巻き、あたりはすでに濃い暮色であった。 稲荷堂の蔭に身をひそめ、刀の柄をにぎりしめて、岩崎専吉はもう一時間以上も待った。だが、ど うしたわけか、竹内と牧は姿をあらわさない。 最初の間は、襟元を吹く風にも胴ぶるいが出、枯葉のころぶ音にも緊張したが、待ちくたびれて、 いまは少々気抜けの態である。 ( 場所をまちがえたかな。いや、山内には稲荷堂は二つとはなかったはずだ。 : : : 何が起ったのだろ いや、竹内が斬ったのなら、すぐ自分に : ここに着かない先に、竹内が牧を斬ったのか ? 知らせに来るはずだ。来ないところを見ると、竹内が牧に斬られたのか ? ) そんな不安も湧き起って来た。だが、約東の場所を離れては、その隙に敵があらわれるかもしれぬ。 ずるずると、また小半刻あまり、岩崎は待ったが、寛永寺の役僧らしいのが、寺男に寺紋のついた 「なにを、あんな・ : あいつは刺客だ」 「ほっほっほ、まだわからぬか。 「えっ ? 」 「斬りたがっているのは、あいつの方だ。斬りたい奴には斬らせてやれ、武士の情だ。はつはつはっ
竹内をゆり起した。 「さあ、今日こそは牧を連れ出せ。俺の目の前にひきずって来い ぐずぐずしていては年が暮れ る ! 」 「今日というわけには行かぬ。ーー・・牧には藩邸の勤めがある。つぎの非番の日を待たなければ : 「ふん、待て待て、待て待てか : : くそ面白くもない」 ぷいととび出して、そのまま、その日は帰って来なかった。 そのような気まずい日が十日ほどもつづいたある日、おそくなって岩崎が宿に帰ってみると、竹内 が真っ青な顔をして部屋の中に端坐していた。 岩崎は、竹内の前にどかりと坐って、 「ふふん、今夜も、不景気面か。 まだ貉はおびき出せないと見えるな。下手糞な猟師だ ! 」 息が酒臭い。竹内は蒼ざめた顔をあげて、 「岩崎、また酔ったのか ? 」 「わるかったかな。今夜も、勝の隠居とっき合った。 : : : 毎日毎日、待て待て家来どもでは、芯が疲秋 れる。酒も飲みたくなる」 戸 江 「岩崎、俺は今日、伊東才蔵にあった」 章 「伊東のことなど聞きたくはない。牧はどうした。いつ、出て来るのだ ? 」 第 「当分出て来そうにない。不吉な夢を毎晩見るので、しばらく外出をさしひかえるという」 「また夢の話か ? 」 むじな
けつきょ 穴居の武士は、昨年の秋、竹内伴右衛門とともに江戸にの・ほった岩崎専吉であった。 牧仲太郎の刺殺を企てて果さず、悶々の日を送るうちに、国許の変事を聞き、そのまま帰国の途に ついたのであるが、二人同じ道をとっては、かえって危険だと考えて、大阪から岩崎は陸路、竹内は 海路をとることにした。 三月のはじめに、岩崎は無事に加治木に潜入することができたが、藩庁の手はすでにまわっていた。 国許に残った同志白尾伝右衛門は捕えられ、偵吏は家のまわりをうろついている。 とりあえず実兄の記録所奉行岩崎荘左衛門の屋敷にかくれたが、もちろんそこも危険であった。荘 左衛門の忠僕庄助の案内で小山田村の山中にのがれ、山熊のような穴居生活がはじまった。庄助は小 山田村の生れであるから、荘左衛門のはからいで、暇をとって帰村した形にした。食糧や道具類は、 生家のものに知らせず、庄助がひそかに運びこんでくれた。 三月十四日の夜、兄の命をうけて、庄助がかけつけて来、ぜひあわせたい人があるから、加治木ま で帰れといっこ。 雨 案内されたのは、兄の屋敷ではなく、同志の一人前田正助の家で、待っている相手は、意外にも鹿 児島の自邸で禁錮されているはずの木村仲之丞であった。 煙 「実は今日、座敷牢を破って脱走したのだ。母と兄が脱獄を助けてくれた。二人の熱意と厚情にこた章 えるためにも、自分は天に駆けり、地に潜 0 ても、筑前にたどりつかねばならぬ。黒田斉溥公に事件 の実相を中上げ、奸党の陰謀を根柢からくつがえして、斉彬公の襲封を実現しなければならない。斉 彬公が動けば、老中の阿部正弘も動く。 ・ : 先に脱走した井上出雲守は、果して無事に筑前に達した
