なく言えば、一度かみついたらスッポンのように離れぬ。だが、今度だけは駄目だ。政治はあんたと 伊藤にまかせた。碁の相手なら致しましよう」 黒白の石をおくあいまに、これくらいの皮肉は言ったかもしれない。皮肉というより半ばは本心で あったろう。 しかし、大久保は、木戸の本心の残りの半分を見抜いていた。木戸の引退の志が固く、はげしい頭 痛と不眠をともなう病勢の昻進が賀茂川べり閑居の思いに拍車をかけていることはよくわかる。だが 木戸の性格から見ても、長州閥の巨頭という立場から見ても、政治との絶縁は不可能だ。木戸の心配 は国事への憂いである。満たされぬ功名から生れたものではない。生れながらの憂国家で、理想家肌 の政治家であることはまちがいない。自分の進退が政府部内の長州人の運命にかかわることも十分に 自覚しているはずだ。 だから、伊藤と井上に説かれると病を押し、重い腰を上げて大阪まで出て、政敵ともいうべき自分 に会いに来たのだ。ロでは何と言おうと、ここまで来たら、東京まで引き出すことは不可能ではない。 石 碁盤の上の勝負ではないが、まず負けて、相手に白石をゆずり、次の局面で勝っというやり方もある。 の せいては、事を仕損じる。勝つのは最後の一戦だけでいいのだ。大久保は東京から伊藤博文を呼び白 よせることにした。癖の強すぎる井上馨や黒田清隆の仲介にまかせておいては、事が運ばないばかり 章 か、せつかく布石した局面をぶちこわされるおそれがある。現に黒田は三橋楼の会談に酒気をおびて十 とびこんできて、酒乱の癖を出し、木戸を怒らせてしまった。ここは円転滑脱の知恵袋伊藤博文にま かせるのが一番た。
て事にあたるが、特に卓越した先見はなく、眼前のことに一喜一憂する性格であったとすれば、権力必 者としての彼が歩く道は専制家・独裁者のそれよりほかはない。 やがて西郷との間におこる大破局の鍵はこのあたりにかくれているかもしれぬが、ここでは論断を さけ、事件の推移を見ることにしよう。 木戸孝允は正月四日、下関から神戸に着いた。大久保は五代、吉井、税所、黒田清隆と共に神戸ま で出迎え、木戸の定宿長門屋を訪ねたが、話は北京滞在談から始まって世間話で終った。その夜、木 戸は大久保の宿に答札に来た。共に儀礼的な訪問であった。 台湾征討に反対して辞職した木戸を再起させ、大久保と握手させようと策画した陰の演出者は伊藤 博文と井上髞であった。伊藤は参議工部卿として東京にいたが、井上は江藤新平によって汚職を摘発 され、下野して実業界に入り、大阪に本拠をかまえていた。 最初に木戸の引出しを伊藤博文に頼んだのは太政大臣三条実美であった。大久保の北京談判が一時 行きづまりを伝えられて、出兵論が盛んになり、世情が騒然となった時、心配症の太政大臣は木戸だ けでなく、西郷を始めとする前参議を、中央に集めることを考えた。 だが、これは伊藤がいかに知恵袋をしぼっても出来ない相談であった。西郷は山の如く動かず、板 垣は自由民権運動に熱中し、副島種臣は佐賀の乱で兄弟、親族、門弟を殺されて、もはや政治に思い を断ったかのように見えた。引出しの望みがあるのは木戸だけで、しかも、木戸が出てくれば、政府
五参議を失った内閣の補充が終ったのは、四月も末のころだった。留任したのは、 太政大臣三条実美 右大臣岩倉具視 参議内務卿大久保利通 同文部卿木戸孝允 同大蔵卿大隈重信 同司法卿大木喬任 の六人で、その後に追加されたのは次の七人である。今度は伊藤も参議に加わることを断わらなか 参議海軍卿勝海舟 同工部卿伊藤博文 同陸軍卿山県有朋 同外務卿寺島宗則 同開拓使長官黒田清隆 同左院議長伊地知正治 左大臣島津久光 意外といえば意外な新内閣であった。薩摩が五人、長州が三人、佐賀は二人で、土佐は全減してい る。しかも佐賀の大隈と大木はもともと郷土色がうすい上に、今は大久保派と見られており、勝海舟