湯気立っ井戸水で顔を洗い、東の方に向って、柏手を高らかに二つ。 居間に帰ると、箒をとって、手早く掃除をすまし、祖父からゆずられた古机を南向きの窓の下にす えて、ゆるゆると硯の墨をすりはじめた。朝飯の前に、佐藤一斎の「言志録」を読み、その中の心を 打っ章句を書きぬくことが、この頃の日課の一つであった。 おぎ お俊が、小火鉢に竈の燠を山盛りにして持って来た。 「・火か ? ・ : 要らぬ」 「でも、今朝は特別に冷えますので : : : 」 コそ、つか、↓のりがと、 ) 」 お俊が出て行くと、吉之助は筆をとって写しはじめた。 「凡作事、須要有事天之心、不要有示人之念」 すべか つか およそ事をなすには、須らく天に事うるの心あるを要す、人に示すの念あるを要せず。 「憤之一字、是進学機関、舜何人也、予何人也、方是憤」 憤の一字は、これ進学の機関なり。舜何人そや、予何人そや、まさにこれ憤。 「西郷 ! 西郷、起きたか ? 」 庭の向うで声がした。窓をあけると雪をかむった生垣の向うに、長沼嘉平が立っていた。 「おお、どうした ? 」 長沼はながい間、病気で寝こんでいたはずである。その病人が、こんな時刻に、しかも雪の中を訪 ねて来たのであるから、吉之助は思わず筆を落して立上った。 57 第三章白雪
そこへ、親族のものが、高崎五郎右衛門からのとどけ物だといって、袱紗の包みを持って来た。 隆左衛門が押しいただいて開く。中から一枚の短冊と手紙が出て来た。短冊には、端正な筆致で、 思ふこと まだ及ばぬに消ぬるとも 心ばかりは今朝の白雪 伝之丞は障子をあけて、庭先の雪を眺め、 「ああ、もう雪も消えました」 匕之丞は涙を見せまいとして、懸命に下唇を噛んでいたが、ついに堪えきれなくなったのか、懐紙 を出し、大きな音を立てて鼻をかんだ。 近藤隆左衛ゴよ、 - , ドをいくどもうなずきながら高崎の手紙を読んでいたが、 「御兄弟、これをお読み下さい」と、手紙を差し出し、「高崎殿も山田殿も、立派なお覚悟です。私雪 もおくれをとりたくない」 兄弟はかわるがわる手紙を読む。二人が読み終るのを待って、隆左衛門はいった。 いずものかみ 章 「その終りの方に書いてある井上出雲守のことも、適当なる処置と思うが : 第 手紙には、同志井上出雲守は神官であって、他国に友人も多く、旅行にも慣れているから、今宵た ぐじよう だちに脱藩して、筑前の藩主黒田斉溥公のもとに行かせ、幕府の老中に具状せしむることにした。御
- 「蔦野、相良様 ! 表におかしな奴がまいっております ! 」 「↓なにー」 葛野は坐りなおし、相良の方は、床の間の刀の方に走り寄った。 亭主は笑いたいのをおさえて、 「まるで役者の化けたような美しいお侍でございます。ーーー高輪から来たというだけで、名前は申し ません」 「馬鹿者め ! 」 われ鐘のような声でどなったのは相良藤次郎であった。亭主は値の子のように首をちちめた。 「高輪なら、高輪だと最初からいえ。怪しい者が来たとは何事だ。 : : : 亭主、お前はわれわれを疑っ ているのか ? 」 「いえ、決して、そんなことは : 平謝りに謝って、亭主が顔をあげたときには、相良の姿は、もうそこにはなかった。刀をさげたま ま、階下にとび降りて行ったのだ。 間もなく、ばたばたと階段をあがって来て、 「おい、葛野、やつばり、伊東殿だ」 おあいしよう」 「そうか、ここへ御案内するがいし 「いや、出かけよう」と、亭主をにらみ、「こんなむさくるしいところでは、話もできぬ」 三人の武士が出て行く後姿を、豊後屋の亭主は暖簾の間から、いまいましげに見送っていたが、「畜
「昨夜の夢は、寝部屋の四つの壁が血を吹いて、床下に満々とあふれ、部屋が血の海に浮んだ箱舟の ようになったそうだ」 : 彼の疑心を解くためには、時間がかかる。 「やはり、さとられたと見るよりほかはない。 ろそろ旅費もっきたし : : : そこで、考えたのだが、お前は島田の道場に行き、俺は鈴木重胤先生の家 に移る。 : : : 鈴木先生のところには、いろいろと著述の上で手伝う仕事もあるので、江戸滞在の口実 もっくし、牧ともあえる機会があるし、そのうちに彼の疑心も解けて : : : 」 「手ぬるい ・ : こうなれば、お前の手は借りぬ、場所もえらばぬ。単身、牧の屋敷に乗り込んで 一刀のもとに斬り捨てて見せる ! 」 「いや、そうは行かぬ」 「なにが行かぬ」 「今日の伊東才蔵の話では、われわれの出府は奸党どもにさとられたらしい。国許から密報があって、 偵吏がしきりに、われわれの所在を探っているそうだ」 「ふふん、貴様、あの青小姓におどかされて来たな。 : : : 敵がさとったとすれば、ますます決行を急 がねばならぬ」 「いや、もっと重大なことを伊東は話してくれたのだ。国許で大変なことが起ったらしいという」 「そうれ見ろ ! 」岩崎は大声で笑い出して、「われわれがぐずぐずしている間に、国許の諸士が事を 決行したのだろう。諸士に先を越されては、面目が立たぬ。よし、俺は今夜にも、牧の屋敷に斬りこ
りも鋭い歯が三列にかさなって生えている」 「吠える声は獅子の如く、大きさは鯨ほどもある。土人の刳舟なら、尻尾の先で七巻半にきりきりと 巻き、乗っている漁師を頭から塩もつけずにぼりぼりと食ってしまう。はつはつは 「そんなでたらめをならべるひまがあったら、お念仏でもとなえたらどうだ」年長の役人は苦笑をし ながら、「そら、向うに見えるのが流人船だ。お前ももういい齢だ。その海蛇とかに食われなくとも、 ふたたび無事に鹿児島の土を踏めるとはかぎるまい」 前之浜の波止場が見えはじめた。やや大型の荷船が一隻、白い波頭の上でゆれている。 「ふうん、その船なら、海蛇の尻尾で二巻半というところかな」 「まだ、そんなへらず口をきく」 「大海の一葉舟。島につくまでは、生きるも死ぬるも一蓮托生というところだ。 : : : 海蛇が出て来た ら、同舟のよしみだ。わしの船牢を貸してあげるからかわりに入っているがいい ・ : 海蛇は不思議 に役人を狙うよ。今の薩摩では罪人よりも役人の方が骨なしで腰抜けで、食べるのに都合がいいとい うことも海蛇も知っているらしい」 「なにつ、その一一一 = ロ、聞き捨てならぬ ! 」 「はつはつは、怒るな怒るな。船路はながい。 いまから喧嘩をしていては、芯がっかれる。仲よ くまいろうではないか」 「君命によって、護送を仰せつかったわれわれを侮辱するつもりか ? 」 いちれんたくしよう くりぶね 142