数多い長州派の中で、政府の弱体を素早く見抜いて、その強化のために奔走したのは若い伊藤博文 であった。彼は生来の楽天家で、遊び好き女好きで通ってるが、激しい闘志に加えて細心と洞察力を 恵まれ、名誉心も権力欲も人並み以上で、必要な勉強は常におこたらず、機にのそむと骨身を惜しま ずとびまわり、しかも人に憎まれぬ奇妙な愛嬌までそなえている。とかく公私を混同しがちな親友の 井上馨は幾度もポロを出し、今は失脚同様の窮地に立っているが、伊藤の方は高杉晋作に心酔して、勝 自らその墓碑銘を書いただけあって、品行はよろしくないが、井上流の私利私欲はほとんどなく、金者 銭にも淡白と認められて、先輩同僚のみならす、宮中の評判も、わるくない。 章 大久保、木戸、岩倉という三本の柱のあいだを、伊藤は小まめにとびまわった。彼らにあてた手紙七 もたくさん残っている。彼の献策はおおむね妥当で公正でもあったので、すぐに採用されたものが少 なくない。病弱な木戸にとっても、多忙な大久保にとっても、重宝この上ない副官、いや参謀であった。 問ではなく、岩倉右大臣より上の左大臣の位を用意したから、腰を上げるだろう。しかし、西郷の方 は太政大臣にするといっても動くまい」 「全く手を焼かせる奴だ」 「巌はおまえの婿になる男だ。娘も待ちかねていると一一 = ロえ。おまえの息子はドイツのクルツ。フ工場で 大砲製造術を研究していたな。息子にも会って来い」 「行くよ。とにかく行って来る」
吉之助は伊地知正治のだしぬけな訪問をうけた。正月の休暇をとって骨やすめに帰郷したのだと言 ったが、大阪で大久保が木戸を相手に何かやっていることは、吉之助の耳にも入っていた。伊地知が 大久保の内命をうけて、吉之助の心底を打診し、旧藩士と私学校党の動静をさぐるために帰国したこ とは、聞かずとも察せられた。しかし、伊地知は永年の同志であり親友である吉之助に対して、かり そめにも密偵めいた態度はとらなかった。最初から万事を打ちあけて、こだわりのない話をした。 「木戸というのは全く手におえぬ婆さんだな。大阪まで出るには出て来たが、いくら大久保の爺さん が頭をさげても、東京に出ようとは言わぬ」 当時の政府部内では、木戸を″婆さん〃、大久保を″爺さん〃と呼んでいた。男性的と女性的の差 はあるが、どっちも頑固なうるさ型である点で変りはない。 「毎日のように碁をうっては盃をかわしているが、会談の方はさつばり進まぬ。これじゃあ、まるで 十年前の薩長連合と同じだ。あの時にもおまえと大久保は、木戸を京都まで呼び出したが、半月近く も宴会ばかりくりかえしていて、坂本竜馬がとび出してくるまでは、肝腎の話には一言もふれなかっ : どうだ、おまえ、この際、坂本竜馬の役をひきうけてくれる気はないか」 大久保は正月十四日、五代と吉井をともなって有馬温泉に行き、中山から伊丹にまわり、堺の市村 B 別荘で囲碁と遊猟を試みるなど、閑日月を楽しむふうを装った。 そのあいだに伊藤博文が大阪に着いた。正月も終りの二十三日であった。
も西郷の親友であり、岩倉は昔から薩摩に近いので、薩長内閣というよりも、薩派大久保内閣だと世 間の目には央っこ。 閣僚だけではない。諸官庁、陸海軍、警視庁の中でも、薩摩人が圧倒的であった。長州派のうるさ 型を代表する陸軍少将鳥尾小弥太が「官員軍人名簿」を木戸孝允につきつけて、 「これじゃあ全くの薩摩政府だ。われら長州人はいったい何のために維新をやったのか」 とがなり立てたという話が残っている。 この時も、なだめ役は伊藤であった。鳥尾を新橋の料亭に誘って、 「おぬし、そう目をつり上げるな。待っことだ。まだ兵乱はつづいている。佐賀はどうやらおさまっ たが、次は台湾出兵だ。こいつは薩摩の軍人どもにまかせるよりほかはない」 鳥尾は肩をいからせて、 「陸軍なら、長州が主力だ。なにも薩摩に頼ることはないそ」 伊藤博文はニコニコ笑って、 「征台論は征韓論の延長で代用品だ。木戸さんは征韓論に反対した。したがって当然、征台論にも反 亠凶オ」 「征韓論をぶちこわしたのは、むしろ大久保の方ではないか」 「その大久保も、薩派軍人の外征熱は抑えきれない。西郷従道が自分で兵をひきいて台湾に行く準備 に 9 第七章敗者と勝者
伊藤は自信ありげであった。 「大久保さんは政治というものを心得ています。妥協を知らぬ猪武者ではない。ただ見込みのないこ とはやりたくないだけです」 「西郷と久光の双方に気兼ねしているのだと、わたしは思うが」 「ちがいます。太政大臣のあなたが決意をお示しになれば、大久保さんは必ず立上がります」 三条実美の立場は苦しかった。まだ三十代の若すぎる太政大臣である。青年のころから討幕連動の 浪にもまれて来たとはいえ、岩倉具視にくらべれば、まだまだ苦労が足りぬ。苦労の質がちがう。悲 運の底に落ちた時にも、高位の公卿という身分が守ってくれたので、自分のカで厚い壁を破り、手足 の爪を血まみれにして逆境のどん底からはい上がって来たというような経験はない。 育ちだけではなく、人柄もよすぎた。正直で公平で潔白だということは、おっとりしすぎていて、 意志と決断力を欠き、人に動かされやすいということにもなる。岩倉具視は一度ならす″奸物〃とよ ばれ、″悪謀公卿〃と呼ばれ、その悪名に価する果断で強猛な政治的陰謀も敢て実行して来たが、三条 この二人の公卿が対決すれば、勝負は初めからきまっているような 実美にはその″奸物性〃はない。 ものだ。 伊藤博文は三条より年下の三十二歳だが、身分と出身から言えば、武士とも言えぬ足軽の子である。 それがこの若さで政治の最上層にのし上がってきたのは、幸運のせいだけではない。幸運な偶然のほ
岩倉具視は四人の参議が出て行くと、すぐに筆をとって、大久保にあてて手紙を書いた。論議の模 様を手みじかに報告して、 「それにては致し方なしとのことにて相分れ中し候。しかし、彼より進退の話もこれ無く引取り候。 その様子、疑うらくは赤坂出頭も計りがたく ( 万中の一 ) 存じ候。別紙徳大寺卿返事御一覧おき給るべ く候」 当時の皇居は千代田城火災のため、赤坂離宮にあった。岩倉邸をとび出した四人の参議は辞職する とは言わなかったから、そのまま赤坂に出頭して直奏するつもりかもしれぬ。岩倉は万一の場合を考 えて、徳大寺宮内卿に手をまわしておいたから、赤坂に参内しても直奏の道は閉されている。結局、 西郷派は辞職するよりほかはなくなるが、い よいよそうなったら、 「世上物議も少なからずと存じ候につき、すみやかに政体改革の有無 : : : また人選御登用のことも迅 速の方、人心大いに定まり候べしと存じ候」 同じ趣旨の手紙を伊藤博文あてにも書いた。伊藤に書けば、木戸と長州派に直通する。 天皇への直奏の道を閉ざしておいて、早くも新政権の人選に着手したのだ。疾風迅雷とはこのこと か。大久保利通もすぐにそれにこたえ、その夜のうちに岩倉と会って対策を練った。 これに対して、西郷隆盛は何をしたか。何もしなかった。「右大臣は、よくもふんばった」と言った ればすむ問題ではない。
「お待ちなさい。大隈参議、ほかの約東とは何の約東か」 「横浜の公使館関係の外人に招かれております。伊藤博文も一緒に : : : 」 「外交上の御用件だな」 「いや、夜会の招待であります」 「馬鹿なっ ! 」 西郷は爆発した。「いやしくも参議ではないか。異人の夜会のため、国の大事を評議する閣議を中座 するとは : 大久保にあびせかけた怒声よりもさらに大きな声であった。大隈は雷にうたれた人のように元の椅 子にくずれこんだ。 一座は白けわたった。三条はおろおろし、岩倉と大久保は唇をかみしめ、西郷ははげしく肩で息を ついている。 気まずい沈黙を破って、板垣退助が発言した。 「大久保参議におたずねしたい。あなたは内治の改革と中されたが、いつまでかかれば改革できるの裂 か。そのお見込みの概略をお聞かせ願いたいものです」 征 大久保は立上がったが、西郷の視線をさけるように天井を見つめて、 章 「内治の為めの内務省を設けることは、さきに申上げた。改革案の詳細は、省ができてからのことで二 第 「その内務省設置までには何日くらいかかりますか」
「その木戸と手をにぎったのだから、油断ができません。政府部内の腰抜けどもが全部まわりに集ま ります」 吉之助はそれに答えず、別府晋介に、 「やはり、板垣の言ったとおりかな。とにかく、信吾にはまかせておけん。野津鎮雄も人の説を聞い て太鼓をたたいてまわるばかりのお調子者だ。おれは黒田清隆に手紙を書く。黒田なら陸海軍部内の 意見をまとめてくれるだろう」 その黒田も怪しいのではないのですかと言いたかったが、別府晋介は言えなかった。 吉之助は桐野をふりかえって、 「よくおぼえておけ。戦争を恐れて大使派遣に反対する連中は腰抜けだが、やたらに戦争を起したが る奴はただの間抜けだ」 「おれのことですか」 「そうかもしれん。桐野、間抜けの猪武者にはなるなよ。 た三条卿に活を入れておかねばならぬ」 九月もやがて終る二十八日の朝、三条実美は内幸町の自宅に伊藤博文を呼んで懇談した。 「木戸の病気はどうだ。まだ辞表を撤回しないようだが、いま木戸に参議をやめられたら、たいへん なことになる」 ・ : さて、おれは日本橋に帰る。腑の抜け 17 第一章流れ雲